めぐしうつくし
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落ちた先のひとひら
「ありがとうございました」
稽古が終わり正座で両手を添えて一礼すると、顔を上げた瞬間渋川先生と目が合った。そして自然に逸らされ、背筋をうずうずっと駆け上がるものをなんとか隠し通す。
先生は、都合がつく日は必ず私の視界に入る位置で一度目配せをしてくれる。私の予定が合えばこのまま先生のご自宅にお邪魔してのんびりお茶を飲みながら談笑するのが常で。もちろん、私にとって先生と時間を過ごす事以上に大事な予定なんてあるわけが無いので私がそれを断った事はない。
気を抜かないようにと思っているのに意思に関係なく目尻が下がってしまう。せっかく渋川先生が周りに配慮しながら前の関係を続けようとしてくれているのに、私が台無しにしてしまっては元も子もない。浮かれた心を奥歯を噛み締めて閉じ込めると早足に道着を着替えた。
「樹さん」
慌てて躓かないように足元に気をつけながら道場を出ると先程とは打って変わって着物姿の渋川先生がにこにこと笑いながら手招きをしていてまた胸が痺れてしまう。私を呼ぶ声も心なし潜められていてなんだかいけない事をしているようでドキドキする…
「樹さんが好きそうな茶受けを見つけてのう。可愛らしいの、好きじゃろ?」
「、はい。すきです」
逸る胸を押さえつけながらなんとか頷くと、そんな私をお見通しとでも言うように柔らかく笑って自宅へと足を向ける先生に着いて行く。私が渋川先生の元で合気道を習う様になるより以前から茶飲み友達のような関係は続いていて、それももう随分経つ。
話し相手が欲しい。当時そんな優しい嘘をついて酷い顔をしていたであろう私を家に引き入れてくれたのが始まりで、私が怖がらないように靴を履いたままお庭から縁側に座らせてくれ、いろんな話を聞かせてくれた。何度か通う内に、程よい距離感と暖かな雰囲気にあっと言う間に傷付いた心は癒えて、家の中に上がらせてもらうようになったのはそれから直ぐの事だった。今では何にそこまで傷心していたのかも思い出せない程だ。
「お茶淹れますね」
道場の隣の先生の家に着くと、いつもの場所に荷物を置いてすっかり把握してしまった台所へと向かいながら縁側への戸を開けている背中に声をかけた。
「いつもすまんのう。もうすっかり樹さんの淹れるお茶の虜じゃて」
ほっほっほ。なんて呑気に笑って、分かっていながらとんでも無いこと言うんだから、ジトッと睨みつけて直ぐに視線を逸らした。気づかれると「どうしたんじゃ?可愛い顔をして」なんて追い討ちをかけにくるから質が悪い。先生を前にするといつもいっぱいいっぱいなので後で冷静になって考えると揶揄われているに違いないのに悪い気がしないのは私が先生のことを特別に思っているからだろう。
あの日見た先生の鋭い刃のような瞳はきっとずっと忘れない。いつもどこか飄々としていて掴み所がないのに、先生は不意に元からそこに合ったかのように自然に表情が切り替わる。私はその静かに煮えたぎっているような、底知れない煌めきに渋川先生へ焦がれている事を教えられた。
「あら?」
お湯を沸かしつつ茶筒を覗くとお茶葉がなくなっていて戸棚にストックがあったことを思い出す。視線より上にある戸棚を開くと直ぐに見つけた。ストックの場所すら把握しているのも感慨深いものがある…。なんて、邪な事を考えていたせいか、手を伸ばすと取り損ねて奥に押しやってしまった。
「うそ…んっ…」
お茶葉の姿は見えなくなってしまったが頑張って背伸びをすれば指先に触れたのでそのまま引っ張り出そうとつま先を更に立てて指に力を集中させる。
「樹さん」
「ひゃっ、!?」
突然聞こえた声に驚いて身を縮こめると足が縺れて体重を支えきれず重心がぶれた。先生の前でみっともなく尻もちをついてしまう事を覚悟して、来たる衝撃に備えて身構える。
「おっと、驚かせてしもうたか」
「し、しぶかわせんせ…っ!」
「今は先生じゃないんじゃがの」
床を軽く蹴る音と共に柔らかく抱きとめられ、渋川先生の温もりを背中に感じて顔に熱が集まった。こ、これはとても駄目だ…!とりあえず一刻も早く離れないと心臓がどうにかなりそうだ。そう思えば思う程足に力が入らなくて瞼が熱くなる。慌てて自立しようと緊張で震える足を退くと先生の足を踏んで更に体重をかけてしまって焦ってしまう。どうしようっ!
「ひっ、あっ、ごめ、なさっ」
「慌てんでええ。樹さんを支えるなんて朝飯前じゃ。ほれ、落ち着いて右足からゆっくり引いてみい」
み、耳元で先生の声が聞こえるっ…
何も考えられない頭で取り敢えず言われた通りにすると、渋川先生の足に沿う形になって肩が揺れる。しかし先生は構う事なく今度は左足を指名してきて、そっと従うと優しく背を押されて漸く自立する事ができた。
「ご、ご迷惑を…」
「これくらいなんとも無いわい。ワシの方こそ驚かせてすまんかったな」
「い、いえ…」
胸を押さえながら先生を見ると私が落としてしまったお茶葉の袋を拾ってくれていてハッとする。先生に拾わせてしまった。とはいえもう暫く動けそうにないのでどうしようもないんだけど。
「お茶葉が無くなっとったのを思い出してな?まぁ樹さんなら大丈夫じゃと思うたが」
「す…みませんでした、…ありがとうございます」
「…相変わらず道場で見る姿とはえらい違いじゃのォ」
お茶葉を受け取りながら何となく後ろめたくて控え目に渋川先生を見ると、面白いものを見るような視線をぶつけられて唇を尖される。誰のせいだと。…いや、私が勝手に、と言うと切なくなるが、好きになってそれを自覚してしまったばっかりに、恋の甘さに溶かされているからだ。いつもはもっとこう…ちゃんとしているつもりなのに、渋川先生の前だとどうしても思うように動けなくなってしまう。
「……渋川先生、意地悪です…」
「そんなつもりはないんじゃがの〜」
そんなのお見通しの癖して私を家に招き入れて揶揄ってくれる辺り、本当に意地悪な気がします。でもそうしてくれないと困るから、それでいいんですけどね。兎に角、直ぐにお茶を淹れて持って行くと伝えると部屋に戻ろうとしていた背中が止まったので首をかしげた。
「…先生…?」
「樹さん、今樹さんはワシの茶飲み友達じゃろう?」
「へ?」
「今日はもう先生はお終いじゃて」
「ぁ…すみまっ……いえ……はい、剛気さん」
ん。と満足そうに笑って今度こそ部屋に戻った先生を見送って小さくため息をつく。まだ靴を履いたままここに通っていた頃、お友達になるなら。なんて安直な考えで私から言いだした事がこんなにも私をどぎまぎさせる日が来るとは思わなかった。贅沢にも先生とお友達を何度も繰り返し、道場で間違える事は無いが、こちらでは未だに先生と呼び違えてしまう。というのも、それは気持ちを自覚した事でもっと特別な意味を持つようになってしまったので、無意識に心の平穏を保とうとしている可能性も無きにしも…だが。
だって半世紀程も離れているからと言って、年上の男の人を名前で、なんて……。考えすぎか。
お茶をいれて部屋まで持って行くと、可愛い色と形のお菓子が見えて思わず声を上げてしまう。そんな私を笑う先生の隣に腰を落ちつけるとお茶を手渡してお盆を横に置いた。…手が触れても動じなかった自分を今すぐ褒めてやりたい
「…最近、稽古の頻度が増えとりゃせんか」
「え?…そうでしょうか…まぁ、通えるようにシフトの調節はしてますけど」
お茶を飲みながら言葉の意図を考える。確かにこうして稽古後のご褒美もある事だし、合気道自体も楽しくてつい暇を作っては道場に通っているが、何か問題でも有っただろうか。別に迷惑をかけるような事はしてない…筈だし…。
「…剛気さん…?」
こちらをじっと見つめる先生に首を傾げる。眼鏡が光に反射していて表情が読み取れない。
「…無理をしとる訳ではなさそうじゃな」
「え?……ふふ。はい。体調管理には気を付けてますし、好きな事をするのに体を壊したら元も子も無いですからね。大丈夫ですよ」
それに、ここへも来れなくなっちゃいますから。なんて渋川先生の優しさにちらりと気持ちを込めて視線を送ると楽しげに肩を揺らして笑うので、つられて笑いを零す。隙間を縫って気持ちを投げかけると先生はいつもこうやって笑うから、ちゃんと気づいてくれてるんだと思っている。だって、すごく優しい顔をしてくれるからそう思わずには居られなくて、都合のいい解釈をしてしまう。
「一番美しい時期をこんな年寄りに使ってどうする」
「…分かりませんか」
この距離感が心地いからついもっと近づけるんじゃ無いか、なんて見誤ってしまう事がある。日差しの陽気にかまけて居眠りをしてしまったりとか。家に居るよりずっと落ち着けて、帰るのが億劫になってちょっとだけ我儘を言ってしまった事もある。…結局宥められて家に帰った訳だけど。
私の言動を少しも疎む事も、況して拒む事もしないから、要らない素直さまで顔を出してしまう。それは、先生の何気ない言葉にすら全力で向き合ってしまう拙い私を、軽く受け止めてくれる人がいるせいでもあると思っている。そんなの、調子が良すぎるだろうか。
「剛気さんだから、私の一番綺麗な所を見ていて欲しいんですよ」
驚いた顔の渋川先生を擽ったい気持ちで見つめると、先生は諦めたように肩を落として息を吐いた。そしてまた私の好きな表情をしてそっと口を開く。
「…一本取られたわい」
「本当ですか?ふふっ嬉しいなぁ」
柔らかな風が草花の音を届けて髪の毛を揺らした。先生が私の為に選んでくれた可愛らしいお菓子を口に運べば優しい甘さがほろりと溶ける。こんな風に届いていたら素敵だなんて考えていると、先生が甘いものも悪くない。なんて言うので、また笑ってしまった。…甘いのは、渋川先生の方じゃないですか。
2019/03/22
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