本編


私は樹くんの名を口にした途端、震えが止まらなくなり、思わず手に持っていた本を床に落としてしまう。

「落としたよ、はい」

彼が拾って私に本を手渡してきた。
私は声も出せずに、席を離れようとしたが思うように躰が動かない。

「な、なんで、ここに」

その言葉を話すのが精一杯だった。
樹くんは微笑む。

「あなたの職場、通りにあるクリニックでしょ?」

調べたんだと話す彼に待ち伏せされていたんだと恐怖を覚える。

再びあの悪夢を蘇らせようと言うのか、彼は。

私は手探りで鞄からスマホを取り出すと、登録してある碧さんに電話をかけようとした。

「待って、怖がらないで」

その行動を樹くんは静止し、話しを聞いて欲しいと言ってきた。
あれだけのことをしておいて怖がらないで欲しい?
彼は一体何を考えているのだろうか?
私は震える躰に力を入れて席を離れようとした。

「あっ!」

力が抜け、膝から床に座り込みそうになる。

「大丈夫!?」

樹くんが私の躰を支えてくれる。
ふわりと懐かしい匂いがした。
それと同時にあの悪夢のような日々が思い出されてゆく。

「っ、やぁ!」

私は樹くんの躰を突き放し、机に手を着いてその身を立たせる。

思い出してはいけない過去。

鞄を持ち、逃げるようにしてその場を去った。







足がなかなか前に進まないがそれでも私は懸命に歩く。

そうだ、電話だ。

私は立ち止まりスマホを鞄から取り出した。
急いで碧さんのアドレスを開き、ボタンを押そうとした。

「待って!」

肩に手を置かれ、びくりと躰が跳ねた。
振り返ると、樹くんが私を追いかけて来ていたのだった。

「はい、この本、大切な物でしょう?忘れていたから」

樹くんの手には私が買った『歯科衛生士の心得とは』の本がある。
確かに大切な本だ、これからの仕事に大いに活かせる内容がたくさん載っている。

「……ありがとう、ござい……ます」

私はスマホを鞄に入れると樹くんが持ってきてくれた本を受け取った。

「すごく、頑張ってるんだね。お仕事」
「……」

私は無言のまま、本を鞄に直した。
礼をし、落ち着かない躰の震えと闘いながら私はその場を去ろうとした。
再び彼が私を引き留める。

「ねぇ、歯科衛生士に関して話しがあるんだ」
「歯科衛生士……」

私はゆっくりと樹くんの方へ視線を向けた。

「怖がらないで、あの頃とは違う。俺にはもう、伴侶がいる。だからあなたに対しても何もしない」

できないんだよ、と悲しげな表情で私に話してきたので話しぐらいならと聞いてみることにしたのだ。

「歯科衛生士のことで話って、何ですか?」

自分の職の話しを持ち出されたのだ、そこそこ興味が湧く。

その時私のスマホが鳴った。

確認の為に鞄から取り出すと碧さんが仕事が終わり、こちらに向かっているとのメッセージだった。

「ごめんなさい、予定が入っているので」

樹くんにそう告げると私は碧さんと待ち合わせしていたカフェの方へ戻り出す。
去り際に彼が声をかけてきた。

「医者としてこれからは歯科業界ともっと関わって行かなければならないと思う。詳しい話しをしたくて、君さえ良ければ現場で働く歯科衛生士としての意見を聞きたいんだ」
「意見……」

たしかに多種職との関わり合いはとても良いことだと思う。

それに彼は言ったのだ。
伴侶を得ているので、私には何もできないと。

「わかりました、意見交換はとても大切なことです。お互いの仕事でも役に立つと思いますし」

そう言うと樹くんはありがとうと言って笑った。

私の記憶にある彼の姿が重なる。

交流目的として樹くんと連絡先を交換したのち、私は碧さんの待つカフェへと向かうのだった。







彼女から連絡先を得ることができた。
これで彼女と接点を持つことができた。

少しずつ、少しずつ。

距離を縮め、そして……


「必ずあなたと添い遂げる」


樹の決意と想いが一歩ずつ前進してゆく……








続く。

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