短編・旧サイト拍手ログ
(うわあ、すごい勢いで中身が減っていってる……)
春華(はるか)が呆然とする傍らで、秋臣(あきおみ)は二リットルのペットボトルに入っている清涼飲料水を一気に半分以上飲み下した。
「ぷっはあーっ! あー、やっと一息ついた。って、あれ、なんだよもう半分以下になってるじゃんか。案外少ねえなあ」
あれだけ勢いよく嚥下しておいてまだ足りないんだ、と春華は心の中で突っ込みを入れる。
陸上部の朝練を終えたクラスメイトに渡した差し入れは、早くもなくなりかけていた。
ちょっと物足りなさそうな顔をしながらキャップを閉める秋臣に、春華が言う。
「秋臣君、もうちょっと味わって飲めばいいのに。そんなに急いで飲んだら、味が分からなくてもったいないと思わない?」
「え、いや、渇きが癒えればいいし、いちいちそんなの気にしてねえよ」
あっさりとそう返され、なぜか春華は不満を感じた。
(……私、そのジュースの味、好きなんだけどなあ)
「へえ、これ、夏季限定商品なんだ」
タオルで汗を拭きつつ、ようやくラベルに目を落とした秋臣が、特に驚いたふうもなく言った。開け放たれた教室の窓からは、前日の夜と同じぬるい風と、虫たちの泣き声が入り込んでくる。
今日の昼も暑くなるだろうな――窓際の席だと、日光が体中に刺ってくるみたいで嫌なんだよなあ、と思いながら、春華は風で乱れた髪をあわてて整えた。
「レモン味、夏季限定……まあ、甘ったるいけど酸っぱいのは、嫌いじゃないな。差し入れ、ありがと。今度何か、お礼でもするよ」
あわてて見た目を整える春華の動揺に気がつかず、秋臣は笑顔であっけらかんと言った。
その優しげな笑顔と言葉に、春華は反応が遅れて一時停止する。
「えっ……」
「アイスか何かで、いいかな? 最近、暑いしさ。もう夏だなあ」
「あ、じゃあっ。じゃあ、さ……」
口をあけたり閉じたり、何とか言葉を発しようとしているうちに、秋臣はドアから入ってきた親友の元へ歩いて行ってしまった。
(あ……)
「よう、今日は遅刻しなかったんだな!」と軽い調子で親友をからかう秋臣の背を、恨めしげに見つめる。
(違う。秋臣君は悪くない。言えなかったのは、私なのに……)
――アイスおごってくれるなら、一緒に食べたいな。
そんな些細な希望さえ、あっさりと口にできないなんて。
春華は自分の席に腰をおろし、小さくため息をついた。
もう、何度目なんだろう。秋臣のことを思って、ため息をつくのは。
*****
夕方になってくると、さすがにまだすごしやすくなってはくるが、それでも濃縮された橙色の西日が、目を刺すようにいたい。
春華は図書委員で、今日は図書当番の日だった。冷房がしっかりきいた図書室では、受験勉強に精を出す三年生が何人か見受けられる。私も、二年後はああいう風になるんだな、ならなきゃいけないんだな、と春華は人ごとのように思った。
今朝のことを思い出すたび、気持ちが少し乱れてくる。お気に入りの短編小説の内容も、頭に入ってこない。
首をめぐらし、グラウンドの方へ目を向ける。練習試合をしている野球部の歓声、サッカー部の掛け声――いろんな音が、ガラス戸の向こうから小さく響いてきた。エアコンの音しかしない図書室では、それがとても大きな音のように思える。
違う時間を過ごしている、同じ高校の生徒たちの姿を見ているうちに、偶然秋臣を見つけた。身を乗り出して、食い入るように見る。
グラウンドの隅にある、年季が入った運動部部室の建物のすぐ横で、秋臣がストレッチをしていた。周りにも、運動着を身に付けた生徒が何人かいて、どうやら今は休憩中らしい。
秋臣が、数人の男子と談笑しながら、春華が差し入れたペットボトルを豪快に飲んでいた。他にも二、三人、二リットル相当のペットボトルをラッパ飲みしている猛者がいて、運動部は本当に汗をかくんだな、と感慨深く思う。
(気づかないよね……これだけ、離れているんだから)
もう少しだけ、秋臣の姿を盗み見ていようと思った。ちょっと後ろ暗い気もするし、一方でスリルも感じる。
春華は、陸上についての知識など、悲しいくらい皆無なのだが、それでも、秋臣の走る姿は美しいと想う。
なめらかな風車のように、前へ前へと進む脚の動きは、羽がついたように軽いくせに、力強くて。
ほんのささいな瞬間が結果にかかわる競技だから、その一歩一歩が信じられないくらいに真剣で。
飛ぶように前へ進んでいく秋臣――そして、そんな彼の後姿を、自分がじっと見ていることなど、彼は知る由もないだろう。
中学生の時から、走り去っていく彼の姿ばかりを見ていた。追いかける度胸も、一緒にならぶ勇気も、なかった。
春華は、拳をきゅっと握りしめる。
(秋臣君は、私のこと、どう思ってるんだろう……)
本日何度目かのため息をついたところで、タイミングを見計らったように声がかかった。
「薺(なずな)さん?」
「は、はいっ!!」
名字を呼ばれ振り返ると、やけににやにやした顔の司書の先生と目があった。
「ふふ、薺さん。思い煩ってるんだ? いいねえ、青春ね~」
この司書の先生は、いまだ自分が女子高生だった感覚をどこか保ったままでいるようで、気さくに生徒に話しかけてきたり、あるいはこうして誰彼かまわず図書委員をからかっていたりする。親しみやすいと言えば親しみやすい人柄ではあるのだが、春華は今ばかりは、穴があったら入りたい気持ちになった。
「そ、そんなんじゃないですよ!!」
「隠さなくたっていいのよー。私にだってね、甘かったり苦かったり、いろんな思い出があるんだから。おっと、三年生の迷惑になるからあまり騒げないわね。いけないいけない」
春華は、三年生がいようがいなかろうが、図書室の管理者が図書室で騒ぐなんてどう考えても駄目だろう、と、視線のみで訴えてみる。
まあ、それはともかく、これ以上何も言われないのは助かった。そう思っていると、駄目押しとばかりに忠告をされる。
「後悔だけは、しないようにね? 薺さん」
「……だから、先生が思ってるようなことは、ありませんから」
「そうなの?」
「そうです!」
司書の先生は目をぱちくりさせ、しばらくするとふふ、と楽しそうにほくそ笑んだ。春華は弱みを握られた気分になる。
それ以上は何も言われなかったが、春華は、言われた言葉をずっと反芻し続けた。
「後悔、しない、ように……」
小さく、本当に小さくつぶやいて、春華は盛大なため息をついた。
(そういえば、ため息をついたら幸せが逃げちゃう、なんて誰かがいってたけれど……今日一日で、幸せがどれだけ逃げていったのかなあ)
*****
図書室の解放時間も終了したが、何だかまっすぐ家へ帰る気にもなれず、コンビニへ行ったり、本屋へ行ったり、当てもなく時間をつぶしていた。
携帯電話で時刻を確認すると、既に七時を過ぎている。
いい加減、帰らなければならないと思い、春華は気が晴れないままバス停へ向かった。
道中、後ろの方で自転車のブレーキ音が鈍く響いたと思ったら、なじみのある声がかかる。
「よっ、春華。随分遅い帰りだな」
いろんな意味で心臓が飛び出るかと思った。
「あ、秋臣君……」
夏間近とはいえ、そろそろ日は暮れかけていた。そういえば、こんな時間に秋臣に会ったことがないな、と春華は思う。
「あ、鞄重いだろ? かごに乗せようか?」
と、声を上げる前に鞄を取られて、秋臣はそれを自転車の前かごに置いてしまった。春華はあわてて鞄を取り戻そうとする。
「い、いいよ! だって、これ以上乗せたら重くなるでしょ?」
すでに秋臣の自転車の後部座席には、秋臣の鞄がどっしりと存在感を放っている。運動部の人間がよく使う、大きい長方形の鞄だった。見るからに重量がありそうだ。
「いいって。元が重いんだからこれ以上乗せても大したことないし」
「で、でも私、バスに乗らなきゃいけないから……鞄、返してよ」
「あ、そっか」
秋臣はどうやら、今までそのことに思い当らなかったようだ。ぽりぽりと頭をかき、うなっている。
「どうせ目的地は駅だろ? 俺と同じじゃん」
「そうだけど、電車の時間があるから、のんびり歩くなんてできないし……」
「あ、じゃあ、後ろに乗ってく?」
「もっと重くなるから駄目でしょ! 秋臣君、練習で疲れてるのに」
「いいって、俺は平気だから。ほら、乗れよ」
「で、でも……」
春華は困惑していた。いつもなら、頑張って平静を装えるのに、自転車の後ろに乗るなんて、そんな近い距離になってしまったら――きっともっとうろたえてしまう。今でさえ、顔が赤くなってきているのに。
彼に近づけるまたとないチャンスだと思った。でも、怖くて動けない。
(そう、私は、怖いんだ……)
拒絶されたら、その後は立っていられる気がしないのだ。崩れ落ちてしまって、二度と元には戻れない気がする。だから、中学生の時から秋臣を見ているのに、今まで何も言えなかった。
(でも……)
『後悔だけは、しないようにね? 薺さん』
傷つきたくないのに、後で悲しむのは嫌だ。欲張りで臆病な自分に、失笑すら覚える。
「あ、わかった。簡単じゃん。こうすりゃいいんだ、うん」
と、何を思ったのか、秋臣はUターンして元来た道を爆走していった。しかも、春華の鞄を自転車の前かごに乗せたままで、だ。
(え、な、何?)
秋臣の名を大声で呼んでも、彼はすでに角を曲がって姿が見えなくなっている。残された春華は、困るというより、急激な展開にあんぐりと口を開けた。
携帯も、財布も、定期券もない。夜風にもまれて、春華は成す術もなく立ち尽くす。
しかし、そんな時間はほんのわずかで終了した。ギリギリで電車に間に合うバスが到着する前に、全速力で走ってきた秋臣が、二人分の鞄を抱えて戻ってきたからだ。
*****
バスに乗りこんだ後で、春華は先ほどの秋臣の言葉の意味を探ってみる。
たぶん秋臣は、自分と帰りたかったのではないか? だから、大事な足である自転車を学校へ戻って置いてくる、という行動をとったのではないだろうか。
もしかして秋臣は――と、そこまで思って、思い上がりもはなはだしい自分に渇を入れる。
「違う。違う違う。違うったら……!」
「へ? 何か言った?」
心の中だけで呟いているつもりだったのが外部に漏れてしまい、春華はあわてて首をふる。
「う、ううん! 何でもない!」
「ふうん、そっか……いやーでも、やっぱバスの中は涼しいなあ。すげえ快適」
「うん、そうだ、ね……」
確かに、冷房がききすぎるくらいにきいている。しかし春華は、秋臣と隣り同士に座っているせいで、逆に体温が上がっていた。この状況はとても嬉しいが、生きた心地がしない。
かつてないほど秋臣との距離が近くて、春華の脳みそは要領オーバーのため運転停止しそうだった。
もちろん、秋臣は春華がどんな心理状態にあるのか知らない。むしろ知られたら、春華は恥ずかしさのあまり生きていけなかっただろう。
「そうそう、これ、やるよ」
秋臣は鞄をあさって、春華にあるものを渡した。
それは、五百ミリリットルのペットボトルのジュースだった。
「今朝のお礼」
短くつけたされ、その意味を理解していくうちに、また鼓動が速くなっていく。
今朝、春華が渡したジュースとは違う商品ではあるけれども、それもまた、夏季限定の商品だった。
「お前、グレープ味、好き?」
「……うん、レモン味の次くらいに好き……じゃなくて、同じくらい好き! ありがとう!」
「そっか、ならよかった。春華の好みがイマイチわからなくて、これでいいのかなあって思ったんだけど、気に入ってくれたんなら、いいや」
春華は、今すぐにジュースを飲みたい気持だった。でも、それと同じくらい、飲むのがもったいないと一方では思った。
「嬉しいなあ……秋臣君から何か貰ったの、初めてだもの……」
言ってしまった後で、ハッとなる。今の言葉は、かなり特別な響きを持っていなかっただろうか。
もし秋臣が、今の言葉を不審に思ってしまったら――自分の気持ちが、ばれていてしまったら。
おそるおそる隣りをうかがうと、ばっちり視線があってしまう。
数瞬、二人の間に沈黙が落ちた。
「あ、あの……秋臣、君……」
どうしよう。完全に変に思われた。あわてて視線をはがして、春華は肩を落とした。
いつかは言おうと思っていたのに、心構えも何もしていない段階で、こんな状況になってしまうなんて――春華はまた、ため息をつく。
「そういや、俺も春華から何か貰うの、今朝が初めてだったなあ」
秋臣が、少しだけわざとらしそうに、そう言った。春華は、あれ? と首をかしげる。
(あれ、でも私、今までも、誕生日プレゼントとかバレンタインの時とか、何度か準備してたような……)
そう、準備はしていたのだ――準備だけは。
そのあと、プレゼントは秋臣の手に渡ることなく、結局春華自身の手で処分していた。
それを思い出し、顔が赤くなる。差し入れという形ではあるが、初めて秋臣に何かを渡すことができた、そんな自分に進歩を感じる一方で――どうして初めてのプレゼントが、よりによって単なるジュースなのだ。
(一応、夏季限定商品だから、まだマシなのかもしれないけど……ああ、もっと良いものを選べばよかった!)
「助かったよ、ホント。最近、一本だけじゃ足りなくなってきてたからさ。今日は春華の差し入れで、ペットボトルが二本もあって、ちょうどよかったんだ」
汗っかきが運動部に入ると大変だよな、と秋臣は笑いながらつけたす。
その笑顔に引き込まれそうになりながら、春華は、おそるおそる尋ねてみた。
「……ジュースで、よかったの?」
「ん? ああ、俺としてはすごく助かったけど……」
「じ、じゃあ、明日も持ってきて、いい?」
「え?」
きょとんとする秋臣。春華はまた、口を開くのが怖くなった。
でも、今言わないで、いつ言うのだ? これ以上、行動する時を逸してしまったら、本当に何もできなくなるのではないだろうか。
(……いやだ!)
自分が本当に選択したいことが、やっとわかった気がした。だから、何とか言葉を紡ごうとする。
「あ、秋臣君が迷惑じゃなかったら……差し入れ、ずっとするから。夏休みに入るまで、毎日するから!」
(……あれ、意外と、簡単に言えるものなんだ)
今まで散々躊躇していたあの時間はなんだったんだろう、と思いつつ、秋臣の返事を待つ。
「いや、必要ないよ」
「……え」
あっさり拒絶されて、山のてっぺんから崖の下まで墜落したような気分を味わう。
言うのはあれだけ勇気と時間がいったのに、言ってしまったあとがこれだけ早いとは――春華は座席にぐったりともたれかかった。
後悔が大波となって押し寄せては来るが、それでも、少しだけ心は晴れていた。
(言えて、よかったな)
力ない微笑を顔に浮かべると、それをどう思ったのか、秋臣が訂正してくる。
「あのさ、よく考えろよ。これから毎日俺に飲み物の差し入れするなんて、金がかかるし、持ってくるのも大変だろ? 春華にわざわざ買ってもらうなんて、そんなずうずうしい真似できるかっての」
なるほど、どうやら彼は、迷惑だからいらない、という意味で言ったわけではないらしい、とはわかった。
そして同時に、自分の気持ちをほのめかすには、今のでは印象が薄かったのではないか、とも思う。もしかしたら、秋臣は気が付いていないのかもしれない。
(せっかく、言おうと思えるようになったんだから、ここであきらめたら駄目よね……)
春華は少し考えて、さらに言い募った。
「だって、秋臣君、頑張ってるじゃない。中学生のころから、ずっと。だから、応援したいな、って……」
まともに秋臣の顔を見れず、前を向いてしまった。鼓動がまた、早まってくる。
彼がしゃべるまでの時間が、途方も長く感じた。
「じゃ、アイスにするか」
春華は顔をあげ、思わず口に笑みを浮かべた。どうやら、アイスの差し入れならば、彼は許してくれるらしい。
「で、お前は何味が好きなの?」
「……え? どうして私の好みを聞くわけ?」
何だか話がかみ合ってない気がする。春華は首をかしげた。
「いや、今朝のお礼、そのジュースだけじゃ足りない気がして、さ……今度、アイスおごるよ」
秋臣はさらに、ついこの間オープンしたばかりのアイスクリームのチェーン店の名前を口にする。
「女子の陸上部の奴から、割引券もらったんだ。二人まで割引OKらしいから……暇だったら、一緒にいかないか?」
「……」
「? おい、春華? はるかー。聞いてるか?」
聞いてはいた。耳はちゃんと働いている。ただ、嬉しさのあまり反応ができなかっただけで。
なんだかとっても、話がとんとん拍子に進んでいる気がする。副の神が、ため息で失った以上の幸せを運んでくれた気がした。
まさか、秋臣のほうから、そんなことを言ってくれるとは。
もちろん、秋臣は春華のことを特別に思ってるわけではないのかもしれない。ただ単に、声がかけやすかったから、とか、適当な相手が春華しかいなかったから、ということもありうる。
でも、それでもよかった。あふれ出そうな幸せを、春華は静かにかみしめる。
「あ、じゃあ、アイスおごってくれるなら、やっぱり差し入れはしないと。ね?」
「いや、だからそれはいいって、さっきも言っただろ?」
「ううん、差し入れした方が、秋臣君が申し訳なく思ってくれるみたいだし。それだったら、アイスをおごられる確率が、もっとあがりそうでしょ?」
「……春華って、大人しい印象なのに策士だな。そんなにアイスが食べたいのかよ」
食べたい。特に秋臣と一緒に食べられるのならば、もっと美味しく感じるだろう。
今は、部活が忙しいだろうが、きっと秋臣は、約束を破らないでいてくれる。そんな予感がした。
「もちろん。だってアイスって、美味しいじゃない。私はバニラ味が好きだな」
「俺は抹茶とチョコ味だな」
また、ジュースと同じく味の好みが見事に別れた。でも、それでもよかった。
相手が好きなものを、自分もまた好きになれるチャンスがあるのだから。
「じゃあ、割引券も期限があるから、早いうちにさっさと行こうぜ。いいよな?」
「……うん!」
と、バスが駅に到着し、二人は人の波にもまれながら、改札口を通って電車に乗り込んだ。
ゆられている最中に、春華はふとあることに気がつく。
「ねえ、秋臣君。割引券、持ってるんだよね。見せて?」
「……え?」
「だって、キャンペーンの期限がわからないと、予定が立てられないじゃない?」
「あ、うん……」
なぜか秋臣は回答をためらい、視線を横にそらした。
「いや、その……財布家に忘れてきたから、今は持ってないんだ」
「え? さっき、切符買ってたのに?」
春華は確かに、秋臣愛用の紺青色の財布を目にしていた。秋臣はあわてた風に声を上げる。
「いや! 昨日もらって、家に置いたままだったんだ。だから、明日なら持ってこれるから。明日、確認しような、な?」
「そ、そう? わかった……」
春華は少し不思議に思いながら、それ以上は考えるのを止めた。
アイスを食べに行く日は、どんな格好をしていけばいいのか。どんな服を着ていけば、秋臣にかわいいと思ってもらえるだろうか。
春華の頭は、その重要事項のために目まぐるしく回転を続けていたのだから。
*****
その翌日。
陸上部の朝練終了後、秋臣は同級生の女子に、
「この間いらないって言ってたアイスの割引券、譲ってくれ!」
と頼み倒し、さらに例のバスに乗っていた数人から冷やかされたことを、春華は知る由もなかった。
〈了〉 ネット初出 2010.6.21