もう一つの物語
樹くんが家を出て行ったあと、私は目を覚ました。
おそらく息子の蓮を迎えに行ったのだろう。
義両親と電話しているのが遠い意識の中で聞こえていたからだ。
寝室から出るとリビングを通り、テーブルの席に着く。
テレビの横にある写真に目がいった。
夫婦二人、仲睦まじい姿で撮られている写真と息子の蓮と3人で撮ってある家族写真。
この瞬間は本当に幸せだったなと振り返る。
けれど私の存在が、樹くんの人生を狂わせている、それは今も……。
大学時代、バイト先で出会わなければお互い幸せだったのかも知れない。
もう戻ることはできないのかと思うと無性に辛くなる。
テーブルには籐でできた籠が置いてある。その中には果物ナイフが入っており、それを私は手に取った。
何もかも、もう嫌になってきた。
左手首にナイフの刃を当てる。
痛みと同時に血が流れ出す。
「……っ」
痛みが現実を思い出させてくるが、楽になりたい、その思いが彼女を支配していた。
※※※
自宅へ着く前に蓮は車の中で眠ってしまった。よほど安心したのだろう。
寝顔が可愛い、そういえば彼女と一緒に選んだリュックをまだ見せていなかった。早く見せて背負っている姿を見たい、彼女と一緒に。
車が自宅に着く。
蓮を抱えて降ろすと樹は玄関の扉を開けた。
音もなく静かだ。
彼女はまだ起きていないのかも知れない。
蓮をベビーベッドに寝かすと寝室のドアを開ける。
しかしそこに彼女の姿はなかった。
探して、ようやくリビングを超えた先にある椅子に彼女の姿が見えた。テーブルにもたれるようにしてうつ伏せになっている。
彼女の名前を呼んだが返事がない。
足元に何かある。
近づいて樹は言葉を失った。
足元にあるもの、それは血痕だった。
彼女は、テーブルにあった果物ナイフで左手首を切っていた。
手首から流れ落ちる血液が床に落ちていく。
「どう……して、こんな……」
震える手で彼女の肩を揺り動かす。
「ん……」
意識がある、大丈夫だ、助かる。
樹は急いで彼女をベッドへと運ぶ。
幸い傷は浅く、止血をすると直ぐに止まった。
左手首には痛々しい傷跡があり、それを隠すようにして包帯を巻く。
話し合おうと思った矢先の出来事で、樹はまだ気持ちが追いつかないでいた。
とにかく、早く彼女の意識が目覚めてほしいと祈るしかなかった。
続く。