いきずまた
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隱亡と消ゆる夢浮橋
暗夜の冷たい空気が低く積もる木々の間に黒い影が静かに動いた。人目を憚る様にひそりと佇む民家の心張棒を容易く外し、人の影が刀を片手に音もなく室内へ入り込んだ。
不自然な程殺風景な部屋の中では膨らんだ布団が一組穏やかに上下しており、無遠慮に布団を捲ると影は躊躇い無く寝ている女の胸倉を掴んで引き起こした。握り込んだ刀が小さな金属音を鳴らす。
「…んゃ……あ、れぇ……ん…?…ゆう……ちゃ、?」
男の風貌を見たにも関わらず、あまりに間抜けた声に騒ぐ気配がない事を悟ると影は胸倉から手を離して空腹を訴える。すると女はきょとんとした後直ぐ力が抜けた様に笑って「おなか空いちゃったの?」とのったり布団から這い出た。乱れた胸元を押さえ軽く整えるとまだ眠気が覚めないのか、目を擦りながら火の準備をする。
その姿を横目に男は刀を納め左横に置き、腕を組んで胡座をかいた。女が水を汲む姿を一度視界に入れて目を閉じ、短く息を吐き出す。自分に何かの影を重ねているらしい此奴を利用して夜明け前には始末して発つと簡単に一考しゆっくりと目を開ける。水を火にかけた女は火を弄りながら穏やかな笑みを浮かべていて、憐れさに小さく笑いが漏れた。
「少し冷えるからお茶漬けにしようねぇ」
それを気にすることも無く、女は寝起き特有の気だるさを残した声で呟くとぱちぱちと鳴く火を見ながら熱に当てられてうとうとし始めた。何度か目を擦って眠気を追い出すが上手くいかず、気を紛らわそうとゆっくりと口を開く。
「ゆうちゃんは、どこから来たの?」
「…さぁな。お前が知らない場所からだ」
「うーん。そっかぁ」
小さな覚悟を決めて声をかけてみれば吐き捨てるように会話を拒まれ肩を落とす。ならば仕方ない。言えないのかも知れないし、言いたくないのかもしれない。どうしても気になる訳でも無かったが、眠気覚ましが失敗した事に女は少々落ち込んだ。仕方なく大人しくお湯が沸くのを待っているとまた戸が開き、冷たい風と共に今度は幼子が入ってきた。女の姿を見るなり身を固くしたが直ぐに戸を閉めて男の近くに腰を下ろした。
「いらっしゃい、貴方も食べる?」
「……はい、いただきます」
少年は男の様子を窺ってからにこりと笑って頷いた。いやに客人が多い夜だ。女は一日を省みて悪い行いでもしたかと考えたが直ぐに辞めた。思い当たった事があったとして、今更後悔しても遅い。見ず知らずの包帯おばけと機嫌のよさそうな少年。首をひねろうとして、これも直ぐに辞めた。夢かもしれない。夢であって欲しい。深く考えてもいい事にはならないだろう。刻んだ菜葉の漬物に、朝に食べるつもりだった夕飯の残り物を添えて出すと男が間を開けず茶碗をさらいに来て思わず穏やかに笑った。
「包帯が欲しい」
「包帯?…あるにはあるけど…足りる、かなぁ…手伝う?」
男は女の顔をじっと見つめると稍あって頷いた。それなら、と女は沸かした湯に水を混ぜてぬるま湯を作って手拭を浸した。「序に体を拭きましょうねぇ」などと鼻歌でも歌いそうな様子の女の声に空気が一層軽くなる。
男が食事を終えると所々擦り切れている着物の肩を落としたのを見計らってぬるま湯と手拭が入った桶を持って女が側へ寄ると包帯を外し始めた男に習って女もそっと手を伸ばした。
「触りますね、……わっ……え?」
てっきり冷たいのかと思えば、人のものをはるかに超えた熱に驚愕して、温度を確かめるように撫でるとゆっくりと包帯を解き始めた。そうだろうとは思っていたが、赤黒く、皮膚が熔けた痕。一目で分かる、重度の火傷痕だ。
「しばらく家で…休む…?」
「生憎、追われる身でな。一処に長居するつもりはねェ」
「…そう」
引き攣れて皮膚が薄くなっているところがいくつもある。普通ならば家でじっと養生している程の怪我だ。行く所が無くて流れているなら、と思わず声をかけてしまったが事情があるのならば強いる事はできない。女は傷に障らないよう注意しながら包帯を解いていった。
男が何故ここまでの怪我を負ってしまったのか、また気になる事が増えてしまったが口を噤んで疑問を飲み込んだ。戦争で負った傷かもしれないし、何か不運な事に巻き込まれてしまったのかもしれない。どちらにしろこんな仕打ち、想像を軽く超えている。こんな姿になってまで足を泥だらけにして歩かなければならないのだ。容易に踏み込んでいいわけがない。
「腕や指は動く?」
「あぁ」
「なら、私は背中を拭きますね」
固く絞った手拭を一つ男に渡して女は背後に回った。肌を傷付けないよう注意を払いながら広い背中を清めていく。様子を伺えば少年は変わらずにこにこと美味しそうに飯を食べていて女は少しだけ安心した。この少年は息子なのだろうか。そんなことを考えてゆっくり息を吐き出した。
「……よかった、生きてて。…私ね、最初幽霊か何かが誑かしに来たんじゃないかと思って凄く怖かったの」
男はてっきり自分を知り合いと勘違いしていると思っていたのでそれを問うと、言葉にして本当にそうだったら怖いからという理由で幽霊から取った間抜けな名前で呼んでいた様で、だからどこから来たのかと問うてきたのかと一人納得した。しかし女の能天気さが面白く、笑いが漏れる。怖いと言う割には船を漕いでいたのだ。怖いもの知らずは山ほど見てきたが、そのどれとも種類が違う事に小さな興味がそそられた。
「呑気なもんだな。そんなものより俺達の方が余程怖いかも知れないぜ」
「……それは…考える間を逃しちゃった」
遂に声を上げて笑った男に少しだけ女の背筋がひやりとした所で負けないくらいに呑気な声色で「ご馳走様でした」と少年が手を合わせた。それに弾かれる様に緊張を解くと伏せてある空いた桶を指差して少年にも身を清めるよう勧める。にこにこお礼を言って準備を始めた少年に絆されて、女の心はそれ以上揺らぐことはなかった。
「まぁこんなご時世だからね、生きてご飯が食べられれば上等よ。はい、腕上げて」
帯刀した包帯男と、まだ幼さが残るとはいえこちらも帯刀した少年。夜分にそんな風貌の来客があれば普通ならまとも正気で居られるはずがない。これだけの異常事態が起こっているというのに未だふわふわとしている女を、男はよく今まで生きて来れたものだと笑った。
「ん、ふふ。泣いても笑っても現状は何も変わらないもの。だったら楽しんだ方がお得じゃない」
「これから死ぬとしてもか?」
「おばけをもてなしたのが冥土の土産かぁ」
ただの世間話のような軽さに我慢ならず吹き出す二人に呆気に取られたが馬鹿にされたと感じて女は直ぐに唇を尖らせた。しかし目元を緩ませると焼け爛れた跡にそっと手拭いを滑らせる。
「辛い事なんて、数えてたらキリが無いから」
やっと見目相応の、蕩けていない落ち着いた声色を聞いて男はゆっくりと息を吸い込んだ。仄温い柔らかな手が己の背を労わるように触れるのをつい許してしまう。思い出せば随分と久しぶりな感覚に後ろを振り返るとやはりどこかふやけた笑顔が男を見ていた
「包帯、明日になら買いに行けるけど…どうする?今日はちょっとだけ古いのを使い回す?」
「…夜明け前には出る。」
「あらぁ、じゃあ仕方ないねぇ。」
一通り清め終えた女は新しい包帯を手にすると男の目の前に移動して顔を見上げた。顔に触れられるのは嫌かと問えば男が首を振ったのを確認してゆっくり包帯を巻いていく。
「余った包帯は洗っておくから、また近くに寄ったらご飯食べに来て、ね?」
「あぁ」
「あなたも待ってるね」
「…はい!」
可愛らしい笑顔に同じ様に返す。時間をかけて男の包帯を巻き終えると、女は布団を囲炉裏の近くまで引き寄せて少年に横になるように勧めた。柔らかな口調の癖に有無を言わさぬ態度なので言われるまま横になった少年の頭を優しく撫でると目尻を落としたままの表情で幾分小綺麗になった包帯の亡霊を見上げた。
「ゆうちゃんも、この子と横になる?」
「いいや、このままでいい」
分かっていたかのように頷いてゆっくりした動作で立ち上がると、男に羽織をかけてやってから小さな箪笥を物色し始めた。
「奉公先で着なくなったからって、男物の着物を頂いてね。直して着ようと思ってたんだけど…ゆうちゃん、どう?藤色、すき?」
女が取り出したのは少し袖の解れた様子の、しかし小綺麗な着物だった。
「派手かな…暗い色の羽織を合わせれば……うーん」
「悪くねぇな」
「ほんと?良かった。もうすぐ寒くなるからね」
すぐ直すね。女が言うなり針と糸を取り出して、楽しげに針仕事に取り掛かる。その様子を一瞥すると上がった口角をそのままにゆっくり目を閉じた。つくづく可笑しな女である。
時折はじける炎の音と、裁縫鋏の音を聞きながらほんのりと温まった部屋で身体を休める。数刻時が経った頃、女がゴトリと重い音を立てたのと同時に控えめに声を上げた
「ゆうちゃん、起きてる?」
「あぁ」
「お着物、直せたよ」
「着付けてくれ」
「うん」
一人でも出来ることをわざと手伝う様に言っても嫌な顔ひとつせず動く女を見て鼻の音が漏れると女もゆるゆるとさらに笑みを深くした。
「あれ、ちょっと丈短かったね」
「構いやしねぇよ。ここまでされて文句を付ける程、恩知らずじゃあねェさ」
「ふふ。それは安心しました。あと、その子には少し大きいかもしれないけど」
急拵えにしてはよく出来た装いに満足そうに頷くと寝入った少年に視線を移す。少し裾を上げた深い紺色の羽織を上に掛けると静かに上下する布団に釣られて女が小さな欠伸を零して目元をゆるゆると擦った。
「急に押し掛けて悪かったな。お前ももう横になれ」
「どういたしまして。ではお言葉に甘えて」
柔らかな雰囲気を一層溶け出させて笑う女はその場で小さく丸まった。男も囲炉裏の側に腰を落ち着けると再び瞼を閉じる。
「火の番するから、ゆっくり休んでね」
「いや、俺が見る。着物(これ)の礼だ。幽霊だって、そのくらいはやれるんだぜ」
くすくすと笑って頷くと女も素直に目を閉じた。少しの警戒も寄越さずにいるので脅してみれば空気が変わったがそれも一時だった。面白い巡り会いは重なるものか。と細い息が寝息になったのを数えて数回、男がそっと目を開けた。
───薄暗い曙景を背に二つの影が動き始めた。男が少年に先に外に出ているように指示すると傍らの刀を手に取って床に転がる女を静かに見下ろした。
「ん……ゆ…ちゃん…?」
抱き上げた体を布団へ降ろしてやり口元まで掛布団を引き上げたところで伏せられていた睫毛が震えた。眠気に蕩けた女が包帯の男を見つけると、くて、と抜けた表情で淡く微笑む。どうやら似つかわしく無いそれが女にとっての幽霊に見せる顔らしかった。
「…ゆうちゃん、いってらっしゃい」
「……あぁ」
女の表情の様に柔らかな香りが確りと届く前に背を向けて、亡霊は寂しく佇む家を音もなく後にした。
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