処女の陰核とノーパンと文化・社会

今日からはじまる「陰核文化社会論」の授業が、ひそかに楽しみで、マヤはワクワクしていた。
いつものように朝のシャワーを浴びながら、少しだけ授業のことを考えていた。
シャワーの水しぶきが、肌を滑り落ちてゆく。いつものように股間を手でまさぐるように洗いながら、そこに陰核があることを思いながら、「陰核文化社会論」の授業のことを考えてみた。

性教育みたいな授業は今までもあったけど、なんだか素っ気なかった。わざわざネットで動画や画像を調べようとも思わなかった。
興味がなかったわけじゃないけれど、何よりもまず勉強をしっかりしなければいけなかったから。そんな風に、マヤはこれまでの自分自身のことを振り返った。

「女の子の権利」とか「女性の権利」という言葉はたくさん出てくる。自分を大切にしなさい。だから自分で決定する。決定する権利がある。それが大切だということはよくわかる。
フェミニズムやジェンダー、LGBTQという言葉も習った。だけど、こういう言葉が、セックスとかオナニーとか陰核と、どんな関係があるのか、よくわからない。

性とかセクシュアリティとか言葉はでてきても、なんだか核心はぼかされてきた感じがする。
だいたい「陰核」について研究が進んだっていうニュースがあるのに、今まで陰核をまじめに教えてくれる授業がなかったことは不思議。
陰核の医学とか工学とか、陰核を研究する科学技術の分野が発展しているこの社会なのに。

「私にだって陰核はあるし、たまにオナニーみたいなこともするし、多分セックスだってできると思うけど。まだ、処女。」
「まだ」って思ってしまうところに何かモヤモヤするものを感じた。
焦っているのかもしれないけれど、だからといって周りに流されたり、雰囲気でなんとなく初体験をしたくない。
ちゃんと自分で相手も、そしてタイミングも決めたい。
ちゃんと考えてからにしたい。だから、この授業でちゃんと勉強したい。
そう思ったところで、マヤはシャワーを上がった。
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