第九章〜VS楸瑛
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翌日、玉蓮と珀明は朝から州府の書庫に籠もっていた。
火災前の戸籍、救済金の支給記録、仮住居への移転者名簿、死亡者と行方不明者の届け出。机の上には次々と帳簿が積み上がり、最初こそ一冊ずつ丁寧に目を通していた玉蓮も、昼を過ぎる頃にはすっかり文字の海に埋もれていた。
「碧官吏、これも見てください」
「今度はなんだ?」
珀明が顔を上げると、玉蓮は一冊の古びた戸籍を抱えて隣までやって来た。開かれている頁には、火災のあった地区に住んでいた者たちの名が並んでいる。
「この家です。火事の前には夫婦と子供二人の四人暮らしになってますけど、救済名簿には父親の名前しかありません」
「母親と子供は死亡扱いになっているんじゃないのか?」
「それが、死亡者名簿にもいません。移住者の方にもないです」
珀明は戸籍を受け取り、他の帳簿と照らし合わせた。確かに玉蓮の言う通り、三人分だけ記録が途切れている。それだけならば単なる届け出漏れとも考えられるが、朝から同じような例が既にいくつも見つかっていた。
「……これで七世帯目か」
「はい。それと、こっちは逆です」
玉蓮が今度は別の帳簿を差し出した。
「この人、火事の一年前に亡くなってるのに救済金を受け取ったことになってます」
珀明の眉間に深い皺が寄る。
「死者に金は受け取れないな」
「ですよね」
「嬉しそうに言うな」
「嬉しくないです。でも、やっぱり何か変なんだってわかったので」
そう言って玉蓮はまた自分の席へ戻っていった。珀明はその背中を見送りながら、小さく息を吐く。
最初は、地方まで連れてこられた景侍郎の娘の面倒を見る羽目になったくらいに思っていた。戸部で自分の下についていたもののその期間は長くなく、実際の官吏としてどれほど使えるかまではわからなかったし、本人もどこかのんびりとしていて、危機感に欠けるところがある。
だが、帳簿を読ませれば細かな数字の違いによく気づく。疑問を持ったことをそのままにはせず、関連する記録を自分で探してくる粘り強さもある。
少なくとも、ただ庇護されるだけの娘ではなかった。
「碧官吏?」
「なんだ」
「さっきから私のこと見てません?」
「見てない」
「そうですか?」
「手を動かせ」
「はい」
素直に帳簿へ戻る玉蓮を見て、珀明はもう一度ため息をついた。
夕刻近くになって、ようやく二人は調べた内容をまとめ終えた。
火災後に救済対象となった世帯の中には、既に死亡していた者や火災前に転居していた者が混ざっている。一方で、確実に居住していたはずなのに記録から消えている者も少なくない。
そして、そのほとんどには共通点があった。
「正式な戸籍がない……?」
報告を受けた春麗が呟く。
州尹の執務室には春麗のほかに楸瑛もおり、玉蓮と珀明は机を挟んで並んで立っていた。
「正確には、戸籍そのものがない者と、昔の戸籍に名前だけ残っていて今の所在が確認されていない者がいます」
珀明が説明すると、玉蓮も横から頷く。
「あと、他の州から来て住み着いた人もいるみたいです。でも正式に移ってきた届けを出してないので、州府の記録には載ってません」
春麗は報告書を読みながら、険しい顔をした。
「では、火災で被害を受けていても救済の対象にならなかった者がいる可能性が高い、ということですわね」
「はい」
「反対に、名簿上だけ存在する者へ金が支払われている」
今度は楸瑛が言った。
その声音からは昨日までの軽さが少し消えている。
「誰かが救済金を抜いている可能性もあるね」
「横領ですか?」
玉蓮が聞くと、楸瑛は肩を竦めた。
「まだそうとは限らない。単に古い名簿を使って処理しただけかもしれないし、州府の手続きが追いついていなかっただけかもしれない。ただ、調べる価値はあるだろうね」
春麗も頷いた。
「まず、救済金を実際に誰が受け取ったのか確認しましょう。それと同時に、記録から漏れている者についても現地で調べる必要がありますわ」
その言葉を聞いた玉蓮の顔が明るくなる。
「では、明日また行ってもいいですか?」
「行っても構いません。ただし」
春麗はすぐさま楸瑛を見る。
「今回は藍将軍から離れないこと。それから、勝手に子供を追いかけたりしないこと」
「……なんで私だけ先に言われるんですか?」
「昨日の実績がありますもの」
「でも昨日追いかけたのは碧官吏です」
「お前は余計なことを言うな!」
珀明の声が響き、楸瑛が愉快そうに笑った。
翌朝、一行は再び貧民街へ向かった。
前回とは違い、今回は目的がはっきりしている。焼け残った家々を一軒ずつ回り、火災当時ここに住んでいた者と、現在住んでいる者を確認するのだ。
しかし、州府の官吏が来たと知ると、住民たちの反応は想像以上に冷たかった。
「知らねえよ」
「うちには関係ない」
「今さら何を調べに来たんだ」
戸口を閉ざされることも珍しくない。
玉蓮は三軒続けて話を聞けず、困ったように珀明を見上げた。
「嫌われてますね」
「見ればわかる」
「私、そんなに嫌な顔してます?」
「顔の問題じゃない」
「でも藍将軍なら女人には話してもらえそうですよね」
「どうしてそこで私を見るのかな?」
後ろを歩いていた楸瑛が笑う。
「藍将軍、得意でしょう?」
「景官吏の中で私はどういう人間になっているんだい」
「女人に優しい人です」
「随分好意的に言ってくれるね」
「女人にだけ、を付け忘れました」
珀明が横で吹き出しかけ、楸瑛は胸を押さえて大袈裟に傷ついた顔をした。
そんなやり取りをしながら歩いていると、路地の先に見覚えのある姿が見えた。
小柄な少年だった。
昨日、玉蓮に棒を振り上げた子供である。
「あ」
玉蓮が足を止めた瞬間、少年もこちらに気づいた。
目が合う。
次の瞬間、少年は踵を返した。
「待って!」
玉蓮が反射的に一歩踏み出す。
その肩を珀明が掴んだ。
「待てと言われたのはお前の方だ!」
「でも逃げちゃいます!」
「だからってお前が追うな!」
言い争っている間にも少年は路地の奥へ駆けていく。しかし、その姿を見ていた楸瑛は、今度は笑わなかった。
「私が行く」
短く言い残すと、その姿が瞬く間に遠ざかった。
玉蓮が目を丸くする。
「速い……」
「武官だからな」
「碧官吏もあれくらい走れます?」
「走れるわけないだろ」
少しして、楸瑛は少年を連れて戻ってきた。
正確には捕まえてきたわけではない。数歩離れたところを少年が警戒しながら歩き、その後ろを楸瑛がついて来ている。
少年は玉蓮を見るなり、露骨に顔を歪めた。
「なんだよ」
「先日はどうも」
玉蓮が頭を下げると、少年の方が面食らった。
「……なんでお前が謝るんだよ」
「謝ったわけじゃないです。挨拶です」
「変な女」
「よく言われます」
「誰にだよ」
「色んな人に」
珀明は額を押さえた。
玉蓮は少年の前にしゃがみ込んだ。
目線を合わせようとしたのだろうが、少年はすぐに一歩後ろへ下がる。
「昨日、どうして私を殴ろうとしたの?」
問いかけると、少年の顔から戸惑いが消えた。
代わりに、強い敵意が戻ってくる。
「お前らが俺たちを追い出すんだろ」
玉蓮の表情が止まった。
「追い出す?」
「聞いたんだよ。焼けたところを使うって。どうせ俺たちを追っ払って、偉い奴らのために何か建てるんだろ」
「違います」
「何が違うんだよ!」
少年が怒鳴る。
周囲の家々から、人の気配がした。
戸の隙間や窓の奥から、住民たちがこちらを窺っている。
「役人なんてみんな同じだ。火事の時だって何もしてくれなかったくせに、今になって土地だけ取りに来やがって!」
玉蓮は何も言い返せなかった。
少年の後ろには、焼け焦げた家がある。壁は半分崩れ、屋根には穴が開いている。その脇には粗末な布を張っただけの小屋があり、そこから幼い女の子が不安そうに顔を覗かせていた。
玉蓮はその子を見て、それから少年へ視線を戻した。
「……君は、ここに住んでるの?」
「だったらなんだよ」
「名前を教えてもらってもいい?」
「嫌だ」
「じゃあ、お父さんかお母さんは?」
少年の顔が強張った。
その変化を、玉蓮は見逃さなかった。
しばらくして、少年は小さな声で答えた。
「親父は火事で死んだ。母ちゃんはその後、病気になって……冬に死んだ」
玉蓮は息を呑んだ。
「今は?」
少年が後ろの幼い少女を見る。
「妹と二人」
珀明の顔色が変わる。
「救済金は?」
「そんなもの貰ってねえよ」
「食糧の配給は?」
「最初に少しあっただけだ」
珀明はすぐに懐から控えを取り出した。
「名前は」
少年は黙っている。
「罰するためじゃない。記録を調べるためだ」
「役人の言うことなんか信用できるか」
「なら私の名前を先に言います」
玉蓮が口を挟んだ。
少年が怪訝そうに見る。
「景玉蓮です。今は州府で働いています」
「……知ってどうすんだよ」
「私たちが嘘をついたら、州府に行って景玉蓮という官吏に騙されたって言えます」
「お前、馬鹿なのか?」
「時々言われます」
「だから誰に言われてるんだよ……」
先ほどまで怒鳴っていた少年が、ほんの僅かに毒気を抜かれた顔をする。
やがて観念したように呟いた。
「……柳静(りゅうせい)」
「柳静?」
「妹は鈴。柳鈴」
珀明が書き留める。
玉蓮はその名前を何度か心の中で繰り返し、立ち上がった。
「碧官吏」
「ああ」
二人の目が合う。
昨日から調べていた帳簿の中に、その姓があったことをどちらも覚えていた。
柳家。
父、柳達。妻、秀花。長男、静。長女、鈴。
火災後の記録では、救済金を受け取った者の欄に――柳達の名前があった。
「お父さんのお名前、柳達さん?」
少年の顔が驚きに変わる。
「なんで知ってるんだ」
玉蓮は答えず、珀明を見る。
珀明の表情は険しい。
死人が、救済金を受け取っている。
しかも、その遺された子供たちは一銭も受け取っていない。
偶然で済ませられる話ではなかった。
少し離れた場所で話を聞いていた楸瑛も、既に笑みを消していた。
「景官吏」
呼ばれて、玉蓮が振り返る。
「どうやら君の言った通りだったらしい」
昨日、玉蓮は言った。
数字にいなくても、そこにいる人までいなくなるわけではない、と。
目の前には今、その言葉を証明するように、帳簿から消えた二人の子供が立っている。
玉蓮は静かに首を振った。
「違います、藍将軍」
「何がだい?」
「私が正しかったんじゃなくて……州府の記録が、間違ってたんです」
そう言って玉蓮は、柳静とその後ろに隠れる幼い鈴を見た。
「だから、直さないと」
その声はいつもの玉蓮と変わらず穏やかだったが、珀明には何故か、それがひどく強い言葉に聞こえた。
火災前の戸籍、救済金の支給記録、仮住居への移転者名簿、死亡者と行方不明者の届け出。机の上には次々と帳簿が積み上がり、最初こそ一冊ずつ丁寧に目を通していた玉蓮も、昼を過ぎる頃にはすっかり文字の海に埋もれていた。
「碧官吏、これも見てください」
「今度はなんだ?」
珀明が顔を上げると、玉蓮は一冊の古びた戸籍を抱えて隣までやって来た。開かれている頁には、火災のあった地区に住んでいた者たちの名が並んでいる。
「この家です。火事の前には夫婦と子供二人の四人暮らしになってますけど、救済名簿には父親の名前しかありません」
「母親と子供は死亡扱いになっているんじゃないのか?」
「それが、死亡者名簿にもいません。移住者の方にもないです」
珀明は戸籍を受け取り、他の帳簿と照らし合わせた。確かに玉蓮の言う通り、三人分だけ記録が途切れている。それだけならば単なる届け出漏れとも考えられるが、朝から同じような例が既にいくつも見つかっていた。
「……これで七世帯目か」
「はい。それと、こっちは逆です」
玉蓮が今度は別の帳簿を差し出した。
「この人、火事の一年前に亡くなってるのに救済金を受け取ったことになってます」
珀明の眉間に深い皺が寄る。
「死者に金は受け取れないな」
「ですよね」
「嬉しそうに言うな」
「嬉しくないです。でも、やっぱり何か変なんだってわかったので」
そう言って玉蓮はまた自分の席へ戻っていった。珀明はその背中を見送りながら、小さく息を吐く。
最初は、地方まで連れてこられた景侍郎の娘の面倒を見る羽目になったくらいに思っていた。戸部で自分の下についていたもののその期間は長くなく、実際の官吏としてどれほど使えるかまではわからなかったし、本人もどこかのんびりとしていて、危機感に欠けるところがある。
だが、帳簿を読ませれば細かな数字の違いによく気づく。疑問を持ったことをそのままにはせず、関連する記録を自分で探してくる粘り強さもある。
少なくとも、ただ庇護されるだけの娘ではなかった。
「碧官吏?」
「なんだ」
「さっきから私のこと見てません?」
「見てない」
「そうですか?」
「手を動かせ」
「はい」
素直に帳簿へ戻る玉蓮を見て、珀明はもう一度ため息をついた。
夕刻近くになって、ようやく二人は調べた内容をまとめ終えた。
火災後に救済対象となった世帯の中には、既に死亡していた者や火災前に転居していた者が混ざっている。一方で、確実に居住していたはずなのに記録から消えている者も少なくない。
そして、そのほとんどには共通点があった。
「正式な戸籍がない……?」
報告を受けた春麗が呟く。
州尹の執務室には春麗のほかに楸瑛もおり、玉蓮と珀明は机を挟んで並んで立っていた。
「正確には、戸籍そのものがない者と、昔の戸籍に名前だけ残っていて今の所在が確認されていない者がいます」
珀明が説明すると、玉蓮も横から頷く。
「あと、他の州から来て住み着いた人もいるみたいです。でも正式に移ってきた届けを出してないので、州府の記録には載ってません」
春麗は報告書を読みながら、険しい顔をした。
「では、火災で被害を受けていても救済の対象にならなかった者がいる可能性が高い、ということですわね」
「はい」
「反対に、名簿上だけ存在する者へ金が支払われている」
今度は楸瑛が言った。
その声音からは昨日までの軽さが少し消えている。
「誰かが救済金を抜いている可能性もあるね」
「横領ですか?」
玉蓮が聞くと、楸瑛は肩を竦めた。
「まだそうとは限らない。単に古い名簿を使って処理しただけかもしれないし、州府の手続きが追いついていなかっただけかもしれない。ただ、調べる価値はあるだろうね」
春麗も頷いた。
「まず、救済金を実際に誰が受け取ったのか確認しましょう。それと同時に、記録から漏れている者についても現地で調べる必要がありますわ」
その言葉を聞いた玉蓮の顔が明るくなる。
「では、明日また行ってもいいですか?」
「行っても構いません。ただし」
春麗はすぐさま楸瑛を見る。
「今回は藍将軍から離れないこと。それから、勝手に子供を追いかけたりしないこと」
「……なんで私だけ先に言われるんですか?」
「昨日の実績がありますもの」
「でも昨日追いかけたのは碧官吏です」
「お前は余計なことを言うな!」
珀明の声が響き、楸瑛が愉快そうに笑った。
翌朝、一行は再び貧民街へ向かった。
前回とは違い、今回は目的がはっきりしている。焼け残った家々を一軒ずつ回り、火災当時ここに住んでいた者と、現在住んでいる者を確認するのだ。
しかし、州府の官吏が来たと知ると、住民たちの反応は想像以上に冷たかった。
「知らねえよ」
「うちには関係ない」
「今さら何を調べに来たんだ」
戸口を閉ざされることも珍しくない。
玉蓮は三軒続けて話を聞けず、困ったように珀明を見上げた。
「嫌われてますね」
「見ればわかる」
「私、そんなに嫌な顔してます?」
「顔の問題じゃない」
「でも藍将軍なら女人には話してもらえそうですよね」
「どうしてそこで私を見るのかな?」
後ろを歩いていた楸瑛が笑う。
「藍将軍、得意でしょう?」
「景官吏の中で私はどういう人間になっているんだい」
「女人に優しい人です」
「随分好意的に言ってくれるね」
「女人にだけ、を付け忘れました」
珀明が横で吹き出しかけ、楸瑛は胸を押さえて大袈裟に傷ついた顔をした。
そんなやり取りをしながら歩いていると、路地の先に見覚えのある姿が見えた。
小柄な少年だった。
昨日、玉蓮に棒を振り上げた子供である。
「あ」
玉蓮が足を止めた瞬間、少年もこちらに気づいた。
目が合う。
次の瞬間、少年は踵を返した。
「待って!」
玉蓮が反射的に一歩踏み出す。
その肩を珀明が掴んだ。
「待てと言われたのはお前の方だ!」
「でも逃げちゃいます!」
「だからってお前が追うな!」
言い争っている間にも少年は路地の奥へ駆けていく。しかし、その姿を見ていた楸瑛は、今度は笑わなかった。
「私が行く」
短く言い残すと、その姿が瞬く間に遠ざかった。
玉蓮が目を丸くする。
「速い……」
「武官だからな」
「碧官吏もあれくらい走れます?」
「走れるわけないだろ」
少しして、楸瑛は少年を連れて戻ってきた。
正確には捕まえてきたわけではない。数歩離れたところを少年が警戒しながら歩き、その後ろを楸瑛がついて来ている。
少年は玉蓮を見るなり、露骨に顔を歪めた。
「なんだよ」
「先日はどうも」
玉蓮が頭を下げると、少年の方が面食らった。
「……なんでお前が謝るんだよ」
「謝ったわけじゃないです。挨拶です」
「変な女」
「よく言われます」
「誰にだよ」
「色んな人に」
珀明は額を押さえた。
玉蓮は少年の前にしゃがみ込んだ。
目線を合わせようとしたのだろうが、少年はすぐに一歩後ろへ下がる。
「昨日、どうして私を殴ろうとしたの?」
問いかけると、少年の顔から戸惑いが消えた。
代わりに、強い敵意が戻ってくる。
「お前らが俺たちを追い出すんだろ」
玉蓮の表情が止まった。
「追い出す?」
「聞いたんだよ。焼けたところを使うって。どうせ俺たちを追っ払って、偉い奴らのために何か建てるんだろ」
「違います」
「何が違うんだよ!」
少年が怒鳴る。
周囲の家々から、人の気配がした。
戸の隙間や窓の奥から、住民たちがこちらを窺っている。
「役人なんてみんな同じだ。火事の時だって何もしてくれなかったくせに、今になって土地だけ取りに来やがって!」
玉蓮は何も言い返せなかった。
少年の後ろには、焼け焦げた家がある。壁は半分崩れ、屋根には穴が開いている。その脇には粗末な布を張っただけの小屋があり、そこから幼い女の子が不安そうに顔を覗かせていた。
玉蓮はその子を見て、それから少年へ視線を戻した。
「……君は、ここに住んでるの?」
「だったらなんだよ」
「名前を教えてもらってもいい?」
「嫌だ」
「じゃあ、お父さんかお母さんは?」
少年の顔が強張った。
その変化を、玉蓮は見逃さなかった。
しばらくして、少年は小さな声で答えた。
「親父は火事で死んだ。母ちゃんはその後、病気になって……冬に死んだ」
玉蓮は息を呑んだ。
「今は?」
少年が後ろの幼い少女を見る。
「妹と二人」
珀明の顔色が変わる。
「救済金は?」
「そんなもの貰ってねえよ」
「食糧の配給は?」
「最初に少しあっただけだ」
珀明はすぐに懐から控えを取り出した。
「名前は」
少年は黙っている。
「罰するためじゃない。記録を調べるためだ」
「役人の言うことなんか信用できるか」
「なら私の名前を先に言います」
玉蓮が口を挟んだ。
少年が怪訝そうに見る。
「景玉蓮です。今は州府で働いています」
「……知ってどうすんだよ」
「私たちが嘘をついたら、州府に行って景玉蓮という官吏に騙されたって言えます」
「お前、馬鹿なのか?」
「時々言われます」
「だから誰に言われてるんだよ……」
先ほどまで怒鳴っていた少年が、ほんの僅かに毒気を抜かれた顔をする。
やがて観念したように呟いた。
「……柳静(りゅうせい)」
「柳静?」
「妹は鈴。柳鈴」
珀明が書き留める。
玉蓮はその名前を何度か心の中で繰り返し、立ち上がった。
「碧官吏」
「ああ」
二人の目が合う。
昨日から調べていた帳簿の中に、その姓があったことをどちらも覚えていた。
柳家。
父、柳達。妻、秀花。長男、静。長女、鈴。
火災後の記録では、救済金を受け取った者の欄に――柳達の名前があった。
「お父さんのお名前、柳達さん?」
少年の顔が驚きに変わる。
「なんで知ってるんだ」
玉蓮は答えず、珀明を見る。
珀明の表情は険しい。
死人が、救済金を受け取っている。
しかも、その遺された子供たちは一銭も受け取っていない。
偶然で済ませられる話ではなかった。
少し離れた場所で話を聞いていた楸瑛も、既に笑みを消していた。
「景官吏」
呼ばれて、玉蓮が振り返る。
「どうやら君の言った通りだったらしい」
昨日、玉蓮は言った。
数字にいなくても、そこにいる人までいなくなるわけではない、と。
目の前には今、その言葉を証明するように、帳簿から消えた二人の子供が立っている。
玉蓮は静かに首を振った。
「違います、藍将軍」
「何がだい?」
「私が正しかったんじゃなくて……州府の記録が、間違ってたんです」
そう言って玉蓮は、柳静とその後ろに隠れる幼い鈴を見た。
「だから、直さないと」
その声はいつもの玉蓮と変わらず穏やかだったが、珀明には何故か、それがひどく強い言葉に聞こえた。
