第一章

第一章 


これで良かったのだろうかと乗り込んだ電車の席で思った。
誘発されたとはいえ、思い返すと大胆な行動をとってしまったと反省してしまう。
そして、

(一緒に逃げてほしい……)

あの手をとった日から……




駆け落ち、なんてすぐに見つかってしまう。
それは身を持って理解している。
私は一年間、逃げてこられたと思っていたのに、結局は彼の手のひらで踊らされていただけだったのだ。
それでも私は、彼のことを心から拒めなかった。
行かなければ後悔する、それが私の心を大きく占めていたから。




※※※

逃避行するにあたり、ホテルに滞在といってもかなりのお金がかかる。
ましてや同じところには泊まれない、いつ追手が来るかわからない。
そうなるとやはり必要なのは住むところと金銭だ。
私と彼名義でマンションを借りようものなら、簡単に足がついてしまう。
そこで私が頼ったのは、実の父だった。
そして父の名前を名義に、アパートの一室を借りることができた。
電話で父に状況を話したら、しばらくの沈黙ののち、静かに、
「わかった」
とだけ言った。そして最後に、
「お前の居場所はここにある、いつでも帰って来なさい」
そう言ってくれた。
私は胸が張り裂けそうになった。
好きな仕事に就いて、同じβの人と結婚してその子どもと暮らす、ありふれた日常だけと幸せな家庭を築いていく、そんな思い描いていた世界とはあまりにもかけ離れた現実を知らせなければならない。

帰りたい。

その一言が電話越しに言えたらどんなに良かっただろうか。


こうして私と樹くんは、遠く離れた街で住むこととなった。



※※※

新しい街では知り合いもいなく、私たちの関係を知るものはいなかった。
そして父名義のアパートを借りているだけなので、家賃や光熱費などは自分たちで出さなけばならない。
そういうわけで、私はすぐさま仕事を探した。
運良く臨時の歯科衛生士を募集しているクリニックが見つかった。いつこの街を離れることになるかもしれないから、臨時で良かったと思う。
樹くんは私と違って頭も良いし要領もいい、
それに最初は私には働かなくていい、自分が働くと言ってきかなかったくらいだ。
家にいても退屈だとそこは譲らなかったが。

新しい職場には、αはもちろんβ、Ωの人がいる職場だったが、もういちいち気にしていられない。
働くところがあるだけマシだと思う。
一日、二日、三日と勤めてみれば、案外やりやすい職場だった。このままこの街で住めたらなぁと思いつつ、仕事終わりに夕飯の買い物をしてアパートの扉を開けた。

「おかえり」
「ただいま、夕飯の買い物してきました」

ドアを開けると、奥のリビング兼キッチンから彼がこちらにやって来るのが見えた。

「お仕事お疲れ様、大丈夫だった?」
「うん、周りの人たちも優しいし、少しずつ慣れていけそうな感じ」
「……そう、よかったね……」

背の高い樹くんが心配そうにこちらを見つめている。
私は彼に買い物袋を押し付けるようにして渡す。
「今日は安売り商品があったから、早く料理しなきゃ」
なるべく彼の言葉に反応しないように、キッチンに向かう。
すると背後から抱きしめられ沈黙のあと、彼は話し出した。

「……ごめんね……、俺のせいでこんな生活をすることになって……」

その言葉に私は目を閉じた。たしかにこんな生活になったのはあなたのせいかもしれない。でも、そんな生活を受け入れたのは私自身だ。
抱きしめてられている腕に手を当てると、私はゆっくりと彼の方に向き直る。

「あなたのせいじゃない、これは私が選んだの。あなたと一緒に生きていくために」

だからもう、そんな悲しい表情はしないでほしい、そう訴えた。





※※※

樹くんと一緒に住んで早2カ月。
今のところ追手には見つかっていないようだが、油断は禁物だ。
ちょうど仕事が休みだったので朝から掃除でもしようと起きたのだか、彼がリビングのテーブルでPCを使って仕事していた。
なるべく邪魔にならないように、音を立てないようにしていると、仕事中の彼の声が聞こえてきた。
(ああ、やっぱりαなんだな)
そう思えてしまう。
おそらく話しているのは外国語?だろうか、私にはわからない。
βの私には未知なる世界だ。
そんな私をなぜ彼は選んでくれたのだろう?
考えに浸っていた私は思わず持っていたコップを落としてしまった。
割れる音が部屋に響く。
(私ってば何をぼんやりしているの。それより早く片付けなきゃ)
焦ってコップを拾いあげようとしていると、慌てて彼がやって来た。

「大丈夫?!怪我は?」

仕事を中断して駆けつけてくれたのだろう。
大丈夫、邪魔してごめんねと小声で彼の耳元で話し、仕事続けてと伝える。
しかし彼はその場を離れようとしない。
どうしたのだろうと見上げると、その指先は私に触れようとしてはいるが、何かを堪えるようにその場に固まっている。

「……?樹くんどうしたの?」
「あ……いや、その……」

どう話していいか迷う彼がゆっくりと私の髪に触れた。

「……最近、シャンプー……変えた?」
「シャンプー……そう言えば変えたよ。いつも使っている物より安いものがあって」
「……そう、その匂いかな……すごく甘い香りがして」
「甘い香り?」

(そんな成分入ってたかな?)
考えているとリモート会議の人から呼びだしがあって、彼はその場を離れていく。

割れたコップを片付けながら、自分も身体の匂いを嗅いでみる。
ちなみにボディソープも変えたのだか、それも甘い香りがするようには思えなかった。



※※※

彼女から香る匂いの正体は一体?
仕事中、そればかりが頭を占めていた。
割れたコップを片付けて怪我をしていないかも心配で終了と同時に樹はすぐさま彼女のもとへ向かう。しかしキッチンに彼女の姿はなかった。
どこにいるのかと思い探すと、彼女は洗面台のとこに座り込んでいた。

「こんなところで何をして……!」

振り向いた彼女を目にして思わず駆け寄る。
それは彼女が顔面蒼白な状態だったからだ。

「お昼ご飯作ろうとして……料理してたら急に気持ち悪くなっちゃって……でも何も出なくて……」

涙目になりながら見上げてくる彼女からはあいかわらず甘い香りがする。

その香りを……俺は知っている。
本能的にわかる。
まさかとは思った。

だから俺は最近彼女と過ごしたときに付けたうなじを確認してみる。
愛しい彼女のうなじにはくっきりと噛み跡が残っている。
自分が付けた痕だ。
ゴクリと生唾を飲むと彼女に話す。

「おそらく、あなたはβからΩになったんだと思う。この香りはまさしくフェロモンの香りだ」
「え?……そんなことって。どうして私はβで変わることないって言われて……どういう……」

混乱している彼女を抱きしめて樹は確かな幸せを感じていた。

(やっと、やっと手に入れた。彼女は俺の運命の番、愛しい彼女が自分の)

震える手で彼女の髪を優しく梳き、その旋毛にキスを落とした。


※※※

「運命の番?」

樹くんから聞かされた言葉に驚きを隠せないでいた。
だってまさか自分が変化するなんて思ってもみなかったから。
それに私は今そのフェロモンとやらが出ているのかもわからない。これまでβとして生きてきたことも関係しているのか否か。
すると彼は嬉しそうに話してくれた。

「以前、ある日突然性別が変わることもあるって言ったことがあるよね?それが今君の身体に起こったんだよ」

にわかには信じられないが、彼が言うにはそうらしい。
でもどうして変わったのかわからない。
変わる予兆などなかったように思う……
不思議に思い、自分の身体を触っているとあることに気づいた。

「今日って何日?」

リビングにかけられた、ありふれた暦。
その日にちに毎月記されているであろう印がない。
考えてみれば彼と夜を共にしたのは最近。でもそれより前に濃厚に抱かれた日があった。
駆け落ちの前の日だ。
彼が軟禁され、私が助けに行ったあの日。

その日からあるものがないことに気づいた。

「……生理……きてない」

「いつから?」

「たぶん、2カ月前くらいから…」

すると彼の表情が明るくなっていく。

「妊娠……したんだじゃないかな。おそらく。いや、むしろ妊娠したから変わったのかも知れない」

「に、妊娠!?まさかそんな、でも生理きてないのは、疲れからかも……」
「それはないよ、このはっきり俺にだけにわかるフェロモンの香り。運命の番同士だけがわかる特別な匂い。君にもわかる、絶対に。今はまだ身体が慣れていないからわからないのかもしれないけど」
「そ、そうなのかな?」

何だか自分のことなのに他人事のような気持ちになる私を彼は抱きしめた。

「もう、遠慮しなくていいんだ。
両親にもあなたが俺の運命の番で、彼女のお腹には俺の子どもが宿っている。結婚を認めさせるには充分だよ。もし番じゃなくても結婚するつもりだったけど、本当に今は本当に嬉しい」

心から喜ぶ彼に私も自然と笑顔になる。

「そうか……私、ママになるんだ」

漠然としていた気持ちがゆっくりと動き出す。
そっとまだ膨れていないお腹に手を当てる。
ここに私と彼の子どもがいる。
切なくて、嬉しくて、ちょっぴり不安な気持ちも彼はまるごと愛してくれる。

それが私と、樹くんの描いた幸せのカタチなのかも知れない。





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