第一章
理由
仕事を続ける条件の一つとして、
《帰る際には連絡を入れること》
それが加えられたわけは、彼が私の声を聴いて安心感を抱くからという理由と、実はもう一つあった……。
※※※
その日は午後からのお仕事で帰りは遅くなることを樹くんに伝えてあったのだが、彼もまた仕事で遅くなることが分かり私は終了後、待ち合わせのコンビニまで歩くことになった。
「メールだけ入れとこう」
《仕事、終わったよ。今からコンビニに向います》
職場の裏手玄関で、メッセージを打ち込む。
送信したと同時に人の気配を感じる。
「……なに?」
辺りを見渡しても、私の方へ視線を向ける人はいない。
変だなと思いながらも夜道を歩き、目的のコンビニまで足を運ぶ。
病院からコンビニまでは約10分。
所々に灯りはあるが、この時間なので足元は暗い。
気をつけながら私はコンビニを目指す。
そして、私がもう一つ気をつけなければならないこと、それはお腹の子どもだった。
安定期に入ったので仕事に復帰したのはよいが、まだまだ気をつけなければならない。
ゆっくりとコンビニまで歩く。
横断歩道まで来ると、信号は赤だったので立ち止まった。
数台の車が目の前を走って行く。
あと少しで信号が変わる、というところでまたもや気配を感じる。
信号待ちの間その気配は消えず、私はなんだか気持ち悪くなってきた。
「早くコンビニに行こう」
歩行者用の信号も変わったのを確認すると私は早足に歩き出す。
渡り切ったところで後方よりガザッと物音がした。
振り返るといつ間に現れたのか、一人の男性が私のあとをついて来ていた。
追いかけて来たのだろう、息が上がっている。
みたところ、私より年上のようだ。
「ねぇ君、あの病院で新しく勤め出した子だよね?」
うすら笑いする顔に私は嫌悪感を抱く。
「……違います。人違いです」
早くこの場を去らないと。
踵を返し、走ろうとすると腕を掴まれた。
「痛っ!」
「あ……ごめんねぇ。可愛い子が入ったって聞いたから顔みたくて」
相手がグッと近づいてくる。
「離して……ください」
「近くで見たらほんと可愛いねぇ。あれでも……」
相手が私のお腹を確認する。
「なんだ、すでに誰かに孕ませられてるんだ……。ざぁーんねん。でも……」
ギラリと相手の目が光る。
背筋がゾッとする。
怖いのに足が動かない。
相手は動けない私にさらに身体を近づけて話す。
「お腹に子どもがいるときにやっちゃうのも、なんだかスリルがあるねぇ」
「な、なにを……」
「早産とか、しちゃうかも」
不気味に笑う男に嫌悪感がつのる。
大切な命を、大好きな人の子どもを失われてたまるものかと母親の本能が私を強くする。
「やめてください」
掴まれた手を振り解く。
しかしすぐさま掴まれてしまう。
「そんなに嫌がらないで。気持ちいいことしよ。そういう女、たくさん見てきたから」
ふへへと笑う男に、これ以上話してはいけない。
「私は、そういう女ではありません。大切な人がいますので」
強めに言ったが相手は引き下がらない。
「旦那さんより良い思いさせてやるからさ、なぁ」
「や、やめてください。警察、呼びますよ」
「呼ぶ前にしちゃうかも……あはは」
完全にヤバい人だ。逃げなきゃ、赤ちゃんも、そして自分の身も危ない。
「怒ってる顔もそそるねえ。じゃあこっちにおいで」
グイっと腕を引っ張られ、身体を引かれる。反射的にお腹を庇ったので、相手の身体に当たる。
「や、やめて。誰か、誰か助け……」
「誰もいないよ。この辺り、この時間だと人通りと車、来ないんだよ。知ってた?」
この周辺の地理や状況に詳しいようだ。おどけたように話す男に私はなす術がなかった。
「助けて、助けて」
「呼んでも来ないよ。ほら行こ」
歩道の逸れた脇道に連れて行かれそうになり、最後の足掻きで叫んだ。
彼の名を。
「樹くん!」
「彼女に触るな」
地を這うような低い声が聞こえた。
男の後ろで少し息が上がっているが、樹くんが立っていた。
表情を見て理解した。彼はかなり怒っている。
「あ?誰だ、テメェ」
「その台詞はこちらが聞く方だ」
「樹くん!!」
「な、なんだ」
私が大きな声で叫んだ拍子に相手はよろけ、その隙に彼は私を引き寄せる。
「彼女は俺の大切な人だ。さっきから何言ってる?子どもがいる彼女を……ふざけるな!」
怒りのこもる拳が相手に当たりそうになる。
「ダメ!」
かろうじて拳がおろされる。けれど彼はまだ怒りを抑えきれないでいるようだった。
警察の車両がサイレンを鳴らしながらこちらに走って来る。
「あっちで絞られてくるんだな」
樹くんは冷たい言葉と視線を男に向け、やってきた警察に引き渡した。
彼の怖さに男は何も言えず、車に乗る。何やら警察の方と樹くん話していたが、しばらくして去って行った。
静かになった歩道で彼が私を抱き寄せた。
「ごめん、怖い思いをさせたね。こんなことになるなら仕事を切り上げて来るべきだった」
「私も悪いの。無用心に一人で歩いたりするから」
それに私が勤めさせて欲しいと言った手前、彼には何の落ち度もないのだ。
むしろ私が働きに出なければこんな事件、怖い思いをしなくて済んだのだ。
「ううん。私が悪いの。やっぱり、無理だったのかも」
歯科衛生士の仕事を続けたかったがこんな事件に巻き込まれるなら、しない方が良いのかも知れない。
「でも、楽しいんでしょう?仕事」
「楽しいよ!」
患者さん一人一人、違う暮らしの中で考え方や治療方針も違う。
向き合うことでたくさんの経験をこれからもするであろう、だから楽しいのだ。
「君がいなくなったら、誰が患者さんを笑顔にするの?」
さっきの男に向けた顔とは正反対の優しい笑みを向けられる。
「私……辞めたくない。仕事、続けたい」
「じゃあ決まり。仕事は続けるけど、時間帯とかもう一度ちゃんと決めなおそう」
頭を撫でられ、うんうんと私は頷いた。
それと同時に身体の力が抜ける。
「わわっ、どうしたの?」
「なんだか安心して足に力、入らなくて」
緊張から解放され、安心したからだろう。彼が抱き止めてくれる。
「怖かったもんね。よし!」
「へ?あっ!」
よいしょと樹くん私をお姫様抱っこする。
「お、重いから降ろして」
「重くない」
「ふ、二人分の重さもある……から」
「妻とお腹の子を合わせても軽い。あ、でも……」
顔近づけて彼が言った。
ー愛はかなり重めかなー
赤面した私にキスをしてきたのも、きっと愛が重かったからかも知れない。
帰路につくまで私たちはこれからの働き方について話すのだった。
END
仕事を続ける条件の一つとして、
《帰る際には連絡を入れること》
それが加えられたわけは、彼が私の声を聴いて安心感を抱くからという理由と、実はもう一つあった……。
※※※
その日は午後からのお仕事で帰りは遅くなることを樹くんに伝えてあったのだが、彼もまた仕事で遅くなることが分かり私は終了後、待ち合わせのコンビニまで歩くことになった。
「メールだけ入れとこう」
《仕事、終わったよ。今からコンビニに向います》
職場の裏手玄関で、メッセージを打ち込む。
送信したと同時に人の気配を感じる。
「……なに?」
辺りを見渡しても、私の方へ視線を向ける人はいない。
変だなと思いながらも夜道を歩き、目的のコンビニまで足を運ぶ。
病院からコンビニまでは約10分。
所々に灯りはあるが、この時間なので足元は暗い。
気をつけながら私はコンビニを目指す。
そして、私がもう一つ気をつけなければならないこと、それはお腹の子どもだった。
安定期に入ったので仕事に復帰したのはよいが、まだまだ気をつけなければならない。
ゆっくりとコンビニまで歩く。
横断歩道まで来ると、信号は赤だったので立ち止まった。
数台の車が目の前を走って行く。
あと少しで信号が変わる、というところでまたもや気配を感じる。
信号待ちの間その気配は消えず、私はなんだか気持ち悪くなってきた。
「早くコンビニに行こう」
歩行者用の信号も変わったのを確認すると私は早足に歩き出す。
渡り切ったところで後方よりガザッと物音がした。
振り返るといつ間に現れたのか、一人の男性が私のあとをついて来ていた。
追いかけて来たのだろう、息が上がっている。
みたところ、私より年上のようだ。
「ねぇ君、あの病院で新しく勤め出した子だよね?」
うすら笑いする顔に私は嫌悪感を抱く。
「……違います。人違いです」
早くこの場を去らないと。
踵を返し、走ろうとすると腕を掴まれた。
「痛っ!」
「あ……ごめんねぇ。可愛い子が入ったって聞いたから顔みたくて」
相手がグッと近づいてくる。
「離して……ください」
「近くで見たらほんと可愛いねぇ。あれでも……」
相手が私のお腹を確認する。
「なんだ、すでに誰かに孕ませられてるんだ……。ざぁーんねん。でも……」
ギラリと相手の目が光る。
背筋がゾッとする。
怖いのに足が動かない。
相手は動けない私にさらに身体を近づけて話す。
「お腹に子どもがいるときにやっちゃうのも、なんだかスリルがあるねぇ」
「な、なにを……」
「早産とか、しちゃうかも」
不気味に笑う男に嫌悪感がつのる。
大切な命を、大好きな人の子どもを失われてたまるものかと母親の本能が私を強くする。
「やめてください」
掴まれた手を振り解く。
しかしすぐさま掴まれてしまう。
「そんなに嫌がらないで。気持ちいいことしよ。そういう女、たくさん見てきたから」
ふへへと笑う男に、これ以上話してはいけない。
「私は、そういう女ではありません。大切な人がいますので」
強めに言ったが相手は引き下がらない。
「旦那さんより良い思いさせてやるからさ、なぁ」
「や、やめてください。警察、呼びますよ」
「呼ぶ前にしちゃうかも……あはは」
完全にヤバい人だ。逃げなきゃ、赤ちゃんも、そして自分の身も危ない。
「怒ってる顔もそそるねえ。じゃあこっちにおいで」
グイっと腕を引っ張られ、身体を引かれる。反射的にお腹を庇ったので、相手の身体に当たる。
「や、やめて。誰か、誰か助け……」
「誰もいないよ。この辺り、この時間だと人通りと車、来ないんだよ。知ってた?」
この周辺の地理や状況に詳しいようだ。おどけたように話す男に私はなす術がなかった。
「助けて、助けて」
「呼んでも来ないよ。ほら行こ」
歩道の逸れた脇道に連れて行かれそうになり、最後の足掻きで叫んだ。
彼の名を。
「樹くん!」
「彼女に触るな」
地を這うような低い声が聞こえた。
男の後ろで少し息が上がっているが、樹くんが立っていた。
表情を見て理解した。彼はかなり怒っている。
「あ?誰だ、テメェ」
「その台詞はこちらが聞く方だ」
「樹くん!!」
「な、なんだ」
私が大きな声で叫んだ拍子に相手はよろけ、その隙に彼は私を引き寄せる。
「彼女は俺の大切な人だ。さっきから何言ってる?子どもがいる彼女を……ふざけるな!」
怒りのこもる拳が相手に当たりそうになる。
「ダメ!」
かろうじて拳がおろされる。けれど彼はまだ怒りを抑えきれないでいるようだった。
警察の車両がサイレンを鳴らしながらこちらに走って来る。
「あっちで絞られてくるんだな」
樹くんは冷たい言葉と視線を男に向け、やってきた警察に引き渡した。
彼の怖さに男は何も言えず、車に乗る。何やら警察の方と樹くん話していたが、しばらくして去って行った。
静かになった歩道で彼が私を抱き寄せた。
「ごめん、怖い思いをさせたね。こんなことになるなら仕事を切り上げて来るべきだった」
「私も悪いの。無用心に一人で歩いたりするから」
それに私が勤めさせて欲しいと言った手前、彼には何の落ち度もないのだ。
むしろ私が働きに出なければこんな事件、怖い思いをしなくて済んだのだ。
「ううん。私が悪いの。やっぱり、無理だったのかも」
歯科衛生士の仕事を続けたかったがこんな事件に巻き込まれるなら、しない方が良いのかも知れない。
「でも、楽しいんでしょう?仕事」
「楽しいよ!」
患者さん一人一人、違う暮らしの中で考え方や治療方針も違う。
向き合うことでたくさんの経験をこれからもするであろう、だから楽しいのだ。
「君がいなくなったら、誰が患者さんを笑顔にするの?」
さっきの男に向けた顔とは正反対の優しい笑みを向けられる。
「私……辞めたくない。仕事、続けたい」
「じゃあ決まり。仕事は続けるけど、時間帯とかもう一度ちゃんと決めなおそう」
頭を撫でられ、うんうんと私は頷いた。
それと同時に身体の力が抜ける。
「わわっ、どうしたの?」
「なんだか安心して足に力、入らなくて」
緊張から解放され、安心したからだろう。彼が抱き止めてくれる。
「怖かったもんね。よし!」
「へ?あっ!」
よいしょと樹くん私をお姫様抱っこする。
「お、重いから降ろして」
「重くない」
「ふ、二人分の重さもある……から」
「妻とお腹の子を合わせても軽い。あ、でも……」
顔近づけて彼が言った。
ー愛はかなり重めかなー
赤面した私にキスをしてきたのも、きっと愛が重かったからかも知れない。
帰路につくまで私たちはこれからの働き方について話すのだった。
END