もう一つの物語

ー記憶の中の彼女ー



「ここは……」

目を覚ますと私は見慣れない天井に不安を覚え、躰を起こそうとする。

「痛っ!」

左手に痛みが走り、なぜだろうと顔を向けると一人の男性が私の右手を握りしめている。

身動きしたことによって彼が気がついたようだ。心配そうな声で私に話しかけてきた。

「気がついて、良かった……」

とても安心したような声だった。

「……誰……ですか?」
「なっ……」

目の前の彼が驚きを隠せないでいるようだ。焦った様子で私の顔を覗きこんでくる。

「わからない?!どうして、あなたは俺の妻で……」
「ごめんなさい。私、わからないんです」

あなたのことが……。

私には彼の名前も、その存在も何もかも分からなかった。



※※※


目覚めた彼女は自分の夫である樹のことがわからないようだった。
すぐさま病院に行き調べてもらったが、基本的な部分は問題なく日常生活に支障がないとのことだった。

ただ一つ、夫に関することだけが失われていた。

雷に打たれたような衝撃が樹を襲う。
おそらく、彼女自身が忘れたいと思ったことだけが失われたようだった。
病院からの帰り道、車の助手席に座る彼女が樹に声をかける。

「あの……先程のお話しからすると、私とあなたは結婚していて、蓮という子どもがいるんですよね?」

近くにいるのに他人行儀な話し方が彼女を遠くに感じさせる。

「そうだよ、君は俺と結婚していて蓮という名前の子どもがいるんだ。結婚してもう3年くらい経つかな」

彼女の存在が、まるで知らない人のように思えた。

「そうなんですね、どうして私、忘れてしまったんでしょう?」

彼女は困ったように首を傾げた。
同じ表情でも違う。
学生時代に出逢ったあの頃も、樹が彼女を好きになって襲ってしまったことも。両親から彼女との交際に対しての条件を突きつけられ、辛かったけれど無事に乗り越えて結婚して、可愛い子どもまで産まれたこと。

彼の存在自体が彼女の記憶から消えてしまっていた。
脳のメカニズムに詳しい先生によると正確には消えた訳ではなく、記憶はふとした瞬間に戻るかも知れない。けれど彼女自身が思い出したくないと感じていたら、一生戻らないかも知れないと言っていた。

「あの……」

黙ったまま険しい顔をしていたのだろう、運転する樹に横から彼女が声をかけてきた。

「すみません、忘れてしまって。私、思い出せるように努力します」
「あ……いや、こちらこそ」

完全に他人のような台詞をお互いしてしまう。
何も知らなかった、出逢う前の頃に。

「これからよろしくお願いします、樹さん」

名前を呼ばれ、はっとして樹は彼女の方へ視線を向けた。
彼女は優しく微笑んでいる。
同じ表情でも彼女は覚えていない、けれど自身の名を呼ぶ声がとても懐かしく感じる。

(そうだ、記憶は消えていない、戻る可能性が1%でもあるのなら)

思い出しても大丈夫なくらい、自分が彼女を
大切に、包み込めるぐらいの人物になろうと。

その後、今の家庭状況や、交友関係などを妻に詳しく教えた。





彼女の記憶が戻るその日まで、ずっと隣にいて見守ろうと樹は決意したーー。















END.
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