序章
親の決めた女性と番関係となり、樹の想いは見事に打ち砕かれた。
彼女を目の前にしても何も衝動が起きない。欲しいと思うのは番相手の女だけ。
最後に別れた瞬間、彼女はどんな想いでこの手を離したのだろう?
それでも彼女に触れた感触だけは今でも彼の心に強く根付いて離れなかった。
彼女と別れてから数年が経った。
両親からは早く子どもを作れとの重圧をかけられ、愛してもいない番の相手からは自身を誘惑するフェロモンを出され、躰を繋げる日々。
こんな生活、嫌だ。でも、躰は番の相手を欲してしまう。
一層のこと、この世からいなくなりたいと思う気持ちが、日に日に樹の心を疲弊させていった。
そんな日が続いたある日の出来事。
仕事終わりに疲れた心を癒そうと訪れた夜のお店で、樹は声をかけられた。
「こんなところで会うなんて、奇遇だね」
その人物は仕事先でもお世話になっている如月 瑠偉であった。
ここ数年で樹は医大を卒業し、現在は一ノ瀬家の関係する病院で研修医として働いていた。
そこで彼に出会ったのだ。
自分より年上の彼は隣に座り、飲み物を注文する。
「大分、疲れているようだね」
樹の顔を覗き込み、とても辛そうだと言ってくれた。
彼も樹が抱えている悩み事を理解していた。
なぜなら彼も同じくα性であり、同じ思いをしてきた過去があったからだ。
彼は頼んだカクテルが目の前に置かれると、一口飲んで話しを切り出した。
「あなたの悩みの種である主訴を、解決できるとしたら……どうする?」
樹は耳を疑った。
そんなことできるはずはない。
一度番関係になった相手と解消できるなんて聞いたことがない。
樹はまさかとかぶりを振った。
「できないですよ。一度結ばれた番の関係は」
諦めた様子で呟くと、相手は目を閉じた。
「成功する可能性は限りなく低い、だがゼロではないと伝えておく」
「ゼロではない……」
相手の言葉を樹は復唱した。
瑠偉は目を開けると樹に問う。
「可能性のあるこの話しに乗るか、それともこのまま望まぬ相手と過ごし、子を作り、愛のない生活を一生送るか」
決めるのは君次第だといい、残りのカクテルを飲むと席を立った。
彼が去って行く。
(可能性があるなら。
彼女と一緒になれるなら、家柄も何もかも捨ててもいい。
彼女だけを愛していたい)
「待ってください!」
去り行く相手を樹は引き止めた。
彼がこちらを向いて答えを待っている。
一呼吸おいたのち、樹は思いを伝えた。
「その可能性に、俺は賭けたいです」
相手は目を閉じて薄く笑う。
「リスクを伴っても?」
最後にもう一度、確かめるように問われる。
樹はそれでも賭けたいと思った。
「どんなリスクがあっても、彼女と一緒になれるなら……」
今度こそ、離れはしない、離さないと。
相手は承知した合図に手を挙げた。
「家族にも、番の相手にも、好いた女性にさえも見つからないように、遂行すること」
それが条件だと。
樹は頷いた。
二人の男性の間に取り交わされた周到な計画が、今、幕を開けたのだった。
続く。