第三章


週明けの月曜日から陽寄さんのバイトが始まった。
飲み込みがよく、愛想も良いのですぐにクリニックの人々と仲良くなった。
以外と力持ちで、荷物運びもしてくれているので、とても助かっていると母が教えてくれた。

「良ければこのまま就職してもらっても良いかもしれないって院長先生が言ってたわ」

いい子が入って来て、母たち職員も大変喜んでおり、紹介した蓮としては安心する。
だが、この状況を素直に喜べない人物がいた。
それは父である樹であった。
あの日、蓮が彼女の名字を教えた後、考え事をしていることが多く見られた。
母が聞いても、《仕事のことで個人情報だから教えられないんだ、ごめんね》と謝ってくる。
何かまずいことでもあったのだろうか?
心配になりながらも蓮は陽寄さんのバイトがこれからもうまくいきますようにと願うのだった。




※※※



それから数週間後、いつものように弟の蒼と登校した蓮であったが教室に行くと、陽寄さんの姿がなかった。
友人の龍真が寄って来てこっそり耳打ちしてくる。

「陽寄さん、隣のクラスの女子に呼び出されて行ったよ」
「隣のクラスの女子に……」

嫌な予感がした。
龍真から聞いていたが、隣のクラスには自身を好いている子たちがいるらしい。
興味がないので今まで放置していたが、彼女が呼び出されたとなると、危険な気がする。

「どこ、呼び出された?」
「多分裏庭だと思う」

教室を出ると廊下を走り、裏庭へと向かう。
階段を降りると渡り廊下に出た。
外にある非常階段の脇から何やら話し声が聞こえる。
そっと近づき、様子を伺う。

「あんたさ、転入生かなんだか知らないけど、蓮くんに近づきすぎじゃない?」
「そうよ、私たちの蓮くんにちょっかい出さないで!」

覗くと陽寄さん一人に対して三人の女子が取り囲んでいた。
遥はため息を吐いて三人相手に言い返す。

「同じクラスなんだから話ししてもいいじゃない」
「それだけじゃなくて、お弁当の交換もしてたじゃない!私たちだって一緒にランチしたいのに」
「あー、お弁当、伊織ちゃんの美味しいよね」

思い出してまた食べたくなってしまう。

「伊織ちゃん?まさか、蓮くんの妹さん?!」
「そうだよ」
「私だってまだ話したことないのに!」
「え、そうなの?」

なんでもないことのように話す遥に相手の怒りが沸点を超えたようで、手を振り上げた。

「私たちができないことを、転入して来たあんたなんかに!」
「危ない!!」

振り上げられた手が彼女の頬に当たった……気がした。
飛び出した蓮は遥が相手を受け流し、振りかざされた手を掴むところを目撃する。

「ちょ、痛い、痛い!」

掴まえた手首を離すとごめんねと陽寄さんは謝っている。
掴まれていた女子は手首をさすりながら彼女を睨みつけた。

「今の、暴力よね!?先生に言いつけてやるから!」
「不可抗力では?」
「「れ、蓮くん!」」
「僕が目撃した情報だと、君たちが彼女に言いがかりをつけて一方的に手を振り上げていたように見えたけど」
「そんな、私たちはただ、蓮くんと仲良くしているのが羨ましくて……」

好いた相手を前に三人の女子は気まずそうにお互いの顔を見合わせている。
今まで蓮が感じなかった感情を彼女たちは以前から自身に向けてくれていた。
その気持ちを理解し始めた蓮には、彼女たちを完全に責めることはできなかった。
しかし手を上げたことに関しては許されない行為だ。

「僕と話したかったんだね。ごめんね、そういう機会、今まで持とうとしなくて。でも、人を傷つけていいことにはならないから」

諭すように話すと手を振り上げた女子は顔を赤らめる。

「そんな、蓮くんが謝ることじゃないよ。こっちこそ、ごめんなさい」

そして陽寄さんにも頭を下げた。
二人の女子も蓮の態度に意外性を感じながらも、以前より話しをすることができて嬉しそうだった。
予鈴が鳴り、校舎へと入って行く。
蓮は遥のそばに駆け寄る。

「大丈夫だった?陽寄さん?」
「うん、大丈夫!」

腕を動かし、元気な証拠を見せてくれる。

「予鈴鳴ったし、早く教室に戻ろう」
「そうだね。あ、一限目、数学だよ。小テストある」

項垂れる遥の肩に手を置き、《陽寄さんの成績なら大丈夫だよ》と言ってあげる。

「そうかな、学年首位の一ノ瀬くんが言うなら大丈夫なのかな……」
顔を上げた彼女の頬が赤いことに気づく。

「あれ?陽寄さん頬が……」

無意識に触れてしまう。

「何?何かついて……」

蓮は触れた指先に付いた物を確かめるために匂いを嗅ぐ。鉄の含んだ匂い。
それは彼女の血だった。
先程の女子が伸ばしていた爪がやはり掠っていたのだろう。

「血、出てるよ」

彼女の目の色が変わる。

「……っ!一ノ瀬くん洗って!」
「え?」

遥は蓮の腕を掴み、急いで手洗い場へと急ぐ。

(何がどういう、わけが分からない)

「やば、どうしよう?」

手を引かれて校舎内の手洗い場へと急ぐ。
その道中、彼女が恐れていたことが起こった。

(あれ、この感じ……)

身体がゆっくりと熱を持ち始める。
知っている、この感覚を。
前を走る遥に蓮は話す。

「ごめ、身体が……」
「一ノ瀬くん!?」

身体が徐々に言うことを効かなくなる現象。
息が少しずつ荒くなりはじめる。

(そんな、引き起こす要素はないはず)

発情期のΩが近くにいるわけでもない、ましてや彼女はβだ。
さっきいた三人の中にいたのか?でもそんな匂いも感じなかった。
自分の身体が、あのときのように動かなくなるのが怖かった。
近くに保健室があり、彼女は迷わず引き戸を開いた。
先生は朝礼に出ていて不在だ。
蓮はなんとかベッドに身体を預けると、荒い息を繰り返す。
衝動が治らない。
だが、遥は蓮の身に何か起きているのか知っているようだった。

「薬は?持ってる?」
「か、鞄の中に……」
「分かった。すぐにとってくるから」

走って行く彼女に、どうして薬のことを教えたのかわからなかった。
そもそも自身がαだと名乗った記憶がない。
周囲は知っているけれど、彼女は知らないはずだ。
発散できない欲が溜まって苦しい。
対処する方法が見つからず、ただひたすら耐えるしかなかった。
廊下を走る音がする。
引き戸が開いて息を切らした彼女が手に持っていた薬。

弟の優が持たせてくれた抑制剤。

発情(ラット)状態に陥り、どうしようもなくなったら服用するようにと渡された薬だった。

ここ数年で急速に発達した“α、Ω”発情抑制剤。

これを開発した人物はどこかの製薬会社の人だと聞いた。

効果は抜群で、あっという間に世間に浸透した程の勢いだった。眠くなるという以外、目立った副作用もない。

遥は水を用意すると、蓮のそばに寄ってくる。

「ダメだ、近づいたら……」

βであれど、見境なく襲ってしまう危険がある。

「私は大丈夫。はい、この薬飲んで」

彼女に支えてもらい起きると、薬を飲む。
飲み終えると、そっと横にしてくれる。
彼女が触れているのに、衝動が起きなかった。

「先生には伝えておくから身体、休めてね」
「ごめん」

その言葉しか出なかった。
去り際に、彼女が『私こそ、ごめんなさい』と言ったが、蓮は眠気に襲われていくのだった。













続く。






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