短編・旧サイト拍手ログ


ふと顔をあげて窓の外へ目をやると、散りかけていた桜がまたひとひら、音もなく地面に落ちていくところだった。

私はいつものように図書室で、需要がないままに埃を被っている百科事典をめくっていた。

以前友達は、事典を通読するなんて何を考えているんだ、というふうに言ってたけど、別に最初から最後まできっちり目を通しているわけじゃない。

指を差し入れ、たまたま選ばれたページに書いてあることを読んでいるだけだ。豆知識もつくし、いい時間潰しにもなる。

廊下から、まだ新しい制服に慣れていない新入生の楽しげな声が響いている。グランドからは、運動部の威勢のいい声も。

そういえば、もう高校二年になってしまったなあ、と、改めて思った。十七歳って、昔はすごく大人だと感じていたけれど、今の私はどうだろう?

その日の放課後、「白鳥」という項目に目を通していた私は、あることを思い出して慌てて立ち上がった。

どうしてこんな大事なことを忘れていたのか。自分で自分に舌打ちしながら、図書室を後にする。

北校舎の階段を降りて中庭を通り過ぎると、体育館の裏側に出る。

そこには、樹齢数十年の立派な桜の木があって、自然の摂理に従い今年も花を咲かせていた。

満開もすぎ、風のせいで辺りが薄紅一色になっている。その木の下に立っている男子生徒に、私は駆け寄っていった。

「ごめん! 遅れちゃった」

すると相手は――裕貴(ゆうき)君は、飽きれたように笑んだ。

「望海(のぞみ)が俺より先に来ないことくらい、折り込み済みだよ?」

しょげた我が子を見守る親のような、優しい目。
私は、このこげ茶色の瞳で見つめられると、いつも息がつまりそうになる。

裕貴君への愛しさが体中にあふれかえって、臨界点を突破しそうになるのだ。

――この人と、付き合えてよかった。私は、心からそう思う。

「で、本日の遅刻に対する言い訳は?」

「えと、図書室で本を読んでたら、つい夢中になっちゃって…」

私が気まずそうに語尾を下げると、裕貴君は飽きれたように笑った。

「やっぱり、またそうなんだ。本当にしょうがないなあ」

くしゃりと、優しく破顔する彼が、よりいっそう素敵に見えた。

けど、ここは裕貴君の魅力に見とれている場合じゃなかった。私は慌てて頭を下げる。

「本当にごめんなさい!今度から気をつけるから!」

「……ちょっと信用できないけど、まあ、いいよ」

それよりも、と裕貴君は話題を切替えて、私達はしばらく談笑する――これが、私と裕貴君のデートの仕方なのだ。

放課後になると、学校敷地内の桜の木の下で、二人だけの会話に花を咲かせる。

いつからこうしていたのかははっきりとは覚えてない。

けど、私と裕貴君は入学後ほどなくして付き合い始めたわけで、たぶんその頃の桜があまりにもきれいだったから、だから季節がかわり続けてもこうしているんだろう。

裕貴君の話にひとしきり笑いころげ、私はとても楽しい時間を過ごした。

そして肩に舞い落ちた桜の花びらをとってくれた裕貴君は、突然私に聞いてきた。

「望海は、俺のことが好き?」

「え?」

「俺のこと、好き?」

真摯な瞳が、心臓を打ち抜く。
何の迷いもなく、私は素直に、けれど少し顔を赤くしながら、答えていた。

「うん……好き、だよ」

裕貴君は、安心したように微笑んだ。
それが本当に心から安心したような笑顔だったのに、少しだけ陰りがあったことを、私は少し不思議に思った。

どうしてあらためて、こんなことを聞いてくるのだろう。

けれどその疑問は、また裕貴君が話を再開したせいで、風のように流れて消えていってしまった。


*****


帰り道でも他愛のない話でもりあがり、交差点の横断歩道を渡った後、裕貴君と別れた。

そのまま自分の家へと歩を進めていると、ふいに後ろから声がかかる。

「望海……? 今日学校来てたんだ?」

振り返ってみると、同じクラスメイトのほのかだった。

「あ、やっほー、ほのか」

「うん……望海、確か体調悪かったよね? 大丈夫、なの?」

ほのかは私と歩調を合わせ、心配そうな目をむけてくる。私はこくんとうなずいて、
「大丈夫だよ!」
と言っておいた。

それでもまだほのかは納得がいってない様子だったけど、私は裕貴君と話したから元気百倍なのだ。

そこはゆるがない事実であるわけで、裕貴君の笑顔を思い出しては、幸せな気分に浸っていた。

そんな私のほっぺたを、不思議そうな顔をしたほのかがツンツンとつつく。

「えっ、ちょっと、ほのかー」

「ニヤニヤしちゃって、気持ち悪いよ?」

「えへへ、ちょっと、ね? いいことがあったんだ」

ほのかは目を丸くして、何があったのか聞いてきたけど、私は最後まで言わなかった。

裕貴君との時間は、私たち二人だけのものだから。


*****


翌日、また図書室で、私は百科事典をめくっていた。

ふと、司書の先生の目を盗んで携帯電話を取り出し、裕貴君とやりとりした過去のメールを見る。

一番最初に交わしたあいさつメール、告白されたその日のうちに返した、気恥ずかしそうなメール、デートの約束をとりつけたメール……たどっていくうちに、そういえば最近は裕貴君にメールをしていないことに気がついた。

新規メールを作成して、いざ送信しようとし、私はあることを思い出した。

「あ……」

しばらく呆然とし、また過去のメールを見る。
この間のクリスマスイブ当日の、裕貴君からのメール。

『――望海と俺は、どんなことがあってもずっと一緒にいような? これは、俺たち二人だけの約束。誰にも、言うなよ?』

液晶画面の向こうにある文章を、網膜に写せるくらいの長時間、私はじいっと見つめていた。


*****


その日の帰り道、私はまた裕貴君と談笑しながら、ゆっくりと歩を進めていた。

いつも裕貴君と別れていた交差点のひとつ前の交差点までさしかかる。私はそこで、足をとめた。おなかが、鉛を含んだように重かった。

裕貴君は、私から二、三歩の距離をとって、止まった。背中を向けたまま、数秒の時が流れる。

私は、傍に立っている信号機の隣りに隠れるようにして置いてある、小さな瓶に目をとめた。

それに気を取られていると、突然、裕貴君の声が耳に飛び込んでくる。

「望海は、俺のこと、好きなんだよね? 俺も、だよ。俺も、望海が大好きだ」

裕貴は、これいじょうないほどの優しげな笑みを浮かべて、私に近づいてきた。裕貴君の指が、私の髪にふれようとする。彼が近すぎて、体が震えた。

「でもさ、ずっと一緒にいようって約束……まだ、有効なの?」

そういって、私がさっきまで目にとめていた瓶を、視界に入れる――色とりどりの花が生けられている、かわいらしい瓶を。

「あれ、望海が置いていったんだよね?」

私は、無言でうなずいた。

裕貴君は、さっきと変わらない笑顔で、
「……ありがとう」
とささやく。

その一言で、私の涙腺をもろく崩れた。

目から涙が勝手にあふれてきて、止めようと思ったのに、止まらない。

口が勝手に、ひとつの言葉を繰り返す。

「ごめんなさ、い……ごめんなさいごめんなさい!」

この謝罪の言葉には、いろんな意味がこもっていた――私が、裕貴君に何が起こったのか忘れていたことへの懺悔の他にも、大事な意味があった。

「ううん、あの花、望海が生けてくれたんだろう? うれしいよ。きれいなプレゼントだな」

裕貴君は、なおも泣きやまない私の肩に手を置いて、あやすように言葉をかけてくる。

「俺は、怒ってないから。俺がいなくなったのは、望海のせいじゃないから」

「……!」

私の脳裏に、一か月前のことがよみがえる。

裕貴君の叫び声。
圧倒的速さで迫ってくるトラック。
突き飛ばされ、視界が反転して、耳に届いた音が――

――ああ、赤い赤い血だまりが、道路にゆっくりと広がっていたなあ。

「あれは紛れもなく事故だったんだ。本当に俺は怒ってないし、望海を恨んでもない。だから、今でも俺は、望海が大好きだ」

裕貴君はさらに顔を近づけてきた。いっそ、耳に息がかかるくらいの、本当に近い距離で、低い声で囁かれる。

「望海――俺たちは、ずっと一緒だって約束、してたな? あの時は、すごく幸せだった」

裕貴君は体を伸ばして、私から離れる。彼は、私の左手を指差した。

私の左手の薬指には、裕貴君に買ってもらった指輪がはめられていた。

「まだ、つけてるのか?」

「うん。だって、裕貴君が好きだから……」

そういえば、つけてるという感覚がなかった。たぶん、そんなこと気にならないくらい、この指輪は私と一心同体だったのだ。

裕貴君は、きつく眉根をよせ、絞り出すように言う。

「望海……もしあの約束が負担になっているのなら、忘れてほしいんだ」

「……え」

忘れる。忘却。その単語が、私の心に残酷に突き刺さる。

「どうし、て……?」 

裕貴君は泣き笑いのような表情を浮かべる。
私の髪に触れようとして――けれど、私は彼の指を感じることはできなかった。

「ずっと一緒にいようって約束、最初にやぶったのは俺だからな……だから、望海がそれを守る必要なんかないんだ」

「何、いってるの……裕貴君!」

思わずあげた声を制して、なおも裕貴君は続ける。つらそうな表情で。

「俺はもう、お前と手をつなげないし、お前の髪にさわることもできないし、一緒の未来を生きていくこともできない……俺は過去の人間なんだ。望海はそうじゃないだろ? だったら、過去の俺にとらわれる必要なんかない」

だからこの約束は破棄、そう、裕貴君は続ける。

「待ってよ! 待って! 勝手に約束破らないで! 私の気持ちを……」

「望海、俺だって本当は悔しいんだ……」

裕貴君がうつむいて、拳を握る。その手が、震えていた。

「望海ともっと楽しい時間を過ごしたかったし、望海の隣りにいつもいるのは、俺でありたかった。もっと望海を独占していたかった……本当、ひどい運命だな。お前と俺が、切り裂かれるなんて。最初は戸惑ってばかりで怒りすら込み上げてきたけど、でも、日に日に弱っていく望海を見ているうちに、悔しさなん かどっかへ行っちまった。俺は望海に悲しんでほしくないのに、望海は俺のせいで泣いている……だから」

裕貴君は、顔をあげる。優しい瞳が、私をしっかりと見据えた。

「だから、新しい約束をしよう、望海?」

裕貴君は、また笑った。悲しみと悔しさをふっ切ったような、少し満ち足りた表情で、私に言う。

「俺の分まで生きて、幸せになって?」

私は何も言えなかった。言えるわけ、なかった。

やっと絞り出した最初の一言は、裕貴君をなじるものだった。

「すごく……難しいよ。裕貴君が傍にいないのに、幸せになれなんて」

「うん、それは謝る。けど、その代わりずっと、望海を見守っていたい。望海が高校を卒業して、大学へ行って、働いて――いつか、望海を幸せにしてくれる誰かと結婚して、子供を産んで、そしてその後も――俺は望海を、ずっと見守っているよ?」

私はゆるゆると首を横に振った。

その未来予想図は、裕貴君と共に作りたかった。
でも彼は、それを他の人とやれと言っている。納得なんかできない。

「裕貴、君……!」

また新しく涙があふれてくる。裕貴君は困ったように微笑んで。

「じゃあ望海、この約束、守ってくれよな? 守ってくれないと、怒るぞ?」

そう言って彼はまた、私の目の前から消えた。二度も。私の目の前から、永遠に。

彼の追悼のために捧げた花が、風に揺られて、香りをふりまいていた。


*****


その後、私は地べたに座り込んで泣いていた。

声をあげて、慟哭した。

涙は後から後から流れてきて、たぶん体の半分もの水分がなくなった気がする。

これだけ泣いたのは、裕貴君のお通夜と葬式以来だ。あのときも一生分泣いたはずなのに、まだ涙が残っていたなんて。

一体、裕貴君が去っていってしまってから何十分だったのだろう。聞き覚えのある声が耳に飛び込んできたかと思うと、ほのかが私の両肩をつかんでいた。

「望海! 望海!」

彼女の指が食い込んできて、それが予想外に痛かった。

たぶんほのかは、私が裕貴君の後を追おうとしてるんだと思ってのかもしれない。

でもその勘違いは完全に杞憂だ。

私は裕貴君に予防線を張られてしまった。私が生きることを放棄したら、彼はたちまち怒り心頭するだろう。

そう、裕貴君は私に優しかったくせに、最後に過酷な約束をとりつけたのだ。

そして、裕貴君が大好きな私は、その約束を守らないわけにはいかない。

まったく、裕貴君は策士だ。

「ねえ、ほのか……私も裕貴君も、わがままだね」

泣き疲れ、ふと思ったことを口にする。

ほのかは首をかしげていた。私は、無理やり微笑んでごまかした。

左手薬指の指輪が、沈みゆく太陽の光を反射して、赤く強く、きれいに光っていた。

その光がまた、涙を誘発した。


*****


それから私は、裕貴君を思ってさめざめと泣く回数も少なくなり、授業にも出れるようになっていった。

指にはめていた指輪は、首から下げてペンダントにしている。

くじけそうになったとき、泣きそうになった時、何度もその指輪を握りしめた。

そのたびに私は、彼との最後の約束を思い出す。

隣りにはもう裕貴君はいないけど、プレゼントしてくれた大事な指輪はここにあるし、どこかで彼はきっと見守ってくれている。

私はあれからずっと、事故現場の近くにある信号機の側に瓶を置き、花を添えている。

今日もまた、水を替えにやってきた。
花を見ながら私は、そっとつぶやいた。

「ねえ、裕貴君、ちゃんとあなたの分まで幸せになるから、私のこと、ずっと見ててね?……あのとき言いそびれたけど、これ、私からの約束。破ったら、怒るからね?」

どうか、私に歩き続ける勇気を、くじけない勇気を下さい。

そして私は今日も明日も明後日も、そのずうっと先も、生きていくからね?

水を与えられたばかりの花が、風にあわせて揺れ、言葉にならない何かを伝えようとしていた。

なんとなくだけれど、私はそう感じた。

そして、ほっこりとあたたかい気持ちで、指輪をきゅっと握りしめた。



〈了〉  ネット初出 2010.5.3
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