ふたつの傷痕
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──────
家の階段の下で女の人が手を振ってる。玄関の前にはお兄ちゃんがいて、その人を見てた。友達と遊んだままの楽しい気持ちを引きずっていたからその姿を見て更に興奮してしまう。あのお姉さん、お兄ちゃんの彼女だ!軽い足取りで去っていく背中を見送っているお兄ちゃんはまだ私に気が付いてない。家の前まで来るとようやく「帰ったのか」と声をかけられる。
き、気になる。凄く気になる。お兄ちゃんとお姉さんの後ろ姿を見比べて、見比べて…走った。後ろで「おい!」って引き留める声が聞こえるけど無視するもんね。お兄ちゃん、全然紹介してくれないんだから!
「あのっ!すみません!」
そんなに距離が離れてなかったおかげで直ぐに追い付けた。振り返ったお姉さんは凄く綺麗で思わず息を呑む。立ち止まってにこりと笑うと「こんにちは」とかけてくれた声まで綺麗でつい聞き惚れてしまう。ほ、本当にお兄ちゃんの彼女なの…!?
「あ、あのっ私、間柴久美と言います。えっと、お兄ちゃんの…彼女さん、ですよね…?」
「お、お兄さんが、そう言ってました?」
「え?はい。…ち、違うんですか!?」
やっぱりこんな人が彼女な訳…!と思ったら赤い顔を手で隠して「…ちがわないです」と小さな声で言った。ええっ、もしかして照れてるのっ!?お兄ちゃんが高校に行ってた時からみたいだし、結構長く付き合ってるはずなのに。照れ屋なのかな。
「あの、急にごめんなさい。ウチから出てくる所見てつい追いかけちゃって…お兄ちゃん、紹介するって言って中々会わせてくれないから」
ご迷惑、でしたよね…俯きながらちらっと顔色を窺うと胸で手をぎゅっと握って首を振ってくれた。まだ顔が赤い。凄く大人っぽいのになんだかかわいいな、この人。
「成瀬樹と言います。…少し、お話ししますか」
公園へ移動してベンチへ並んで座る。お花みたいな良い匂いがする。雰囲気が凄く大人の女の人って感じがして緊張しちゃう。
「……どうして、私に会いたいって思ってくれたんですか?」
「あ、もっと気軽に話してくださいっ。私、年下だしっ」
「ふふ、ありがとう。じゃあ久美ちゃんも」
うわあ。なんだか絵本の中から出てきた人みたい。あの写真を見てないとお兄ちゃんの隣にいる所想像できないな。この優しい笑顔にお兄ちゃんもコロッとやられちゃったのかな
「……聞いていいですか?」
「な、なんでしょう」
「どうしてお兄ちゃんを好きになったのかなって…気になって。お兄ちゃん、あんなだから…彼女とか想像できなくて」
樹さんは少し困った顔をして形の良い唇を開いた。今思えば一目惚れだったのかな、って。お兄ちゃんに!?全然笑わないから笑った顔が見たくて周りをうろちょろしてたらもうどうしようもないくらい全部が好きになっちゃってた。そう言って顔を赤くする樹さんは本当に可愛くて、お兄ちゃんに恋をしているのは一目瞭然だった。私まで赤くなっちゃいそうっ。
「良かった…お兄ちゃんに、貴方みたいな人がいて」
「ふふ、私叱られちゃうのかと思った」
「ええ!?叱るならお兄ちゃんの方ですよ。樹さんを家まで送らないなんて。帰ったら説教しなきゃ」
「あはは。私が断ったの。送って貰ったら久美ちゃんにお兄ちゃんを返せなくなっちゃうから」
「えっ!」
なんちゃって、と笑う樹さんは凄くかわいい。これが大人の余裕なの!?何だか急にお兄ちゃんが遠い存在みたいに思えてきて顔が赤くなる。大人の恋愛って積極的…!新鮮だわ…!
「久美ちゃんは好きな人いるの?」
「え?ふふ、いーえっ いつもお兄ちゃんに邪魔されちゃって」
「ええっ!了くん、パパみたいな事してるんだ。ふふふ。久美ちゃんが心配なんだね」
お兄ちゃんの事了くんって呼んでるんだ。そう呼ばれて返事する所想像できない…。私を家まで送ってくれた男の子を視線で追い返しちゃった話をするとそれは重症だね。と神妙に頷いた。
「久美ちゃんが少しでも傷付くかもしれないと思ったら居ても立っても居られないのかな」
「え?」
「了くんを怖がるような人に久美ちゃんは任せられないと思ってるのかもね」
「なる、ほど…」
了くん心配症だもんなあ。独り言の様に呟かれた言葉にぎょっとする。過干渉とまでは言わないけど、お兄ちゃんは私が友達と遊びに行く時でさえ何処で誰と何時に、を聞く様になった。高校生になってもそれは変わらない。だけどそれは家族が二人きりになってからだ。それ以前にお兄ちゃんが心配症だなんて思った事もなかった。なのにまるで以前からそうだった、みたいな響きで樹さんは言った。私の知らないお兄ちゃんを知ってるんだ…そしてお兄ちゃんは樹さんにそういう自分を見せてる、てこと?
「久美ちゃんの理想、高くなっちゃうね」
「え?」
「了くんに睨まれて逃げない人、そういないよ」
くすくす笑う樹さんに、それもそうよね。と少し落ち込む。高校生になったら恋人とかにも憧れていたけどいつも頑張ってくれてるお兄ちゃんに心配をかけると思ったらそれ程魅力的でもないかも。
「でも大丈夫。久美ちゃん素敵な女の子だから、了くんに立ち向かってくれる彼、絶対見つかるよ」
「オレに立ち向かう男がなんだって?」
「ひゃ!」
「お兄ちゃんっ」
急に背後から声をかけられて樹さんとベンチから飛び上がる。こういう話の時に限って気配がないんだからっ。驚いて胸を抑えてる樹さんの頬を手の甲でぐりぐりして文句を言ってる。うわあっお兄ちゃんが女の人とイチャイチャしてる…!
「お前もだ久美。後先考えずに樹を捕まえやがって」
「だってお兄ちゃん全然樹さん紹介してくれないじゃないっ!こんな綺麗な人独り占めしてズルいっ」
「ズルくねえ」
「ズルいっ!」
言い合う私達の間で「人生最大のモテ期かも」とふわふわ笑ってる樹さんに毒気を抜かれる。お兄ちゃんの毒もこうやって無効化してきたんだろうか。穏やかな笑顔に胸の奥をくすぐられてそわそわしてしまう。ま、守らなきゃ…この笑顔…!
「か、かわいっ」
「わっ、ふふ。久美ちゃんもかわいいっ」
衝動のまま思わず抱き付くとお花の匂いが強く香る。いい匂いだな樹さん。耳障りのいい声の語尾が甘くなって抱き寄せられると凄くドキドキする。甘やかしてくれてるのが嬉しいっ。お兄ちゃんの妹だからかな。
「了くん、どうしよう凄くかわいいっ。久美ちゃんウチに持って帰っちゃうのはありかな?」
「なしだ。オラ離れろ」
お兄ちゃんに引き剥がされてムクれる。お兄ちゃん、こんな風に笑う人が近くにいて抱き締めたくなったりしないんだろうか。同性の私ですらきゅんとしてしまうのに。こんな人に愛を囁かれたら閉じ込めちゃうけどな。
「もう帰るんだろうが。邪魔するんじゃねえよ」
「お兄ちゃん、樹さんを送って行かないの?」
「……行かねえ」
「ふふん。二人ともまとめて持って帰っちゃおうかな」
企み顔で笑う樹さんのかわいさに衝撃を受ける。胸がドキドキとうるさい。お兄ちゃんに詰め寄って衝動を逃さなきゃどうにかなってしまいそうっ
(お兄ちゃんっ!なんでそんな涼しげな顔してるの!?なんで平然としていられるの!?)
(……まだ大した事ねえよ)
(これで!?お兄ちゃん、いつもこれに耐えてるの!?)
こそこそ話す私達を見て首を傾げたけど直ぐにふにょ、と蕩けた笑みになって「仲良しなんだね」と幸せそうに呟かれた言葉にハッと息を飲む。
(お兄ちゃん、樹さんウチに持って帰ろう。私一生大事にするから)
(バカ言ってんじゃねえ。オレの女だ)
(それなら私のお姉ちゃんだもんっ)
樹さんの雰囲気にこっちまで蕩けそうになりながらお姉ちゃんに憧れてたから樹さんとも仲良しになりたいと伝えると顔を赤らめて嬉しいと答えてくれた。
「どっちがうちの子になるか相談してるのかと思った」
「え!?わたし!」
「了くんに怒られちゃうから、今度ナイショでウチ来てねっ」
「聞こえてんだよ。今度も今もナシだ。一人で帰るなら明るいうちに帰れよ」
「はい、パパ」
「あ゙!?」
冗談を言ってお兄ちゃんに凄まれても楽しそうにくすくす笑ってる。本当に恋人同士なんだ…。なんだか凄く胸がむずむずしちゃう。
「今度は私にも会いに来てくださいね」
「いいの?じゃあ声かけちゃおうかな」
「やったあっ」
嬉しくなって細くて滑らかな腕に巻き付いて途中まで送らせて貰う。あ、でもお兄ちゃんと二人きりにしてあげた方が良かったかな。一応お兄ちゃんの様子を伺う為に振り返ると表情を見るに別に良いみたいだ。お兄ちゃんの彼女が優しい人で良かった。でもお兄ちゃんがあんなだから優しすぎてストレス溜め込まなきゃ良いけど…。
「ありがとう、ここでいいよ」
「急に引き止めたのにお話ししてくれてありがとうございました」
「ふふ、これからもいつでも引き止めてくださいっ」
柔らかい口調に際限なく甘えてしまいそうになる。誰にでもこうなの!?この人一人で帰して大丈夫!?またお兄ちゃんを見て確認するけど無反応だ。不安で手が離せないでいると樹さんが顔を覗き込んできて優しい表情で囁いた。
「やっぱり一緒に帰っちゃう…?」
「久美を口説くんじゃねえ。行くぞ」
「わ、またね、久美ちゃんっ」
お兄ちゃんが割って入って樹さんの背中を押して歩かせている。それに気がつくまで五秒くらいかかった。び、びっくりした…口説かれてたの?頬が熱くて思わず手で抑える。なんか雰囲気とか態度とかで好きって言われてるみたいだった…!お兄ちゃんの体で半分も見えない樹さんの後ろ姿を見つめていると完全にその姿がお兄ちゃんに隠れてしまった。足を止めたお兄ちゃんが少し屈んでからこちらを振り向くともう樹さんはいなかった。あの角を曲がるのね
「お兄ちゃん、樹さん一人で大丈夫なの?」
「じゃなきゃ一人で帰さねえよ。帰るぞ」
「うん…」
戻ってきたお兄ちゃんを不安気に見つめると特に気にした様子もなく家に帰るつもりでいるみたい。本当に大丈夫なのかな
「アイツ、お前に土産を置いてったぞ」
「私に!?なぁに?」
「気になるならとっとと歩け」
「もうっ」
家に着くと机の上に見慣れないメモ帳が置いてあった。表紙には見た事のある字が並んでいる。逸る胸を押さえつけて手に取るとやっぱり、小さい頃にお母さんが楽しそうに書いているところをよく見ていたあのメモだ。これが、樹さんのお土産…?適当に開いたページには、樹ちゃんへ。と続いてお料理のコツとお兄ちゃんの事が書いてある。いつの間にか濡れていた頬を拭うとつい笑いがこぼれた。
「ふふ。お母さんも樹さんの事、大好きだったんだね」
何も言わないお兄ちゃんの背中に向けて小学生に戻った気分で音読をする。やっぱりお兄ちゃんは何も言わなかった。いつもより無口なお兄ちゃんを笑って始めのページから懐かしい文字を追う。ありがとう、私のお姉ちゃんになるひと
───────
車の運転にも慣れ始めて仕事も要領を掴んだ。ジムにも安定した時間に行ける様になって日々の生活に少し余裕が出てきた。妹も樹を気に入っている様だし、樹も電話で鬱陶しい程妹を可愛がっていた。大丈夫だ、上手く行っている。…少なくとも今は。仕事を終え自宅からジムに向かっていると道の端で女子校生の集団がしゃがみ込んだ女を囲んでいた。普通なら一瞥もせず無視をするが、樹の学校の制服だったのでつい視線が盗られる。
しゃがみ込んだ女はオレのよく知る女だった。樹が女が怖いと言っていた話を思い出して眉間に皺が寄る。なんだ?リンチか?良い度胸じゃねえか。迷う事なくジムに向けていた足を樹の方に進めると女どもが「大丈夫?」「私水買ってくるね」だの騒いでいてリンチじゃなく樹の体調不良だと気付き足を速めた。
「おい、何があった?」
「え?ひぃ!」
「な、なんっですか」
「…樹の彼、ですよね」
声をかけるとビビり散らかして話にならねえ女を遮って気の強そうな女がオレに話しかけた。コイツが樹の話によく出る女か。試しに名前を出すと驚いた顔をして頷いた。
「樹、今日貧血で体調悪くてこの暑さにやられちゃったみたいで…ウチらじゃ休める所にも連れて行けないから困ってたんです」
「分かった。…世話になったな」
鞄の中からタオルを出して樹の頭に被せてやる。指の背で額を撫でてそのまま頬と首の熱さを確認して取り敢えず安心する。抱き上げると今気付いたみたいにオレの名前を呼んで首に巻きついてきた。
「あ、冷たい水、樹の鞄に入れておきました」
そう言って差し出された鞄を受け取って背を向ける。背後で何だかんだときゃあきゃあ騒ぐ声を聞きながら来た道を速足で引き返していく。今日は妹のバイトは休みだったので丁度良い。大した事無かったら妹に任せられる。
「樹、オレの家に行くぞ。文句ねえな」
「おあ…十九歳のりょうくんはじめましてだあ」
……大した事あるかも知れねえ。他にもモゴモゴと喋っていたが暫くすると目を閉じて大人しくしていた。家に着いて妹を呼んだが返事がない。買い物にでも行ってんのか…?玄関にしゃがんで樹の靴を脱がしていると頬に柔い感覚が擦り寄った。
「ん、りょーくんな気配がする」
「オレだ。気分はどうだ、動けるうちに水飲んどけよ」
「おれかあ…え?りょうくん家?……だっこで階段登ったの?」
全然会話にならなねえ事が分かったので無視して自分の部屋の布団の上に座らせる。樹の鞄の中のペットボトルの蓋を開けてやって渡すとお礼を言ってのろのろと飲み始めた。制服じゃ寝られねえか。適当な服を取り出して樹の近くに放り投げて着替えるように言う。返事はない。半分寝てんのか?
「めいわくかけてごめんね」
「…あのままどうにかなってた方が迷惑だぜ。いいから休んでろ」
取り敢えずコイツの家に連絡するか。電話を取ってとっくに手慣れた番号を押す。呼び出し音が止まってもしもし、と言っただけで樹に似た声が「まあ、樹のダーリンね?ごめんなさいね、樹はまだ帰ってないのよ」とおっとり喋った。度々言われるダーリンに引っかかりつつも無視して樹の状況を話すと「あらあら」と特に慌てた様子もない。
「起きて話が出来てるなら大丈夫そうね。悪いけど少し休ませて貰えるかしら。ふふ、迷惑でなければそのままお泊まりでもいいけどねっ!樹に変わって貰ってもいい?」
「……はい」
樹の会話のテンポの軽さは親譲りか。自分の部屋を覗くとオレの服を着た樹が水を飲んでいて途端に沸いてきた感情を力を入れて押し殺す。電話を差し出すとこちらに手を伸ばした時に半袖の隙間から肌が見えてまた変な所に力が入る。
「はあいママ……うん、大丈夫…うーん。いらないよ…え!…了くんに変な事言ってないよね!?…ほんと!?もー、わかった…昇くんには内緒ね、…はあい」
また返ってきた電話に耳を当てると幾つか注意されてそれを妹に伝える為にメモを取る。今晩は飯は食わないだろうから水分をしっかり取らせるように、と言われてだからあんなに軽いんじゃねえかと眉間に皺が寄った。樹が起きれるか分からないから一応泊まると思っておく、と言われてこちらの住所を伝えた。これからオレは留守にするが妹が樹を看る事も言っておく。
「ふふ、樹に色々聞いてるわ。樹を大切にしてくれてありがとう。これからもよろしくね」
色々ってなんだよ、と思いつつお礼に歯噛みをしてなんとか返事を返す。やっと電話を切れた安堵にため息を吐き出して樹の様子を見ると脱いだ制服を畳もうとしていた。
「ハンガーにかけるから置いておけ。ンなことする暇があるなら横になってろよ」
「んん、うーん、うん…うん…」
居心地が悪そうな樹の曖昧な返事につい加虐心が湧く。樹が持つカッターシャツを放り投げて一応頭を支えながら布団に押し倒す。途端に赤くなる顔にやはりと思いながら額に唇を寄せた。
「ここ、りょーくんのお部屋、ですか」
「ああ。それがどうした」
唸り声をあげて恥ずかしそうにする樹を鼻で笑う。
「悪いが期待には応えてやれねえな。妹が帰ったらオレはジムに行く」
「んんう、うん…」
言葉少なに身を小さくする樹が目に毒だ。体調不良の所為かいつもより力が抜けて隙が更に大きい。しかもオレの部屋のオレの布団でオレの服を着て寝ている。普通ならとっくに食われても文句は言えない状況だ。そんな女がオレになら何されても良いって顔で誘ってくる。惚れてなきゃグチャグチャにしてる所だ。いつもオレの熱に気付いてもねえ癖に言葉や唇で煽ってくる樹が身を硬くしているのは気分がいい。
「んっ…んぅ…」
「オレが帰ってくるまで大人しく寝てろ。いいな」
「はい…いってらっしゃい」
柔い肌に唇を滑らせて命令すると抜け目なく樹も唇を寄せて来てそれを受けてやる。離れてタオルケットを掛けると小さく丸まって熱のこもった目でオレを見ていて思わず笑いが漏れる。気づかないふりをして樹の制服をハンガーにかけていると今度は眠気と戦っていた。なんで寝ないのか不思議に思っているとオレを視界に入れて置きたくて寝られねえ可能性に気がついて部屋から出る。クソ、むず痒い
「あれ?お兄ちゃん帰ったの?ジムは?」
「…途中で樹を拾ったから、これから行く」
買い物袋を持った妹が帰って来たので事情を説明する。騒ぎ出しそうになったのを樹が寝ているからと止めて書き留めたメモを渡した。樹の家の番号も教えて何かあったらジムにも連絡を入れる様伝えておく。
妹が壁にかけた樹の制服を見て樹が体調不良だと言うことより高校生だったと言う事の方に驚いていた。オレと同い年か少し上だと思ってたと言われ首を傾げる。十分に子供っぽいところはあるが、その見た目は…まあ高校生っぽくはねえか
「分かった。任せて!安心して行ってらっしゃい」
「頼んだ」
やけに嬉しそうな妹が気になりつつも気を取り直して家を出る。樹の親もそう慌ててなかったし大事ないのだろうとは思いつつ多少は気になる。随分と華奢だし妹より少しばかり背も低い。オレを見つけると跳ね回って駆け寄るくらい元気がいいが体はそう強く無いのかもしれねえ。最近多くなった水谷さんの咳を思い出してなんでこうもオレの周りのやつは弱いんだと独言る。妹がそうじゃ無いのが救いだ。
ジムで無心で身体を動かして練習を終える。今日は調子がいいだなんて声をかけられたが無視した。良かねえよいつも通りだうぜえな。シャワーを浴びてとっとと帰ると出迎えたのは妹だけだった。
「おかえりなさい、お兄ちゃん」
「ああ。樹はまだ寝てんのか」
「何度か様子は見たけど寝てる。分かるなあ、私も眠くなっちゃう時あるもん」
そう言うもんかと思いつつ暑さにもやられてんだから一度起こして水を飲ませてやらなきゃならねえか。自分の部屋に荷物を置いて樹の様子を伺うとやはり小さくなって眠っている。樹の飲みかけの水を冷蔵庫から取り出して手渡してくる妹に感謝して部屋から出ていく様に言いつける。樹のアレは妹に見せられねえ
「ええっ、私も寝起きの樹さん見たい。絶対かわいいもん。独り占めズルい」
「ズルくねえ。樹は覚醒に時間がかかるんだよ。寝惚けて何するか分からねえからあっち行ってろ」
オレの言葉に顔を赤くして黙った妹を部屋の外に追い出して戸を閉める。少し息を大きく吸って自分を律する。病人に手を出すほどオレはロクデナシじゃねえ。
「樹、起きろ」
丸まって寝てる樹の肩を押して仰向けにすると柔らかそうな膨らみが大袈裟に揺れた。…オレはロクデナシじゃねえ。首の後ろに手を差し込んで顔を近づける。甘い匂いに誘われるままに首筋に顔を埋めると樹が小さく鳴いた。
「樹」
「ん…」
滅茶苦茶にしてやりたい。幻滅されるくらい酷く傷付けたい。そうしたオレを許して欲しいと思いながら、ぬるま湯みたいな触れ合いを棄てられないでいる。何されてもいいだなんて言ってはいるが所詮は樹の想像の範疇の中の話だ。オレがコイツにしたい事はきっと想像にも及ばないだろう。壊したいのに壊れて欲しく無い。矛盾が痛くて結局何も出来やしない。
「樹…」
「ん…んぅ……」
オレに囚われている証の金の首輪を唇で撫でる。オレの女だ。オレだけの…。下半身に血が集まるのを感じながら薄い肌に歯を立てる。取り返しが付かない傷を付けたい衝動を逃しながら甘噛みをする。悩ましい声が増えて妹に聞かせられねえと思いつつやめられない。
「ん、んぁ…ふ、ん…ん……?んふ、…ねこちゃんだあ…かあい…ん、いいこ…」
目を覚ましたのかフニャフニャ喋りながらオレの頭を撫で始めた。起きたか聞くとクスクス笑っている。…起きてねえ。これ以上腰が重くなる前にゆっくりと身体を起こさせて早いところ目を覚まさせる。「起きろ」もう少し。首筋に噛み付いて跡が付かない程度の力で吸い付く。甘い吐息が耳に当たって心地いい。首に抱き付く力が強くなって、緩慢に樹がオレを見た。キスするつもりだ、と思った時には唇がくっ付いている。オレの口を狙う樹を捌くのは重労働だ。なんであんな約束しちまったんだクソ。
……オレだってこんなに焦がれるとは思っていなかった。今のオレじゃ樹に相応しくない。そんな事は分かっている。だがたかだかキスくらい、
「んー、だめかあ」
ダメじゃねえよ。ダメじゃねえから腹が立つんだろ。
「起きろ樹」
「おきてる…ちゅーしよ」
「、体調は」
「んー、…くらくら…ちゅーでなおるよ」
「治らねえだろ馬鹿」
んふふ、と笑って好きに唇をくっ付けてくる。この前したいと言っていたのに熱を冷ますのに必死で応えてやれなかったことを思い出して取り敢えず好きにさせてやるがそうは持たない。最悪頭を抱き込めば大人しくなるからまだ余力は残っている。…オレはロクデナシじゃない。
「飯は」
「ん、うー…はく…りょーくんならたべられるかも」
「ダメだ」
「さきっちょだけ」
「ダメだ」
「ちょっとだよ」
「ダメだ」
「だめかあ」
唇を当てるのをやめて首に擦り寄って来たので安心する。少し出来た余裕で頬に口を当ててやると樹から嬉しそうな笑いが溢れて「ちょっとなおった」だなんて宣ったお陰で眉間に皺が寄った。クソ女が惚けやがってチクショウ
「飯食わねえなら水を飲ますよう言われてんだよ。起きて水飲め」
「くちうつ「ダメだ」…だめかあ」
いけそうなきがしたのになあ。なんてゆるゆる喋る樹を無視して傍に置いておいたペットボトルを無心で渡すとオレに身体を預けたまま下手くそに飲み始めた。見ていてハラハラする
「ん、りょーくんかえってきたね」
「ああ」
「おかえりい、おつかれさま」
「ああ、起きたか?」
「ずっとおきてる!」
やっと覚醒した樹に心の中で捨て台詞を吐く。この女いつか絶対くちゃくちゃにしてやる。また呑気にオレを見上げていると思ったら両手でオレの頬を触り始めた。
「りょうくんはどうしていつもこんなにかっこいいの…?」
「マニアックで良かったな」
「むじかく…知らぬは本人ばかりなり…そんなりょーくんもすーきっ」
訳のわからねえ事を言いながらオレの口の周りばかり狙ってキスをしてくる樹に段々と腹が立ってくる。態とと言うか敢えてと言う事は分かっている。外でオレが暴走しかけた時は止めに来たが寝起きでいつもオレの口を狙ってくる辺り次にオレが暴走すれば恐らくもうコイツは止めたりはしない。そのまま嬉々として受け入れるだろう。
……だからこれはオレを煽ってるとしか思えねえ。細い指がオレの口を塞いで追いかけるように樹が近づいてくる。小さな鼻がオレのにぶつかって本当ならとっくに触れ合ってる距離で長いまつ毛を伏せた樹が一センチの隙間に唇を這わせている。ちゅ、ちゅ、と鳴らされる音に焦燥が募る。遂に手が外されて口の端に食い付かれた。
「ん、も、ちゅーしたふぎゅっ、りょうくん力つよ」
「…妹が話したがってる」
「くみちゃん!お話しするっ、んわ、ふふ、きゃあっ」
切実な声を邪魔をするように強く抱き寄せたら樹から潰れた音がした。クソ、妹の話をすると嬉しそうにしやがってムカつくぜ。離れようとする前に捕まえて柔い頬に噛み付いてやる。キャンキャン鳴いて喜んでいるが喜ばれる為にやってねえのにこれもムカつく。嫌がれってんだ。嫌がってもやめねえがな。幾らか胸がすいた所で漸く退いてやる。
「立てるか?」
「うん。だいじょぶ」
いつもよりもとろくさいが本当に大丈夫か?手を貸すと思っていたよりもスムーズに立った。そのまま戸を開けると顔を赤くしたままの妹が座ってる。…聞き耳立ててやがったな。
「久美ちゃん、おはよー。ごめんね、すごく寝てたね」
「い、いいえ。体調はどうですか?良くなりました?」
「うん、歩けるようになったよ。ありがとう…ん?」
妹の近くに座り込んで身体を寄せると額に手を当てて首を傾げる。「久美ちゃん、顔赤いよ。だいじょぶ…?」…樹のせいでもあり自業自得でもあるのでオレは無視をする。
「あ、や、おっお風呂上がりだからっ!樹さんも、体調が良かったらどうぞ!お兄ちゃんジムで済ませてるから入らないし!上がる時湯船のお湯抜いてくれたらいいからっ!」
「ほんと?お気遣いうれしい。……泊まっていいの?」
「ああ」
「もちろん!そのつもりで居たんだから帰ったら寂しいよォ」
「えへへ、ありがとう。お言葉にあまえてお風呂もらいます」
緩い笑顔に骨抜きになっている妹を見つめる。自分の女と妹の仲が悪くないのは喜ばしい事だがこれは少し違う気がしている。なんと言うか…まさか惚れてねえだろうな…。案内するね!と樹の手を引いて風呂場に向かう後ろ姿を見送って一人で戻って来た妹をジトっと睨み付ける。
「な、なによ」
「…お前……」
まあ良いか。変な男に引っかかるより樹に惚れてる方が余程良い。樹も随分と妹を甘やかしているし二人がそれで良いなら気にすることでもないか
「なんなのよぉっ!」
「なんでもねえ」
顔を赤くして騒ぐ妹を無視して部屋着に着替えに自室に向かう。今まで樹が寝ていた自分の布団を見る。これからここで一緒に寝るのか…何もしないでいられるか考えて振り切るように服を脱ぎ捨てる。
アイツがどう誘惑しようとも、オレが強く言えばきちんと言う事を聞くんだからそう心配することもねえか。オレが無心でいれば問題ない。着替え終えて暇つぶしの雑誌を手に取る。居間の定位置に座ってイマイチ落ち着きのない妹を視界に入れつつ雑誌をめくる。
「…ねえ、お兄ちゃんはどうやって樹さんに告白したの?」
「あ?……してねえよ」
「え!?樹さんに告白されたの!?そ、れ…もそう、よね…一目惚れって言ってたし」
「……なんの話だ」
一目惚れして笑顔が見たくて周りをうろちょろしてたらどうしようもなく好きになってたと言っていたと恥ずかしそうに言われて顔に力が入る。そういやあ笑わせてみせる、みたいな事言ってたな。一目惚れ…結果で言やあ見事にナンパされた訳だからそう言うことになんのか。なんか腑に落ちねえ。
「じゃあ、なんて告白されたの!?」
「んな事聞いてどうすんだよ」
「いいじゃないっ!教えてよォ」
「……付き合いたい、彼氏になって欲しい」
だったか。まだオレが樹を勘繰っていた頃に絞り出させた言葉だから妹が思っているようなものではないだろう事は想像がついた。現にあの樹さんが?と首を傾げている。樹の告白というなら公園での言葉になるんだろうがそれを教えてやる気はさらさら無い。「まあでも樹さんにそう言われたら断る人なんて居ないわよね」と鵜呑みにしているんだ。本当の事を教える意味もねえ。
「お兄ちゃんはなんて答えたの!?」
「……見ての通りだろ」
「えー気になるっ!お兄ちゃん、好きとか絶対言わないでしょ。ダメよ、ちゃんと言葉にしないと!」
「うるせえな」
急に話が小言くさくなって会話が面倒になった所で風呂場でドンッとぶつかる音がして慌てて向かう。湯船は流石にやめさせておくべきだったか。
「樹さん大丈夫!?すごい音がしたけどっ」
「だ、だいじょぶー、騒がせてごめんね、壁に頭ぶつけちゃったあ」
「…あと五分で出なきゃ戸を開けるぞ」
「え!?……五分まてば一緒にお風呂はいれる…てこと?」
「きゃあ樹さん大胆…!」
「とっとと出やがれっ!」
「きゃっ、がんばる!」
音の割に呑気な声が響いて安心する。いつも通りのふざけた返しに腹が立って風呂場の戸を軽く殴ると思ったより大きく音がなって妹が怒った。うるせえな。今のはオレは悪くねえだろ。取り敢えず居間に戻ると無意識にため息が出る。樹と一緒に住んだら毎日こんなに騒がしいのか?毎日、あの抜けた笑顔を…やめだ。ありもしねえこと考えて何になる。クソ、調子狂うぜ。
五分じゃきかなかったが樹なりに急いだんだろう。お礼を言いながら風呂から出て来た樹を妹が嬉しそうにドライヤーを持って座らせている。
「いいの?助かっちゃうなあ」
「うふふ。樹さんの髪の毛触りたかったの」
「ええ?好きに触ってよかったのに」
「本当?やったあ」
何だそのうざってえハートの応酬は。ひくつきながらぶつけた頭は平気かと問えばそんなに痛く無いと帰ってくる。ちょっとは痛えんじゃねえか。次は風呂も気にしてやんねえとならねえのか。妹は楽しそうに樹の髪を乾かして樹は妹の様子に随分機嫌がいい。側から見てると姉妹のように見えなくも無い。
「あれ、樹さんネックレスしたままお風呂入ったの?」
「ん?うん。そだよ」
「錆びない?」
「だいじょぶです」
手を止めた妹が何かに気がついたみたいに顔を上げてオレを振り返る。樹とオレをしばらく見比べて続く沈黙に樹が妹の様子を見ようとする前にまた手を動かし始めた。気付きやがったか。後でうるせえな。
「はい、終わり」
「ありがと久美ちゃん」
「ね、そのネックレス。お兄ちゃんとお揃いなの?」
「あはは。うん、そうなの」
「やっぱり!」
樹の髪を櫛で梳かしながら素敵だ何だ騒いでいる。オレが同じ空間にいること忘れてんじゃねえだろうな。樹も気にせず聞かれた事に正直に答える。告白した時に渡したとかじゃあすごく特別だとか。オレを好きでいて良い目印だ、とか。
「……じゃあもしお兄ちゃんが間違って無くしちゃったらどうする?」
樹の雰囲気が一瞬変わった。大きな目を一度ゆっくり閉じてから開くと感情が読めない声で「内緒で好きでいる」と呟いた。狼狽えた妹が後ろから抱き付いて変な事言ってごめんなさいと謝って樹はくすくす笑いながら謝らなくて良いと妹の腕を撫でている。
オレを見つける為の首輪だ。これがなくなったら、樹は立ち止まったまま焦がれる事を選ぶのか。樹らしいと言えばそうだ。オレなら樹が迷子にならねえように縛り上げるが、ありもしねえ事を考えるのも馬鹿馬鹿しい。眉を下げた妹の視線に気付かないフリをして欠伸を噛み殺しながら雑誌に目を通す。
「樹さん、すごくお兄ちゃんの事が好きなのね」
「え?うん、だいすき」
「そ、そんな当たり前みたいに」
「ふふ、久美ちゃんもだあいすき」
「きゃあっ!私も樹さん大好きっ!」
樹が浮かれた気持ちだけでオレの側にいる訳じゃ無い事を妹は知らない。オレが呪いの様に立てた誓いも、他の全てを怨んで壊すつもりでいる事も、口には出してねえが何となく不穏な形に気がついている。その上で知らないフリをして線を丁寧に踏み分けてオレが望むよう振る舞って受け入れている。何も知らない妹に柔らかく笑いかける樹に感謝する。本来オレなんかでは隣に立てないような女だ。だからもう、離してやれない。
「そろそろ寝るぞ。目一杯水飲んでこい」
「はあい。いただきます」
「私樹さんと寝たい!」
「ダメだ」
オレと妹のやり取りを見ながら幸せそうに笑って水を飲む樹に妹が見惚れている。惚れるのは勝手だが悪いが妹にだって樹はやらねえ。飲み終えたのを見計らって樹を抱き上げて部屋に向かう。
「あ、お兄ちゃんズルい!」
「ズルくねえ」
「樹さん、次は私とだからね!」
「ふふ、うん。一緒に寝ようね。おやすみ久美ちゃん」
「おやすみ樹さん、お兄ちゃん!」
部屋を閉め切って樹を布団の上に下ろす。樹を視界に入れる事なく電気を切って横になると樹が手探りでオレを見付けた。
「一緒にねるの?」
「……ああ」
「心臓とびでちゃう」
「何もしねえから寝ろ。明日も学校だろうが」
「……ちょっとも…?」
オレの胸にあった手が首筋を滑って頬を撫でる。これだ。ここぞと言う時樹はこれ見よがしにオレを誘惑する。コイツ、本当にオレが初めてか?付き合いが初めてなだけで処女じゃねえとか言うオチじゃねえだろうな。それ程いつも迷いなくツボを突いてくる。
「……ちょっとだけ」
蕩ける吐息混じりの声が顎先に落とされる。…少し確かめるか。こんだけ誘われてんだ。樹だって文句は言わねえだろ。上半身だけ体を起こして樹を布団に押し付ける。息を飲むだけで何も言わない樹の頬にキスをして首筋に移動すると悩ましい吐息に変わった。太ももを撫であげてシャツの裾を捲ると緊張に喘いだがじっとしている。首筋に歯を立てながら焦らす様に胸までシャツを引き上げた。
「っ……りょ、くん……」
物欲しそうに名前を呼ぶ樹を声には出さず咎める。暗闇ではっきりと見えない事に安堵せざるを得ない。恥ずかしそうに身じろぎするせいで柔らかそうな膨らみが揺れる。…やっぱりダメだ。オレが持たねえ。静かに息を吐き出してシャツを直すと樹が慌てて引き止めた。普通逆だろ
「や、やだ…やっ…やめないで…っ…お、おねが…っ」
震える手でオレの手を握って涙に濡れた声で搾り出す様に懇願される。あまりの必死さに目を見開く。何をそんなに焦って、…焦る?
不意に妹の声が脳裏に響いた。──もしお兄ちゃんが間違って、…オレが間違うワケがねえ。言いつけを忠実に守る樹がオレを疑うワケもねえ。頭では分かっていても心がそれを否定する。良くある事だが底抜けの前向きさを持つ樹には無縁のものだと思っていた。
前向きさが取り柄じゃねえ。そう見える様に取り繕うのが取り柄なんじゃねえか。明るいんじゃなく、そう見せるのが上手いだけなのか。何度も自分に大丈夫だと言い聞かせながら生きて来たのか
「…ありもしねえ事で泣くんじゃねえ」
「っ!」
「端からお前に逃げ道なんてねえんだよ。まだ変な期待を持ってんなら同情するが最後の慈悲だ。後悔する前に気付かせてやるぜ」
額を擦り寄せて重く引き摺るような視線を向け口の端を歪ませる。…逃げたら惨たらしく殺してやるからな。オレが低く唸ると息を詰めた樹が縋り付いてくるのを当たり前に受け止める。オレが樹にしてやれる事が余りに少な過ぎて男として情けねえ自覚はある。選択肢を潰して安心するならそれくらいいくらでもしてやる。この先何を取りこぼしてもこの二つの命だけは命懸けで手放さない。必死に声を押し殺して涙に喘ぐ樹を誰にも見つからない様に腕に隠す。お前の弱さを知るのはオレだけで良い。誰にもやらねえ。オレだけのモノだ。
一向に泣き止まない樹を引き剥がして額に口付ける。甲斐性なしのオレじゃ、その唇を塞いでやれない。一生を懸けた樹の覚悟を背負う度量が無え。情け無い。惚れた女の心に触れられもしないなんて。
樹の涙を追いかけて頬に唇を這わせるときゅう、と小さく鳴いた。本当に犬みてえだ。構わず吸い付いて舐め取ると距離を取ろうとした樹を抱き込んで引き止めた。逃げるなと言えば息を飲んで従ういじらしい忠犬に愛咬の褒美をやる。泣き声に吐息が混ざると頭ん中が茹だりそうになる。…樹からオレの匂いがする。
「ちょっとだけ、だったな」
首に吸い付いてハッとした。オレのTシャツじゃこんな所に痕を残せば見えちまう。なら、もう一度裾を持ち上げて引き上げる。体を起こして薄い腹に顔を寄せた。石鹸と皮膚の甘い匂いに気付けば舌を這わせていた。樹の声になってねえ悲鳴が聞こえる。ここならオレしか見ることがない。歯を当てて弾力を確かめてから強く吸い付いた。柔らかい。本当に食いちぎってしまいそうだ。
舌を這わせて吸い付くのを繰り返していると額に柔らかなものが触れた。視線を移すと細かな刺繍が見えて目を細める。そうか。もっとオレだけしか見れねえ場所があったな。シャツを首まで捲ると柔らかな膨らみが揺れる。顔を赤くして涙を流しながら懸命に口を塞いでいる樹と相まって殺人的な色気だが、今のオレには目的がある。すっかりその気になっている自身を無視して口を開ける。腹とは随分感触が違う。樹の甘い匂いに涎が出ちまう。吸い付くとぢゅ、と大きな音が鳴って、柔い分口に含みやすい。布に隠れている所に舌を差し込んで、やめた。これ以上甘い声が増えたら所構わず犯してしまう。代わりに布ごと噛み付くと思っていたよりも甘い声が漏れて我慢した意味が曖昧になる。自棄になって数回続けると樹の膝がオレの脇腹を撫でた。誘うんじゃねえ、馬鹿野郎
「はっ…はう…ひ、…」
先程とは別の意味で震えているであろう樹を見下ろすと暗闇でも分かるほど肌に斑らに色が付いていて取り敢えず満足する。シャツを直すと未だに動けずにいる樹にタオルケットをかけて横になって抱き込んだ。今樹に何かされたら確実に手を出しちまう。
「先は長えんだから今日はこれで満足しろ」
ぐす、と鼻を鳴らして頷いた頭を引き寄せる。頬擦りされてか細い声が「だいすき」と呟くとそれ以上喋る事も無闇に動くともなくなった。オレに命を預けて喜びに咽ぶ樹の体温が心地いい。小さく嗚咽を繰り返す体から力が抜けていくのを意識の端で感じ取りながら迫る闇を受け入れた。
家の階段の下で女の人が手を振ってる。玄関の前にはお兄ちゃんがいて、その人を見てた。友達と遊んだままの楽しい気持ちを引きずっていたからその姿を見て更に興奮してしまう。あのお姉さん、お兄ちゃんの彼女だ!軽い足取りで去っていく背中を見送っているお兄ちゃんはまだ私に気が付いてない。家の前まで来るとようやく「帰ったのか」と声をかけられる。
き、気になる。凄く気になる。お兄ちゃんとお姉さんの後ろ姿を見比べて、見比べて…走った。後ろで「おい!」って引き留める声が聞こえるけど無視するもんね。お兄ちゃん、全然紹介してくれないんだから!
「あのっ!すみません!」
そんなに距離が離れてなかったおかげで直ぐに追い付けた。振り返ったお姉さんは凄く綺麗で思わず息を呑む。立ち止まってにこりと笑うと「こんにちは」とかけてくれた声まで綺麗でつい聞き惚れてしまう。ほ、本当にお兄ちゃんの彼女なの…!?
「あ、あのっ私、間柴久美と言います。えっと、お兄ちゃんの…彼女さん、ですよね…?」
「お、お兄さんが、そう言ってました?」
「え?はい。…ち、違うんですか!?」
やっぱりこんな人が彼女な訳…!と思ったら赤い顔を手で隠して「…ちがわないです」と小さな声で言った。ええっ、もしかして照れてるのっ!?お兄ちゃんが高校に行ってた時からみたいだし、結構長く付き合ってるはずなのに。照れ屋なのかな。
「あの、急にごめんなさい。ウチから出てくる所見てつい追いかけちゃって…お兄ちゃん、紹介するって言って中々会わせてくれないから」
ご迷惑、でしたよね…俯きながらちらっと顔色を窺うと胸で手をぎゅっと握って首を振ってくれた。まだ顔が赤い。凄く大人っぽいのになんだかかわいいな、この人。
「成瀬樹と言います。…少し、お話ししますか」
公園へ移動してベンチへ並んで座る。お花みたいな良い匂いがする。雰囲気が凄く大人の女の人って感じがして緊張しちゃう。
「……どうして、私に会いたいって思ってくれたんですか?」
「あ、もっと気軽に話してくださいっ。私、年下だしっ」
「ふふ、ありがとう。じゃあ久美ちゃんも」
うわあ。なんだか絵本の中から出てきた人みたい。あの写真を見てないとお兄ちゃんの隣にいる所想像できないな。この優しい笑顔にお兄ちゃんもコロッとやられちゃったのかな
「……聞いていいですか?」
「な、なんでしょう」
「どうしてお兄ちゃんを好きになったのかなって…気になって。お兄ちゃん、あんなだから…彼女とか想像できなくて」
樹さんは少し困った顔をして形の良い唇を開いた。今思えば一目惚れだったのかな、って。お兄ちゃんに!?全然笑わないから笑った顔が見たくて周りをうろちょろしてたらもうどうしようもないくらい全部が好きになっちゃってた。そう言って顔を赤くする樹さんは本当に可愛くて、お兄ちゃんに恋をしているのは一目瞭然だった。私まで赤くなっちゃいそうっ。
「良かった…お兄ちゃんに、貴方みたいな人がいて」
「ふふ、私叱られちゃうのかと思った」
「ええ!?叱るならお兄ちゃんの方ですよ。樹さんを家まで送らないなんて。帰ったら説教しなきゃ」
「あはは。私が断ったの。送って貰ったら久美ちゃんにお兄ちゃんを返せなくなっちゃうから」
「えっ!」
なんちゃって、と笑う樹さんは凄くかわいい。これが大人の余裕なの!?何だか急にお兄ちゃんが遠い存在みたいに思えてきて顔が赤くなる。大人の恋愛って積極的…!新鮮だわ…!
「久美ちゃんは好きな人いるの?」
「え?ふふ、いーえっ いつもお兄ちゃんに邪魔されちゃって」
「ええっ!了くん、パパみたいな事してるんだ。ふふふ。久美ちゃんが心配なんだね」
お兄ちゃんの事了くんって呼んでるんだ。そう呼ばれて返事する所想像できない…。私を家まで送ってくれた男の子を視線で追い返しちゃった話をするとそれは重症だね。と神妙に頷いた。
「久美ちゃんが少しでも傷付くかもしれないと思ったら居ても立っても居られないのかな」
「え?」
「了くんを怖がるような人に久美ちゃんは任せられないと思ってるのかもね」
「なる、ほど…」
了くん心配症だもんなあ。独り言の様に呟かれた言葉にぎょっとする。過干渉とまでは言わないけど、お兄ちゃんは私が友達と遊びに行く時でさえ何処で誰と何時に、を聞く様になった。高校生になってもそれは変わらない。だけどそれは家族が二人きりになってからだ。それ以前にお兄ちゃんが心配症だなんて思った事もなかった。なのにまるで以前からそうだった、みたいな響きで樹さんは言った。私の知らないお兄ちゃんを知ってるんだ…そしてお兄ちゃんは樹さんにそういう自分を見せてる、てこと?
「久美ちゃんの理想、高くなっちゃうね」
「え?」
「了くんに睨まれて逃げない人、そういないよ」
くすくす笑う樹さんに、それもそうよね。と少し落ち込む。高校生になったら恋人とかにも憧れていたけどいつも頑張ってくれてるお兄ちゃんに心配をかけると思ったらそれ程魅力的でもないかも。
「でも大丈夫。久美ちゃん素敵な女の子だから、了くんに立ち向かってくれる彼、絶対見つかるよ」
「オレに立ち向かう男がなんだって?」
「ひゃ!」
「お兄ちゃんっ」
急に背後から声をかけられて樹さんとベンチから飛び上がる。こういう話の時に限って気配がないんだからっ。驚いて胸を抑えてる樹さんの頬を手の甲でぐりぐりして文句を言ってる。うわあっお兄ちゃんが女の人とイチャイチャしてる…!
「お前もだ久美。後先考えずに樹を捕まえやがって」
「だってお兄ちゃん全然樹さん紹介してくれないじゃないっ!こんな綺麗な人独り占めしてズルいっ」
「ズルくねえ」
「ズルいっ!」
言い合う私達の間で「人生最大のモテ期かも」とふわふわ笑ってる樹さんに毒気を抜かれる。お兄ちゃんの毒もこうやって無効化してきたんだろうか。穏やかな笑顔に胸の奥をくすぐられてそわそわしてしまう。ま、守らなきゃ…この笑顔…!
「か、かわいっ」
「わっ、ふふ。久美ちゃんもかわいいっ」
衝動のまま思わず抱き付くとお花の匂いが強く香る。いい匂いだな樹さん。耳障りのいい声の語尾が甘くなって抱き寄せられると凄くドキドキする。甘やかしてくれてるのが嬉しいっ。お兄ちゃんの妹だからかな。
「了くん、どうしよう凄くかわいいっ。久美ちゃんウチに持って帰っちゃうのはありかな?」
「なしだ。オラ離れろ」
お兄ちゃんに引き剥がされてムクれる。お兄ちゃん、こんな風に笑う人が近くにいて抱き締めたくなったりしないんだろうか。同性の私ですらきゅんとしてしまうのに。こんな人に愛を囁かれたら閉じ込めちゃうけどな。
「もう帰るんだろうが。邪魔するんじゃねえよ」
「お兄ちゃん、樹さんを送って行かないの?」
「……行かねえ」
「ふふん。二人ともまとめて持って帰っちゃおうかな」
企み顔で笑う樹さんのかわいさに衝撃を受ける。胸がドキドキとうるさい。お兄ちゃんに詰め寄って衝動を逃さなきゃどうにかなってしまいそうっ
(お兄ちゃんっ!なんでそんな涼しげな顔してるの!?なんで平然としていられるの!?)
(……まだ大した事ねえよ)
(これで!?お兄ちゃん、いつもこれに耐えてるの!?)
こそこそ話す私達を見て首を傾げたけど直ぐにふにょ、と蕩けた笑みになって「仲良しなんだね」と幸せそうに呟かれた言葉にハッと息を飲む。
(お兄ちゃん、樹さんウチに持って帰ろう。私一生大事にするから)
(バカ言ってんじゃねえ。オレの女だ)
(それなら私のお姉ちゃんだもんっ)
樹さんの雰囲気にこっちまで蕩けそうになりながらお姉ちゃんに憧れてたから樹さんとも仲良しになりたいと伝えると顔を赤らめて嬉しいと答えてくれた。
「どっちがうちの子になるか相談してるのかと思った」
「え!?わたし!」
「了くんに怒られちゃうから、今度ナイショでウチ来てねっ」
「聞こえてんだよ。今度も今もナシだ。一人で帰るなら明るいうちに帰れよ」
「はい、パパ」
「あ゙!?」
冗談を言ってお兄ちゃんに凄まれても楽しそうにくすくす笑ってる。本当に恋人同士なんだ…。なんだか凄く胸がむずむずしちゃう。
「今度は私にも会いに来てくださいね」
「いいの?じゃあ声かけちゃおうかな」
「やったあっ」
嬉しくなって細くて滑らかな腕に巻き付いて途中まで送らせて貰う。あ、でもお兄ちゃんと二人きりにしてあげた方が良かったかな。一応お兄ちゃんの様子を伺う為に振り返ると表情を見るに別に良いみたいだ。お兄ちゃんの彼女が優しい人で良かった。でもお兄ちゃんがあんなだから優しすぎてストレス溜め込まなきゃ良いけど…。
「ありがとう、ここでいいよ」
「急に引き止めたのにお話ししてくれてありがとうございました」
「ふふ、これからもいつでも引き止めてくださいっ」
柔らかい口調に際限なく甘えてしまいそうになる。誰にでもこうなの!?この人一人で帰して大丈夫!?またお兄ちゃんを見て確認するけど無反応だ。不安で手が離せないでいると樹さんが顔を覗き込んできて優しい表情で囁いた。
「やっぱり一緒に帰っちゃう…?」
「久美を口説くんじゃねえ。行くぞ」
「わ、またね、久美ちゃんっ」
お兄ちゃんが割って入って樹さんの背中を押して歩かせている。それに気がつくまで五秒くらいかかった。び、びっくりした…口説かれてたの?頬が熱くて思わず手で抑える。なんか雰囲気とか態度とかで好きって言われてるみたいだった…!お兄ちゃんの体で半分も見えない樹さんの後ろ姿を見つめていると完全にその姿がお兄ちゃんに隠れてしまった。足を止めたお兄ちゃんが少し屈んでからこちらを振り向くともう樹さんはいなかった。あの角を曲がるのね
「お兄ちゃん、樹さん一人で大丈夫なの?」
「じゃなきゃ一人で帰さねえよ。帰るぞ」
「うん…」
戻ってきたお兄ちゃんを不安気に見つめると特に気にした様子もなく家に帰るつもりでいるみたい。本当に大丈夫なのかな
「アイツ、お前に土産を置いてったぞ」
「私に!?なぁに?」
「気になるならとっとと歩け」
「もうっ」
家に着くと机の上に見慣れないメモ帳が置いてあった。表紙には見た事のある字が並んでいる。逸る胸を押さえつけて手に取るとやっぱり、小さい頃にお母さんが楽しそうに書いているところをよく見ていたあのメモだ。これが、樹さんのお土産…?適当に開いたページには、樹ちゃんへ。と続いてお料理のコツとお兄ちゃんの事が書いてある。いつの間にか濡れていた頬を拭うとつい笑いがこぼれた。
「ふふ。お母さんも樹さんの事、大好きだったんだね」
何も言わないお兄ちゃんの背中に向けて小学生に戻った気分で音読をする。やっぱりお兄ちゃんは何も言わなかった。いつもより無口なお兄ちゃんを笑って始めのページから懐かしい文字を追う。ありがとう、私のお姉ちゃんになるひと
───────
車の運転にも慣れ始めて仕事も要領を掴んだ。ジムにも安定した時間に行ける様になって日々の生活に少し余裕が出てきた。妹も樹を気に入っている様だし、樹も電話で鬱陶しい程妹を可愛がっていた。大丈夫だ、上手く行っている。…少なくとも今は。仕事を終え自宅からジムに向かっていると道の端で女子校生の集団がしゃがみ込んだ女を囲んでいた。普通なら一瞥もせず無視をするが、樹の学校の制服だったのでつい視線が盗られる。
しゃがみ込んだ女はオレのよく知る女だった。樹が女が怖いと言っていた話を思い出して眉間に皺が寄る。なんだ?リンチか?良い度胸じゃねえか。迷う事なくジムに向けていた足を樹の方に進めると女どもが「大丈夫?」「私水買ってくるね」だの騒いでいてリンチじゃなく樹の体調不良だと気付き足を速めた。
「おい、何があった?」
「え?ひぃ!」
「な、なんっですか」
「…樹の彼、ですよね」
声をかけるとビビり散らかして話にならねえ女を遮って気の強そうな女がオレに話しかけた。コイツが樹の話によく出る女か。試しに名前を出すと驚いた顔をして頷いた。
「樹、今日貧血で体調悪くてこの暑さにやられちゃったみたいで…ウチらじゃ休める所にも連れて行けないから困ってたんです」
「分かった。…世話になったな」
鞄の中からタオルを出して樹の頭に被せてやる。指の背で額を撫でてそのまま頬と首の熱さを確認して取り敢えず安心する。抱き上げると今気付いたみたいにオレの名前を呼んで首に巻きついてきた。
「あ、冷たい水、樹の鞄に入れておきました」
そう言って差し出された鞄を受け取って背を向ける。背後で何だかんだときゃあきゃあ騒ぐ声を聞きながら来た道を速足で引き返していく。今日は妹のバイトは休みだったので丁度良い。大した事無かったら妹に任せられる。
「樹、オレの家に行くぞ。文句ねえな」
「おあ…十九歳のりょうくんはじめましてだあ」
……大した事あるかも知れねえ。他にもモゴモゴと喋っていたが暫くすると目を閉じて大人しくしていた。家に着いて妹を呼んだが返事がない。買い物にでも行ってんのか…?玄関にしゃがんで樹の靴を脱がしていると頬に柔い感覚が擦り寄った。
「ん、りょーくんな気配がする」
「オレだ。気分はどうだ、動けるうちに水飲んどけよ」
「おれかあ…え?りょうくん家?……だっこで階段登ったの?」
全然会話にならなねえ事が分かったので無視して自分の部屋の布団の上に座らせる。樹の鞄の中のペットボトルの蓋を開けてやって渡すとお礼を言ってのろのろと飲み始めた。制服じゃ寝られねえか。適当な服を取り出して樹の近くに放り投げて着替えるように言う。返事はない。半分寝てんのか?
「めいわくかけてごめんね」
「…あのままどうにかなってた方が迷惑だぜ。いいから休んでろ」
取り敢えずコイツの家に連絡するか。電話を取ってとっくに手慣れた番号を押す。呼び出し音が止まってもしもし、と言っただけで樹に似た声が「まあ、樹のダーリンね?ごめんなさいね、樹はまだ帰ってないのよ」とおっとり喋った。度々言われるダーリンに引っかかりつつも無視して樹の状況を話すと「あらあら」と特に慌てた様子もない。
「起きて話が出来てるなら大丈夫そうね。悪いけど少し休ませて貰えるかしら。ふふ、迷惑でなければそのままお泊まりでもいいけどねっ!樹に変わって貰ってもいい?」
「……はい」
樹の会話のテンポの軽さは親譲りか。自分の部屋を覗くとオレの服を着た樹が水を飲んでいて途端に沸いてきた感情を力を入れて押し殺す。電話を差し出すとこちらに手を伸ばした時に半袖の隙間から肌が見えてまた変な所に力が入る。
「はあいママ……うん、大丈夫…うーん。いらないよ…え!…了くんに変な事言ってないよね!?…ほんと!?もー、わかった…昇くんには内緒ね、…はあい」
また返ってきた電話に耳を当てると幾つか注意されてそれを妹に伝える為にメモを取る。今晩は飯は食わないだろうから水分をしっかり取らせるように、と言われてだからあんなに軽いんじゃねえかと眉間に皺が寄った。樹が起きれるか分からないから一応泊まると思っておく、と言われてこちらの住所を伝えた。これからオレは留守にするが妹が樹を看る事も言っておく。
「ふふ、樹に色々聞いてるわ。樹を大切にしてくれてありがとう。これからもよろしくね」
色々ってなんだよ、と思いつつお礼に歯噛みをしてなんとか返事を返す。やっと電話を切れた安堵にため息を吐き出して樹の様子を見ると脱いだ制服を畳もうとしていた。
「ハンガーにかけるから置いておけ。ンなことする暇があるなら横になってろよ」
「んん、うーん、うん…うん…」
居心地が悪そうな樹の曖昧な返事につい加虐心が湧く。樹が持つカッターシャツを放り投げて一応頭を支えながら布団に押し倒す。途端に赤くなる顔にやはりと思いながら額に唇を寄せた。
「ここ、りょーくんのお部屋、ですか」
「ああ。それがどうした」
唸り声をあげて恥ずかしそうにする樹を鼻で笑う。
「悪いが期待には応えてやれねえな。妹が帰ったらオレはジムに行く」
「んんう、うん…」
言葉少なに身を小さくする樹が目に毒だ。体調不良の所為かいつもより力が抜けて隙が更に大きい。しかもオレの部屋のオレの布団でオレの服を着て寝ている。普通ならとっくに食われても文句は言えない状況だ。そんな女がオレになら何されても良いって顔で誘ってくる。惚れてなきゃグチャグチャにしてる所だ。いつもオレの熱に気付いてもねえ癖に言葉や唇で煽ってくる樹が身を硬くしているのは気分がいい。
「んっ…んぅ…」
「オレが帰ってくるまで大人しく寝てろ。いいな」
「はい…いってらっしゃい」
柔い肌に唇を滑らせて命令すると抜け目なく樹も唇を寄せて来てそれを受けてやる。離れてタオルケットを掛けると小さく丸まって熱のこもった目でオレを見ていて思わず笑いが漏れる。気づかないふりをして樹の制服をハンガーにかけていると今度は眠気と戦っていた。なんで寝ないのか不思議に思っているとオレを視界に入れて置きたくて寝られねえ可能性に気がついて部屋から出る。クソ、むず痒い
「あれ?お兄ちゃん帰ったの?ジムは?」
「…途中で樹を拾ったから、これから行く」
買い物袋を持った妹が帰って来たので事情を説明する。騒ぎ出しそうになったのを樹が寝ているからと止めて書き留めたメモを渡した。樹の家の番号も教えて何かあったらジムにも連絡を入れる様伝えておく。
妹が壁にかけた樹の制服を見て樹が体調不良だと言うことより高校生だったと言う事の方に驚いていた。オレと同い年か少し上だと思ってたと言われ首を傾げる。十分に子供っぽいところはあるが、その見た目は…まあ高校生っぽくはねえか
「分かった。任せて!安心して行ってらっしゃい」
「頼んだ」
やけに嬉しそうな妹が気になりつつも気を取り直して家を出る。樹の親もそう慌ててなかったし大事ないのだろうとは思いつつ多少は気になる。随分と華奢だし妹より少しばかり背も低い。オレを見つけると跳ね回って駆け寄るくらい元気がいいが体はそう強く無いのかもしれねえ。最近多くなった水谷さんの咳を思い出してなんでこうもオレの周りのやつは弱いんだと独言る。妹がそうじゃ無いのが救いだ。
ジムで無心で身体を動かして練習を終える。今日は調子がいいだなんて声をかけられたが無視した。良かねえよいつも通りだうぜえな。シャワーを浴びてとっとと帰ると出迎えたのは妹だけだった。
「おかえりなさい、お兄ちゃん」
「ああ。樹はまだ寝てんのか」
「何度か様子は見たけど寝てる。分かるなあ、私も眠くなっちゃう時あるもん」
そう言うもんかと思いつつ暑さにもやられてんだから一度起こして水を飲ませてやらなきゃならねえか。自分の部屋に荷物を置いて樹の様子を伺うとやはり小さくなって眠っている。樹の飲みかけの水を冷蔵庫から取り出して手渡してくる妹に感謝して部屋から出ていく様に言いつける。樹のアレは妹に見せられねえ
「ええっ、私も寝起きの樹さん見たい。絶対かわいいもん。独り占めズルい」
「ズルくねえ。樹は覚醒に時間がかかるんだよ。寝惚けて何するか分からねえからあっち行ってろ」
オレの言葉に顔を赤くして黙った妹を部屋の外に追い出して戸を閉める。少し息を大きく吸って自分を律する。病人に手を出すほどオレはロクデナシじゃねえ。
「樹、起きろ」
丸まって寝てる樹の肩を押して仰向けにすると柔らかそうな膨らみが大袈裟に揺れた。…オレはロクデナシじゃねえ。首の後ろに手を差し込んで顔を近づける。甘い匂いに誘われるままに首筋に顔を埋めると樹が小さく鳴いた。
「樹」
「ん…」
滅茶苦茶にしてやりたい。幻滅されるくらい酷く傷付けたい。そうしたオレを許して欲しいと思いながら、ぬるま湯みたいな触れ合いを棄てられないでいる。何されてもいいだなんて言ってはいるが所詮は樹の想像の範疇の中の話だ。オレがコイツにしたい事はきっと想像にも及ばないだろう。壊したいのに壊れて欲しく無い。矛盾が痛くて結局何も出来やしない。
「樹…」
「ん…んぅ……」
オレに囚われている証の金の首輪を唇で撫でる。オレの女だ。オレだけの…。下半身に血が集まるのを感じながら薄い肌に歯を立てる。取り返しが付かない傷を付けたい衝動を逃しながら甘噛みをする。悩ましい声が増えて妹に聞かせられねえと思いつつやめられない。
「ん、んぁ…ふ、ん…ん……?んふ、…ねこちゃんだあ…かあい…ん、いいこ…」
目を覚ましたのかフニャフニャ喋りながらオレの頭を撫で始めた。起きたか聞くとクスクス笑っている。…起きてねえ。これ以上腰が重くなる前にゆっくりと身体を起こさせて早いところ目を覚まさせる。「起きろ」もう少し。首筋に噛み付いて跡が付かない程度の力で吸い付く。甘い吐息が耳に当たって心地いい。首に抱き付く力が強くなって、緩慢に樹がオレを見た。キスするつもりだ、と思った時には唇がくっ付いている。オレの口を狙う樹を捌くのは重労働だ。なんであんな約束しちまったんだクソ。
……オレだってこんなに焦がれるとは思っていなかった。今のオレじゃ樹に相応しくない。そんな事は分かっている。だがたかだかキスくらい、
「んー、だめかあ」
ダメじゃねえよ。ダメじゃねえから腹が立つんだろ。
「起きろ樹」
「おきてる…ちゅーしよ」
「、体調は」
「んー、…くらくら…ちゅーでなおるよ」
「治らねえだろ馬鹿」
んふふ、と笑って好きに唇をくっ付けてくる。この前したいと言っていたのに熱を冷ますのに必死で応えてやれなかったことを思い出して取り敢えず好きにさせてやるがそうは持たない。最悪頭を抱き込めば大人しくなるからまだ余力は残っている。…オレはロクデナシじゃない。
「飯は」
「ん、うー…はく…りょーくんならたべられるかも」
「ダメだ」
「さきっちょだけ」
「ダメだ」
「ちょっとだよ」
「ダメだ」
「だめかあ」
唇を当てるのをやめて首に擦り寄って来たので安心する。少し出来た余裕で頬に口を当ててやると樹から嬉しそうな笑いが溢れて「ちょっとなおった」だなんて宣ったお陰で眉間に皺が寄った。クソ女が惚けやがってチクショウ
「飯食わねえなら水を飲ますよう言われてんだよ。起きて水飲め」
「くちうつ「ダメだ」…だめかあ」
いけそうなきがしたのになあ。なんてゆるゆる喋る樹を無視して傍に置いておいたペットボトルを無心で渡すとオレに身体を預けたまま下手くそに飲み始めた。見ていてハラハラする
「ん、りょーくんかえってきたね」
「ああ」
「おかえりい、おつかれさま」
「ああ、起きたか?」
「ずっとおきてる!」
やっと覚醒した樹に心の中で捨て台詞を吐く。この女いつか絶対くちゃくちゃにしてやる。また呑気にオレを見上げていると思ったら両手でオレの頬を触り始めた。
「りょうくんはどうしていつもこんなにかっこいいの…?」
「マニアックで良かったな」
「むじかく…知らぬは本人ばかりなり…そんなりょーくんもすーきっ」
訳のわからねえ事を言いながらオレの口の周りばかり狙ってキスをしてくる樹に段々と腹が立ってくる。態とと言うか敢えてと言う事は分かっている。外でオレが暴走しかけた時は止めに来たが寝起きでいつもオレの口を狙ってくる辺り次にオレが暴走すれば恐らくもうコイツは止めたりはしない。そのまま嬉々として受け入れるだろう。
……だからこれはオレを煽ってるとしか思えねえ。細い指がオレの口を塞いで追いかけるように樹が近づいてくる。小さな鼻がオレのにぶつかって本当ならとっくに触れ合ってる距離で長いまつ毛を伏せた樹が一センチの隙間に唇を這わせている。ちゅ、ちゅ、と鳴らされる音に焦燥が募る。遂に手が外されて口の端に食い付かれた。
「ん、も、ちゅーしたふぎゅっ、りょうくん力つよ」
「…妹が話したがってる」
「くみちゃん!お話しするっ、んわ、ふふ、きゃあっ」
切実な声を邪魔をするように強く抱き寄せたら樹から潰れた音がした。クソ、妹の話をすると嬉しそうにしやがってムカつくぜ。離れようとする前に捕まえて柔い頬に噛み付いてやる。キャンキャン鳴いて喜んでいるが喜ばれる為にやってねえのにこれもムカつく。嫌がれってんだ。嫌がってもやめねえがな。幾らか胸がすいた所で漸く退いてやる。
「立てるか?」
「うん。だいじょぶ」
いつもよりもとろくさいが本当に大丈夫か?手を貸すと思っていたよりもスムーズに立った。そのまま戸を開けると顔を赤くしたままの妹が座ってる。…聞き耳立ててやがったな。
「久美ちゃん、おはよー。ごめんね、すごく寝てたね」
「い、いいえ。体調はどうですか?良くなりました?」
「うん、歩けるようになったよ。ありがとう…ん?」
妹の近くに座り込んで身体を寄せると額に手を当てて首を傾げる。「久美ちゃん、顔赤いよ。だいじょぶ…?」…樹のせいでもあり自業自得でもあるのでオレは無視をする。
「あ、や、おっお風呂上がりだからっ!樹さんも、体調が良かったらどうぞ!お兄ちゃんジムで済ませてるから入らないし!上がる時湯船のお湯抜いてくれたらいいからっ!」
「ほんと?お気遣いうれしい。……泊まっていいの?」
「ああ」
「もちろん!そのつもりで居たんだから帰ったら寂しいよォ」
「えへへ、ありがとう。お言葉にあまえてお風呂もらいます」
緩い笑顔に骨抜きになっている妹を見つめる。自分の女と妹の仲が悪くないのは喜ばしい事だがこれは少し違う気がしている。なんと言うか…まさか惚れてねえだろうな…。案内するね!と樹の手を引いて風呂場に向かう後ろ姿を見送って一人で戻って来た妹をジトっと睨み付ける。
「な、なによ」
「…お前……」
まあ良いか。変な男に引っかかるより樹に惚れてる方が余程良い。樹も随分と妹を甘やかしているし二人がそれで良いなら気にすることでもないか
「なんなのよぉっ!」
「なんでもねえ」
顔を赤くして騒ぐ妹を無視して部屋着に着替えに自室に向かう。今まで樹が寝ていた自分の布団を見る。これからここで一緒に寝るのか…何もしないでいられるか考えて振り切るように服を脱ぎ捨てる。
アイツがどう誘惑しようとも、オレが強く言えばきちんと言う事を聞くんだからそう心配することもねえか。オレが無心でいれば問題ない。着替え終えて暇つぶしの雑誌を手に取る。居間の定位置に座ってイマイチ落ち着きのない妹を視界に入れつつ雑誌をめくる。
「…ねえ、お兄ちゃんはどうやって樹さんに告白したの?」
「あ?……してねえよ」
「え!?樹さんに告白されたの!?そ、れ…もそう、よね…一目惚れって言ってたし」
「……なんの話だ」
一目惚れして笑顔が見たくて周りをうろちょろしてたらどうしようもなく好きになってたと言っていたと恥ずかしそうに言われて顔に力が入る。そういやあ笑わせてみせる、みたいな事言ってたな。一目惚れ…結果で言やあ見事にナンパされた訳だからそう言うことになんのか。なんか腑に落ちねえ。
「じゃあ、なんて告白されたの!?」
「んな事聞いてどうすんだよ」
「いいじゃないっ!教えてよォ」
「……付き合いたい、彼氏になって欲しい」
だったか。まだオレが樹を勘繰っていた頃に絞り出させた言葉だから妹が思っているようなものではないだろう事は想像がついた。現にあの樹さんが?と首を傾げている。樹の告白というなら公園での言葉になるんだろうがそれを教えてやる気はさらさら無い。「まあでも樹さんにそう言われたら断る人なんて居ないわよね」と鵜呑みにしているんだ。本当の事を教える意味もねえ。
「お兄ちゃんはなんて答えたの!?」
「……見ての通りだろ」
「えー気になるっ!お兄ちゃん、好きとか絶対言わないでしょ。ダメよ、ちゃんと言葉にしないと!」
「うるせえな」
急に話が小言くさくなって会話が面倒になった所で風呂場でドンッとぶつかる音がして慌てて向かう。湯船は流石にやめさせておくべきだったか。
「樹さん大丈夫!?すごい音がしたけどっ」
「だ、だいじょぶー、騒がせてごめんね、壁に頭ぶつけちゃったあ」
「…あと五分で出なきゃ戸を開けるぞ」
「え!?……五分まてば一緒にお風呂はいれる…てこと?」
「きゃあ樹さん大胆…!」
「とっとと出やがれっ!」
「きゃっ、がんばる!」
音の割に呑気な声が響いて安心する。いつも通りのふざけた返しに腹が立って風呂場の戸を軽く殴ると思ったより大きく音がなって妹が怒った。うるせえな。今のはオレは悪くねえだろ。取り敢えず居間に戻ると無意識にため息が出る。樹と一緒に住んだら毎日こんなに騒がしいのか?毎日、あの抜けた笑顔を…やめだ。ありもしねえこと考えて何になる。クソ、調子狂うぜ。
五分じゃきかなかったが樹なりに急いだんだろう。お礼を言いながら風呂から出て来た樹を妹が嬉しそうにドライヤーを持って座らせている。
「いいの?助かっちゃうなあ」
「うふふ。樹さんの髪の毛触りたかったの」
「ええ?好きに触ってよかったのに」
「本当?やったあ」
何だそのうざってえハートの応酬は。ひくつきながらぶつけた頭は平気かと問えばそんなに痛く無いと帰ってくる。ちょっとは痛えんじゃねえか。次は風呂も気にしてやんねえとならねえのか。妹は楽しそうに樹の髪を乾かして樹は妹の様子に随分機嫌がいい。側から見てると姉妹のように見えなくも無い。
「あれ、樹さんネックレスしたままお風呂入ったの?」
「ん?うん。そだよ」
「錆びない?」
「だいじょぶです」
手を止めた妹が何かに気がついたみたいに顔を上げてオレを振り返る。樹とオレをしばらく見比べて続く沈黙に樹が妹の様子を見ようとする前にまた手を動かし始めた。気付きやがったか。後でうるせえな。
「はい、終わり」
「ありがと久美ちゃん」
「ね、そのネックレス。お兄ちゃんとお揃いなの?」
「あはは。うん、そうなの」
「やっぱり!」
樹の髪を櫛で梳かしながら素敵だ何だ騒いでいる。オレが同じ空間にいること忘れてんじゃねえだろうな。樹も気にせず聞かれた事に正直に答える。告白した時に渡したとかじゃあすごく特別だとか。オレを好きでいて良い目印だ、とか。
「……じゃあもしお兄ちゃんが間違って無くしちゃったらどうする?」
樹の雰囲気が一瞬変わった。大きな目を一度ゆっくり閉じてから開くと感情が読めない声で「内緒で好きでいる」と呟いた。狼狽えた妹が後ろから抱き付いて変な事言ってごめんなさいと謝って樹はくすくす笑いながら謝らなくて良いと妹の腕を撫でている。
オレを見つける為の首輪だ。これがなくなったら、樹は立ち止まったまま焦がれる事を選ぶのか。樹らしいと言えばそうだ。オレなら樹が迷子にならねえように縛り上げるが、ありもしねえ事を考えるのも馬鹿馬鹿しい。眉を下げた妹の視線に気付かないフリをして欠伸を噛み殺しながら雑誌に目を通す。
「樹さん、すごくお兄ちゃんの事が好きなのね」
「え?うん、だいすき」
「そ、そんな当たり前みたいに」
「ふふ、久美ちゃんもだあいすき」
「きゃあっ!私も樹さん大好きっ!」
樹が浮かれた気持ちだけでオレの側にいる訳じゃ無い事を妹は知らない。オレが呪いの様に立てた誓いも、他の全てを怨んで壊すつもりでいる事も、口には出してねえが何となく不穏な形に気がついている。その上で知らないフリをして線を丁寧に踏み分けてオレが望むよう振る舞って受け入れている。何も知らない妹に柔らかく笑いかける樹に感謝する。本来オレなんかでは隣に立てないような女だ。だからもう、離してやれない。
「そろそろ寝るぞ。目一杯水飲んでこい」
「はあい。いただきます」
「私樹さんと寝たい!」
「ダメだ」
オレと妹のやり取りを見ながら幸せそうに笑って水を飲む樹に妹が見惚れている。惚れるのは勝手だが悪いが妹にだって樹はやらねえ。飲み終えたのを見計らって樹を抱き上げて部屋に向かう。
「あ、お兄ちゃんズルい!」
「ズルくねえ」
「樹さん、次は私とだからね!」
「ふふ、うん。一緒に寝ようね。おやすみ久美ちゃん」
「おやすみ樹さん、お兄ちゃん!」
部屋を閉め切って樹を布団の上に下ろす。樹を視界に入れる事なく電気を切って横になると樹が手探りでオレを見付けた。
「一緒にねるの?」
「……ああ」
「心臓とびでちゃう」
「何もしねえから寝ろ。明日も学校だろうが」
「……ちょっとも…?」
オレの胸にあった手が首筋を滑って頬を撫でる。これだ。ここぞと言う時樹はこれ見よがしにオレを誘惑する。コイツ、本当にオレが初めてか?付き合いが初めてなだけで処女じゃねえとか言うオチじゃねえだろうな。それ程いつも迷いなくツボを突いてくる。
「……ちょっとだけ」
蕩ける吐息混じりの声が顎先に落とされる。…少し確かめるか。こんだけ誘われてんだ。樹だって文句は言わねえだろ。上半身だけ体を起こして樹を布団に押し付ける。息を飲むだけで何も言わない樹の頬にキスをして首筋に移動すると悩ましい吐息に変わった。太ももを撫であげてシャツの裾を捲ると緊張に喘いだがじっとしている。首筋に歯を立てながら焦らす様に胸までシャツを引き上げた。
「っ……りょ、くん……」
物欲しそうに名前を呼ぶ樹を声には出さず咎める。暗闇ではっきりと見えない事に安堵せざるを得ない。恥ずかしそうに身じろぎするせいで柔らかそうな膨らみが揺れる。…やっぱりダメだ。オレが持たねえ。静かに息を吐き出してシャツを直すと樹が慌てて引き止めた。普通逆だろ
「や、やだ…やっ…やめないで…っ…お、おねが…っ」
震える手でオレの手を握って涙に濡れた声で搾り出す様に懇願される。あまりの必死さに目を見開く。何をそんなに焦って、…焦る?
不意に妹の声が脳裏に響いた。──もしお兄ちゃんが間違って、…オレが間違うワケがねえ。言いつけを忠実に守る樹がオレを疑うワケもねえ。頭では分かっていても心がそれを否定する。良くある事だが底抜けの前向きさを持つ樹には無縁のものだと思っていた。
前向きさが取り柄じゃねえ。そう見える様に取り繕うのが取り柄なんじゃねえか。明るいんじゃなく、そう見せるのが上手いだけなのか。何度も自分に大丈夫だと言い聞かせながら生きて来たのか
「…ありもしねえ事で泣くんじゃねえ」
「っ!」
「端からお前に逃げ道なんてねえんだよ。まだ変な期待を持ってんなら同情するが最後の慈悲だ。後悔する前に気付かせてやるぜ」
額を擦り寄せて重く引き摺るような視線を向け口の端を歪ませる。…逃げたら惨たらしく殺してやるからな。オレが低く唸ると息を詰めた樹が縋り付いてくるのを当たり前に受け止める。オレが樹にしてやれる事が余りに少な過ぎて男として情けねえ自覚はある。選択肢を潰して安心するならそれくらいいくらでもしてやる。この先何を取りこぼしてもこの二つの命だけは命懸けで手放さない。必死に声を押し殺して涙に喘ぐ樹を誰にも見つからない様に腕に隠す。お前の弱さを知るのはオレだけで良い。誰にもやらねえ。オレだけのモノだ。
一向に泣き止まない樹を引き剥がして額に口付ける。甲斐性なしのオレじゃ、その唇を塞いでやれない。一生を懸けた樹の覚悟を背負う度量が無え。情け無い。惚れた女の心に触れられもしないなんて。
樹の涙を追いかけて頬に唇を這わせるときゅう、と小さく鳴いた。本当に犬みてえだ。構わず吸い付いて舐め取ると距離を取ろうとした樹を抱き込んで引き止めた。逃げるなと言えば息を飲んで従ういじらしい忠犬に愛咬の褒美をやる。泣き声に吐息が混ざると頭ん中が茹だりそうになる。…樹からオレの匂いがする。
「ちょっとだけ、だったな」
首に吸い付いてハッとした。オレのTシャツじゃこんな所に痕を残せば見えちまう。なら、もう一度裾を持ち上げて引き上げる。体を起こして薄い腹に顔を寄せた。石鹸と皮膚の甘い匂いに気付けば舌を這わせていた。樹の声になってねえ悲鳴が聞こえる。ここならオレしか見ることがない。歯を当てて弾力を確かめてから強く吸い付いた。柔らかい。本当に食いちぎってしまいそうだ。
舌を這わせて吸い付くのを繰り返していると額に柔らかなものが触れた。視線を移すと細かな刺繍が見えて目を細める。そうか。もっとオレだけしか見れねえ場所があったな。シャツを首まで捲ると柔らかな膨らみが揺れる。顔を赤くして涙を流しながら懸命に口を塞いでいる樹と相まって殺人的な色気だが、今のオレには目的がある。すっかりその気になっている自身を無視して口を開ける。腹とは随分感触が違う。樹の甘い匂いに涎が出ちまう。吸い付くとぢゅ、と大きな音が鳴って、柔い分口に含みやすい。布に隠れている所に舌を差し込んで、やめた。これ以上甘い声が増えたら所構わず犯してしまう。代わりに布ごと噛み付くと思っていたよりも甘い声が漏れて我慢した意味が曖昧になる。自棄になって数回続けると樹の膝がオレの脇腹を撫でた。誘うんじゃねえ、馬鹿野郎
「はっ…はう…ひ、…」
先程とは別の意味で震えているであろう樹を見下ろすと暗闇でも分かるほど肌に斑らに色が付いていて取り敢えず満足する。シャツを直すと未だに動けずにいる樹にタオルケットをかけて横になって抱き込んだ。今樹に何かされたら確実に手を出しちまう。
「先は長えんだから今日はこれで満足しろ」
ぐす、と鼻を鳴らして頷いた頭を引き寄せる。頬擦りされてか細い声が「だいすき」と呟くとそれ以上喋る事も無闇に動くともなくなった。オレに命を預けて喜びに咽ぶ樹の体温が心地いい。小さく嗚咽を繰り返す体から力が抜けていくのを意識の端で感じ取りながら迫る闇を受け入れた。
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