もう一つの物語
子どもの名前は、二人で決め《蓮》となった。
孫がα性だとわかり、彼の両親はさらに喜びに沸いた。
子育てにも協力的な義両親は私の負担を減らすように週に一回は来てくれ、家事や蓮の世話を担ってくれた。もちろん樹くんも率先して育児を行ってくれている。
そして、蓮が一歳の誕生日を迎え終えた日、久しぶりに二人で出かけないかと彼が誘ってきたのだ。
「でも、蓮はどうするの?」
「それは大丈夫だよ」
以前から話していたらしいが彼の両親が一日実家で見てくれるとのこと。
それなら私にも相談して欲しかったなと思いつつ、出掛ける日程を聞く。
「じゃあその日は朝から蓮をお義母さんたちに預けて、そのまま行く流れでいいの?」
「そうだね、夕方には迎えに行くって言っておいたからそうなるね」
話している樹くんの横で私は思う。
(全部、決められてるんだ。行き先も、時間も何もかも)
「どうしたの?」
「なんでもない。じゃあ出かける前の晩に準備しておくね。朝からだとバタバタして忘れそうだから」
予定の日が近いこともあり、私は気持ちを悟られないよう準備のことを持ち出す。
彼は気になっていたようだかそれ以上は追求してはこなかった。
お出かけ日当日。
蓮を彼の両親に預け、私たちは夫婦水入らずの日を過ごすことになった。
息子は義母たちにも懐いていたので、そのあたりは助かったかなと思う。
樹くんの立てた予定通り、時間が流れていく。
当初予定になかった子ども用品を買いに行きたいと言ったら、いいよと返事をもらえたので私は街にある大きな子ども用品の雑貨売り場へと足を運んだ。
一歳を迎えた息子は、ゆっくりであるが歩くこともできるようになり、目に見えて成長がわかり嬉しく思う。その反面、転倒などの危険も伴い、目が離せないこともある。
「うーんと、たしか……」
最近テレビで観た転倒防止用の可愛いリュック。
後ろに動物のぬいぐるみがついていて、頭部にクッションがついているのだ。
探しているとテレビで観たぬいぐるみの柄とは少し違うが同じ性能のリュックを見つけた。
「か、可愛い」
思わず手に取ってしまう。
「可愛いね、それ」
隣に樹くんがやってきて一緒に見る。
「これ、買っていい?」
「もちろん、背負っている姿を想像すると可愛くて仕方ない」
二人して我が子の背負う姿を想像して笑みが溢れる。
お会計してくるね、と彼がリュックを持って行く。
私は他にも何か良いものがないか見てみると伝え、陳列棚を見て回ることにした。
「このお皿、使い勝手よさそう。こっちのコップも」
小物も今は良いものが揃っている。
これでは衝動買いしそうだなと私は棚から離れた。振り返り際に後ろかやってきた人物とぶつかってしまう。
「ごめんなさい」
「こちらこそごめん。前みていなくて」
相手の顔を見て私はあっと声をあげた。
「倉科くん……」
「あれ、きみは……」
約一年半前、夫の病院で出会った同級生の倉科くんであった。
「こんなところで、どうしたの?」
「僕は兄貴の子どもにプレゼント買いに来たんだ。実は先月産まれて」
そうそう、と彼は一年半前の話しを教えてくれる。
「兄貴が骨折して入院してた理由。あれってお嫁さん、義姉さんにサプライズプロポーズしたときにやりすぎて転倒、んで骨折したって経緯」
「そうなんだ……」
一体どんなサプライズして転倒したのか気になるが、骨折するほど激しかったことだけはわかる。
「やりすぎだよな、ほどほどにすればいいものを」
思い出してため息をつく倉科くん。
そんな彼に《お兄さん、お嫁さんの為に身体張って頑張ったから良かったじゃないかな。確かにやりすぎには注意だけど》と同じように共感して頷いた。
「やっぱり!そう思うよな、何事もやりすぎには注意だ」
「そうそう、やり過ぎには注意」
そして話題が切り替わり、私の話しになる。
「そう言えば君はここには子どもの買い物?」
「うん、今日夫婦水入らずでお出かけしてて。子ども用品とか買いたいって言ったら寄って良いよって言われたから」
買いにきたんだよと倉科くんに話す。
倉科くんはしばらく考えて、こんなことを言い出した。
「前に会ったときに思ったんだけど、その、旦那さんとさ、うまくいってなかったり、その、する?今だって出かけるのに主導権、旦那にあるみたいだし」
窮屈しないのかとか聞いてくれる。
「私、幸せだよ。樹くん……夫は私のことをとても大切にしてくれているし、子どものことも大事にしてくれているから」
大切に大事にしてくれている、けれど言い換えばそれは束縛と言う名の支配。
ほんとうは……
「倉科くん……私……」
その言葉の続きを私は紡ぐことができなかった。
買い物を終えた夫が私たちの方へ歩み寄っていたからだ。
私たちの側まで来ると樹くんは告げる。
「約束、破っちゃったね」
声の低さに私はびくりと身体を震わせた。
隣にいる彼もさぞ驚いたことだろう。
私は樹くんに腕を引かれて店内を後にした。
※※※
掴まれた腕が痛い。
しかしそれよりも樹くんの行動が恐ろしかった。
私は何も言わずに彼の運転する車の助手席に乗り込む。
隣で樹くんが電話をしている。
話しを聞くに実家のようで子どもをもう少し預かって欲しいとの内容だった。
「迎えに行かないの!?」
電話中にもかかわらず私は焦りから話してかけてしまう。
電話を終えた樹くんが私の方を向いた。その瞳に映るのは、私に対する、怒り、いや、先程の彼に対する嫉妬かも知れない。
以前病院で倉科くんと話してしまったときにした約束事。
(二度と会わないで)
私は破ってしまったのだ。
彼は静かに言った。
「君は誰の妻であるか、もう一度、その心と身体に覚え込ませる必要がある」
そして車は家へと走り出したのだった。
※※※
自宅に着き、私はふらつきながら玄関の鍵を開けた。
開いたドアを後方から彼の手が大きく開ける。
身体を押されるようにして中に入る。
ドアが閉じられ、私はこれから起こることに不安を感じていた。
夕方の帰宅予定だったが早く帰ってきたので辺りはまだ明るい。
手を引かれ、私は靴を脱ぎ引かれるままに誘導される。
連れて行かれたのは毎夜共にしている寝室で、昨夜と何も変わらない状態だった。
ベッドに押し倒され、噛み付くようなキスをされる。
余裕のない、荒々しい接吻。
言葉も何もなく、いきなりのことで私は抵抗できずにいた。
息をする僅かな空きを狙って舌が侵入して、口内を蹂躙していく。
苦しさのあまり樹くんの身体を押し退けようとするが、非力な私の力ではびくともしない。
後頭部に回された手が私と彼の距離をより近くにする。
逃げられない近距離で、されるがままとなる。
だだ、怖い。その一言が私の頭をよぎる。
反射的に閉じた瞼に彼も気がついたのだろう。
一度離れると、彼は濡れた唇を自身の指で拭う。
樹くんの瞳には私しか映らない、私が離れていくのを許さないとでも言うように揺らめいていた。
「怖がらせたいわけじゃない。でも、君は永遠に俺の妻、番なんだ」
失いたくないと彼は切望する。
家族の言う通り医者になり、結婚してくれた。
それは紛れもない私のことを愛していたから。
でも、私にはどうしても踏み切れない理由があった。
今その言葉を紡いでしまえば、私たちの仲は良くない方向に向いていくに違いない。
「さっき、彼と何を話していたの?」
樹くんが問う。
私は首を振り、ごめんなさいとしか言えなかった。
「何に対する謝罪?」
苛立ちも含めて彼の纏う空気がさらに冷えた気がした。
両手をベッドに押し付けられ、身動きができないようにされる。
それでも私は抵抗する気力が湧かなかった。
自嘲じみた笑いが静かな部屋に響く。
「ねえ、最近してなかったよね」
片手で簡単に私の両腕を纏め上げ、頭上に置く。そしてもう一つの手でスカートを捲し上げる。
ストッキングの上から触れられると声が出てしまう。
「ああそうだね、君は耳、舐められながらするのが好きだったね」
「そんなこと、ない……ん」
耳の縁を彼の吐息がかかるだけで私はもう思い出してしまう。
舌が耳の中を侵していく音に身体中が熱を帯びていく。
忘れていた快感が段々と呼び覚まさまされていくのを私は感じていた。
続く……。