第九章〜VS楸瑛
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「それで、本当のところは何をお考えだったのですか?」
白旗をあげたはずの楸瑛に春麗が重ねて尋ねると、彼は困ったように眉尻を下げた。これで終わりにしてくれると思っていたらしいが、春麗は州尹として彼を呼び出しているのであって、謝罪の言葉一つで話を終わらせるつもりはない。
「だから、本当に前にいた男たちを見ていたんだよ。ただ……あの二人がどの程度周囲を見ているのか、興味がなかったと言えば嘘になるかな」
「それを試したと言うのです」
「結果的には、ね。碧官吏は武に関してはからきしだが、人を見る目は悪くない。それに景官吏も、あの年齢にしては随分と落ち着いている。普通なら突然襲われれば悲鳴くらい上げてもおかしくないだろう?」
どこか楽しげな楸瑛の口調に、春麗は小さく息を吐いた。人の能力を見定めることそのものを責めるつもりはない。彼ほどの武官ならば、護衛する相手がどれほど自分で身を守れるのか把握しておく必要もあるのだろう。しかし、やり方というものがある。
「景官吏は、見世物ではありませんわ」
「わかっているよ。もうしない」
今度は先ほどよりも幾分素直な返事だったので、春麗はようやく話を切り上げることにした。
一方、その頃の玉蓮と珀明は州府の一室で、昨日の視察についての報告書をまとめていた。
「焼失したのは……この辺りまでですよね?」
机いっぱいに広げた地図の上を玉蓮の指が滑っていく。その隣では珀明が過去の戸籍と火災後に提出された報告を見比べていたが、しばらくしてその手が止まった。
「お前、昨日見た家の数を覚えているか?」
「正確には覚えてませんけど、この辺りにはまだ結構ありましたよね。焼けなかったところもありましたし……どうかしました?」
「いや、数字が合わない」
珀明が示したのは、火災後に州府から援助を受けた者の名簿だった。焼失した家屋の数、その土地に住んでいたとされる人数、そして救済を受けた者の数。その三つを見比べてみれば、確かにどこかおかしい。
玉蓮は椅子を寄せて名簿を覗き込み、しばらく目で文字を追った。
「……少なくないですか?」
「やっぱりそう思うか」
「はい。昨日歩いた感じだと、もっと人が住んでたと思います。火事の後で別の場所に移った人がいるとしても……」
そこで玉蓮は口を閉じ、もう一度地図に目を落とした。昨日の光景を思い返してみる。焼けた一帯から少し離れた場所には、明らかにその場しのぎで作ったような小屋がいくつも並んでいた。衣服も十分とは言えない子供たちがいて、その中の一人が自分に棒を振り上げてきた。
「碧官吏」
「なんだ?」
「あの子、どうして私を襲ったんでしょう」
「は?」
唐突に話が変わったように思えたのか、珀明が怪訝そうな顔をする。
「もちろん、官吏が嫌いだったとか、お金を持ってそうに見えたとか、それだけかもしれません。でも、私たちが焼け跡を見ながら土地をどう使うか話してた直後だったでしょう?」
「……聞かれていた、と?」
「わかりません。でも、もし私があそこに住んでいて、自分の家が焼けて、それでも他に行くところがなくて……そんな時に官吏が来て『この土地を活用したい』なんて話してたら、嫌だと思います」
言われて、珀明も昨日の自分たちの会話を思い返した。彼らにとってはあくまで荒れた土地をどう復興させるかという意味だった。しかし、その事情を知らない住民からすれば、違う意味に聞こえても不思議ではない。
「だからって殴っていい理由にはならないぞ」
「それはそうです。痛いですし」
「そこなのか……」
思わず脱力した珀明をよそに、玉蓮はもう一度名簿を手に取った。
「でも、理由は知りたいです。それに、この数字が合わないことと何か関係があるなら、調べないと駄目ですよね」
「……お前、一人であの子を探しに行こうとか考えてないだろうな」
「行きませんよ」
即答した玉蓮に珀明が僅かに安心した、その直後だった。
「碧官吏も一緒に来てください」
「そういう意味じゃない!」
部屋に響いた珀明の声に、廊下を歩いていた官吏が何事かと足を止める。玉蓮は目を丸くしてから、どうして怒られたのかわからないという顔で首を傾げた。
「でも、碧官吏と私のお仕事ですよね?」
「とにかく勝手に動くな。まず州府に残っている資料を全部確認する。現地に行くのはその後だ」
「はい」
素直に頷いた玉蓮に、珀明は深々とため息をつく。この娘は無茶をするつもりなど全くないのだろう。ただ、自分が危険な場所へ行こうとしているという認識が、どうにも薄い。
そこへ、開け放たれていた扉を軽く叩く音がした。
「随分賑やかだね」
聞き覚えのある声に二人が振り返ると、そこには楸瑛が立っていた。昨日の件などなかったかのようにいつもの笑みを浮かべているが、その後ろには春麗もいる。
「藍将軍」
珀明の声があからさまに低くなったのを聞いて、楸瑛は苦笑した。
「まだ怒っているのかい、碧官吏」
「当たり前でしょう」
「碧官吏、もう大丈夫ですよ。私、怪我してませんし」
「景官吏は黙ってろ」
「はい」
今度も素直に口を閉じた玉蓮だったが、楸瑛はとうとう堪えきれずに笑い出した。
「随分仲良くなったものだね」
「どこを見たらそうなるんですか!」
すかさず言い返した珀明の横で、玉蓮はよくわからないまま首を傾げる。その様子に春麗まで口元を緩めたが、机の上に広げられた資料を見つけると、すぐに州尹の顔に戻った。
「何か見つけたのですか?」
「はい。姫州尹、少し気になることがあって」
玉蓮が救済者名簿を差し出す。春麗はそれを受け取り、珀明が印をつけた箇所へ目を走らせると、僅かに眉を寄せた。
「……確かに、おかしいですわね」
「昨日の子供も、この辺りに住んでいるのかもしれません。なので、もう一度行って話を聞いてみたいんです」
「話を?」
「はい。どうして私を殴ろうとしたのかも聞きたいです」
その言葉に春麗が何かを言うより先に、楸瑛が面白そうに玉蓮を見た。
「君を襲った子供だよ? 捕らえて罰しようとは思わないのかい?」
「え?」
本当に考えていなかったらしく、玉蓮はきょとんとする。
「官吏に危害を加えようとしたんだから、罰する理由ならあるだろう?」
「でも、私、避けましたし」
「避けられなかったら?」
「その時は痛かったと思います」
またそれか、と珀明が額を押さえる。楸瑛は笑みを消さないまま玉蓮を見ていたが、その目だけは先ほどまでとは違っていた。
「甘いね、景官吏」
「そうでしょうか?」
「世の中には、事情があれば何をしても許されるなんてことはない。君が相手を憐れんだからといって、罪まで消えるわけじゃないよ」
楸瑛の言葉に、玉蓮は少しだけ考え込んだ。それから机の上の名簿へ視線を落とし、ゆっくりと首を振る。
「許すかどうかを決めたいわけじゃないんです。ただ、何があったのか知らないまま罰するのは嫌です。それに、もしこの名簿から漏れてる人たちが本当にあそこにいるなら……州府から見たら、その人たちは最初からいなかったことになってるんですよね?」
楸瑛の表情から、僅かに笑みが薄れた。
「でも、昨日はいました。私、見ましたから」
玉蓮は何でもないことのようにそう言って、名簿を指先で示した。
「数字にいなくても、そこにいる人までいなくなるわけじゃないでしょう?」
しばし、部屋の中が静かになる。
やがて春麗が名簿を閉じると、玉蓮と珀明を真っ直ぐに見た。
「調べましょう。まずは戸籍、火災前後の人口、救済に使われた金額、それから移住者の記録を照合してください。現地へ行くのは、それが終わってからです」
「はい!」
「わかりました」
揃って返事をする二人を見てから、春麗は楸瑛へ視線を移す。
「藍将軍にもお願いしますわ。今度は、きちんと護衛をしてくださいませね?」
「これは手厳しい」
肩をすくめた楸瑛だったが、その視線は玉蓮へ向けられていた。
景侍郎の娘で、十三の知り合いで、最年少で国試を通った珍しい女人官吏。昨日までは、その程度の認識だった。
しかしどうやら――それだけではないらしい。
「景玉蓮、か」
誰にも聞こえないほど小さな声で呟いて、楸瑛は僅かに目を細めた。
白旗をあげたはずの楸瑛に春麗が重ねて尋ねると、彼は困ったように眉尻を下げた。これで終わりにしてくれると思っていたらしいが、春麗は州尹として彼を呼び出しているのであって、謝罪の言葉一つで話を終わらせるつもりはない。
「だから、本当に前にいた男たちを見ていたんだよ。ただ……あの二人がどの程度周囲を見ているのか、興味がなかったと言えば嘘になるかな」
「それを試したと言うのです」
「結果的には、ね。碧官吏は武に関してはからきしだが、人を見る目は悪くない。それに景官吏も、あの年齢にしては随分と落ち着いている。普通なら突然襲われれば悲鳴くらい上げてもおかしくないだろう?」
どこか楽しげな楸瑛の口調に、春麗は小さく息を吐いた。人の能力を見定めることそのものを責めるつもりはない。彼ほどの武官ならば、護衛する相手がどれほど自分で身を守れるのか把握しておく必要もあるのだろう。しかし、やり方というものがある。
「景官吏は、見世物ではありませんわ」
「わかっているよ。もうしない」
今度は先ほどよりも幾分素直な返事だったので、春麗はようやく話を切り上げることにした。
一方、その頃の玉蓮と珀明は州府の一室で、昨日の視察についての報告書をまとめていた。
「焼失したのは……この辺りまでですよね?」
机いっぱいに広げた地図の上を玉蓮の指が滑っていく。その隣では珀明が過去の戸籍と火災後に提出された報告を見比べていたが、しばらくしてその手が止まった。
「お前、昨日見た家の数を覚えているか?」
「正確には覚えてませんけど、この辺りにはまだ結構ありましたよね。焼けなかったところもありましたし……どうかしました?」
「いや、数字が合わない」
珀明が示したのは、火災後に州府から援助を受けた者の名簿だった。焼失した家屋の数、その土地に住んでいたとされる人数、そして救済を受けた者の数。その三つを見比べてみれば、確かにどこかおかしい。
玉蓮は椅子を寄せて名簿を覗き込み、しばらく目で文字を追った。
「……少なくないですか?」
「やっぱりそう思うか」
「はい。昨日歩いた感じだと、もっと人が住んでたと思います。火事の後で別の場所に移った人がいるとしても……」
そこで玉蓮は口を閉じ、もう一度地図に目を落とした。昨日の光景を思い返してみる。焼けた一帯から少し離れた場所には、明らかにその場しのぎで作ったような小屋がいくつも並んでいた。衣服も十分とは言えない子供たちがいて、その中の一人が自分に棒を振り上げてきた。
「碧官吏」
「なんだ?」
「あの子、どうして私を襲ったんでしょう」
「は?」
唐突に話が変わったように思えたのか、珀明が怪訝そうな顔をする。
「もちろん、官吏が嫌いだったとか、お金を持ってそうに見えたとか、それだけかもしれません。でも、私たちが焼け跡を見ながら土地をどう使うか話してた直後だったでしょう?」
「……聞かれていた、と?」
「わかりません。でも、もし私があそこに住んでいて、自分の家が焼けて、それでも他に行くところがなくて……そんな時に官吏が来て『この土地を活用したい』なんて話してたら、嫌だと思います」
言われて、珀明も昨日の自分たちの会話を思い返した。彼らにとってはあくまで荒れた土地をどう復興させるかという意味だった。しかし、その事情を知らない住民からすれば、違う意味に聞こえても不思議ではない。
「だからって殴っていい理由にはならないぞ」
「それはそうです。痛いですし」
「そこなのか……」
思わず脱力した珀明をよそに、玉蓮はもう一度名簿を手に取った。
「でも、理由は知りたいです。それに、この数字が合わないことと何か関係があるなら、調べないと駄目ですよね」
「……お前、一人であの子を探しに行こうとか考えてないだろうな」
「行きませんよ」
即答した玉蓮に珀明が僅かに安心した、その直後だった。
「碧官吏も一緒に来てください」
「そういう意味じゃない!」
部屋に響いた珀明の声に、廊下を歩いていた官吏が何事かと足を止める。玉蓮は目を丸くしてから、どうして怒られたのかわからないという顔で首を傾げた。
「でも、碧官吏と私のお仕事ですよね?」
「とにかく勝手に動くな。まず州府に残っている資料を全部確認する。現地に行くのはその後だ」
「はい」
素直に頷いた玉蓮に、珀明は深々とため息をつく。この娘は無茶をするつもりなど全くないのだろう。ただ、自分が危険な場所へ行こうとしているという認識が、どうにも薄い。
そこへ、開け放たれていた扉を軽く叩く音がした。
「随分賑やかだね」
聞き覚えのある声に二人が振り返ると、そこには楸瑛が立っていた。昨日の件などなかったかのようにいつもの笑みを浮かべているが、その後ろには春麗もいる。
「藍将軍」
珀明の声があからさまに低くなったのを聞いて、楸瑛は苦笑した。
「まだ怒っているのかい、碧官吏」
「当たり前でしょう」
「碧官吏、もう大丈夫ですよ。私、怪我してませんし」
「景官吏は黙ってろ」
「はい」
今度も素直に口を閉じた玉蓮だったが、楸瑛はとうとう堪えきれずに笑い出した。
「随分仲良くなったものだね」
「どこを見たらそうなるんですか!」
すかさず言い返した珀明の横で、玉蓮はよくわからないまま首を傾げる。その様子に春麗まで口元を緩めたが、机の上に広げられた資料を見つけると、すぐに州尹の顔に戻った。
「何か見つけたのですか?」
「はい。姫州尹、少し気になることがあって」
玉蓮が救済者名簿を差し出す。春麗はそれを受け取り、珀明が印をつけた箇所へ目を走らせると、僅かに眉を寄せた。
「……確かに、おかしいですわね」
「昨日の子供も、この辺りに住んでいるのかもしれません。なので、もう一度行って話を聞いてみたいんです」
「話を?」
「はい。どうして私を殴ろうとしたのかも聞きたいです」
その言葉に春麗が何かを言うより先に、楸瑛が面白そうに玉蓮を見た。
「君を襲った子供だよ? 捕らえて罰しようとは思わないのかい?」
「え?」
本当に考えていなかったらしく、玉蓮はきょとんとする。
「官吏に危害を加えようとしたんだから、罰する理由ならあるだろう?」
「でも、私、避けましたし」
「避けられなかったら?」
「その時は痛かったと思います」
またそれか、と珀明が額を押さえる。楸瑛は笑みを消さないまま玉蓮を見ていたが、その目だけは先ほどまでとは違っていた。
「甘いね、景官吏」
「そうでしょうか?」
「世の中には、事情があれば何をしても許されるなんてことはない。君が相手を憐れんだからといって、罪まで消えるわけじゃないよ」
楸瑛の言葉に、玉蓮は少しだけ考え込んだ。それから机の上の名簿へ視線を落とし、ゆっくりと首を振る。
「許すかどうかを決めたいわけじゃないんです。ただ、何があったのか知らないまま罰するのは嫌です。それに、もしこの名簿から漏れてる人たちが本当にあそこにいるなら……州府から見たら、その人たちは最初からいなかったことになってるんですよね?」
楸瑛の表情から、僅かに笑みが薄れた。
「でも、昨日はいました。私、見ましたから」
玉蓮は何でもないことのようにそう言って、名簿を指先で示した。
「数字にいなくても、そこにいる人までいなくなるわけじゃないでしょう?」
しばし、部屋の中が静かになる。
やがて春麗が名簿を閉じると、玉蓮と珀明を真っ直ぐに見た。
「調べましょう。まずは戸籍、火災前後の人口、救済に使われた金額、それから移住者の記録を照合してください。現地へ行くのは、それが終わってからです」
「はい!」
「わかりました」
揃って返事をする二人を見てから、春麗は楸瑛へ視線を移す。
「藍将軍にもお願いしますわ。今度は、きちんと護衛をしてくださいませね?」
「これは手厳しい」
肩をすくめた楸瑛だったが、その視線は玉蓮へ向けられていた。
景侍郎の娘で、十三の知り合いで、最年少で国試を通った珍しい女人官吏。昨日までは、その程度の認識だった。
しかしどうやら――それだけではないらしい。
「景玉蓮、か」
誰にも聞こえないほど小さな声で呟いて、楸瑛は僅かに目を細めた。
