紫闇の玉座−2
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羽羽が自らの頸動脈に刃を当てたところで、その刃は切り付けることなく、カランと床に落ちた。
(まだ、亡くなってはいない)
だが、動かない。
どれほどの時間が経っただろうか
羽羽を抱きしめたまま微動だにしないリオウと、それを見守る鳳珠と春麗。
いつの間にか周りには仙洞官たちが集まってきて、その外側からじっと息を詰めて様子を見守っていた。
「羽羽…叔母様に、呼ばれたのか?」
リオウの小さな声が響く。
答えはない。
「羽羽!羽羽!」
リオウは叫ぶ。
必死に呼び戻すように。
叔母にー瑠花に呼ばれたなら、戻ってこれないかもしれないとわかっていても、叫ぶ。
羽羽はぱちっと目を開けた。
震える手を持ち上げれば、しわくちゃの両手が見えた。
ーー体の中に鎮座していた大きな重石を吐き出し、カラッポになったように思えた。
羽羽は唐突に悟った。もう術者ではなく、異能を持たない一人の老人となっていたのだ。
ただの人間として、天命を生きよ、と。
羽羽はリオウと、周りで半ベソをかいている仙洞官たち、そして鳳珠と春麗を見回した。
もう地鳴りは止んでいた。
まるで何事もなかったかのように。
ちょこんと身を起こし、術式の終了を告げ、いくつかの指示を出した。
仙洞官たちは去って行き、羽羽の他には三人だけが残った。
「…リオウ殿、わたくしはもう筆頭術者ではなく、ただの人間になったようでござりまする」
「それならもう、術は使えない、ということか?」
羽羽はじんわりと微笑んだ。
それから、鳳珠と春麗に向かって告げる
「あなたたちのできることは、まだたくさんあります。わたくしからの願いは、ただ一つ、リオウ殿を支えてあげてください。きっと、筆頭術者に比する男子になれましょう」
「筆頭術者…とは?」
鳳珠は確認をする。
「蒼周王の一の宰相です。戦をしない彼を傍で支え続けた。縹家の誇る名宰相です。力でねじ伏せることなく、大姫を説得し、門を開けたリオウ殿なら、きっと新しい扉を開けまする。黄尚書、春麗殿、頼みましたぞ…」
「羽羽様…」
春麗は羽羽に近づき、手を取った。
反対側の手を、鳳珠も取る。
「お約束、します、羽羽殿‥」
「よかった…少し、疲れました…」
「羽羽?」
「白湯を、頂戴できますか」
リオウに向かって、羽羽は頼んだ。
鳳珠と春麗は手をはなした。
「少しゆっくり休まれてください。私たちも、今日は失礼しよう」
「はい。羽羽様、また二、三日うちに参りますわ。美味しくて元気の出るものをお持ちしますわね」
ふっと羽羽が柔らかく微笑んだのを見て、リオウに挨拶をして、二人は去った。
「白湯、だな。すぐ戻るから」
リオウも去り、羽羽はゆっくりと起き上がった。
羽羽は星を見上げた。
見つけたその星は明滅し、今にも落ちそうになっている。
目を閉じると、リオウや、劉輝や、先ほどまで来ていた二人の顔が浮かんだ。
もう羽羽はリオウと劉輝を庇い、手助けしてやることはできない。
もはや、永遠に。
だから一組の夫婦に思いを託した。
(頼みましたぞ、黄鳳珠殿、紅春麗殿…)
もう一度、心の中で呟く。
見上げていた星がゆらめく。
誰かが室に入ってきても、羽羽は振り返らなかった。
時を待った。
そしてーーー
…どん、と思ったよりも軽い、衝撃があった。
リオウの沓音が聞こえる。
ぼんやりとそう思ったのを最後に、目を瞑る。
コトン、と何かが切れる音がする。
そして羽羽の目が開くことは、二度となかった。
もう二度と。