短編
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自己欺瞞
※男装………?
萩野がこの世を去り、桜木が彼の無念を必ず晴らすと誓ってから数日後、看守の短い声と共にこの地獄に吸い込まれた少年がいた。少年は薄いまぶたで瞳を半分ほど隠して息を殺すように桜木の目の前に立っていた。華奢過ぎる体格によく似合っている細く小さな手を見ながら呆気に取られている桜木を前に、気まずそうに口を開いたのは意外にも少年の方だった。
「三ツ一…いろは、です……あの…よろしく、お願いします……」
「っ…あぁ。俺ァ桜木六郎太だ。よろしくな」
一瞬女かと錯覚させる程柔らかで中性的なか細い声を聞いて驚いた桜木だったが、直ぐに笑顔を向けると今にも泣き出しそうだったいろはの顔も安心したように綻んだ。一先ず腰を落ち着けるように言うと壁に紛れるように膝を抱き、体を小さくして座ったが桜木は最初はそんなものだろうと気にとめなかった。
ただ、この頼りない小さな存在を見ていると嫌でも萩野が死んだ原因を思い出してしまう。恐らく、いろはが上から強く抑えつけられれば抵抗出来ないタイプだろうことは容易に想像出来た。いろはが石原や佐々木に言いくるめられて良いように遊ばれることを思ったら奥歯を噛み砕いてしまいそうな激情が桜木を襲う。これから同じ狭い房内で生活するとなれば友人になるのにそう時間はかからない。近しい友人を二度も亡くす訳にはいかないと桜木は隠し持っている小さな紙に密かな誓いを立てた。
「なァ、三ツ一。年は幾つなんだ?」
桜木の思わぬ質問に今度はいろはが呆気に取られたが、敵意も邪心もない事を感じ取るとやがて肩の力を抜いてゆっくりと口を開いた。言葉を交わすうちに桜木は他の卑俗な言葉を投げかけてくる連中たちとは違うとどこか確信めいたものを感じ、歳が同じ事もあっていろはが心を開くのにそう時間はかからなかった。桜木もそれを裏切ることはなく、いろはが誰かに絡まれていれば必ず助けに入り、必要な限り行動を共にした。その姿はまるで「それ」を連想させるようだと実しやかに囁かれるようになり、いろはに目を付けていた少年から妬み事を口汚く浴びせられる事もあったが、いろはは桜木が嫌でなければ他の者に何を言われたってどうだって良いと思っていた。それ程までに桜木を信頼していたし、友のような、兄のような存在の桜木を心から尊敬していた。
いろはは自分のせいで変な噂を流されて申し訳ないと謝ってきた桜木に迷わず日頃から思っていた事を告げると桜木は少し照れ臭そうに笑った。男の目に映る自分がどういうものなのかを痛いほど知っていたいろはは絶望しか無いと諦めていた筈だった鉄格子の内側の、奇跡とも呼べる暖かな光に目を細めた。
「あ、ろく。それ次、俺読みたい。」
歌うように囀る鳥の声を聞きながら、いろはは桜木が新しく図書室から借りてきた本を見るなり明るい声を上げた。桜木は笑みを浮かべると「そう来ると思ったよ」といろはの頭を軽く撫でて快諾すると粗末な机に向かって腰を落ち着けた。
凍えそうな冬を身を寄せ合って乗り越える頃には、二人は名前で呼び合うようになり、いろはは文字通り花の蕾が綻ぶ様に桜木の前でだけよく笑うようになった。しかしそれが密かに桜木の誓いをより強固なものにしていると言う事を、いろはは知らない。
「…ろく?」
本に目を落としていた桜木が不意に頭を上げて固まったので不思議に思って声をかけると、桜木は頬杖をついていろはを見た。珍しく言い淀んだ桜木を見て珍しいことがあるものだといろはは首を捻る。
「ずっと気になってたんだが…似合わねェと思ってな」
「へ?なにが?……あぁ、俺?」
一瞬視線が彷徨った後再びいろはに落ち着くと、意を決したように放たれた言葉にもう一度首を傾げた。先程の会話の中で、桜木がそれ程までに気を使い、尚且ついろはに似合わない事となれば一つしかない。恐らく自分の一人称を言っているのだろうといろはは当たりを付けた。女男と揶揄され、それに慣れるくらい男にしては頼りない自覚があるいろはにとってそれはもう何てことない雑談の中の一つに過ぎなかったが、心優しい他人から見ればそうはいかない問題らしい事は何となく分かっていた。
そしてそうやって気づかってくれる人間というのはごく少数だという事もいろはは痛い程知っていた。いろはの中で他の少年たちとは一線を画している桜木だからこそいろはを傷付ける意図はないと確信が持てたし、案の定嫌味のつもりは無かったと、頭を下げようとした桜木を制していろははできるだけ明るく笑う事を意識した。
「あ、いや。そういう意味じゃねェ」
「あは、うん。大丈夫。俺もそう思うよ」
復興の中で強者と弱者が明確に分かれ、その光と闇を両方見てきたいろはは金の次に強いのは男と信じて疑わなかった。いつだって男に食い物にされるのは女や子供だ。だがいろははそれがたまらなく嫌だった。それだけだ。たったそれだけでいろはは男になり損ね、あっと言う間に地獄に落ちてしまった。自分自身があんなに嫌っていたものに、今度は自ら縋って生きねばならない現状にいろはは乾いた笑いをこぼした。
「でも俺が僕って言ったらさ、本当にそれっぽいじゃない」
そちらの方が違和感が無いが、確かに似合い過ぎているかも知れない。むしろ………。桜木はそんな事を考えて直ぐに思考を追いやった。それが身を守る為の鎧なら、安易に他者が突くべきでは無い。しかし桜木は、いろはが自分の前ではその鎧の紐を緩めてくれていると小さな自信があった。互いに心を許しているからこそ感じる距離感が二人にはあった
「なんでお前みたいなやつがこんな所に来ちまったんだ?」
「んー…、…俺が、弱っちぃのがいけないんだ」
桜木の前でだけ大きく開く瞳がいつかのように半分ほど隠れると、直ぐに鋭い痛みが桜木の胸を刺した。後悔の念がふつふつと込み上げて、いろはがこんな顔をするくらいならやはり聞くのはよそうと口を開きかけた時、いろはが笑った。無理矢理口角を上げ歯を見せて下手くそに目を細める。お世辞にも笑顔とは言えない表情に桜木の心臓が絞られるように震えた。
「弱っちくて細っこいのに、一番最初に生まれちゃったから…バチが当たったんだよ」
「いろは……」
自分は病気だから近づかない方が良いと、桜木に最期までなにひとつ相談しなかった萩野もそうだった。悲痛な表情を隠すように口角を上げて桜木の知らぬ間に手の届かない所に行ってしまった。
必然だったのかも知れない。いろはの顔と思い詰めた萩野の顔が重なって思わず小さな体を腕の中へと閉じ込めていた。二度はない。あんな思いはもう沢山だ。ダチも守れねェなんて男に生まれた意味がねェ。いろはの震えた吐息を感じながら、桜木はどうしようもない荒々しい感情を必死に押し殺していた。
「何があってもいろはは俺が守る」
「ろ、くろ…っ」
「二度とそんな顔しなくて良いようにしてやる」
桜木の熱の篭った言葉に、いろはは戸惑っていた。自分は自分。他人は他人。このご時世、人の事なんかに構っている余裕がある人間なんて居やしない。その筈なのに。桜木の腕の温もりは冷め切っていたいろはの心をあっという間に溶かし切って、熱く頬を濡らした。
「ろく、ろくっ…!」
縋るように服を掴んで嗚咽を飲み込もうと上下する小さな体を時折撫でてやりながら桜木は空を睨んだ。少年にも少女にもなりきれない中途半端でちっぽけな命を包み込む腕は何処までも優しく、強かった。
いろはは17歳にして、その日初めて恋をした。それが一生を懸けても叶わぬものと知りながら、赤い炎はじわじわと、しかし確実にいろはの小さな胸を焦がしていった。花弁が地に落ちる事を知らないまま、自由を求めて宙を舞う。風に遊ばれて、雨に濡れるのはそう遠い未来ではないだろう。
もうすぐ、春が終わる。
2019/05/24
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