ふたつの傷痕
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─────
心底楽しいとでも言うようにニコニコしている女を視界に入れて誰にもバレないようにゆっくり息を吐き出す。裏のない笑顔は妹と被る程真っ直ぐで微塵も含みを感じない。こいつにオレに対する悪意が無いことはもう分かっている。しかしそれも"今は"でしかない。小癪に隠された石ころにいつ足を取られるかわからない。人が手のひらを返すのなんて道端の石を退かすより簡単だ。
こいつがオレの前に現れた時、また何かに巻き込まれたと思った。いつもなら気にも止めずに立ち去っていたはずなのにあの日はどうかしていた。
柔らかい口調に怯えを一切見せない表情。果ては戯けた態度まで取りやがって呆気にとられた。挙句オレなんかにナンパだと言い放った。訳が分からねえ。女から目が離せずにいると目が合った途端光が差したように笑って手を振ってきやがる。
警察に詰められていた時もどこからか現れたと思えば馴れ馴れしく引っ付いて、オレのために用意された身に覚えのない紙切れでオレに恩を売った。貸し借りはめんどくせえもんだと身に染みているので拳で片がつく用でオレに絡んでいるなら手を貸してやるつもりで声をかければ本気でオレを口説いているなんて恥ずかしげもなく宣った。
鼻の頭まで赤くして、やっと目を彷徨わせたと思えば湿気を帯びた目でまた真っ直ぐオレを見て溶け落ちたか細い声で好きだと言った。
どうせ、一時のお遊びだ。放っておけば飽きて直ぐ見向きしなくなる。オレを知れば怯えて近寄りさえしなくなる。
身体の芯まで冷え切った感覚を遠くで感じながらふと手首が嫌に温くて視線を落とせば女がいた。ああ、オレを口説いてるんだったか。喧嘩を売ってきた連中が逃げ帰るのを他人事の様に見送っている間にその温もりが身体に移っていた。いつの間にかぐしゃぐしゃに泣いた女がオレに抱き付いている。顔が涙と血で汚れていてヒヤリとしたが、拭えば傷は見当たらないので心底安堵した。
妹が派手にずっこけてビービー泣いていた時の事を思い出しながら女の涙を拭いてやる。そう言えばこいつ、オレの喧嘩に割り込んできやがったのか。そう思うとまた背筋が嫌に緊張する。ああなると自分が何をしていて誰に手を上げているのかも分からなくなるのに、もし気付かずそこに割り込んできた妹と歳の近い女を…?考えただけでもゾッとする。だったらオレがまともな時に相手にする方が余程マシだ。
欲しがっていた連絡先を餌に約束をこじ付けてやってさっさと別れる。頭がズキズキと痛んでこの傷があいつにできていたかと思うと途端に具合が悪くなる。嫌な妄想を追い払いたくて奥歯を噛み締めながら速足で家に帰った。
争った事がバレない様に部屋に篭って処理をして腕を抱える。大丈夫だ。あいつは怪我をしていなかった。けど、またオレの喧嘩に首を突っ込んできたら…?答えの出ない押し問答で肝を冷やしているとお袋が嫌に明るい声でオレを呼んだ。聞けばあいつが電話を掛けてきた、と。
鼻歌でも歌い出しそうな程機嫌がいいお袋を無視しつつ電話に出れば軽口が飛んできて眉間に力が入る。無事だ。震えてない明るい声。それが迷った様に小さくなって、胸に不快なざわつきが走ると反射的に用がなけりゃ切ると吐き捨てる。それで終われば良かったのにまたいつかの溶け落ちた声が聞こえると望まれた通りに話を続けていた。耳元で聞こえる明るい声に抱えていた恐怖が解けて行くのを感じる。最後の宙に浮く様な声色の挨拶がいつまでも耳に残っていた。
それから会う度に妹の様に腕を引いて歩いて楽しそうに喋っては去っていった。誘いには乗らない。なんだ本気にしたのか、なんて言われるのが見えている。あいつはそんな奴じゃない。本当に?オレとあいつが一緒にいるのを見た人間にオレがいかに最低な人間か詰められていてつい視線をやると不思議そうに首を傾げていた。目が合うと途端に光が差した様に笑って手を振られる。荒っぽくない人、気の落ち着いた、優しい人。オレは本当にそんな人間か…?
こいつといれば、オレは両親の言う普通になれるのか?
「間柴さん、ごちそうさまですか?」
「………ああ」
手を合わせてにこにこ笑う顔を見ていると水谷さんの視線を感じる。目尻の皺が深くなるのを見て、碌なことを言わねえ顔だと思ったら成瀬さんを家まで送って差し上げろだと。隣の女の目がきらきら光って鬱陶しい。女性を夜遅くまで引き止めたら家まで送るのがマナーだと言うので引き止めたのはあんただと言うと名前を呼ばれる。一人でさっさと店を出ると遅れて水谷さんにお礼を言いながら女が出てきた。会ってからずっと楽しそうな疲れ知らずと目が合う。
「早くしろ」
「えっ!やったあ!」
オレに走り寄ってからもう一度水谷さんに振り返ってお礼を言って手を振っている。気が済むまで待ってやるとオレを見上げて笑った。街灯に照らされた赤い頬をぼうっと見つめると行き先を指差したので目を逸らして足を進める。
「間柴さん、くっ付いて良いですか?」
また誰かに心配されるんじゃねえかとか単に嫌だとか言えば良かったのに、息が詰まった沈黙を是と取ったのか柔らかなものが腕に纏わり付いた。
「ずっと言いたかったんですけど、腕を組まれるの慣れてますよね」
「…妹が引っ付いてくるからな」
「お兄ちゃんなんですねっ!良かった…通りでお兄ちゃんの風格があると思いました」
緊張した声がふわりと溶けた。こいつの声は感情がそのまま乗っているので分かりやすい。妹と言わず久美と名前を出せばこいつを傷つけられたかも知れないのに、無意識に言葉を選んでいる事に気がついてこめかみがチリチリ疼く。臆する事なく伝えてくる所為でこいつの感情がそのままの形でオレの内に入ってくる。三つ違いの弟がいるという話を聞きながらおかしくなっていく自分に歯噛みをした。
「…オレに家を知られて良いのか」
「え?もちろん。あ!寄って行きますか?今日パパ夜遅いからうるさくないし」
「……寄らねえよ」
「ふふん。いつでも来てくださいねっ」
明るく弾んだ声に見上げられた気配がするが無視した。どんな顔をしているか、見なくてももう分かる。柔らかく緩んだ表情が見たい。だが見たら目が離せなくなる。自分の懐から刃を突き立てられるのは、誰かを傷付ける事より痛い。なら近付かせなければいい。これ以上、踏み入らせなければ今までのままでいられる。
「間柴さん、今日おやすみのお電話するとしたら出てくれますか?」
そう言えば、そんな話しをしていた。オレが出なきゃ、お袋と仲良くなると言っていた事を思い出して連絡先を教えた事を悔やむ。大体、大層な事のように言っているが所詮ただの挨拶だ。それなのに空気に溶ける声を思い出してハッと息が漏れた
「それに何の意味があるってんだよ」
「だって寝る前の挨拶って普段家族くらいとしかしないし…特別な感じ、しませんか?」
「おい」
特別。こいつはオレとそうなる事を望んでいる。言葉を返そうと口を開き掛けたら男の声が割って入った。一気にムカムカして視線だけで殺すつもりで声を追うと見た事ねえ男がオレを睨み付けていた。オレより背は低く、目付きは一丁前だが顔付きは幼い。口の端に絆創膏を貼っていて、既にひと揉めした顔をしている。
「あれ、るーちゃんおかえり。間柴さん、さっき話した私の弟。昇くんです」
「誰だよこいつ。なんでねーちゃんと腕組んでんの。まさか彼氏とか言うんじゃねえよな」
「えへへーそう見えるー?」
「全っ然っ見えねえっ」
とても似合うとは言えない気の抜けたあだ名で呼ばれた不良がこいつの弟らしい。そう思えば幾らか力が抜けるが刺さる視線は他の不良と大差ない。まあ、オレだって妹に近付く男どもには同じような圧を向けるが。
「ねーちゃんから離れろよ」
「こいつが勝手に引っ付いてんのが見えねえのか?」
「自慢か?俺だって隣歩けば腕くらい組むんだよっ俺のねーちゃんだぞっ」
「こーら変な事で張り合わないのっ私がしたくてしてるんだから絡まないで」
こいつの言葉にショックを受けてオレが誑かしただの喚かれる。漸く問題が起きたと思えば本当に家族らしく、こいつが見ている時は弟の顔をする癖にオレに見せる顔は殺伐としている。弟が来たんだからオレは用無しだろうと腕を振ると妹には無い柔い感覚が強く纏わり付いた。
「行っちゃいやです」
「な、」
不安と甘えが乗った声に弟が驚いて奥歯を噛み締めている。オレが同じ立場なら相手を当にどうにかしているが弟はそうでは無いらしい。邪魔したら暫く口聞かないなんて言葉くらいでうるさい口を閉じてしまった弟を鼻で笑う。
「でね、さっきの話なんですけど」
「好きにしろ。どうせ何言ったって聞きゃしねえんだ」
「そ、そんな事は…うーん、ちょっとだけ…へへ」
決まりが悪そうにしたかと思えば耐え切れないとでも言うように明るい笑いが漏れた。そんな嬉しいかよ、たかが電話の約束くらい。むず痒くなって歯を噛み締めると後ろから踵を踏まれて躓きかける。青筋を立てて犯人を睨み付けると甘い香りが間に割って入り怒りが分散した。
「こらー!悪い子!そんな事しちゃダメでしょ!もう前歩きなさい!」
姉に叱られてガキのように拗ねて言われるまま前を行く後ろ姿に二、三悪態をついてやろうと口を開くと横からしょぼくれた声が謝った。随分と年下だしガキ相手に追い打ちをかけるまでもねえかと自分を納得させて口を閉じる。
「てめえがオレに臆さず話しかける理由が分かったぜ」
「あはは、パパはもうちょっと怖い顔してますよ。怒ったところは見た事ないけど」
不良が身内にいるのならオレみたいなやつにでも態度が変わらないのも頷ける。納得したのと同時にどこかつっかえが取れた気がしてまた一つ形の見えないものが遠ざかった。家に着くと弟が威嚇するようにして早く離せ帰れと騒いだがまた一喝されるとおとなしく扉の中に消えて行った。生意気な面の割りに素直で感心する。なら次はこいつだ。離れるように腕を揺らすとまた抱き込まれたので帰らねえのかと様子を伺う。
「あの、家まで送ってくれて…ありがとうございました」
「ああ」
もぞ、と動いては視線をあちこちに動かして忙しない。かち合った視線が外れたかと思ったらようやくのろのろと離れる。何がしたいのかさっぱり分からず、留まる理由も見つからないので踵を返そうとすると腹に柔らかいものが押し当てられた。…違う。
「すきです、間柴さん」
溶けた声がオレの腹を突き通した。小せえ手が脇腹を通って背中にしがみつく。見上げる顔は上気して少し強張っていたが、暗闇でも分かるくらい水を溜めている瞳と目が合うと相変わらず気が抜けるようにへな、と笑った。段々としがみ付く力が強くなってこいつが潰れる、なんてありもしない事で焦るとゆっくりと温もりが離れて行く。
「ふふ、また寝る前に電話します」
はにかんでいる知らない生き物に声をかけられ漸く肺に酸素が通った。なんなんだ、こいつは。地面に張り付いていた足を動かすと一度痙攣したが問題なく動いた。背を向けると後ろから気をつけて帰るよう声をかけられる。振り向けば絶対後悔するのにそこには予想通り手を大きく振り上げる姿があった。夏なのに腹の奥がやけに冷たい。
家に着いても答えは出ず、呆然と過ごしてお袋の声で我に帰る。時計を見るといつもくらいの時間だった。電話に出ねえと。作業の様に受話器を耳に当て明るい声をぼうっと聞いて適当に相槌を打つ。何でこいつはいつも楽しそうなんだ。大して言葉を返してやっていないのに、何で嬉しそうに笑うんだ。何がそんなに…
最後に約束の挨拶を聞いた時、赤らんだ顔で目を潤ませてとろりとした笑顔でオレに言った言葉を思い出して返事もせずに電話を切った。なんなんだ、一体
「了」
「………」
オレを呼ぶ声に顔を上げるとお袋が口を開閉していた。ややあって柔らかく息を吐き出すと何故か随分と穏やかな表情をしている。
「お風呂入っちゃいなさい」
「……おう」
お袋が飲み込んだ言葉を探しかけてすぐに辞めた。水を差されれたみたいに具合が悪くなる。痛む鳩尾を撫でながら隣で揺れていた黒髪を思い出しそうになり脱衣所に足を向けて振り切った。何でここに居ない奴のことなんか考えなきゃならねえんだ。
そうやっていつもの日常にあいつが加わっていく日が暫く続いた頃、恐れていた事が起こった。分かってる。オレが今までやってきた事を繰り返すだけだ。いいよ。邪魔するやつは全員殺してやる。
─────
夏休みも終わり、涼しさを感じられる様になってとんと間柴さんに会えなくなった。断り切れなかった小さな箱を二つ、抱えてため息をつく。電話をして間柴さんママに聞いても良いだろうか。でも間柴さんそう言うの物凄く嫌がるしな…
ぐるぐる考えて結局何も出来ずに日が過ぎて行く。だらだらと力なく日常をこなしてバイトの帰り道を力なく歩く。夜の空気を胸いっぱいに吸い込んだ時だった。人通りのない路地、丁度陰になるそこから手が伸びてきて口を塞がれる。裏路地に引き摺り込まれ暴れようとすると低い声がすぐ後ろから聞こえた。
「オレだ」
「ま、ましばさ…」
「おう」
変質者かと思ったら好きな人が出てきた驚きで情緒が壊れた。視界がぐらぐら滲んでいく。なんで普通に会いに来てくれないのっ!意地悪っ!でもすきっ!子供が甘えるようにめちゃくちゃに抱き付いて頬擦りまでしてしまう。
「う…あっ…寂しくてしんじゃう所でしたーっ!もうちょっとでおかしくなっちゃってたーっ!」
んーっ!すき!間柴さんの匂いがする服に目一杯擦り寄って力の限り抱き付くと何と抱き締め返されて飛び上がった。何事かと上を向くと更に隙間を埋める様に抱き締められて固まってしまう。耳元で苗字を呼ばれて蕩けそうになりながら何とか名前が良いと強請ると直ぐに呼び直してくれる。幸せ過ぎて変になっちゃいそうだ。
「暫く、会わねえ」
「…え…」
「オレを見かけても話しかけるな。何をしてても首を突っ込むんじゃねえ」
「ま、しばさっ…んぅ…」
「頼む」
不穏な言葉に強張る体を抱き直されて強く抱き締められる。呻いても力が緩むことはなかった。背中を撫でてみても変わらない。幸せと不安ですごく胸が痛い。間柴さんはこれを伝える為に私に会いに…?
「いつ、まで…?」
「…………」
「んん…ましばさ、ん、」
沈黙で分からないと返されて切なくなる。危ない事に巻き込まれているんだろうか、それとも単に忙しくなるだけ?それなのにこんな、さよならを言う時みたいに空気が重たいのはどうして…?
「待ってても、いい、ですか…?」
「……ああ」
手を伸ばして襟足を撫でるとやっと力が緩んだけど直ぐにまた苦しいくらいに抱き締められる。
「ん、…まってます、ずっと」
だから、
連絡をして良いですか、とか約束をくれませんか、とか沢山言いたい事があったのに一つも声にならない。抱き締めたまま体を起こした間柴さんが私のおでこにそれを寄せて擦り寄ったので息を飲んだ。まつ毛が触れて吐息まで感じる距離なのに少しも近づいた気がしない。また連絡すると囁かれたのがすごく切なくて涙を堪えながら何とか頷いた。
背中に回していた手を解いて今度は背伸びをして首に縋り付いた。空いていた隙間がぴったりと埋まった気がして少しだけ胸のつかえが取れた。間柴さんがやりたい事を成せる様に、疲れた時に、元気が出る様に。私の元気を注いでおきますねなんて言うと息を吐いて掠れた声で返事をしてまた抱き締めてくれる。勝手に溢れる私の思いを間柴さんはずっと黙って聞いてくれていた。
「悪いな…送ってやれねえんだ」
「いいえ、…会いに来てくれて…嬉しかったです」
そっと離れて行く体が名残惜しいのを隠せずに離れ際に手をぎゅと握ると少しだけ反応を返してくれる。帰るよう催促されてではまた、なんて見えない約束をして足を踏み出した。たぶん、間柴さんはもう私に会わないつもりで会いに来てくれたんだと思う。さよならを言いに来たのに、私が泣いて甘えてしまったから応えてくれたんだ。
ぼやけて見えづらい道をやっとの事で辿って行く。振り返って見てみてももう暗闇から間柴さんを見つける事はできなかった。
「姉ちゃん、最近アイツに会ってねえの?」
「………」
「別れた?」
「…わかれてないっ」
あれから日を跨ぎ月を跨いで、なるべくいつも通りを意識して過ごしていたけど家族ともなると最近の私の様子が違うのが分かるらしい。弟が嬉しそうにしているから必要以上にむっとしてしまう。でも口を開いたら言わなくていい事まで言ってしまいそうだし、何よりちょっと鼻がつんとするし、我慢しておく。
付き合ってない…から別れたわけじゃないし、別に振られた訳でも…ない…ちょっと会えないって言われただけだし…抱き締めてくれたから少なくとも多少は好きって事じゃんっ。それ以上の可能性は考えない!
間柴さんに限ってそんな中途半端に関わって自然消滅狙いとかないと思うし…!嫌な事は嫌って言う人だもんね!私は間柴さんの連絡をおとなしく待ってればいいんだから、落ち込む必要なし!よし、元気出てきた
さっきとは打って変わって明るくなった私を見てつまらなそうにしている弟を心の中で笑っておく。夕飯を済ませてお風呂から出るとママが電話口で困惑しているのが見えて側に寄った。
「あの、どなたですか?…もしもし…?……失礼します」
「どうしたの?」
「んー、間違い電話かしらねえ。ずっと無言だったの」
「ふーん…?」
無言の間違い電話…何となく時間を確認して目を開く。まさか、でも何で無言なんだろう。今すぐ掛け直してしまいたいけどもし違ったら約束を破ってしまう事になるし…。考えても仕方ないので今度の電話は全力で取る事にする。そして数日空けてまた同じ時間に電話が鳴った。立ち上がろうとするママを止めて走って受話器を取りに行く。
「はい、成瀬です……もしもし…?」
やっぱり沈黙が続いたので想像が当たったのかと嬉しくなる。私の好きな人の気配がするなあなんて笑うと息を呑む音で電話口の相手を特定できた。
「まだ、なんでしょう?ふふ、でも嬉しくなっちゃいましたっ。さすが甘やかすのが上手だなあ」
鬱憤を晴らすみたいに甘えているとママと目が合った。うわ、恥ずかしい。手で雑に追い払うとニヤついた口を手で押さえて去って行く。後で揶揄われたら部屋に篭ろう。ずっと無言の間柴さんの状況を何となく想像して尚も明るく一方的に話をする。学校の事、友人や先生の事、道で見つけたお店の事。たまに聞こえる吐息の相槌に何度も込み上げてくるものを飲み込んで隠す。
どうしたのか聞きたい。でも聞いてしまったらもう連絡もくれなくなってしまうかもしれない。遠すぎる距離がもどかしい。少しだけ聞いてみようと口を開くとまるで見計らったみたいに「切る」と短く告げられる。声が、聞けた。それだけで間柴さんの言葉足らずさを全部許してしまう自分が憎い。吐き出そうとしたもの全て隠して口角を上げた。
「…はい、……おやすみなさい、間柴さん」
返事も無く切られてしまった。この前もそうだったな、なんて考えて息を吐き出す。規則正しく並んだ電子音が慰めてくれる。電話くれたんだし、何も言わないって事は私の声が聞きたかったに違いない!よし、脈あり!脈あり!
不安を全部ポジティブに押し切って何も考えないようにする。大丈夫。待ってればいいって言ったんだから。
そうやって無理矢理自分を納得させて色がない月日を数えて行く。一つ季節が過ぎようとした頃、ついに愛しい無言電話すらもなくなった。
───いつも通り制服を着て家を出る。途中駅前のトイレによって私服に着替えた。学校には既に休みの連絡は入れてある。まだ時間には余裕があるのに焦りで手足が震えてしまう。ぼやけそうになる視界を何度も振り払って足を進めた。
遠目から見ても一目でわかる高い壁の建物。その門の前で会いたかった二人組が何かお話している。もつれる足を必死に動かして今までにない速度で駆けていく。その音で二人が振り返って、一人が大きく目を見開いた。
「ましばさんっ!」
「っなんで知ってる?」
「私が話したんだ」
「う、うえっ…ごめんなさいっ…ひぐ、…待てなかったっっ!」
途中躓いてバランスを崩した所を間柴さんが捕まえてくれる。それが嘘みたいに嬉しくてお腹に抱き付いて頬擦りをしたかったけど間柴さんの服を濡らさない理性が働いて代わりに額を擦り寄せる。
「…悪かったな」
「っ、お、おかえりなさい…っ」
「…ああ」
間柴さんが謝る事じゃないのに。首を振ってなんとか声を絞り出すと間柴さんがいつかみたいに袖で涙を拭ってくれる。懐かしい。全然涙が止まらないのでこれ以上袖に負担をかける訳にもいかず鞄からハンカチを取り出して自分で拭う。
「学校はどうした」
「い、行っていることになってます」
「暫く見ねえ内に随分とグレたんだな」
「ううっ」
「まあ今日くらい良いじゃないか。私も成瀬さんが駆けつけくれて嬉しいぞ」
うう、みじゅたにざんっ…!やっと落ち着いてきたのに追い打ちをかけられて潰れた声を出すと快活に笑われて気力を持ち直す。変わらない表情で見つめてくれる間柴さんが眩しくてちゃんと姿が見られない。止まらない涙を拭きながら久しぶりに訪れた一時の幸せを精一杯噛み締めた。
───────
間柴さんに会えない間、学業とアルバイトに専念していたお陰で学生にしては懐に余裕があった。ならばする事は一つ。お祝いのプレゼントだ!とはいえ実はあまり間柴さんの事をよく知らない…と落ち込みかけた気持ちを立て直す。悩みに悩んで学生には十分すぎるほど値の張るものを思い切って購入した。自己満足が大いに占めるものの名目はお祝いだもの!片割れは勝手に身に付けてしまう。
後は連絡をするだけ、と思ったところで新しい電話番号を聞き忘れるのがそう、この私。それはそれは本当に落ち込んだ。間柴さんから電話が来た時はそれはもうテンションが上がって話があると言われた途端私も話がありますと食い気味に答えてしまった。少し間があったものの、もうそんな私に臆する事がなくなった間柴さんはさすがだ。
そして約束の日、待ち合わせ場所には既に間柴さんがいて姿を見付けると躾けられた私の足は勝手に駈けてしまう。
「オレの家でいいか?」
「え、あ、うーん…すごく…物凄く魅力的ですが…」
今間柴さんは親戚の元にいる妹さんを迎えに行く為に土木作業でお金を稼いでいる。それをお礼とするそうだ。それなのに私が妹さんより先に二人の新居を跨ぐのは…すごく自分が許せない。そう伝えると一つ頷いて歩道の段差を跨ぐとこちらに手を差し出した。
「なら来い。こっちに公園がある」
「うあ…はい」
心臓がうるさい。だって手を繋いでる!躊躇いつつ手を伸ばしたら間柴さんが私の手を迎えに来て握り込んだのだ。夢じゃないならなんなんだ。現実すごい……
日もだいぶ暮れ込んでいるので公園には誰も居なかった。時折走っている人が公園の前を通りかかるくらいだ。街灯に照らされた公園に二人きり。ベンチの近くまでくると間柴さんの足が止まった。
「邪魔だ」
小さく声が漏れる。繋いでいる手の指先が嫌に冷たくて身体が硬直したかのように言うことを聞かない。まただ。あの日と同じ。あの日切なくなるくらい強く抱き締めてくれたのに、間柴さんはずっと遠い所にいた。今も同じだ。手が触れ合っててもちっとも近づく事を許してくれない。
「お前が邪魔だ。もうオレに構うのはやめろ。後ろ暗い事とは手を切ったがオレのせいで事件に巻き込まれるかも知れねえ。守ってやれる保証もねえ。今のオレじゃ、妹だけで手一杯だ」
「…なん、だか…別れ話、みたいです」
「そう言ってんだよ」
後ろ姿しか見えないのが寂しくて手を強く握ってみたけど少し反応をくれただけでこっちを見てはくれなかった。
「私が間柴さんと関わって何かあったら嫌で、妹さんを守るのに忙しいから、わかれる…?」
「ああ」
「……でも、すき…?」
「………」
「…わかりました」
間柴さんがくれる沈黙が、こんなに嬉しい事なんてこの先何度あるんだろうか。ちゃんと、お話をしないと。涙を飲み込んで震える口をなんとか動かす。
「わたし、あなたの道を遮ったり心を煩わせたりしません。だ、だけど…」
私は間柴さんがこうして手を繋いでくれただけで、貴方に一生の恋ができる。お別れしても、もうずっと好きなままだ。もう、何をしてもこれは変えられない。葛藤しながら繋いだ手を離して鞄から包みを取り出す。
「私のお話も、聞いてくれますか?」
そう言うとやっとこちらを向いてくれた。私の方は見てくれないのがちょっと痛い。
「あの、プレゼント、受け取って欲しくて…本当はプレゼントって言うか…殆ど私の自己満足と言うか……あの日…本当はお別れの日だったんだって、何となく気が付いていました」
本当は本人に包みを解いて欲しかったけど、間柴さんは受け取ってくれないだろうから押し付ける事にする。丁寧に包装された包みを解いて箱を開く。
「だから…純粋に、門出をお祝いするつもりだったんですけど…間柴さんが一人でずっと頑張っている事も、私には…何も、話したくないと思ってる事も、知っているので…目印が、欲しくて。…私が、いつでも間柴さんを見つけられるように」
街灯に照らされて鈍く光るそれを掲げて付けても良いですか、と聞くと拒絶されて何も返してやれねえなんて言うので首を振る。私の自己満足のためなので、お返しは困ります。と答えてそもそもアクセサリーとか付けるの嫌いだったのかもと不安になって控えめに聞く。
「見つけられるのも…迷惑、ですか…?」
無言で少しだけしゃがんでくれた間柴さんに擦り寄って震える手で留め具に手をかけた。勝手に溢れる涙を放ってもだもだしてると間柴さんが私の首筋を見ていた。苦笑いをしてバレちゃった。なんて戯ける。そうですペアです。重たくてごめんなさい。
「私が勝手に間柴さんの事が好きなだけだから、気持ちを返そうとしなくて良いです。…あなたが思っているよりもずっとあなたの事が好きだから。あなたが待てと言ったらそれだけでいつまででも一人で待てちゃいます。…ので、別れ話は…なし」
だ、だめ…?付け終わったネックレスをするりと撫でて見上げると「今のままがいつまで続くか分からねえぞ。時間の無駄になる」と返ってきたので思わず涙を拭いて「間柴さんと別れる方が嫌!」と飛びつく。暫く会えないのは我慢できるけど別れ話は絶対イヤ!
「一生かかるかもしれなくてもか?」
「ふん、大丈夫です。一生好きって言い続けるもん。それに、間柴さんが一息ついた時、側に私がいる事に気が付いたら間違ってキスしたくなっちゃうかもしれないし」
「あ?」
背中に手を回して目一杯擦り寄る。仄暗い雰囲気を吹き飛ばす様に震えた声を隠した。私の長所は明るい所!と自分に暗示をかける。好きって一生言ってくれなくても良い。必要だって思ってくれればなんだって我慢できる。ダメ押しはしたもん勝ちだ。本心だもの。特に間柴さんに関してはちゃんと口に出さないと通じないんだから。
「そしたらその時は結婚しましょーねっ」
見上げていたずらに笑うと驚いてる顔の間柴さんがいた。本気に取ってくれないかもしれないけど私はすごく本気だ。だって間柴さんがキスしてくれるってもうそれ自体結婚って感じする。そう言う事にめちゃくちゃ興味無さそうだもん。なのでちゃんと言質を取らないといけない。もう一度別れ話は無しって言ってくださいとお願いする。
「じゃないと間柴さんから手が離せない」
「ふん、後悔しても知らねえぞ。オレはちゃんとチャンスをやったからな」
「ええ?」
チャンスって意味が分からない。間柴さんから離れるチャンスって事?近づくチャンスも貰った覚えないんですが!?首を傾げるとぎゅっと抱き込まれる。これ、もう心から喜んでも良いハグって事で良いんだよね!?また怖い事言ったりしないよね!?
「途中で逃げ出したりしたら許さねえ。一生後悔させて地獄見せてやるからな」
「っ!」
不穏な言葉なのに今の私には愛の言葉にしか聞こえない。間柴さんに私の気持ちが許された。こんなのこれ以上ないご褒美だ。耳どころか頭まで溶けちゃう!緊張が解けた反動で頭がくらくらしてちょっと正直立ってられない。ドキドキで胸も痛い。へなっと力をなくした私を軽々抱き寄せてそのまま様子を伺ってくれるのは嬉しいんだけど今は逆効果です間柴さん!いつも辛辣な言葉を浴びせられてきたのでその振り幅について行けない…!いや、こわいことは言われたんだけど…!
「ええんっだいすき…」
「何度も言わなくたって分かってるよ」
「うわあっ」
逆上せる寸前の私を笑う顔にまたきゅんとする。私で遊んでいるのは分かってるけどこの意地悪は辛辣な間柴さんより手が付けられないかもしれない
「お前の話ってのはそれで終わりか?」
「はな、はなし…っ…お、おなまえをっ よびたくてっ 」
「ああ、敬語もいらねえ」
さっきからずっと配給が凄まじいので腰を抱いて貰っているのに甘えて落ち着く為に間柴さんから手を離して自分の顔を隠す。他にねえならお前が落ち着いたら帰るぞ、と声をかけられてハッとした。間柴さん忙しいのに時間を取らせちゃった!
「だ、だいじょぶですっ!お、おち、おちついてます!かえれます!っ!」
「待ってやるから慌てんじゃねえよ。危なっかしいな」
慌てて離れてフラフラのまま自立に失敗して受け止められる。うう、だめだめじゃん…折角なのでもう一度お腹に抱き付いて深呼吸する。間柴さんの匂い、良い匂い。次はいつ会えるか分からないのでしっかり堪能しておかないと。まだ少しぽやっとするけど大分気分が落ち着いてきた。
「ん〜〜っ…もう大丈夫。一人で帰れますよ」
「…うるせえ行くぞ」
ちゃんと立てる事を証明する為に離れたのにもう送ってくれる事が決まっていてまた胸が痛み出す。それと戦っていると数歩先で間柴さんが私を振り返って待ってくれている。うそっ!本当にどれだけこの人は…!
「まし、…りょーくん」
「……なんだ」
「くっついて歩いても、良い?」
「…今まで散々好き勝手してた癖に今更聞くのかよ」
「くっついて歩いちゃいますっ!」
いつもの様にポケットに手を突っ込んでいるまし、了くんの腕に手を通して抱き付いて歩く。へへ。了くんだって。間柴さんのお名前を呼ぶならくんを付けたいなとずっと思っていた。だってなんか許されてるって言うか特別な感じするし。濡れたままのまつ毛を拭って熱を持った頬を揉む。
「どうした、珍しく静かじゃねえか」
「…まだちょっとふわふわしてて、現実味が…」
了くんの手がにゅっと横から伸びてきて私の頬を摘んだ。そのままきりきりと力を込められて目を開く。夢じゃないって教えてくれてるっ!?
「ん、あわあああっ」
「…本当にお前は何やっても尻尾振るんだな」
「しっぽ…んん、何されてもうれしい…っ」
ふにょふにょとほっぺたを摘んで私の気付け薬は去っていった。また蕩けそうになりながらも何とか理性を保って足を進める。あ、甘い…甘すぎるよ…!だ、ダメだ!甘くない雰囲気にしないと心も身体ももたない…!
「ぼ、ボクシングの方はどうですか?楽しい?続きそう?」
「楽しかねえよ。毎日走って殴って筋トレしてるだけだ。…まあ、性には合ってるよ」
「了くん真面目だものね」
「あ?」
こつこつ積み上げるの得意そう。視線を感じて首を傾げる。了くんは何とも言えない顔をしていて、オマエにオレはどう見えてんだ、と呟く。え、かっこよく見えてますけど…?ううん?
「そうじゃねえよ」
「そうじゃねえのか…」
真面目に見えてるのが変って事?うーん。一度決めた事は貫くし、不誠実な嘘は付かないし、努力家だし。真面目だと思うけどな。積み上げた事が必ず実になるものに強そう。そうなるともしかしたら本当にあっという間に世界チャンピオンになっちゃうのかも
「そっかあ、プロになってチャンピオンになったら了くん有名人になっちゃうんだ」
「あ?」
「ファン第一号とファンクラブの0番は死守しなきゃ」
プロになったら追っ掛けとか出てくるんだろうか。うわあ嫉妬しちゃうなあ。おかしな心配しなくてもそんな人間私しかいない、だなんて了くんは全くなんにも分かっていない。これはもう私が懇切丁寧に何年も時間をかけて了くんの素晴らしさを本人に教えないといけないみたいだ。胸を張って息巻いていると勝手にしやがれをいただいた。勝手にしやがります!
「おら、着いたぞ」
「着いたねえ。あうっ、」
自分の家を他人事の様に眺めると脇腹をつつかれた。仕方ないので腕を離す。名残惜しくてたまらない。本当は家に寄って欲しいしもうちょっと我儘を言いたい。でも我慢だ。次会った時に全部やっちゃうんだから。そんな勇気出ないだろうけど。
「ありがとうございました、了くん」
「ああ、腹隠して寝ろよ」
了くんのおやすみ、だ!さっきからずっと雰囲気がやらかい!ずるい!折角我慢するって決めたのに!了くんが全部なし崩しにしようとする!
「くっ…さっきからもしかして私の理性を試してるんですか!?」
「ああ?何言ってやがる」
「んっ!」
両手を伸ばすとハグだと思った了くんが首を下げる。うう、もうそんな普通にやってくれちゃうんだ。もしかして私思ってるよりめちゃくちゃ了くんに許されてる…?嬉しすぎて抱き付くついでにネックレスに唇を落とす。それから目一杯抱き締めると大きい手が背中を撫でてくれる。幸せのため息出ちゃった。
「了くんすき」
もう何度も言った言葉を呟いて了くんのほっぺに唇を寄せて音を鳴らした。固まった了くんにお構いなしに薄い頬を撫でて唇に触れる。カサカサしてる。かわいい。私の手の上からそこを目掛けてキスをするといつかの様に鼻同士が触れ合い切なさを思い出して胸が痛んだ。
「いい子で待ってるので、あんまり頻繁に誘惑しないでください」
悪い子になっちゃう。言うが早いか怒られる前に家の門を潜ってしまう。目元が闇に隠れていて表情が伺えないのが恐ろしい。
「おやすみなさい、了くん!」
「チッ、クソッ、覚えてやがれっ」
「ええっ!?」
試しに声をかけてみたら怒られた。やり過ぎちゃって嫌な思いをさせたかもと不安になって声を上げる。速足であっという間に帰路に着く背中に気を付けてね、と手を振るとゆっくり振り返ってくれたのでそこまで怒ってないみたいだ。良かった。
もう会わないって言われなくて本当に良かった。達成感と虚脱感が一気に襲ってくる。大好きな人の背中が見えなくなるまで見送ってから玄関の戸を開けた。…邪魔、かあ…そっか…会いたいって、言っちゃいけない…かな…
─────
「おお、成瀬さん」
「ん?こんにちは!」
夕焼けを背に下校していると知った声に呼び止められた。水谷さんだ。この人いつもにこにこしてるな。下向きになっていた心が軽くなる。流石だなあ。
「これからジムに了の様子を見に行こうと思ってな。一緒にどうだ?」
「えっ!い!きたいん、ですけど…いいのかな…ん…私はやめときます。邪魔になっちゃいけないし…」
ほっぺちゅーまでした癖に了くんの口から出た「邪魔」が思ってたよりも尾を引いていて、私らしく無さにまた落ち込む。影を背負った私に何かあったのか聞いてくれる声が優しくて鼻の奥が痛い。
「了が何か言ったのか?」
「ん、いいえ。その…了くんは忙しいのであまり煩わせちゃうのも悪いな、なんて」
なるほど。そう言ったのに何故か私の腕を掴んだ水谷さんが「さあ行こうっ」と歩き出した。呆気に取られて促されるまま着いていってハッとする。困らせてしまう、だなんて今更な事を喚くと大したこと無いとでも言うように軽く笑った。
「成瀬さんは了に必要な人だ。私はそう思う」
「み、みずたにさんっ…」
「笑顔にしたいんだろう?大丈夫。キミならできるとも」
気が付いたらぼたぼた音が鳴るほど泣いてしまっていた。私の暗い気持ちを吸った重たい水が地面に落ちていく。私の不安なんて話してないのに、何故だか水谷さんの大丈夫が私の胸を揺らした。涙はそのままに俯いてその後をついて行く。水谷さんの声で顔を上げるとジムの看板が見えた。
「あ、ありがとうございます。もう、大丈夫です。…でも…こんな顔じゃ会えないから、今日はここまでにしておきます」
「そうか。…また涙が乾いたら会いに行きなさい」
「はい」
まあ、キミの一番の薬は了の顔を見ることだろうがね。眉を下げて笑った水谷さんを見送って建物の影でハンカチを取り出す。すごい人だ。なんだか本当に大丈夫な気がする。このジムも水谷さんが紹介したんだもんね。了くんの事、なんでも分かっちゃったりするんだろうか。羨ましいっ。すん、と鼻を鳴らすと横から影が現れた
「おう」
「わ、了くん!?」
「…水谷さんが、泣かせちまったから様子を見てやってくれなんて言ってたが…本当に泣かされたのか。何があった?」
「ええ!?あ…うう、し、しんろそうだん…?」
水谷さん!会えないって言ったのに!あの人は!でも数日ぶりだし嬉しい…練習着きてる…!ありがとう水谷さん!了くんの事で勇気付けて貰ったなんて言えるわけもなく、了くんとの今後と言う名の進路相談と言葉を濁すと怪訝な顔をされてしまった。
「こんな寒ィ日に外で泣くな。風邪ひいちまうぞ」
「だ、だいじょぶ…涙とまったらかえるよ…!んむっ」
ハンカチを押し除けて首にかけてるタオルで顔を拭ってくれる。うう、お兄ちゃん味ある。手慣れている。タオルに了くんの体温が移っているのがもうきゅんが止まらない。
「将来、もう悩んでんのか」
「んんっ、ちょっと躓きそうになっただけで…励ましてもらったからもう大丈夫」
ふーん。と感情の乗ってない相槌にあの人すごいねえと返すと、低い声で…どうだかな。と思案気にそっぽを向いた。
「了くんの顔見たら元気になるって言ってたけど、なんとね、これが本当だったんだよ」
涙止まっちゃった。にへっと笑うと奥歯が痛そうな顔をした。お前はいちいちそう言う事言わねえと気が済まねえのかって言われてもどう言う事か分からない。なんかダメなこと言ったっけ…?
「もういいよ。聞くだけ無駄だ。行くぞ」
「え!い、いいよ!練習中でしょっ。一人でかえれ「うるせえっ。走るついでなんだよっ。黙って来いっ」
「はいっ」
さっさと歩き出してしまって振り返りもせず怒鳴る了くんの後を慌てて追いかけた。どうしよう、怒らせちゃった。理由も分からないので謝れない…!泣き腫らした顔をしてるだろうから顔を上げて歩くこともできない。了くんの背中も見つけるのに苦労する。
「何してる」
「か、顔を見られたくなくて…!んわっ」
前髪を一生懸命伸ばして目を隠す。濡れたまつ毛を拭っているといつの間にか止まっていた了くんにぶつかって情けない声を出してしまう。反射で謝って見上げると眉間に皺を寄せた了くんがこちらを睨んでいた。
「…前見て歩かねえなら捕まってろ」
「はわ…すき…ちが、しつれいします」
心の声を押し殺していつもと違う素材の腕を捕まえるとため息を合図に歩き出す。ハンカチをしまってすっかり冷えた目元に手を当てた。顔が寒い。マフラー持ってくれば良かった。鈍く痛むので了くんを頼りきって両目とも覆って温める。ちょっとはマシになったかな。目を開けると了くんと目があって胸がきゅんと鳴った。すぐ目を逸らされちゃったけど嬉しくてにやけた声が漏れるのも気にせず両手で腕に抱きつく。あ、だめだ。怒らせちゃってたんだった!
「了くん、ごめんなさい…なんで怒らせちゃったのか分からない…」
「ああ?なんの話だ。怒ってねえ」
「あれ?…ふふ、よかったっ」
不機嫌だと思ったけど違ったみたい。胸を撫で下ろすと急に了くんの足が止まって腕に鼻をぶつけた。
「間柴サンってのはテメエだな?」
「…誰だテメエら」
「…んな事どうだっていいんだよっ!お前、樹さんとつ、つ、つき、…ち、ちくしょうっ!」
不良の集団に囲まれたらしく了くんに庇われるみたいに手を引かれて影に隠されたけど自分の名前が聞こえて首を傾げる。俺たちのためにも頑張ってくださいとかなんとか。何やら仲間に応援されてるリーダーらしき人が、と言うかなんかみんな私の事を知ってるみたいだ。
「今私の名前よんだ?」
「チッ、出てくるんじゃねえっ」
「な、樹姉ちゃんっ!?じゃ、じゃあやっぱり…!!」
「うん?昇の友達?」
私の事を姉ちゃんと呼ぶ人は大抵弟の知り合いだ。殆ど不良だけど、何度も頭を下げてくれるし見た目ほど怖い人は今のところ一人もいない。困ってたら助けてくれるし、みんないい人だから、多分この人達も同じかな。
「…知り合いか?」
「私じゃなくて昇の、かな…昇の友達は何故かみんな歳関係なく私の事お姉ちゃんって呼ぶんだよ」
訳わからないって顔をする了くんに私もよく分かってないから上手く説明ができない。弟が周りに何を言っているのか分からないけど知らない人が私の事を知っているって言うのはよくある事なので気にしてなかったな
「コイツ、いや、こ、この人とつ、つき、……う、ゴホンッ…す、すきなんすか、そいつのこと」
「え!?ん、…うん。だいすき、なの」
急な問いかけにドギマギしながら答えると何故かみんながダメージを受けたみたいに蹲った。意味が分からなくて了くんを見上げると鼻を鳴らして嫌そうな顔をしてる。いつもの了くんだ。うーん。何しに来たのこの人たち
「ちょっと待ってくれ、なんでそんな目元が赤いんだ。まさか泣かされたんじゃないだろうな?」
「こ、これは違くて!その、ええと…ひ、ひみつ…っ」
泣いてた事を見透かされて顔が赤くなる。やっぱり直ぐ分かっちゃうんだ。恥ずかしくて了くんの腕に隠れながら視線を彷徨わせてたまらず目を瞑った。するとまた咽び泣く人が増えて嘘だろ、そんな、俺たちの樹姉ちゃんが…とか口々に言っている。訳がわからない。私は弟だけのお姉ちゃんだし。何この人たち。
呆気に取られていると肩を貸し合って泣きながら失礼しましたと礼儀正しく去って行き、とりあえずその背中に喧嘩しちゃダメだよ!と声をかける。よく分からなかった…今日弟に聞いてみよう。
「なんだったんだろ…」
「…くだらねえ。行くぞ」
「うん……ん?も、もしかしてこれまでも私のせいで絡まれたりしました!?」
了くん程じゃないにしろ、弟のお陰?で不良の知り合いは多い。知らない間に迷惑をかけていた可能性に今頃気がついて背筋が凍る。
「別に大した事ねえ。そんなことよりお前はどうなんだよ。オレのせいで変な事に巻き込まれてねえだろうな」
「え?んーと、大丈夫でしたよ。怖くなかったし」
ぎょっとする了くんを宥めて詳細を話す。確かに間柴の女だろって声をかけられた事はあるけど、「そう見えますか!?」って飛び付いたら驚かれたし、なんだかそのままお互いの恋愛相談に発展してアイスまで奢って貰っちゃって何事もなく別れた。そんな事もあったなあと吐き出すとオレはお前が怖えよと呆れられてしまった。なんで!?
「これからは絡まれたら直ぐオレに言え。何もなくてもだ。いいな」
「はいっ」
了くんが公園で言ってた心配ごとって、もしかしてこう言う事だったんだろうか。それってつまり私がこうやって隣を歩いているのが原因…てこと、かな…それは…すごく…落ち込む…
「……もしかして、くっついてるの…良くない、かな」
「…それこそ今更だろ。気にしたってもう遅えよ」
「ご、ごめんなさい…考え無しだった…んぶっ」
なんだか悪い気がして手の力が抜けてしまう。すると了くんの手が顔に向かってきて頬を掴まれた。唇が寄って結構恥ずかしい…
「もう遅えって言ってんだろ。面倒くせえな。…どうでも良い事気にしてる暇があったらいつもみたいにヘラヘラしてろ。この話はもう終わりだ」
分かったな。と凄まれて何度も頷く。去って行く手を見送ってその熱を追いかけるように頬を抑えた。
「了くんぽかぽかだね」
「お前が泣いたから冷えたんだろうが。シャキシャキ歩けよ、さっさと帰って大人しく寝てろ」
「ふふ、うん」
寒さなんて気になら無くなるくらい顔に熱が集まる。了くん優しい。これでその気になるな、は無理でしょ。了くんくらいじゃないと。それとも一歩近づいた人になら皆んなにこの甘さを振り撒いてたりするのかな。うーんでも抱き締めてくれるもんね。彼女、のつもりでいていいのかな。腕を抱き締めて擦り寄っても何も言わない。私だけ、かな
「ね、…ちゅーは我慢するからぎゅうしても良い?」
家が見えてきたので先手を打つと華麗に無視された。視線を向けても何も聞こえて無かったみたいに涼しい顔をしている。いいもんね。勝手にお腹に突撃してから帰るし!門の前まで来ると了くんの腕が動いたので素直に手を離す。よし突撃っと思ったら離した手を引かれて了くんの胸に収まった。
「へぁ…」
突然の幸せに目を白黒させる私なんかにお構いなしで了くんが屈んで私の頬に自分のをくっつけた。
「…しなくて良いのか」
「ひ、ぅ…んん、する…」
火がついたみたいに体中熱くなる。耳元の低い声に力が抜けそうになりながら広い肩に手を這わせて擦り寄る様に唇を押し付けた。
「は、う…ガ、ガンバッテクダサイ…」
練習頑張ってね。って言いたかったのに頭も唇も働かない。小さくなる私を見て了くんは満足そうに鼻で笑って離れた。そのまま何も言わずに背を向けて走り去って行くのを見ながら崩れ落ちるようにしゃがみ込む。なにあれ!両思いって事!?反則じゃん!もう結婚じゃん!
頭を抱えたいのを我慢して背中が見えなくなってから漸く熱い顔を両手で隠した。了くんずるい。熱が治るまでしばらく動けそうにない…!
「姉ちゃん家の前でなにしてんの」
「……蟻さん見てる…」
「…見てねえじゃん」
心底楽しいとでも言うようにニコニコしている女を視界に入れて誰にもバレないようにゆっくり息を吐き出す。裏のない笑顔は妹と被る程真っ直ぐで微塵も含みを感じない。こいつにオレに対する悪意が無いことはもう分かっている。しかしそれも"今は"でしかない。小癪に隠された石ころにいつ足を取られるかわからない。人が手のひらを返すのなんて道端の石を退かすより簡単だ。
こいつがオレの前に現れた時、また何かに巻き込まれたと思った。いつもなら気にも止めずに立ち去っていたはずなのにあの日はどうかしていた。
柔らかい口調に怯えを一切見せない表情。果ては戯けた態度まで取りやがって呆気にとられた。挙句オレなんかにナンパだと言い放った。訳が分からねえ。女から目が離せずにいると目が合った途端光が差したように笑って手を振ってきやがる。
警察に詰められていた時もどこからか現れたと思えば馴れ馴れしく引っ付いて、オレのために用意された身に覚えのない紙切れでオレに恩を売った。貸し借りはめんどくせえもんだと身に染みているので拳で片がつく用でオレに絡んでいるなら手を貸してやるつもりで声をかければ本気でオレを口説いているなんて恥ずかしげもなく宣った。
鼻の頭まで赤くして、やっと目を彷徨わせたと思えば湿気を帯びた目でまた真っ直ぐオレを見て溶け落ちたか細い声で好きだと言った。
どうせ、一時のお遊びだ。放っておけば飽きて直ぐ見向きしなくなる。オレを知れば怯えて近寄りさえしなくなる。
身体の芯まで冷え切った感覚を遠くで感じながらふと手首が嫌に温くて視線を落とせば女がいた。ああ、オレを口説いてるんだったか。喧嘩を売ってきた連中が逃げ帰るのを他人事の様に見送っている間にその温もりが身体に移っていた。いつの間にかぐしゃぐしゃに泣いた女がオレに抱き付いている。顔が涙と血で汚れていてヒヤリとしたが、拭えば傷は見当たらないので心底安堵した。
妹が派手にずっこけてビービー泣いていた時の事を思い出しながら女の涙を拭いてやる。そう言えばこいつ、オレの喧嘩に割り込んできやがったのか。そう思うとまた背筋が嫌に緊張する。ああなると自分が何をしていて誰に手を上げているのかも分からなくなるのに、もし気付かずそこに割り込んできた妹と歳の近い女を…?考えただけでもゾッとする。だったらオレがまともな時に相手にする方が余程マシだ。
欲しがっていた連絡先を餌に約束をこじ付けてやってさっさと別れる。頭がズキズキと痛んでこの傷があいつにできていたかと思うと途端に具合が悪くなる。嫌な妄想を追い払いたくて奥歯を噛み締めながら速足で家に帰った。
争った事がバレない様に部屋に篭って処理をして腕を抱える。大丈夫だ。あいつは怪我をしていなかった。けど、またオレの喧嘩に首を突っ込んできたら…?答えの出ない押し問答で肝を冷やしているとお袋が嫌に明るい声でオレを呼んだ。聞けばあいつが電話を掛けてきた、と。
鼻歌でも歌い出しそうな程機嫌がいいお袋を無視しつつ電話に出れば軽口が飛んできて眉間に力が入る。無事だ。震えてない明るい声。それが迷った様に小さくなって、胸に不快なざわつきが走ると反射的に用がなけりゃ切ると吐き捨てる。それで終われば良かったのにまたいつかの溶け落ちた声が聞こえると望まれた通りに話を続けていた。耳元で聞こえる明るい声に抱えていた恐怖が解けて行くのを感じる。最後の宙に浮く様な声色の挨拶がいつまでも耳に残っていた。
それから会う度に妹の様に腕を引いて歩いて楽しそうに喋っては去っていった。誘いには乗らない。なんだ本気にしたのか、なんて言われるのが見えている。あいつはそんな奴じゃない。本当に?オレとあいつが一緒にいるのを見た人間にオレがいかに最低な人間か詰められていてつい視線をやると不思議そうに首を傾げていた。目が合うと途端に光が差した様に笑って手を振られる。荒っぽくない人、気の落ち着いた、優しい人。オレは本当にそんな人間か…?
こいつといれば、オレは両親の言う普通になれるのか?
「間柴さん、ごちそうさまですか?」
「………ああ」
手を合わせてにこにこ笑う顔を見ていると水谷さんの視線を感じる。目尻の皺が深くなるのを見て、碌なことを言わねえ顔だと思ったら成瀬さんを家まで送って差し上げろだと。隣の女の目がきらきら光って鬱陶しい。女性を夜遅くまで引き止めたら家まで送るのがマナーだと言うので引き止めたのはあんただと言うと名前を呼ばれる。一人でさっさと店を出ると遅れて水谷さんにお礼を言いながら女が出てきた。会ってからずっと楽しそうな疲れ知らずと目が合う。
「早くしろ」
「えっ!やったあ!」
オレに走り寄ってからもう一度水谷さんに振り返ってお礼を言って手を振っている。気が済むまで待ってやるとオレを見上げて笑った。街灯に照らされた赤い頬をぼうっと見つめると行き先を指差したので目を逸らして足を進める。
「間柴さん、くっ付いて良いですか?」
また誰かに心配されるんじゃねえかとか単に嫌だとか言えば良かったのに、息が詰まった沈黙を是と取ったのか柔らかなものが腕に纏わり付いた。
「ずっと言いたかったんですけど、腕を組まれるの慣れてますよね」
「…妹が引っ付いてくるからな」
「お兄ちゃんなんですねっ!良かった…通りでお兄ちゃんの風格があると思いました」
緊張した声がふわりと溶けた。こいつの声は感情がそのまま乗っているので分かりやすい。妹と言わず久美と名前を出せばこいつを傷つけられたかも知れないのに、無意識に言葉を選んでいる事に気がついてこめかみがチリチリ疼く。臆する事なく伝えてくる所為でこいつの感情がそのままの形でオレの内に入ってくる。三つ違いの弟がいるという話を聞きながらおかしくなっていく自分に歯噛みをした。
「…オレに家を知られて良いのか」
「え?もちろん。あ!寄って行きますか?今日パパ夜遅いからうるさくないし」
「……寄らねえよ」
「ふふん。いつでも来てくださいねっ」
明るく弾んだ声に見上げられた気配がするが無視した。どんな顔をしているか、見なくてももう分かる。柔らかく緩んだ表情が見たい。だが見たら目が離せなくなる。自分の懐から刃を突き立てられるのは、誰かを傷付ける事より痛い。なら近付かせなければいい。これ以上、踏み入らせなければ今までのままでいられる。
「間柴さん、今日おやすみのお電話するとしたら出てくれますか?」
そう言えば、そんな話しをしていた。オレが出なきゃ、お袋と仲良くなると言っていた事を思い出して連絡先を教えた事を悔やむ。大体、大層な事のように言っているが所詮ただの挨拶だ。それなのに空気に溶ける声を思い出してハッと息が漏れた
「それに何の意味があるってんだよ」
「だって寝る前の挨拶って普段家族くらいとしかしないし…特別な感じ、しませんか?」
「おい」
特別。こいつはオレとそうなる事を望んでいる。言葉を返そうと口を開き掛けたら男の声が割って入った。一気にムカムカして視線だけで殺すつもりで声を追うと見た事ねえ男がオレを睨み付けていた。オレより背は低く、目付きは一丁前だが顔付きは幼い。口の端に絆創膏を貼っていて、既にひと揉めした顔をしている。
「あれ、るーちゃんおかえり。間柴さん、さっき話した私の弟。昇くんです」
「誰だよこいつ。なんでねーちゃんと腕組んでんの。まさか彼氏とか言うんじゃねえよな」
「えへへーそう見えるー?」
「全っ然っ見えねえっ」
とても似合うとは言えない気の抜けたあだ名で呼ばれた不良がこいつの弟らしい。そう思えば幾らか力が抜けるが刺さる視線は他の不良と大差ない。まあ、オレだって妹に近付く男どもには同じような圧を向けるが。
「ねーちゃんから離れろよ」
「こいつが勝手に引っ付いてんのが見えねえのか?」
「自慢か?俺だって隣歩けば腕くらい組むんだよっ俺のねーちゃんだぞっ」
「こーら変な事で張り合わないのっ私がしたくてしてるんだから絡まないで」
こいつの言葉にショックを受けてオレが誑かしただの喚かれる。漸く問題が起きたと思えば本当に家族らしく、こいつが見ている時は弟の顔をする癖にオレに見せる顔は殺伐としている。弟が来たんだからオレは用無しだろうと腕を振ると妹には無い柔い感覚が強く纏わり付いた。
「行っちゃいやです」
「な、」
不安と甘えが乗った声に弟が驚いて奥歯を噛み締めている。オレが同じ立場なら相手を当にどうにかしているが弟はそうでは無いらしい。邪魔したら暫く口聞かないなんて言葉くらいでうるさい口を閉じてしまった弟を鼻で笑う。
「でね、さっきの話なんですけど」
「好きにしろ。どうせ何言ったって聞きゃしねえんだ」
「そ、そんな事は…うーん、ちょっとだけ…へへ」
決まりが悪そうにしたかと思えば耐え切れないとでも言うように明るい笑いが漏れた。そんな嬉しいかよ、たかが電話の約束くらい。むず痒くなって歯を噛み締めると後ろから踵を踏まれて躓きかける。青筋を立てて犯人を睨み付けると甘い香りが間に割って入り怒りが分散した。
「こらー!悪い子!そんな事しちゃダメでしょ!もう前歩きなさい!」
姉に叱られてガキのように拗ねて言われるまま前を行く後ろ姿に二、三悪態をついてやろうと口を開くと横からしょぼくれた声が謝った。随分と年下だしガキ相手に追い打ちをかけるまでもねえかと自分を納得させて口を閉じる。
「てめえがオレに臆さず話しかける理由が分かったぜ」
「あはは、パパはもうちょっと怖い顔してますよ。怒ったところは見た事ないけど」
不良が身内にいるのならオレみたいなやつにでも態度が変わらないのも頷ける。納得したのと同時にどこかつっかえが取れた気がしてまた一つ形の見えないものが遠ざかった。家に着くと弟が威嚇するようにして早く離せ帰れと騒いだがまた一喝されるとおとなしく扉の中に消えて行った。生意気な面の割りに素直で感心する。なら次はこいつだ。離れるように腕を揺らすとまた抱き込まれたので帰らねえのかと様子を伺う。
「あの、家まで送ってくれて…ありがとうございました」
「ああ」
もぞ、と動いては視線をあちこちに動かして忙しない。かち合った視線が外れたかと思ったらようやくのろのろと離れる。何がしたいのかさっぱり分からず、留まる理由も見つからないので踵を返そうとすると腹に柔らかいものが押し当てられた。…違う。
「すきです、間柴さん」
溶けた声がオレの腹を突き通した。小せえ手が脇腹を通って背中にしがみつく。見上げる顔は上気して少し強張っていたが、暗闇でも分かるくらい水を溜めている瞳と目が合うと相変わらず気が抜けるようにへな、と笑った。段々としがみ付く力が強くなってこいつが潰れる、なんてありもしない事で焦るとゆっくりと温もりが離れて行く。
「ふふ、また寝る前に電話します」
はにかんでいる知らない生き物に声をかけられ漸く肺に酸素が通った。なんなんだ、こいつは。地面に張り付いていた足を動かすと一度痙攣したが問題なく動いた。背を向けると後ろから気をつけて帰るよう声をかけられる。振り向けば絶対後悔するのにそこには予想通り手を大きく振り上げる姿があった。夏なのに腹の奥がやけに冷たい。
家に着いても答えは出ず、呆然と過ごしてお袋の声で我に帰る。時計を見るといつもくらいの時間だった。電話に出ねえと。作業の様に受話器を耳に当て明るい声をぼうっと聞いて適当に相槌を打つ。何でこいつはいつも楽しそうなんだ。大して言葉を返してやっていないのに、何で嬉しそうに笑うんだ。何がそんなに…
最後に約束の挨拶を聞いた時、赤らんだ顔で目を潤ませてとろりとした笑顔でオレに言った言葉を思い出して返事もせずに電話を切った。なんなんだ、一体
「了」
「………」
オレを呼ぶ声に顔を上げるとお袋が口を開閉していた。ややあって柔らかく息を吐き出すと何故か随分と穏やかな表情をしている。
「お風呂入っちゃいなさい」
「……おう」
お袋が飲み込んだ言葉を探しかけてすぐに辞めた。水を差されれたみたいに具合が悪くなる。痛む鳩尾を撫でながら隣で揺れていた黒髪を思い出しそうになり脱衣所に足を向けて振り切った。何でここに居ない奴のことなんか考えなきゃならねえんだ。
そうやっていつもの日常にあいつが加わっていく日が暫く続いた頃、恐れていた事が起こった。分かってる。オレが今までやってきた事を繰り返すだけだ。いいよ。邪魔するやつは全員殺してやる。
─────
夏休みも終わり、涼しさを感じられる様になってとんと間柴さんに会えなくなった。断り切れなかった小さな箱を二つ、抱えてため息をつく。電話をして間柴さんママに聞いても良いだろうか。でも間柴さんそう言うの物凄く嫌がるしな…
ぐるぐる考えて結局何も出来ずに日が過ぎて行く。だらだらと力なく日常をこなしてバイトの帰り道を力なく歩く。夜の空気を胸いっぱいに吸い込んだ時だった。人通りのない路地、丁度陰になるそこから手が伸びてきて口を塞がれる。裏路地に引き摺り込まれ暴れようとすると低い声がすぐ後ろから聞こえた。
「オレだ」
「ま、ましばさ…」
「おう」
変質者かと思ったら好きな人が出てきた驚きで情緒が壊れた。視界がぐらぐら滲んでいく。なんで普通に会いに来てくれないのっ!意地悪っ!でもすきっ!子供が甘えるようにめちゃくちゃに抱き付いて頬擦りまでしてしまう。
「う…あっ…寂しくてしんじゃう所でしたーっ!もうちょっとでおかしくなっちゃってたーっ!」
んーっ!すき!間柴さんの匂いがする服に目一杯擦り寄って力の限り抱き付くと何と抱き締め返されて飛び上がった。何事かと上を向くと更に隙間を埋める様に抱き締められて固まってしまう。耳元で苗字を呼ばれて蕩けそうになりながら何とか名前が良いと強請ると直ぐに呼び直してくれる。幸せ過ぎて変になっちゃいそうだ。
「暫く、会わねえ」
「…え…」
「オレを見かけても話しかけるな。何をしてても首を突っ込むんじゃねえ」
「ま、しばさっ…んぅ…」
「頼む」
不穏な言葉に強張る体を抱き直されて強く抱き締められる。呻いても力が緩むことはなかった。背中を撫でてみても変わらない。幸せと不安ですごく胸が痛い。間柴さんはこれを伝える為に私に会いに…?
「いつ、まで…?」
「…………」
「んん…ましばさ、ん、」
沈黙で分からないと返されて切なくなる。危ない事に巻き込まれているんだろうか、それとも単に忙しくなるだけ?それなのにこんな、さよならを言う時みたいに空気が重たいのはどうして…?
「待ってても、いい、ですか…?」
「……ああ」
手を伸ばして襟足を撫でるとやっと力が緩んだけど直ぐにまた苦しいくらいに抱き締められる。
「ん、…まってます、ずっと」
だから、
連絡をして良いですか、とか約束をくれませんか、とか沢山言いたい事があったのに一つも声にならない。抱き締めたまま体を起こした間柴さんが私のおでこにそれを寄せて擦り寄ったので息を飲んだ。まつ毛が触れて吐息まで感じる距離なのに少しも近づいた気がしない。また連絡すると囁かれたのがすごく切なくて涙を堪えながら何とか頷いた。
背中に回していた手を解いて今度は背伸びをして首に縋り付いた。空いていた隙間がぴったりと埋まった気がして少しだけ胸のつかえが取れた。間柴さんがやりたい事を成せる様に、疲れた時に、元気が出る様に。私の元気を注いでおきますねなんて言うと息を吐いて掠れた声で返事をしてまた抱き締めてくれる。勝手に溢れる私の思いを間柴さんはずっと黙って聞いてくれていた。
「悪いな…送ってやれねえんだ」
「いいえ、…会いに来てくれて…嬉しかったです」
そっと離れて行く体が名残惜しいのを隠せずに離れ際に手をぎゅと握ると少しだけ反応を返してくれる。帰るよう催促されてではまた、なんて見えない約束をして足を踏み出した。たぶん、間柴さんはもう私に会わないつもりで会いに来てくれたんだと思う。さよならを言いに来たのに、私が泣いて甘えてしまったから応えてくれたんだ。
ぼやけて見えづらい道をやっとの事で辿って行く。振り返って見てみてももう暗闇から間柴さんを見つける事はできなかった。
「姉ちゃん、最近アイツに会ってねえの?」
「………」
「別れた?」
「…わかれてないっ」
あれから日を跨ぎ月を跨いで、なるべくいつも通りを意識して過ごしていたけど家族ともなると最近の私の様子が違うのが分かるらしい。弟が嬉しそうにしているから必要以上にむっとしてしまう。でも口を開いたら言わなくていい事まで言ってしまいそうだし、何よりちょっと鼻がつんとするし、我慢しておく。
付き合ってない…から別れたわけじゃないし、別に振られた訳でも…ない…ちょっと会えないって言われただけだし…抱き締めてくれたから少なくとも多少は好きって事じゃんっ。それ以上の可能性は考えない!
間柴さんに限ってそんな中途半端に関わって自然消滅狙いとかないと思うし…!嫌な事は嫌って言う人だもんね!私は間柴さんの連絡をおとなしく待ってればいいんだから、落ち込む必要なし!よし、元気出てきた
さっきとは打って変わって明るくなった私を見てつまらなそうにしている弟を心の中で笑っておく。夕飯を済ませてお風呂から出るとママが電話口で困惑しているのが見えて側に寄った。
「あの、どなたですか?…もしもし…?……失礼します」
「どうしたの?」
「んー、間違い電話かしらねえ。ずっと無言だったの」
「ふーん…?」
無言の間違い電話…何となく時間を確認して目を開く。まさか、でも何で無言なんだろう。今すぐ掛け直してしまいたいけどもし違ったら約束を破ってしまう事になるし…。考えても仕方ないので今度の電話は全力で取る事にする。そして数日空けてまた同じ時間に電話が鳴った。立ち上がろうとするママを止めて走って受話器を取りに行く。
「はい、成瀬です……もしもし…?」
やっぱり沈黙が続いたので想像が当たったのかと嬉しくなる。私の好きな人の気配がするなあなんて笑うと息を呑む音で電話口の相手を特定できた。
「まだ、なんでしょう?ふふ、でも嬉しくなっちゃいましたっ。さすが甘やかすのが上手だなあ」
鬱憤を晴らすみたいに甘えているとママと目が合った。うわ、恥ずかしい。手で雑に追い払うとニヤついた口を手で押さえて去って行く。後で揶揄われたら部屋に篭ろう。ずっと無言の間柴さんの状況を何となく想像して尚も明るく一方的に話をする。学校の事、友人や先生の事、道で見つけたお店の事。たまに聞こえる吐息の相槌に何度も込み上げてくるものを飲み込んで隠す。
どうしたのか聞きたい。でも聞いてしまったらもう連絡もくれなくなってしまうかもしれない。遠すぎる距離がもどかしい。少しだけ聞いてみようと口を開くとまるで見計らったみたいに「切る」と短く告げられる。声が、聞けた。それだけで間柴さんの言葉足らずさを全部許してしまう自分が憎い。吐き出そうとしたもの全て隠して口角を上げた。
「…はい、……おやすみなさい、間柴さん」
返事も無く切られてしまった。この前もそうだったな、なんて考えて息を吐き出す。規則正しく並んだ電子音が慰めてくれる。電話くれたんだし、何も言わないって事は私の声が聞きたかったに違いない!よし、脈あり!脈あり!
不安を全部ポジティブに押し切って何も考えないようにする。大丈夫。待ってればいいって言ったんだから。
そうやって無理矢理自分を納得させて色がない月日を数えて行く。一つ季節が過ぎようとした頃、ついに愛しい無言電話すらもなくなった。
───いつも通り制服を着て家を出る。途中駅前のトイレによって私服に着替えた。学校には既に休みの連絡は入れてある。まだ時間には余裕があるのに焦りで手足が震えてしまう。ぼやけそうになる視界を何度も振り払って足を進めた。
遠目から見ても一目でわかる高い壁の建物。その門の前で会いたかった二人組が何かお話している。もつれる足を必死に動かして今までにない速度で駆けていく。その音で二人が振り返って、一人が大きく目を見開いた。
「ましばさんっ!」
「っなんで知ってる?」
「私が話したんだ」
「う、うえっ…ごめんなさいっ…ひぐ、…待てなかったっっ!」
途中躓いてバランスを崩した所を間柴さんが捕まえてくれる。それが嘘みたいに嬉しくてお腹に抱き付いて頬擦りをしたかったけど間柴さんの服を濡らさない理性が働いて代わりに額を擦り寄せる。
「…悪かったな」
「っ、お、おかえりなさい…っ」
「…ああ」
間柴さんが謝る事じゃないのに。首を振ってなんとか声を絞り出すと間柴さんがいつかみたいに袖で涙を拭ってくれる。懐かしい。全然涙が止まらないのでこれ以上袖に負担をかける訳にもいかず鞄からハンカチを取り出して自分で拭う。
「学校はどうした」
「い、行っていることになってます」
「暫く見ねえ内に随分とグレたんだな」
「ううっ」
「まあ今日くらい良いじゃないか。私も成瀬さんが駆けつけくれて嬉しいぞ」
うう、みじゅたにざんっ…!やっと落ち着いてきたのに追い打ちをかけられて潰れた声を出すと快活に笑われて気力を持ち直す。変わらない表情で見つめてくれる間柴さんが眩しくてちゃんと姿が見られない。止まらない涙を拭きながら久しぶりに訪れた一時の幸せを精一杯噛み締めた。
───────
間柴さんに会えない間、学業とアルバイトに専念していたお陰で学生にしては懐に余裕があった。ならばする事は一つ。お祝いのプレゼントだ!とはいえ実はあまり間柴さんの事をよく知らない…と落ち込みかけた気持ちを立て直す。悩みに悩んで学生には十分すぎるほど値の張るものを思い切って購入した。自己満足が大いに占めるものの名目はお祝いだもの!片割れは勝手に身に付けてしまう。
後は連絡をするだけ、と思ったところで新しい電話番号を聞き忘れるのがそう、この私。それはそれは本当に落ち込んだ。間柴さんから電話が来た時はそれはもうテンションが上がって話があると言われた途端私も話がありますと食い気味に答えてしまった。少し間があったものの、もうそんな私に臆する事がなくなった間柴さんはさすがだ。
そして約束の日、待ち合わせ場所には既に間柴さんがいて姿を見付けると躾けられた私の足は勝手に駈けてしまう。
「オレの家でいいか?」
「え、あ、うーん…すごく…物凄く魅力的ですが…」
今間柴さんは親戚の元にいる妹さんを迎えに行く為に土木作業でお金を稼いでいる。それをお礼とするそうだ。それなのに私が妹さんより先に二人の新居を跨ぐのは…すごく自分が許せない。そう伝えると一つ頷いて歩道の段差を跨ぐとこちらに手を差し出した。
「なら来い。こっちに公園がある」
「うあ…はい」
心臓がうるさい。だって手を繋いでる!躊躇いつつ手を伸ばしたら間柴さんが私の手を迎えに来て握り込んだのだ。夢じゃないならなんなんだ。現実すごい……
日もだいぶ暮れ込んでいるので公園には誰も居なかった。時折走っている人が公園の前を通りかかるくらいだ。街灯に照らされた公園に二人きり。ベンチの近くまでくると間柴さんの足が止まった。
「邪魔だ」
小さく声が漏れる。繋いでいる手の指先が嫌に冷たくて身体が硬直したかのように言うことを聞かない。まただ。あの日と同じ。あの日切なくなるくらい強く抱き締めてくれたのに、間柴さんはずっと遠い所にいた。今も同じだ。手が触れ合っててもちっとも近づく事を許してくれない。
「お前が邪魔だ。もうオレに構うのはやめろ。後ろ暗い事とは手を切ったがオレのせいで事件に巻き込まれるかも知れねえ。守ってやれる保証もねえ。今のオレじゃ、妹だけで手一杯だ」
「…なん、だか…別れ話、みたいです」
「そう言ってんだよ」
後ろ姿しか見えないのが寂しくて手を強く握ってみたけど少し反応をくれただけでこっちを見てはくれなかった。
「私が間柴さんと関わって何かあったら嫌で、妹さんを守るのに忙しいから、わかれる…?」
「ああ」
「……でも、すき…?」
「………」
「…わかりました」
間柴さんがくれる沈黙が、こんなに嬉しい事なんてこの先何度あるんだろうか。ちゃんと、お話をしないと。涙を飲み込んで震える口をなんとか動かす。
「わたし、あなたの道を遮ったり心を煩わせたりしません。だ、だけど…」
私は間柴さんがこうして手を繋いでくれただけで、貴方に一生の恋ができる。お別れしても、もうずっと好きなままだ。もう、何をしてもこれは変えられない。葛藤しながら繋いだ手を離して鞄から包みを取り出す。
「私のお話も、聞いてくれますか?」
そう言うとやっとこちらを向いてくれた。私の方は見てくれないのがちょっと痛い。
「あの、プレゼント、受け取って欲しくて…本当はプレゼントって言うか…殆ど私の自己満足と言うか……あの日…本当はお別れの日だったんだって、何となく気が付いていました」
本当は本人に包みを解いて欲しかったけど、間柴さんは受け取ってくれないだろうから押し付ける事にする。丁寧に包装された包みを解いて箱を開く。
「だから…純粋に、門出をお祝いするつもりだったんですけど…間柴さんが一人でずっと頑張っている事も、私には…何も、話したくないと思ってる事も、知っているので…目印が、欲しくて。…私が、いつでも間柴さんを見つけられるように」
街灯に照らされて鈍く光るそれを掲げて付けても良いですか、と聞くと拒絶されて何も返してやれねえなんて言うので首を振る。私の自己満足のためなので、お返しは困ります。と答えてそもそもアクセサリーとか付けるの嫌いだったのかもと不安になって控えめに聞く。
「見つけられるのも…迷惑、ですか…?」
無言で少しだけしゃがんでくれた間柴さんに擦り寄って震える手で留め具に手をかけた。勝手に溢れる涙を放ってもだもだしてると間柴さんが私の首筋を見ていた。苦笑いをしてバレちゃった。なんて戯ける。そうですペアです。重たくてごめんなさい。
「私が勝手に間柴さんの事が好きなだけだから、気持ちを返そうとしなくて良いです。…あなたが思っているよりもずっとあなたの事が好きだから。あなたが待てと言ったらそれだけでいつまででも一人で待てちゃいます。…ので、別れ話は…なし」
だ、だめ…?付け終わったネックレスをするりと撫でて見上げると「今のままがいつまで続くか分からねえぞ。時間の無駄になる」と返ってきたので思わず涙を拭いて「間柴さんと別れる方が嫌!」と飛びつく。暫く会えないのは我慢できるけど別れ話は絶対イヤ!
「一生かかるかもしれなくてもか?」
「ふん、大丈夫です。一生好きって言い続けるもん。それに、間柴さんが一息ついた時、側に私がいる事に気が付いたら間違ってキスしたくなっちゃうかもしれないし」
「あ?」
背中に手を回して目一杯擦り寄る。仄暗い雰囲気を吹き飛ばす様に震えた声を隠した。私の長所は明るい所!と自分に暗示をかける。好きって一生言ってくれなくても良い。必要だって思ってくれればなんだって我慢できる。ダメ押しはしたもん勝ちだ。本心だもの。特に間柴さんに関してはちゃんと口に出さないと通じないんだから。
「そしたらその時は結婚しましょーねっ」
見上げていたずらに笑うと驚いてる顔の間柴さんがいた。本気に取ってくれないかもしれないけど私はすごく本気だ。だって間柴さんがキスしてくれるってもうそれ自体結婚って感じする。そう言う事にめちゃくちゃ興味無さそうだもん。なのでちゃんと言質を取らないといけない。もう一度別れ話は無しって言ってくださいとお願いする。
「じゃないと間柴さんから手が離せない」
「ふん、後悔しても知らねえぞ。オレはちゃんとチャンスをやったからな」
「ええ?」
チャンスって意味が分からない。間柴さんから離れるチャンスって事?近づくチャンスも貰った覚えないんですが!?首を傾げるとぎゅっと抱き込まれる。これ、もう心から喜んでも良いハグって事で良いんだよね!?また怖い事言ったりしないよね!?
「途中で逃げ出したりしたら許さねえ。一生後悔させて地獄見せてやるからな」
「っ!」
不穏な言葉なのに今の私には愛の言葉にしか聞こえない。間柴さんに私の気持ちが許された。こんなのこれ以上ないご褒美だ。耳どころか頭まで溶けちゃう!緊張が解けた反動で頭がくらくらしてちょっと正直立ってられない。ドキドキで胸も痛い。へなっと力をなくした私を軽々抱き寄せてそのまま様子を伺ってくれるのは嬉しいんだけど今は逆効果です間柴さん!いつも辛辣な言葉を浴びせられてきたのでその振り幅について行けない…!いや、こわいことは言われたんだけど…!
「ええんっだいすき…」
「何度も言わなくたって分かってるよ」
「うわあっ」
逆上せる寸前の私を笑う顔にまたきゅんとする。私で遊んでいるのは分かってるけどこの意地悪は辛辣な間柴さんより手が付けられないかもしれない
「お前の話ってのはそれで終わりか?」
「はな、はなし…っ…お、おなまえをっ よびたくてっ 」
「ああ、敬語もいらねえ」
さっきからずっと配給が凄まじいので腰を抱いて貰っているのに甘えて落ち着く為に間柴さんから手を離して自分の顔を隠す。他にねえならお前が落ち着いたら帰るぞ、と声をかけられてハッとした。間柴さん忙しいのに時間を取らせちゃった!
「だ、だいじょぶですっ!お、おち、おちついてます!かえれます!っ!」
「待ってやるから慌てんじゃねえよ。危なっかしいな」
慌てて離れてフラフラのまま自立に失敗して受け止められる。うう、だめだめじゃん…折角なのでもう一度お腹に抱き付いて深呼吸する。間柴さんの匂い、良い匂い。次はいつ会えるか分からないのでしっかり堪能しておかないと。まだ少しぽやっとするけど大分気分が落ち着いてきた。
「ん〜〜っ…もう大丈夫。一人で帰れますよ」
「…うるせえ行くぞ」
ちゃんと立てる事を証明する為に離れたのにもう送ってくれる事が決まっていてまた胸が痛み出す。それと戦っていると数歩先で間柴さんが私を振り返って待ってくれている。うそっ!本当にどれだけこの人は…!
「まし、…りょーくん」
「……なんだ」
「くっついて歩いても、良い?」
「…今まで散々好き勝手してた癖に今更聞くのかよ」
「くっついて歩いちゃいますっ!」
いつもの様にポケットに手を突っ込んでいるまし、了くんの腕に手を通して抱き付いて歩く。へへ。了くんだって。間柴さんのお名前を呼ぶならくんを付けたいなとずっと思っていた。だってなんか許されてるって言うか特別な感じするし。濡れたままのまつ毛を拭って熱を持った頬を揉む。
「どうした、珍しく静かじゃねえか」
「…まだちょっとふわふわしてて、現実味が…」
了くんの手がにゅっと横から伸びてきて私の頬を摘んだ。そのままきりきりと力を込められて目を開く。夢じゃないって教えてくれてるっ!?
「ん、あわあああっ」
「…本当にお前は何やっても尻尾振るんだな」
「しっぽ…んん、何されてもうれしい…っ」
ふにょふにょとほっぺたを摘んで私の気付け薬は去っていった。また蕩けそうになりながらも何とか理性を保って足を進める。あ、甘い…甘すぎるよ…!だ、ダメだ!甘くない雰囲気にしないと心も身体ももたない…!
「ぼ、ボクシングの方はどうですか?楽しい?続きそう?」
「楽しかねえよ。毎日走って殴って筋トレしてるだけだ。…まあ、性には合ってるよ」
「了くん真面目だものね」
「あ?」
こつこつ積み上げるの得意そう。視線を感じて首を傾げる。了くんは何とも言えない顔をしていて、オマエにオレはどう見えてんだ、と呟く。え、かっこよく見えてますけど…?ううん?
「そうじゃねえよ」
「そうじゃねえのか…」
真面目に見えてるのが変って事?うーん。一度決めた事は貫くし、不誠実な嘘は付かないし、努力家だし。真面目だと思うけどな。積み上げた事が必ず実になるものに強そう。そうなるともしかしたら本当にあっという間に世界チャンピオンになっちゃうのかも
「そっかあ、プロになってチャンピオンになったら了くん有名人になっちゃうんだ」
「あ?」
「ファン第一号とファンクラブの0番は死守しなきゃ」
プロになったら追っ掛けとか出てくるんだろうか。うわあ嫉妬しちゃうなあ。おかしな心配しなくてもそんな人間私しかいない、だなんて了くんは全くなんにも分かっていない。これはもう私が懇切丁寧に何年も時間をかけて了くんの素晴らしさを本人に教えないといけないみたいだ。胸を張って息巻いていると勝手にしやがれをいただいた。勝手にしやがります!
「おら、着いたぞ」
「着いたねえ。あうっ、」
自分の家を他人事の様に眺めると脇腹をつつかれた。仕方ないので腕を離す。名残惜しくてたまらない。本当は家に寄って欲しいしもうちょっと我儘を言いたい。でも我慢だ。次会った時に全部やっちゃうんだから。そんな勇気出ないだろうけど。
「ありがとうございました、了くん」
「ああ、腹隠して寝ろよ」
了くんのおやすみ、だ!さっきからずっと雰囲気がやらかい!ずるい!折角我慢するって決めたのに!了くんが全部なし崩しにしようとする!
「くっ…さっきからもしかして私の理性を試してるんですか!?」
「ああ?何言ってやがる」
「んっ!」
両手を伸ばすとハグだと思った了くんが首を下げる。うう、もうそんな普通にやってくれちゃうんだ。もしかして私思ってるよりめちゃくちゃ了くんに許されてる…?嬉しすぎて抱き付くついでにネックレスに唇を落とす。それから目一杯抱き締めると大きい手が背中を撫でてくれる。幸せのため息出ちゃった。
「了くんすき」
もう何度も言った言葉を呟いて了くんのほっぺに唇を寄せて音を鳴らした。固まった了くんにお構いなしに薄い頬を撫でて唇に触れる。カサカサしてる。かわいい。私の手の上からそこを目掛けてキスをするといつかの様に鼻同士が触れ合い切なさを思い出して胸が痛んだ。
「いい子で待ってるので、あんまり頻繁に誘惑しないでください」
悪い子になっちゃう。言うが早いか怒られる前に家の門を潜ってしまう。目元が闇に隠れていて表情が伺えないのが恐ろしい。
「おやすみなさい、了くん!」
「チッ、クソッ、覚えてやがれっ」
「ええっ!?」
試しに声をかけてみたら怒られた。やり過ぎちゃって嫌な思いをさせたかもと不安になって声を上げる。速足であっという間に帰路に着く背中に気を付けてね、と手を振るとゆっくり振り返ってくれたのでそこまで怒ってないみたいだ。良かった。
もう会わないって言われなくて本当に良かった。達成感と虚脱感が一気に襲ってくる。大好きな人の背中が見えなくなるまで見送ってから玄関の戸を開けた。…邪魔、かあ…そっか…会いたいって、言っちゃいけない…かな…
─────
「おお、成瀬さん」
「ん?こんにちは!」
夕焼けを背に下校していると知った声に呼び止められた。水谷さんだ。この人いつもにこにこしてるな。下向きになっていた心が軽くなる。流石だなあ。
「これからジムに了の様子を見に行こうと思ってな。一緒にどうだ?」
「えっ!い!きたいん、ですけど…いいのかな…ん…私はやめときます。邪魔になっちゃいけないし…」
ほっぺちゅーまでした癖に了くんの口から出た「邪魔」が思ってたよりも尾を引いていて、私らしく無さにまた落ち込む。影を背負った私に何かあったのか聞いてくれる声が優しくて鼻の奥が痛い。
「了が何か言ったのか?」
「ん、いいえ。その…了くんは忙しいのであまり煩わせちゃうのも悪いな、なんて」
なるほど。そう言ったのに何故か私の腕を掴んだ水谷さんが「さあ行こうっ」と歩き出した。呆気に取られて促されるまま着いていってハッとする。困らせてしまう、だなんて今更な事を喚くと大したこと無いとでも言うように軽く笑った。
「成瀬さんは了に必要な人だ。私はそう思う」
「み、みずたにさんっ…」
「笑顔にしたいんだろう?大丈夫。キミならできるとも」
気が付いたらぼたぼた音が鳴るほど泣いてしまっていた。私の暗い気持ちを吸った重たい水が地面に落ちていく。私の不安なんて話してないのに、何故だか水谷さんの大丈夫が私の胸を揺らした。涙はそのままに俯いてその後をついて行く。水谷さんの声で顔を上げるとジムの看板が見えた。
「あ、ありがとうございます。もう、大丈夫です。…でも…こんな顔じゃ会えないから、今日はここまでにしておきます」
「そうか。…また涙が乾いたら会いに行きなさい」
「はい」
まあ、キミの一番の薬は了の顔を見ることだろうがね。眉を下げて笑った水谷さんを見送って建物の影でハンカチを取り出す。すごい人だ。なんだか本当に大丈夫な気がする。このジムも水谷さんが紹介したんだもんね。了くんの事、なんでも分かっちゃったりするんだろうか。羨ましいっ。すん、と鼻を鳴らすと横から影が現れた
「おう」
「わ、了くん!?」
「…水谷さんが、泣かせちまったから様子を見てやってくれなんて言ってたが…本当に泣かされたのか。何があった?」
「ええ!?あ…うう、し、しんろそうだん…?」
水谷さん!会えないって言ったのに!あの人は!でも数日ぶりだし嬉しい…練習着きてる…!ありがとう水谷さん!了くんの事で勇気付けて貰ったなんて言えるわけもなく、了くんとの今後と言う名の進路相談と言葉を濁すと怪訝な顔をされてしまった。
「こんな寒ィ日に外で泣くな。風邪ひいちまうぞ」
「だ、だいじょぶ…涙とまったらかえるよ…!んむっ」
ハンカチを押し除けて首にかけてるタオルで顔を拭ってくれる。うう、お兄ちゃん味ある。手慣れている。タオルに了くんの体温が移っているのがもうきゅんが止まらない。
「将来、もう悩んでんのか」
「んんっ、ちょっと躓きそうになっただけで…励ましてもらったからもう大丈夫」
ふーん。と感情の乗ってない相槌にあの人すごいねえと返すと、低い声で…どうだかな。と思案気にそっぽを向いた。
「了くんの顔見たら元気になるって言ってたけど、なんとね、これが本当だったんだよ」
涙止まっちゃった。にへっと笑うと奥歯が痛そうな顔をした。お前はいちいちそう言う事言わねえと気が済まねえのかって言われてもどう言う事か分からない。なんかダメなこと言ったっけ…?
「もういいよ。聞くだけ無駄だ。行くぞ」
「え!い、いいよ!練習中でしょっ。一人でかえれ「うるせえっ。走るついでなんだよっ。黙って来いっ」
「はいっ」
さっさと歩き出してしまって振り返りもせず怒鳴る了くんの後を慌てて追いかけた。どうしよう、怒らせちゃった。理由も分からないので謝れない…!泣き腫らした顔をしてるだろうから顔を上げて歩くこともできない。了くんの背中も見つけるのに苦労する。
「何してる」
「か、顔を見られたくなくて…!んわっ」
前髪を一生懸命伸ばして目を隠す。濡れたまつ毛を拭っているといつの間にか止まっていた了くんにぶつかって情けない声を出してしまう。反射で謝って見上げると眉間に皺を寄せた了くんがこちらを睨んでいた。
「…前見て歩かねえなら捕まってろ」
「はわ…すき…ちが、しつれいします」
心の声を押し殺していつもと違う素材の腕を捕まえるとため息を合図に歩き出す。ハンカチをしまってすっかり冷えた目元に手を当てた。顔が寒い。マフラー持ってくれば良かった。鈍く痛むので了くんを頼りきって両目とも覆って温める。ちょっとはマシになったかな。目を開けると了くんと目があって胸がきゅんと鳴った。すぐ目を逸らされちゃったけど嬉しくてにやけた声が漏れるのも気にせず両手で腕に抱きつく。あ、だめだ。怒らせちゃってたんだった!
「了くん、ごめんなさい…なんで怒らせちゃったのか分からない…」
「ああ?なんの話だ。怒ってねえ」
「あれ?…ふふ、よかったっ」
不機嫌だと思ったけど違ったみたい。胸を撫で下ろすと急に了くんの足が止まって腕に鼻をぶつけた。
「間柴サンってのはテメエだな?」
「…誰だテメエら」
「…んな事どうだっていいんだよっ!お前、樹さんとつ、つ、つき、…ち、ちくしょうっ!」
不良の集団に囲まれたらしく了くんに庇われるみたいに手を引かれて影に隠されたけど自分の名前が聞こえて首を傾げる。俺たちのためにも頑張ってくださいとかなんとか。何やら仲間に応援されてるリーダーらしき人が、と言うかなんかみんな私の事を知ってるみたいだ。
「今私の名前よんだ?」
「チッ、出てくるんじゃねえっ」
「な、樹姉ちゃんっ!?じゃ、じゃあやっぱり…!!」
「うん?昇の友達?」
私の事を姉ちゃんと呼ぶ人は大抵弟の知り合いだ。殆ど不良だけど、何度も頭を下げてくれるし見た目ほど怖い人は今のところ一人もいない。困ってたら助けてくれるし、みんないい人だから、多分この人達も同じかな。
「…知り合いか?」
「私じゃなくて昇の、かな…昇の友達は何故かみんな歳関係なく私の事お姉ちゃんって呼ぶんだよ」
訳わからないって顔をする了くんに私もよく分かってないから上手く説明ができない。弟が周りに何を言っているのか分からないけど知らない人が私の事を知っているって言うのはよくある事なので気にしてなかったな
「コイツ、いや、こ、この人とつ、つき、……う、ゴホンッ…す、すきなんすか、そいつのこと」
「え!?ん、…うん。だいすき、なの」
急な問いかけにドギマギしながら答えると何故かみんながダメージを受けたみたいに蹲った。意味が分からなくて了くんを見上げると鼻を鳴らして嫌そうな顔をしてる。いつもの了くんだ。うーん。何しに来たのこの人たち
「ちょっと待ってくれ、なんでそんな目元が赤いんだ。まさか泣かされたんじゃないだろうな?」
「こ、これは違くて!その、ええと…ひ、ひみつ…っ」
泣いてた事を見透かされて顔が赤くなる。やっぱり直ぐ分かっちゃうんだ。恥ずかしくて了くんの腕に隠れながら視線を彷徨わせてたまらず目を瞑った。するとまた咽び泣く人が増えて嘘だろ、そんな、俺たちの樹姉ちゃんが…とか口々に言っている。訳がわからない。私は弟だけのお姉ちゃんだし。何この人たち。
呆気に取られていると肩を貸し合って泣きながら失礼しましたと礼儀正しく去って行き、とりあえずその背中に喧嘩しちゃダメだよ!と声をかける。よく分からなかった…今日弟に聞いてみよう。
「なんだったんだろ…」
「…くだらねえ。行くぞ」
「うん……ん?も、もしかしてこれまでも私のせいで絡まれたりしました!?」
了くん程じゃないにしろ、弟のお陰?で不良の知り合いは多い。知らない間に迷惑をかけていた可能性に今頃気がついて背筋が凍る。
「別に大した事ねえ。そんなことよりお前はどうなんだよ。オレのせいで変な事に巻き込まれてねえだろうな」
「え?んーと、大丈夫でしたよ。怖くなかったし」
ぎょっとする了くんを宥めて詳細を話す。確かに間柴の女だろって声をかけられた事はあるけど、「そう見えますか!?」って飛び付いたら驚かれたし、なんだかそのままお互いの恋愛相談に発展してアイスまで奢って貰っちゃって何事もなく別れた。そんな事もあったなあと吐き出すとオレはお前が怖えよと呆れられてしまった。なんで!?
「これからは絡まれたら直ぐオレに言え。何もなくてもだ。いいな」
「はいっ」
了くんが公園で言ってた心配ごとって、もしかしてこう言う事だったんだろうか。それってつまり私がこうやって隣を歩いているのが原因…てこと、かな…それは…すごく…落ち込む…
「……もしかして、くっついてるの…良くない、かな」
「…それこそ今更だろ。気にしたってもう遅えよ」
「ご、ごめんなさい…考え無しだった…んぶっ」
なんだか悪い気がして手の力が抜けてしまう。すると了くんの手が顔に向かってきて頬を掴まれた。唇が寄って結構恥ずかしい…
「もう遅えって言ってんだろ。面倒くせえな。…どうでも良い事気にしてる暇があったらいつもみたいにヘラヘラしてろ。この話はもう終わりだ」
分かったな。と凄まれて何度も頷く。去って行く手を見送ってその熱を追いかけるように頬を抑えた。
「了くんぽかぽかだね」
「お前が泣いたから冷えたんだろうが。シャキシャキ歩けよ、さっさと帰って大人しく寝てろ」
「ふふ、うん」
寒さなんて気になら無くなるくらい顔に熱が集まる。了くん優しい。これでその気になるな、は無理でしょ。了くんくらいじゃないと。それとも一歩近づいた人になら皆んなにこの甘さを振り撒いてたりするのかな。うーんでも抱き締めてくれるもんね。彼女、のつもりでいていいのかな。腕を抱き締めて擦り寄っても何も言わない。私だけ、かな
「ね、…ちゅーは我慢するからぎゅうしても良い?」
家が見えてきたので先手を打つと華麗に無視された。視線を向けても何も聞こえて無かったみたいに涼しい顔をしている。いいもんね。勝手にお腹に突撃してから帰るし!門の前まで来ると了くんの腕が動いたので素直に手を離す。よし突撃っと思ったら離した手を引かれて了くんの胸に収まった。
「へぁ…」
突然の幸せに目を白黒させる私なんかにお構いなしで了くんが屈んで私の頬に自分のをくっつけた。
「…しなくて良いのか」
「ひ、ぅ…んん、する…」
火がついたみたいに体中熱くなる。耳元の低い声に力が抜けそうになりながら広い肩に手を這わせて擦り寄る様に唇を押し付けた。
「は、う…ガ、ガンバッテクダサイ…」
練習頑張ってね。って言いたかったのに頭も唇も働かない。小さくなる私を見て了くんは満足そうに鼻で笑って離れた。そのまま何も言わずに背を向けて走り去って行くのを見ながら崩れ落ちるようにしゃがみ込む。なにあれ!両思いって事!?反則じゃん!もう結婚じゃん!
頭を抱えたいのを我慢して背中が見えなくなってから漸く熱い顔を両手で隠した。了くんずるい。熱が治るまでしばらく動けそうにない…!
「姉ちゃん家の前でなにしてんの」
「……蟻さん見てる…」
「…見てねえじゃん」