短編・旧サイト拍手ログ


どんなに声を張り上げても、兄は自分を振り返ってはくれなかった。

「待って、お兄ちゃん! 待って!」

夜の冷気が、体に染みる。石畳の上を裸足で駆けているせいで、足先の感覚は失われようとしていた。

走っても追いつくことはできず、息があがってくる。それでもエッダは、大好きな兄の背に向かって声を張り上げる。

「お兄ちゃん! おにいっ……」

突然、全身に強い負荷がかかる。まるで空気が、厚い壁となって押しつけてくる感覚。非常に強い魔法だと悟ると同時に、体は意志とは裏腹に地面に押し付けられた。

「おにいちゃんっ」

顔をあげ、届かないとわかっていても手を伸ばす。無力さがもどかしく、涙があふれてきた。

国一番の魔法使いの家系に生まれながら、こんな魔法も打破できないのか。そう罵倒する声が、耳の奥で響いた気がした。

「待って!」

骨がきしむ程の負荷を感じる中、エッダは手を伸ばす。

行く手に、兄以外の数名の子供の姿が見えた。皆同様にうつろな目をし、危うげな足取りで町の外へと向かっている。

奇妙な行進の原因は、先頭で彼らを導く、笛を吹く少年のせいだった。

年は十代半ば頃だ。白銀の短髪に、蔓でこしらえた粗末な冠をつけ、目を閉じて横笛を奏でている。

真っ赤な横笛から紡ぎだされる調べに合わせ、子供たちは歩みを進めていた。まるでそれは、人形師が己の人形の運命を握っているような光景。

「おにい、ちゃん」

もう一度声を上げる。それが限界だった。

エッダは魔法の重圧に負け、石畳に頬をつける。その冷たさが悔しくて、泣きわめきながら拳を地面へ叩きつけた。

(私が、劣等生じゃなかったら! アデルベルトの名に恥じない、魔力を持っていたなら!)

あの、先頭に立つ男など、たちまちやっつけてやるのに。

「あああああっ!!」

熱い涙と冷たい地面の温度差が、彼女の激情をよりあおり立てる。

「嘆くことはないよ」

頭上から声が降ってきた。鈴が転がるような、優雅な声。あきらかに男のものだが、その響きから線の細さがうかがえる。

エッダは身を起こそうとするが、わずかに半身を持ち上げた体勢を維持するだけで精いっぱいだった。

白い素足が、視界に入る。

「君はすごいね。町の人たちは僕の笛の音に負けたのに、君だけが、僕を追いかけてこれたんだ」

一瞬の沈黙。短い笛の音。

それが耳に入ったとたん、またエッダの体は、強制的に地面に押し付けられる。

「限界みたいだね。降参しないと、君の体、もたないよ」

相手の声が近づく。おそらく、しゃがみこんだのだ。けれどエッダは、男の顔さえ見ることが叶わない。

「僕の魔法には誰も勝てない。僕を止めれる奴は誰もいない。だから、そんなに泣かないで?」

それは憤怒しか抱けない、最高に腹の立つなぐさめだ。

だからエッダは、全身の気力を喉に集めて叫ぶ。自分へのいらだちと、男への憎しみを叩きつけるようにして。

「お兄ちゃんを返して!」

最後の遠吠えを、男はどう思ったのか。その反応さえ見ることが叶わず、エッダの意識は緩やかに沈んでいく。

地面の冷たさも認識できなくなる直前。

「――待ってるよ」

笛吹き男は、笛の音色に負けなかった君を待ってるよ。

これといった特徴のない声と、頭に乗せられた、暖かい手のひらの感触が残った。





アレルマ王国の首都、ステンハンメル。

王城をいただくその町には、王立魔法学校であるワグネル学院がある。

十五歳のエッダ・アデルベルトは、これまでの試験では赤点ばかりを叩きだし、教師達はあまりの成績のひどさに呆れていた。

「魔法は一般に六種類にわけられます。地・水・火・風・空・識です。うち五つは物質へと働きかけ、識のみは生き物の意識に働きかけます。ここまではわかりますね?」

中学年の講義担当であるユン・エルンストの問いかけに、生徒が了承の声をあげる。

理解のよい教え子たちを、眼鏡の奥の紫の瞳は満足そうに見渡す。

エッダはそんな教師の姿を、青の瞳で注視する。星の光を編み込んだような金髪が、彼女の表情に影を落とした。

長い茶髪をひとつに結わえたユンは、教科書をめくる。

「魔法は超自然的な力で、我々が創りだしたものではありません。ですから、魔法を使う際は過信することなく、謙虚な気持ちで行いましょう」

エッダの隣に座っている少年、フリート・シュターフェンは、熱心にペンを走らせている。水色の瞳がせわしなく教科書と黒板を行き来し、エッダは彼の真面目さに驚嘆した。自分といえばこっそり本を持ち込み、それを読んでいる始末である。

世界には、魔法という不思議な力が存在する。アレルマ王国のように、国をあげて研究に力をつくすことも珍しくない。しかし、解明されていない謎というのは多々あった。

「詳細が不明の、魔法が関連していると思われる現象があります。うちひとつが魔法災害です。これは、人間が干渉していない状態において魔法が暴発し、人々の生活に影響を与えるものと定義されています。例えば……“子供さらいの笛吹き男”」

その声に躊躇があったのを見抜けた生徒は、ほとんどいなかっただろう。一方、ぴくりと肩を震わせたエッダの表情が硬化するのを、フリートは見逃さなかった。

「その名が確認できる一番古い資料は、王国建国以前のものです。その出現以降、決まった周期はありませんが、笛吹き男はあちこちに現れ、子供たちをさらっていきます。顔を見た人がいないので正確にはわかりませんが、十代半ばの少年という目撃情報が一致してます」

エッダの肩が、小刻みに震えた。ユンはそれを目の端にとらえながら、淡々と講義を続ける。

「笛の音で動きを封じるという点から、音という物質を媒介に識魔法を使っていると考えられます。しかしそれ以外は全く謎で、」

そこまで言い、ユンは顔をあげた。

エッダが青ざめた顔で、立ちつくしていた。

彼女の奇行に生徒達は目をむくが、一部嘲笑うような表情を見せるものもいる。

国一番の魔法使いの家系・アデルベルト家の史上まれにみる出来そこない――それがエッダの評判だったから。実力もなく成績も悪い彼女は、よく馬鹿にされていた。

教室を出ていこうとしたエッダの前に、ユンが立ちはだかる。

「アデルベルトさん、どうしました?」

エッダはうつむいたまま答えた。

「気分が悪いので、医務室へ行ってきます」

「駄目です」

即答の内容に、教室にいた全員が驚いた。エッダは顔をあげる。慈愛の笑みを浮かべた教師と、目があった。

「体調が悪いなら、授業より自分の体を優先しなさい。聞く気がないなら、最初から出席しないでください。それができない生徒は、僕の生徒ではありません」

手を振り上げ、床を激しく鞭で叩く。木くずが飛び散り、生徒達は肝を冷やした。

「……元気になったので、授業聞きます」

表情と苛烈な言動がかみ合わない教師に気圧され、エッダはすごすごと着席する。

ちなみにユンが持っている鞭は、彼が魔法を使用する際の術用媒体だ。なぜあんな趣味の悪いものを使っているのだろうと、エッダは常々疑問に思っている。

「大丈夫か?」

フリートが心配げに身をよせてくる。エッダは無理に笑い、何ともないと答えた。

ユンはそれ以上笛吹き男の話はせず、時間は過ぎていった。





ついてきてくださいとユンに言われ、授業終了後、エッダは図書室へ足を運んだ。

エッダの様子を心配したフリートまで一緒に来てしまい、嫌な予感に襲われる。また、あの話になるに違いないのだ。

学生図書室は蔵書が充実しているだけでなく、個人用勉強部屋も使い勝手がよい。エッダは一人きりになりたい時、よく重宝している。

「エッダさん、先ほど授業で読んでいた本を見せてください」

着席するなり切り出され、観念して鞄の中から本を取り出す。ユンは表紙を見、眉をひそめた。

それは、魔法災害の研究者が著した書物だ。

ユンは頁をめくり、“笛吹き男”の項目にめくりグセがあるのに気づいて、咎めるようにこちらを見る。

エッダは妙にいらだちを感じた。

「この他にも、魔法災害に関する本、特に笛吹き男に関する本を、よく借りていますね」

まるで確認してきたような物言いに、目を丸くする。

「何で知ってるんですか?」

「貸し出しの際に名前を記入するでしょう。学生用図書の管理も請け負っている僕にはバレバレです」

ユンは一端退出し、本を数冊かかえて戻ってきた。エッダはそれらすべてに見覚えがあった。

「どの本にも、ある個所に開きグセがついています」

フリートが、ユンの言わんとしていることを察したらしく、口を開く。

「また、笛吹き男について調べてるのか?」

「いけないことなの?」

語気が強くなってしまう。しかし、押さえようがない。

「私は、笛吹き男について知りたいの。お兄ちゃんを探したいの」

三年前、エッダの兄は二十人近くの子供たちと共に、 “子供さらいの笛吹き男”に連れ去られた。

笛吹き男に誘拐された子供たちは、全員ではないにしろ、何名かは一年以内に国内で発見されている。これは事件が起る度にあることで、実際エッダの兄がさらわれる前の笛吹き男出現時は、七人の子供のうち、五人が帰ってきたのだ。

そして、兄を引きとめられなかったあの日にさらわれた、二十人近くの子供たちは、ほとんどが帰還できていた。

エッダの最愛の兄、ルーク・アデルベルトを除いて。

「先生、笛吹き男にさらわれて、帰ってこなかった子供たちがどうなったのか、誰も知らないんですよね?」

エッダの声音は、自然と固くなる。ユンが困ったように眉をよせる。何と答えるべきか、考えあぐねているのだろう。

「そうですね。子供たちは、誘拐されていた間の記憶がないそうですし。そういう意味では、帰ってきてない子供たちがどうなっているのか、本当のところは誰も知りません」

「なら! お兄ちゃんは今でも助けを求めているかもしれない。私、自分にできることなら何でもしたいんです」

熱弁をふるうエッダへ、痛ましげな視線を送る人が二人。

間違ったことは言ってないと、エッダは心の中で叫ぶ。

あの日連れ戻せなかった兄を救い出したい。それが少女を今日まで支えてきた願いであり、生きがいでもあった。

悲壮な訴えに、ユンもフリートも押し黙る。いつもこうだ。兄を助けたいと主張すれば、皆が困った顔をする。

どうしてなのだ。兄に再び会いたいと願うこの気持ちを、皆はなぜこんな風に受け止めるのだ。

「こんなこと、言いたくありませんが」

ユンは深く息を吐き、眼鏡を外す。整った顔立ちが、まっすぐエッダをとらえる。

「なぜアデルベルト家があなたの婚約者を見つけようと必死だったのか。なぜフリート君が側にいるのか、その意味を考えたことはありますか?」

一気にたたみかけられ、エッダは言葉を失った。

それは、兄の帰還が絶望的てあると、アデルベルト家が判断したということだ。

「先生、そこまではっきり言うのは……」

苦言を呈すフリートを、ユンは短く制す。

「この子は何もわかっていません。わからなければいけないんです」

ユンは立ち上がり、唇を震わせる教え子の肩をつかむ。

「お兄さんのことは、あきらめなさい」

エッダはゆるゆると、首を横に振る。

「先生まで、そんなこと言うの?」

「元婚約者候補であり、担当教員でもある僕からのお願いです。ルーク君のことを思って心を痛めているあなたを見るのは、耐えられません」

「やめてっ!」

エッダはユンをふりきり、飛び出した。

遠ざかっていく足音を聞きながら、フリートはユンを振り返る。

「先生、言いすぎじゃないですか?」

「君は優しすぎます。それは、彼女にとって良いことですか?」

笛吹き男の出現日時も、彼が子供たちと共にどこへ行くのかも、真相は闇に隠されたままなのだ。

数百年越しの調査でも解明できていない。そんな謎を、たった一人の少女がどうにかできると思えない。

「悪役の役割はここまでです。後は君が婚約者らしく、彼女をいたわってあげなさい」

「はい……って、ええっ!」

たちまち頬を染めたフリートの肩を、ユンは悪戯ぽく笑って叩いた。





『エッダ、これをあげる』

ルークは泣いている自分の手をとり、赤い毛糸の手袋をはめてくれた。

少し形がいびつで、網目も粗さが目立つ。ぽかんと口をあけまじまじとそれを見ていると、ルークは苦笑した。

『大きさが合ってなかったね。作り直すよ』

手袋を外そうとする兄の手を、エッダはもう片方の手で押しとどめた。

『私、これが欲しい』

『え、いいの?』

こくこく、と首を振る妹の頭を、ルークは優しい手つきで撫でた。

『じゃあ次は、もっと上手に作るからな』

涙を拭ってくれる兄の胸に、エッダは飛び込む。

『どうした。また嫌なことでも言われたか?』

エッダは無言で、ルークの胸に顔をなすりつけた。とめどなく涙があふれてきて、口を開く気にはなれない。

それを察してか、兄は両手でエッダの体をそっと包み込んでくれた。

『何かあったらすぐに言うんだぞ? 俺は、エッダのお兄ちゃんなんだから』

その温もりが嬉しくて、いつまでも心地よさに身を委ねていたいと思った。

その時のエッダは、一週間後に兄がいなくなるなどと、全く知らなかった。



色あせた赤い手袋を、寮の暗い自室で握りしめる。兄が残してくれたものにすがるように、エッダはそれを額にあてた。

生来魔力が弱い自分をかばってくれたのは、ルークだけだった。

建国に助力したアデルベルト本家の血をひくのに、これといった魔法の適性がなく、分家の子供より魔力が劣っている。できそこないの自分を、大人たちはつまらなそうな目で見た。

両親も見放したエッダを、ルークはずっと気にかけてくれた。

ルークの評価は、エッダと真逆だった。神童とほめそやされ、火魔法に天賦の才を発揮した。

跡取りとして申し分のないルークがいなくなったのは、アデルベルト家にはそうとうな痛手だった。当時の、上から下までをひっかきまわすような騒ぎを思い出すたび、エッダの心に痛みが走る。

妹がしっかりした魔法使いだったなら、こんなに悩むことはないのに、という言葉を何度言われただろう。

才能なし、という覆しようのない烙印を押された彼女は、血をつなぐことしか価値がないとみなされ、やがて遠戚のフリートと婚約することになった。

逆らえず、未来を選べない。小さな少女を、大きな現実が打ちのめす。

エッダは未だに、これらに勝つ術を見出すことができないでいた。

「エッダ、入るぞ?」

扉を叩く音がし、フリートが入ってくる。彼は赤い手袋を握りしめている婚約者へ、何か言いたげなようだ。

「具合、大丈夫か?」

フリートはゆっくり歩み寄り、隣に腰かける。エッダは逃げるように顔をそむけ、「何でもない」と返した。

「そっか」と言ったきり、フリートは考えあぐねているようだったが、ふいにエッダの手をとり、握りしめる。

驚いたエッダは、彼を振りかえった。

温かいのにそらすことを許さない、厳しい視線がエッダをからめとる。

「俺は、ルークさんのことを忘れろなんて言えない。けど、忘れたほうがいいとは思ってる」

「またその話?」

なら聞く気はない。手を振りはらおうとしたのに、フリートはより強い力で握り返してきた。

ぎょっと目を見張ると、さらに畳みかけられる。

「待ってるから。エッダが俺のこと、ちゃんと婚約者と思ってくれるまで」

多少うわずった声が、薄暗い部屋に反響する。自分より大きな手を、意識せざるをえなくなる。

エッダは何とか口を動かした。

「フリートも迷惑でしょ? 私みたいな問題児と、将来夫婦にならなきゃいけないなんて」

「そんな風に思ってない」

「ああそうか。婿養子とはいえ、アデルベルトの跡取りになれるもんね。それなら、嫌がる必要なんてないか」

「そんなんじゃない!」

いきなり耳元で叫ばれ、エッダは肩を震わせる。

「ごめん……」

小声で謝罪するも、エッダの手を握ったままだ。

彼の頬の温度が上がっていることに、エッダは気づいていない。

「お前の魔法の実力も家名の重さも、ささいなことで、どうでもいいんだ。エッダには、もっと俺を頼って欲しい。俺なんかじゃ、全然ダメかもしれないけど」

少年の片手が、少女の肩に移動する。壊れものを扱うように、頬の輪郭をなぞられる。

「フリート?」

名を呼ぶが、返事はない。指が唇をなぞったせいで、声が出せなくなる。

「エッダ」

いつも耳にする声が、より間近で聞こえてくる。フリートのまつ毛が意外と細いことに驚いた。

吐息がからみそうなほど、婚約者を近くに感じた直後。

脳天を突き破りそうな大音量で、校舎閉鎖時間を知らせる鐘が鳴り響く。エッダとフリートは同時に体勢を崩し、目を白黒させた。

「あっ!」

突然エッダが叫んだものだから、フリートは跳ね上がった。

「ど、どうした!」

「図書室から本を借りてきてない。このままじゃ宿題ができないわっ!」

そして自室にフリートを捨て置き、エッダは全速力で寮の廊下をかけていった。

だからエッダは、フリートが頭を抱えて「また駄目だった……」と嘆いたのを、知らない。





翌日第二運動場で、実技演習があった。

内容は至って簡単で、用意されたいくつかの的を、自分が得意とする魔法で壊すのだ。

「アデルベルトさん、二点です」

試験官が無表情に、エッダの散々な成績を書きつける。背後の列から押し殺した笑い声が聞こえ、エッダはあまりのふがいなさに肩を落とした。

(なんで外れちゃうの?)

エッダは風魔法なら、他の属性よりもまだ使いこなせた。

が、それでも狙った対象へと正確に魔法をぶつけられないなんて、やはり自分は落ちこぼれだ。そのことを嫌というほど実感してしまう。

「――天と地を廻り巡る、冷たき御身の力をここへ」

隣の列から、水魔法の発動を唱える呪文が聞こえてくる。フリートだ。

彼は詠唱とともに細い水流をいくつも具現し、それは空中を蛇行して、離れた的の真ん中を破る。

十あった的のうち、八個が壊れた。

周囲の生徒が、感嘆の声を上げる。

「すごい、フリート」

エッダもあっけにとられ、フリートのひきしまった横顔を見た。沢山の的を、ほぼ同時に瞬殺したのだ。これほど正確な魔法を速攻で操れる生徒は、中学年ではそうそういない。

(フリートが跡取りなら心配ないって、お父様も言ってたな)

だからお前は、我が家の魔力をしっかり受け継いだ子供を産むように――そんな言葉まで思いだしてしまう。

結婚し、家に閉じ込められてしまうまでの期限は限られている。今のうちに、魔法災害に関する知識をめいいっぱい増やし、兄へとつながる手掛かりを得たいのに。

焦りばかりが先行して、空回りばかりだ。

でも焦らないと、どうしようもないのだ。

「アデルベルトさん、次の人と交代してください」

静かに言われ、あわてて列の後ろへ引き返そうとした。

まさにその時。

「え?」

空中を漂う音色が、耳朶にふれる。記憶の糸が結びつきそうになった刹那。

運動場にいたほぼ全員が、耳を押さえて絶叫する。

「な、何?!」

試験官と生徒たちの悲鳴に驚きつつ、エッダは周囲を見わたした。

これは魔法なのだろうか。でも誰が、こんな大規模な魔法を発動させているのだ。何のために?

そしてなぜ自分には、効いてないのか。

考えると同時に、脳裏にあの日の光景がよみがえる。

十数秒が経過した頃、魔法の効力は薄れたらしい。誰かの悲鳴を合図に、運動場はにわかに混乱に陥った。

「落ち着いて! 先生たちの指示に従って!」

教師達の怒声が耳に入っている生徒は、何人いるだろうか。

エッダは、校舎がある方とは反対側へ走り出す。

この勘が正しいのなら、あの音は――

「エッダ、校舎はあっちだ!」

直近でフリートの声がし、両腕で包まれるようにしてだきしめられる。どうやら彼は、エッダが混乱していると思っているようだ。

エッダは冷静だった。神経は高ぶっていたが、至って冷静だ。

「放して。お願い」

「何言ってるんだ!」

相手の焦りなど構わず、エッダは歩を進める。フリートはそれにひきずられる形となった。

「行かなきゃいけないの。きっとあっちの方だわ」

「何言って……」

その時、後方から自分たちを呼びとめる声がした。エッダの列の試験を担当していた教師と、別の列で成績判定をしていたユンだった。

「先生、エッダが止まってくれないんです!」

魔法の影響がまだ抜け切れていないフリートと違い、エッダは損傷を受けていない。だから自分より体格の大きいフリートを、ひきずったまま歩き続ける。

周囲に生徒の姿は見当たらない。避難は完了したようだ。

立ち止まったエッダは、周囲をねめつける。親の仇を目前にしたような、激しい殺気が少女の体からほとばしる。

「逃げた、なんてことはないわよね?」

また、先ほどの音色が耳をくすぐった。

心躍るような旋律なのに、体を縛り付け、苦しみを与える。

あの日の屈辱が、エッダを燃え上がらせる。

「お久しぶり。子猫ちゃん」

真っ赤な横笛を弄び、友好的な頬笑みをこちらに向ける、十代半ばの少年。白銀の短髪を彩るは、蔓でつくられた粗末な冠。やはり間違いなかった。

皆が愕然と目を見開いたことに気がつかず、エッダは“子供さらいの笛吹き男”を、噛みつかんばかりに睨みつけた。





「会いにきたよ。弱くて可愛い子猫ちゃん」

男は実に楽しげな笑みを浮かべる。エッダは彼を射殺さんばかりに睨むが、ユンの背が邪魔をした。

「彼らを連れて逃げてください」

緊張をはらんだ声は、別の教師に向けられたものだ。ユンは術用媒体である鞭をしならせ、臨戦態勢に入る。

男の双眸が、切れ味のよい刃のように冷える。

「あなたには一片の興味もない」

笛に唇を当て、音をひとつ、長く奏でる。

それだけでユンは声さえあげることができず、地に倒れ伏してしまった。

「先生っ!」

見れば、エッダとフリートを避難させようとしていた教師も、体を横たえ胸を押さえている。

エッダは戦慄すると同時に、腹の底から怒りを感じた。

あの夜笛吹き男はこうやって、町の人たちの動きを封じたのだ。当時の人々の苦痛を垣間見た気がして、悔しさのあまり歯ぎしりする。

「先生たちを放して! お兄ちゃんを返して!」

エッダの叫びを、男は嫣然と受け止めた。

「じゃあ、僕と勝負をしてもらわないと」

「勝、負?」

男の意図がわからず、鸚鵡返しに問い返す。

「だめです。エッダさん」

倒れたままのユンが、震える声で叫んだ。

「これだけ強い識魔法を発動させることができる相手です。あなたでは到底かないません。逃げなさい」

それは教師としての、魔法使いとしての、当然の忠告だ。

しかしエッダは、また自分ができそこないだと言われているとしか思えなかった。

「私、お兄ちゃんに会いたい。ずっとそれだけを望んできたんです」

「エッダさん!」

ユンの姿を、もう振りかえらない。

一歩踏み出し、挑むように声を張り上げる。

「お兄ちゃんを返して。私の気持ちは、あの日からずっと変わらないわ」

「じゃあ、交渉成立だね」

男が満足そうに目を細めた。それを合図に周囲の風景が、絵具で水を溶かしたようにぼやけ、輪郭を失っていく。

視界が闇に塗りつぶされる寸前、強く抱きしめられる感覚と、ユンの絶叫が尾をひいた。





「ようこそ。僕の笛の音に負けなかった子猫ちゃん」

頭痛から解放されると、声が耳に飛び込んできた。

離れた場所に立つ笛吹き男は、両手を広げ歓迎のそぶりを見せる。エッダは油断なく周囲を見回した。間違いなく、ここは普通の森ではない。

「お兄ちゃんはどこにいるの!」

息も荒く問うと、男はエッダをなだめるように手を振る。

「まあ落ち着いて。ところで、招かれざる客がついてきちゃったんだけどさ」

男が指を鳴らす。と、彼の隣の空間に、婚約者の姿が突如として現れた。

「フリート!?」

そういえば男についていく時、誰かに抱きしめられる感覚があったが、あれは気のせいではなかったのだ。

フリートは宙に浮いたまま体を横たえ、苦しげに呻く。肩を押さえているが、怪我を負ったようだ。遠目からでも血の色が確認できる。

「何でよ、フリート」

これは自分の問題なのだ。自分と、兄を奪った笛吹き男との問題で、彼は全く関係ないのに。

「どうしてついてきたの! 危ないってわかってるでしょ?」

強い口調で問うと、フリートは痛みを押し隠して無理やり笑った。

「お互い様だろ。エッダだって、無茶しやがって」

と、男が腕を振る動きに合わせ、フリートの体が地面に叩きつけられる。

「フリート!」

エッダは一目散に婚約者の元へとかけよった。抱き起こし、肩の傷が案外深いことにまた驚く。

エッダは、側に立つ男を見上げた。

間近で彼の顔を見たのは初めてだったが、これといって特徴のない顔をしていた。造形は整っているが、訴えてくる個性がない。印象が残りにくい顔だ、とエッダは思った。

「彼には人質になってもらおうかなって思うんだけど、どう?」

「ふざけないで! フリートを元の世界に戻して!」

「それは出来ないな」

男は膝をつき、エッダの顎を乱暴につかんだ。その指は細く、氷のように冷たい。

「僕との勝負に負けたら、永遠にこの世界でさ迷ってもらう。もちろん、この人質も同じ運命を辿る。君のお兄さんのように」

嗜虐的な笑みをつくり、男は言った。

エッダは、今一度彼を強く睨みつける。背中に走った怖気を、覚られないように。

「降参する?」

「結構よ! で、何の勝負をすればいいの?」

立ちあがった男の奏でる音色に合わせ、森の木々がざわめいた。

やがて一枚の扉が出現した。両開きのそれは塗料が禿げかけていて、今にも朽ち果てそうだ。

「この中に、君のお兄さんがいる」

男は、扉に手を当てた。

「扉の向こうで、彼を探し出してごらん。それが、僕から君への挑戦状だ」
勿論受けて立ってくれるよね、と念を押され、エッダは真っ向から噛みつく。

「お兄ちゃんを連れて、ここに戻ってくればいいのね?」

「そう。できるかな?」

その猫撫で声が、こちらを心底馬鹿にしているのだと気づいて、闘志に火がついた。

「やってやるわよ」

立ち上がろうとするエッダに、フリートがすがりつく。彼は、しわができそうなほどにエッダの服を強くつかんだ。

「駄目だ。行っちゃ駄目だ」

その訴えに、エッダは首を振った。怪我を負ったフリートを置いていくことに、心が痛む。


(続く)
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