もう一つの物語
ー想い人ー
午前中、私は市内にある産婦人科に妊婦の定期健診に訪れていた。
結果は順調でそろそろ安定期に入るので、先生も私もとても安心していた。
ただ、この頃になると腰痛などさらに気をつけていかなければならないことを教えられ、帰ったら早速実践していかなければと思った。
そして、この状況を一番に伝えたい相手がいる。
それは、樹くんだ。
仕事の都合で一緒に来れなかったが、このことは一番に伝えたい。そう思い連絡しようと思ったのだが。
「やっぱり、直接話す方が、良いよね」
私は産婦人科を出ると一旦家に戻り、お弁当を作り身支度を整えて再度、樹くんの勤め先である病院へと向かった。
歩いて行くのには距離がある為、タクシーを使用しての移動を行い、目的の病院に着く。
「すみません、ありがとうごさいます」
運転手にお礼を言い、私は車を降りる。
彼が勤めるこの総合病院は地元でも評判が良く通院、入院する患者さんが褒める病院の一つでもあった。
そんな中、彼が働いているのだ。評判が落ちる筈がない。
担当現場である内科外来の待合室には、予想通りたくさんの老若男女が座り、順番待ちをしている。
担当者名が張り出されている表を見ると、彼の名前があった。
他にも内科担当医はいるが、私にとっては樹くんが一番だ。
しかし、待合室にこれだけ人がいるのだ。会うのは無理だろうと思い、受付の少し年配の女性に挨拶をし、お弁当箱を入れたランチバックを彼に渡して欲しいと頼んだ。
受付の女性は私を見て『一ノ瀬先生の奥様ですか!お綺麗ですね』と驚かれたが、それ以上は特に何も言われず、渡しておきますねと受け取ってくれた。
会えないならここに居ても仕方ないと思い、私は玄関へと歩き出す。
後方より、患者の呼ぶ声がした。
振り返ると、樹くんが白衣姿で再度患者の名前を呼んでいる。
自宅では見ることのできない、仕事姿の彼。
私にはいつも優しい笑顔を向けてくれる彼が今、数歩先にいるのだ。
仕事には誠実さをもって望む。これが彼の仕事のポリシーだ。
真剣な眼差しの樹くんに、また一つ彼を好きになってしまう私がいた。
それと同時に彼に群がる患者、もとい看護師の女性たち。ひょっとしたら内科以外の科の者までいるのかも知れない。
(外見も良いけれど、内面も素敵なのに。これだとなぁ……)
しかもDr.だと、これは寄ってくる者が多いわけだ。
その内一人の看護師がやたら彼に接近している。
私より年上であろうその看護師は患者の治療方針について話しながら、私からみるとものすごく彼に近い距離にあった。
(近すぎない?あんなに身体くっつけて、なんなの?)
自信があれば、人混みをかき分けて私が彼の妻です、いつも主人がお世話になっていますぐらい言えたかも知れない。
彼の周りにいるのは優秀な人たちばかりで、私はただの一般人。
(私はどうして彼のそばにいられるの?)
私は樹くんに見つからないよう、その場をそっと離れた。
※※※
総合受付を通りを過ぎ、正面玄関の自動扉を潜ろうとしたとき、後ろから声がした。
「おーい」
振り向くと一人の男性が私に向かって声をかけていた。誰だろうと思いながら無視するのも悪い気がして相手が来るのを待つ。
追いついた彼は少し息を切らしていたが、会うなり懐かしいなぁと私を見て言った。
「ねえ君、もしかして高校生のときに同じクラスだった、ああ、僕は2年のとき隣の席だった倉科だよ」
「倉科……くん?」
そうそうと、彼は自分の特徴である左目尻下にある小さな黒子を指先した。
「これがあるから良くモテるとか言われたけど、結局モテなかった倉科くんです」
はははと笑うと学生時代の姿が思い出された。
「倉科くん、どうしたの。こんなところで?」
高校卒業後、私は歯科衛生士の専門学校に行ったので、彼とは卒業以来だ。
そんな彼がなぜ病院に?
「うちの兄貴が骨折してこの病院に入院してて。見舞いの帰り」
その帰り道に私を見つけたと言うわけだ。
立ち話も疲れるので、病院の敷地内にあるベンチに座って話そうと彼は誘ってくれた。
私は腕時計を見る。
まだ時間がありそうなので少しなら大丈夫と言い、二人で玄関を出た。
敷地内のベンチに座り、高校時代の面白い話しを思い出し、二人して笑いながら懐かしさに浸っていた。
「しかし偶然だよ、卒業してからお互い違う道進んで、また出会うなんてさ」
「ほんとに、私も声かけてもらわなきゃそのまま帰ってたと思う」
笑う彼の姿を見て、もしかしたら高校時代の私は好きだったのかも知れないと思った。でも、今は……。
黙ってしまった私を見て倉科くんはどうした?と気にかけてくれている。
そして、私の身体を見てハッとする。
「そっかあ、君、お腹に赤ちゃんいるんだ。指輪もしてるし、そうだよね、高校の時から可愛いかったから結婚してて当たり前か。あーあ、僕も高校時代に告白してたら君と一緒になれていたのかも」
とても残念そうに話す彼に、私は苦笑いするしかなかった。
でもふと思ってしまった。
高校時代、倉科くんと付き合っていたら?
歯科衛生士の専門学校に行ったとしても、バイト先で、樹くんと出会っていても。
倉科くんと結ばれていたら……。
私はどんな人生を歩んでいたのだろう?
先程の待合室での光景が蘇る。
彼はとても優秀な医者になった。
代々医者の家系であるからそれは決まっていたことだ。
けれど、私と出会うことは決まっていなかった。
偶然の出会いだった。
私と出会わなければ、樹くんにこんな辛い未来を選ばせなくて済んだのかも知れない。
どんよりとした気持ちのまま、下を向いていると倉科くんは私が気分が悪くなったんだと思ったようだ。
「大丈夫か?ここ病院だし、誰か、看護師か医者呼んでくるから!」
ベンチから立ち上がった彼の腕を私は掴む。
そしてふるふると首を振った。
「呼ばないで」
「なんで!?」
「いいの、呼ばないでほしい」
私の訴えが伝わったのか、彼はストンと隣の席に腰かけた。
その代わり後ろから腕を回し、自分の方へ引き寄せる。
「わからないけど、辛かったら相談にのるよ」
肩を優しく抱き寄せられ、不安がどっと押し寄せ、目に涙が浮かぶ。
そのまま静かに涙が頬を伝うのを感じる。
「ごめ、涙、出て」
「泣きたいときには泣けば良いよ。あ、ハンカチない……」
「ぷっ、ふふふ」
肝心なときに笑わせてくれる倉科くん。
ドキドキはしないけど、この空気は嫌いじゃない。
目を閉じたまま、私は今の状況に浸っていた。
※※※
「一ノ瀬先生、奥様からお届け物ですよ」
受付の女性から渡されたのは、ランチバック。
中身を開けるとメモと一緒にお弁当が入っていた。
《お仕事ご苦労様。お昼しっかり食べてね。もし時間があったら逢いたいな。報告したいこともあるし、13時くらいまでは病院にいるよ》
愛する妻からの愛妻弁当と手紙。そして今日は定期検診日。
嬉しくて顔がにやけてしまいそうになる。
「彼女は、いつ来ましたか?」
受付の女性は12時前だったかしらと言う。
腕時計を見ると12時半を回っていた。
(まだ近くにいるかも知れない)
メモとランチバックを持ち、樹は病院の廊下を急ぐ。
途中で内科の看護師や違う科の看護師たちが話しかけてきたが仕事の内容以外、聞きたくない、ましてや身体に触れてほしくない。
触れていいのは愛する彼女だけ。
玄関を出てスマホから電話をかけるも繋がらない。敷地内を周りようやく彼女の姿を見つけた。
だが、ベンチに座る彼女の横に一緒になって座る男がいた。
しかも彼の肩に彼女が持たれかかっているではないか。
湧き上がる嫉妬心を樹は抑えられないでいた。
※※※
「彼女に触れるな!」
怒りを含んだ声に目を開けると、樹くんが私たちの前にやって来た。
「え、誰?ここの先生?」
「私の……夫で……」
返答を待たずに樹くんは私を立たせグイっと引き寄せた。
「痛っ!」
あっという間に彼の腕の中に収まる。
病院特有の消毒液の匂いが樹くんの白衣からした。
「夫って、そんな乱暴に奥さん引っ張るのか」
ひどい旦那だなと倉科くんは言っているが、それよりも彼の怒りの矛先が倉科くんに向いているのが怖い。
「今日は……ありがとう。懐かしい高校時代の思い出話し聞かせてくれて」
「おお、また機会あったら話そ、それじゃあ身体とお腹の子に気をつけてな」
じゃあなと去って行く倉科くんを見送り、私は恐る恐る彼の方に視線を向けた。
「またの機会なんて一生ない。彼女は俺の妻だ」
去って行く彼の後ろを睨みつける。
ぎっちりと私を抱きしめていた樹くんはようやく力を緩め、私の身体のことを労りはじめた。
「ごめんね。痛い思いさせて。でも、君が他の男とあんなに仲良く二人でいるなんて、俺には耐えられないんだ!」
「樹くん……」
「あなたから他の男の匂いがするだけで、話しているだけで、同じ空間にいるだけでも嫌なんだ。だから、今後はしないで、お願い」
私の頭上に、彼の額が当たる。そしてそのまま背後から抱き締められる。
「過去の話しをしてて、俺と出会うまでの知らない君を彼は知っている。仕方のないことだけど、辛いんだ。むちゃなことを言ってるってわかってる。でもあなたが遠くに行ってしまうような感覚がして……」
嫉妬に狂いそうで苦しい。
そう言った。
樹くんはあれだけ女性たちに人気があるのに、仕事以外、見向きもしない。
行動を起こすのも感情を揺るがすのも、全て私が関わる事柄次第。
これが番となった者の愛し方なのだろうか。
私はそっと彼の顔を覗いた。
その瞳から不安と嫉妬と独占欲の先にある執着心が、私の心をとらえて離さない。
「ごめんね、私が軽率だった。これからは気をつけるね」
「俺こそ、ごめんね。こんなかたちでしか伝えられなくて」
「ううん、大丈夫、わかってるから」
そして私は子どもが安定期に入ったことを話した。
樹くんはとても喜んでいた。
私は彼に囚われている。
運命という名の執着とともに。
END.