もう一つの物語
ー永遠の番ー
お互い落ち着いたあと、今後の生活の在り方を話し合った。
彼女はもう別れるとは言わなくなった。
その代わり、少しの時間でいいので働きたいと言った。
働きたい理由は離れるためではない、自分にもっと自信をつけたいとのことだった。
働く場所は樹の勤める病院でも、彼の一族が関係するところでも構わないとのこと。
歯科衛生士として、そして母親として立派になりたい、そして樹くんの隣で自信をもって 《妻》ですと名乗りたいらしい。
名乗るまでは遠い道のりかもしれないが、彼女は俺がそばにいて支えてくれたら頑張れると言うので、これはもう許すしかないなと思う。
働く職場は樹が見つけるということで、その日の話し合いは終わる。
左手の負傷があるので、樹が蓮をお風呂に入れ、脱衣所で彼女が上がってきた息子を拭き、着替えさせるという形をとった。日常的にこなしていたことが、当たり前のことがこんなに懐かしく思えるなんてなんだかとても嬉しく感じる。
蓮は両親揃ってお風呂に関わってくれたおかげか、始終ご機嫌だった。
そういえば夕食の離乳食も今日は嫌がらず食べてくれたなと樹と彼女は思っていた。
我が子は両親の仲を取り持つために大人しくしてくれていたのだろうか?
蓮をベビーベッドに寝かしつけに行った彼女がキッチンの洗い物を済まそうと台所へ歩いて来る。
台所に着くと、樹が洗い物をしていた。
「洗い物まで、ごめんなさい」
泡の着いたお皿を洗いながら樹は彼女の方を向く。
「左手、痛いでしょ。治ったら君の仕事。今は俺の仕事」
洗いカゴにお皿を置いて水を止める。タオルで手を拭くと彼女の方へやってくる。
「お互い助け合って、支え合って生きていく。約束、したよね」
大切なことは何事も“夫婦二人で”。二人で一つなのだ。
樹が言った言葉。
“運命の番”はあなたしかいない。
代わりなんていない。
その言葉通り樹は彼女といることを、幸せを感じることをしたいと言う。
彼女は頷き、彼の胸にその身を委ねる。
「約束した、あなたと一緒に。不安があればその度に話し合って乗り越えていく、どこまでも私たちは支えて合って生きていく」
“永遠の番”として。
彼女は自分より背の高い樹に背伸びして唇にキスをした。
触れるだけのキスだったが、心が温かくなる。
けれど彼の方は触れるだけでは済まなかったようで、彼女の躰を引き寄せるともう一度唇を塞いだ。
甘い吐息が台所に響く。
絡まる舌がお互いの体温を上げてゆくのがわかる。
「手、痛いから、これ以上は、それに蓮が……」
「蓮は今日はお利口さんだから大丈夫だよ。手が痛くない方法でしてあげる」
真っ赤になった顔が可愛いくて、愛おしくて、もう離さないとばかりに優しくて蕩けるような愛情を樹は彼女に注ぐ。
愛する時間を二人は過ごすのだった。
半年後ーー
歩く姿が随分と安定してきた蓮だったが、危険防止のため、あの日二人で選んだ転倒防止リュックを背負って廊下やリビングを走り回る。
「走ったら危ないぞ、蓮!」
息子の後を追いかける。
蓮が走った先には母親がいる。
働き出して彼女は少しずつ自信がついてきたようだ。
仕事が楽しいと言っていたので、彼女の自信に繋がっているなら良いなと樹は思う。
今日は仕事の読みものをしていて、彼女はリビング横にあるソファでうたた寝をしていた。
そう言えば最近眠くなることが多いと言っていた。睡眠も十分に取れているはずなのにと。
パタパタと蓮が駆け寄る。
「ママぁ」
「ママはお休み中だからそっとして置いてあげないと」
追いついた樹がひょいと蓮を抱き抱える。
蓮がわぁあ、と声を上げた。
何事かともう一度彼女の前に息子を近づけると、
「ママ、におい、あま〜い」
嗅ぐ仕草をする。
「甘い?」
蓮を降ろし、樹も彼女の首筋のあたりを嗅いでみる。
そして、目を瞬かせた。
「ん……。寝ちゃってた」
彼女が起きる。眠そうだ。
ソファから躰を起こし、うーんと背筋を伸ばす。
「ママ、ママぁ」
彼の腕の中で息子が抱っこして欲しそうに手を伸ばしている。
「蓮、どうしたの?こっちおいで」
ほらっと腕を広げると蓮は今にも走り出しそうな勢いで母親に抱きつこうとする。それを樹が静止するので蓮は母親のもとに行けないでいた。
「どうしたの、樹くん?」
声を掛けると我に返った彼が話し出した。
「幸せのフェロモンって感じたことある?」
「幸せのフェロモン?」
突然の質問に彼女はなんだろうと考える。
幸せに匂いなんてあるのだろうかと。
「うーんと爽やかな草原の香り、とか?」
「違うよ」
蓮を彼女に託すと、息子は母親に抱きつく。すりすりと顔を寄せているところが愛らしい。彼女は蓮の頭を撫でながら考える。
「うーん、わからない、何かヒント欲しい!」
答えを聞く前にどうしても答えたいらしい彼女はヒントが欲しいという。
そんなの簡単なのに。
「俺と蓮は答えがわかってる。これがヒント」
「二人がわかってるのがヒント!?」
悩む彼女が愛おしい。
彼女が蓮を抱えたまま、樹は彼女を抱擁する。
そして耳元で囁く。
「病院、行こうか」
「誰が?」
「あなたが」
「私が、あ、もしかして、私、病気なの?」
「病気じゃない」
怖がる彼女に樹は優しい眼差しを向ける。
「病院は、産婦人科だよ」
「え……産婦人科……」
そこまで聞いて彼女も分かったようだ。
「まさか、そんな、でも」
そういう行為はしてきたので何もおかしくはないはずだった。
でも夫と息子にはわかって私にはわからないなんて。
自身を嗅いでみてもわからない。
本当にそんな匂いなんてあるのかしらと。
半信半疑で連れて行かれた産婦人科で、彼女は《幸せのフェロモン》の正体を知ることになる。
ーおめでとうございます、妊娠3ヶ月ですよー
新たな命が今まさに、彼女の中に宿っているのだった。
END.
お互い落ち着いたあと、今後の生活の在り方を話し合った。
彼女はもう別れるとは言わなくなった。
その代わり、少しの時間でいいので働きたいと言った。
働きたい理由は離れるためではない、自分にもっと自信をつけたいとのことだった。
働く場所は樹の勤める病院でも、彼の一族が関係するところでも構わないとのこと。
歯科衛生士として、そして母親として立派になりたい、そして樹くんの隣で自信をもって 《妻》ですと名乗りたいらしい。
名乗るまでは遠い道のりかもしれないが、彼女は俺がそばにいて支えてくれたら頑張れると言うので、これはもう許すしかないなと思う。
働く職場は樹が見つけるということで、その日の話し合いは終わる。
左手の負傷があるので、樹が蓮をお風呂に入れ、脱衣所で彼女が上がってきた息子を拭き、着替えさせるという形をとった。日常的にこなしていたことが、当たり前のことがこんなに懐かしく思えるなんてなんだかとても嬉しく感じる。
蓮は両親揃ってお風呂に関わってくれたおかげか、始終ご機嫌だった。
そういえば夕食の離乳食も今日は嫌がらず食べてくれたなと樹と彼女は思っていた。
我が子は両親の仲を取り持つために大人しくしてくれていたのだろうか?
蓮をベビーベッドに寝かしつけに行った彼女がキッチンの洗い物を済まそうと台所へ歩いて来る。
台所に着くと、樹が洗い物をしていた。
「洗い物まで、ごめんなさい」
泡の着いたお皿を洗いながら樹は彼女の方を向く。
「左手、痛いでしょ。治ったら君の仕事。今は俺の仕事」
洗いカゴにお皿を置いて水を止める。タオルで手を拭くと彼女の方へやってくる。
「お互い助け合って、支え合って生きていく。約束、したよね」
大切なことは何事も“夫婦二人で”。二人で一つなのだ。
樹が言った言葉。
“運命の番”はあなたしかいない。
代わりなんていない。
その言葉通り樹は彼女といることを、幸せを感じることをしたいと言う。
彼女は頷き、彼の胸にその身を委ねる。
「約束した、あなたと一緒に。不安があればその度に話し合って乗り越えていく、どこまでも私たちは支えて合って生きていく」
“永遠の番”として。
彼女は自分より背の高い樹に背伸びして唇にキスをした。
触れるだけのキスだったが、心が温かくなる。
けれど彼の方は触れるだけでは済まなかったようで、彼女の躰を引き寄せるともう一度唇を塞いだ。
甘い吐息が台所に響く。
絡まる舌がお互いの体温を上げてゆくのがわかる。
「手、痛いから、これ以上は、それに蓮が……」
「蓮は今日はお利口さんだから大丈夫だよ。手が痛くない方法でしてあげる」
真っ赤になった顔が可愛いくて、愛おしくて、もう離さないとばかりに優しくて蕩けるような愛情を樹は彼女に注ぐ。
愛する時間を二人は過ごすのだった。
半年後ーー
歩く姿が随分と安定してきた蓮だったが、危険防止のため、あの日二人で選んだ転倒防止リュックを背負って廊下やリビングを走り回る。
「走ったら危ないぞ、蓮!」
息子の後を追いかける。
蓮が走った先には母親がいる。
働き出して彼女は少しずつ自信がついてきたようだ。
仕事が楽しいと言っていたので、彼女の自信に繋がっているなら良いなと樹は思う。
今日は仕事の読みものをしていて、彼女はリビング横にあるソファでうたた寝をしていた。
そう言えば最近眠くなることが多いと言っていた。睡眠も十分に取れているはずなのにと。
パタパタと蓮が駆け寄る。
「ママぁ」
「ママはお休み中だからそっとして置いてあげないと」
追いついた樹がひょいと蓮を抱き抱える。
蓮がわぁあ、と声を上げた。
何事かともう一度彼女の前に息子を近づけると、
「ママ、におい、あま〜い」
嗅ぐ仕草をする。
「甘い?」
蓮を降ろし、樹も彼女の首筋のあたりを嗅いでみる。
そして、目を瞬かせた。
「ん……。寝ちゃってた」
彼女が起きる。眠そうだ。
ソファから躰を起こし、うーんと背筋を伸ばす。
「ママ、ママぁ」
彼の腕の中で息子が抱っこして欲しそうに手を伸ばしている。
「蓮、どうしたの?こっちおいで」
ほらっと腕を広げると蓮は今にも走り出しそうな勢いで母親に抱きつこうとする。それを樹が静止するので蓮は母親のもとに行けないでいた。
「どうしたの、樹くん?」
声を掛けると我に返った彼が話し出した。
「幸せのフェロモンって感じたことある?」
「幸せのフェロモン?」
突然の質問に彼女はなんだろうと考える。
幸せに匂いなんてあるのだろうかと。
「うーんと爽やかな草原の香り、とか?」
「違うよ」
蓮を彼女に託すと、息子は母親に抱きつく。すりすりと顔を寄せているところが愛らしい。彼女は蓮の頭を撫でながら考える。
「うーん、わからない、何かヒント欲しい!」
答えを聞く前にどうしても答えたいらしい彼女はヒントが欲しいという。
そんなの簡単なのに。
「俺と蓮は答えがわかってる。これがヒント」
「二人がわかってるのがヒント!?」
悩む彼女が愛おしい。
彼女が蓮を抱えたまま、樹は彼女を抱擁する。
そして耳元で囁く。
「病院、行こうか」
「誰が?」
「あなたが」
「私が、あ、もしかして、私、病気なの?」
「病気じゃない」
怖がる彼女に樹は優しい眼差しを向ける。
「病院は、産婦人科だよ」
「え……産婦人科……」
そこまで聞いて彼女も分かったようだ。
「まさか、そんな、でも」
そういう行為はしてきたので何もおかしくはないはずだった。
でも夫と息子にはわかって私にはわからないなんて。
自身を嗅いでみてもわからない。
本当にそんな匂いなんてあるのかしらと。
半信半疑で連れて行かれた産婦人科で、彼女は《幸せのフェロモン》の正体を知ることになる。
ーおめでとうございます、妊娠3ヶ月ですよー
新たな命が今まさに、彼女の中に宿っているのだった。
END.
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