纏わり付く雨

「クソッ、クソ...ッ！」

石原は心身共に追い詰められていた。桜木がうさぎをした日以来、いや。同じ日に少年院を出ていったはずの横須賀が戻ってきた日以来、自分がいつ食事をしたのかすら分からなくなっていた。分かるのは嫌に怠い体と耳の奥まで響いてくる心臓の音、それと桜木への殺意。居場所が分からない恐怖が左腕の痛みを増やして行く。

俺はずっとマトモだった。一度だって法を犯した事なんて無かったんだ。なのになんでこんな事に。ただ佐々木に言われた通りにして金を貰ってただけだ。あいつが勝手に死んじまうからいけなかったんだ。いや、もっと悪いのは…

脳裏に焼き付いたあの鋭い目が石原を責め立てる。...桜木だ。あいつさえ居なけりゃ俺は...。気づいた時には走り出していた。切れる息を無視してただ足を進める。...耳元で激しい雨の音が聞こえた。

「はァ、いろは...いろはッ！」

見慣れた家に押し入るように入ると喉に張り付いた息を絞り出して名前を呼んだ。...そうだ、俺にはまだ此奴が居る。靴を脱ぐ時間すら惜しくて雪崩込みながら玄関に上がる。奥からとたとたと慌てて出てきた姿を見て石原はやっと息をついた。

「石原さん！？...すごい汗！どうしたの！？そんなに慌ててっ......石原、さん......？」

頬に伸ばされた手を掴んで力一杯抱き締めた。いろはの温もりと優しい香りに段々と気分が落ち着いてくる。戸惑いながらも背中に回された手に石原は一層その温もりを求めた。

「心配、してたのよ？連絡も無しに音信不通になるんだもの...家にも行ったのに、暫く帰ってないみたいだったし」

「あァ...すまねェ...ちょっと、色々立て込んでてよ。」

あれだけうるさかった雨の音も、心臓の音もいろはの声に掻き消されて聞こえなくなった。耳障りのいい優しい音は闇に蝕まれて行く石原の心を軽くしてくれる。全て終わったらこれからはこいつの為に生きていこう。こいつがいればそれで良い。そうだ。その為に殺さなければ。

「もうすぐ、片付きそうなんだ。」

「石原さん...なんか変よ？何かあったの...？」

「なんにもねェさ。最近忙しくて疲れてんだよ」

眉を下げて顔を覗き込んで来たので首を振って笑みを返す。上手く笑えていない気がしたので何か言いた気ないろはを誤魔化すように口付けると困ったようにはにかんだ。

「全部片付いたらよ、...」

「うん」

「一緒になろう。」

「...うん。」

腕の中に閉じ込めて一時の幸せに脳味噌が震えた。それと同時に左腕が鈍く傷む。そう言えばこれと同じ気持ち良さだったなァ...そろそろ欲しくなる頃だ。無意識に記憶にあるアンプルの数を数えた。

「...ねぇ。何処にも行かない？」

「なんだよ急に。」

「なんだか遠くに行っちゃいそうで...私を置いて行かないでよね。また音信不通になったりしないよね？」

「悪かったって。何処にも行かねェ。また直ぐに会いに来るから待ってろよ。な？そん時は一緒に役場に行くぞ」

「...うん。絶対よ？」

「あぁ。」

いろはの柔らかい髪を撫でて頷いて見せれば石原の好きな顔で笑った。この笑顔を、こいつ自身を本当の意味で手に入れる。あいつを殺して。そしたらきっと俺もいろはも幸せになれる筈だ。そうだろ？いろは。

汗を拭いて着替えを。と勧められたがどうせ雨に濡れるしすぐに出ると断った。寂しそうないろはに精一杯愛情を込めて口付けると足速に家を出る。

「ククッ、殺してやる…桜木」

一人になった途端息を潜めていた憎悪が再び溢れ出した。また心臓と土砂降りの音が煩く耳にこびり付く。まるで速く殺せと囃し立てている様で、その賑わいに口角を釣り上げた。やっと見つけたんだ。俺の幸せを。俺といろはの幸せを。...たった一人のガキの所為で人生狂わされてたまるか。仕方ねェ事だ。いろはなら分かってくれる。気が遠くなるくらい遠回りをしたがもうこれで終いだ。

ヒヤリと背中にシャツが張り付いて土砂降りの空を見上げる。額を流れる雨が鬱陶しくて何度も拭った。...傘くらい借りてくりゃ良かったな。

「本当に、大丈夫かな...」

時折肩を揺らしながら小さくなっていく背中にいろはは首を傾げた。数ヶ月連絡が取れなかった恋人が突然現れてプロポーズをして去っていく。嬉しい筈なのに、妙な違和感に胸の奥が嫌な音を立てて痛んだ。いつもはきっちりとした格好をして会いに来てくれるのに、シャツは寄れて、髪も乱れていた。忙しいと言っていたが、そんなに人が足りていないのだろうか...。

...それにしてもあれはどういう意味だろう、

「雨なんか、降ってないのに...」


2018/03/11