短編・旧サイト拍手ログ


デンメルグは優雅に、不遜に笑んだ。絶対的有利を確信した笑みだ。

レイアの膝はがくりと折れる。胸が苦痛でねじ切れてしまいそうで、両手で我が身を抱き締め、むせび泣いた。非力な少女の隣に、そっとデンメルグがしゃがみこむ。

いたわるように背を撫でられ、レイアはあわててとびすさった。だが天幕の端まで追い詰められ、逃げ場がなくなる。

熱を帯びた男の指が、レイアの頬を撫ぜる。その指の背は、唇をなぞり、首筋、鎖骨、やがて胸の膨らみへと……

「あ……嫌だ、やめて」

情けない哀願しか出てこない。体の震えが止まらない。

初めて会った男に、しかも自分の部族を滅ぼした男に、未知のことを強要される。こんなに恐ろしくて屈辱的なことがあるだろうか。

(けれど、私がここで逃げたら、ラズはどうなるんだ?)

敗走の道中が険しくても辛くても、レイアを決して見捨てず、命を賭してついてきてくれたラズ。彼の安全と引き換えに、これまでの忠誠に報いるために、自分ができることは何なのだ。

デンメルグのひどく昂った瞳など、意識に入らなかった。レイアは疲れ切った頭で考える。

やがて彼女の手は震えながら、自ら肌をさらけ出した。

デンメルグが満足そうに、レイアの一挙一動を眺める。

「近くで見ると、より輝いて見える。お前を月の女神に例えるのは、あながち間違いじゃないな」

息をのむような賞讃など、耳に入らない。レイアはただ、涙でぼやけだ視界の向こうにいる男に懇願する。

「頼む、ラズを殺さないでくれ。頼む……」

ゆっくりと、デンメルグが近づいてきた。レイアは観念して瞼を閉じる。

唇が軽く重ねられた後、男はレイアの耳元で囁いた。

「俺を感じている間、他の男のことなど思うなよ、レイア」

ぞくり、とレイアの肌が泡立った。

床にそっと横たえられ、デンメルグが覆いかぶさってくる。

レイアは固く固く、目を閉じた。

これから起こるであろうすべてのことを、決して見ることのないように。







空がようやく白みはじめた中、レイアは天幕の中から抜け出て、ラズを探しに歩き出した。

体の中心が重くて、頭の芯がぼやけていて、思うように足が前へと進まない。まだデンメルグの温もりが肌にまとわりついていて、レイアは泣きそうになる。

最初はただ恐ろしくて、おぞましいだけだったのに。耳朶を打つデンメルグの低い声と、厚みのある胸板に押しつぶされ、だんだんと酔ったような気分になってしまった。変なものでも飲まされたかと思うほど、体が火照って熱くなり、あられもない声をあげてしまった。

自分があんなに豹変してしまったなど、ラズには知られたくない。軽蔑されるかもしれない。

(私がラズにしてやれることなど、これくらいしかない……)

だが、彼女が目にした光景は、予想を裏切るものだった。

「……ラズ?」

レイアはたっぷりとその場に立ちつくした。視界に入った光景を、体が受け付けるのを拒否していた。

レイアが見たのは、地面に横たわる、変わり果てたラズの姿だった。

その胸には短剣が一本生えていた。唇の端からは血がひとすじ流れ落ち、ひらいたままの瞼はぴくりとも動かない。

「ラ、ズ?」

レイアは覚束ない足取りで横たわる従者に歩み寄り、硬直しているその頬に触れた。

冷たい。息をしていない。動かない瞳は、もはや自分を映してくれない。

「あ、ああ、ああああああっ……」

喉から絶叫が迸るのを、止められなかった。

こんな自分を守り、つき従ってくれた彼に対する仕打ちが、これなのか。

戦いの最中に果てるのではなく、手を後ろに縛られたまま、ろくな抵抗も許されず、命を奪われたのか。

レイアの血を吐くほどの絶叫を聞きつけ、周囲に人が集ってきた。深い慟哭から我に返ったレイアは、敵の若者たちを激しく睨む。

「誰だ。殺したのは一体誰だ! 今すぐ名乗り出ろ! 殺してやる!」

十代の少女の激情に気圧され、男達は口を開けずにいた。

「どうした。何があった?」

覚えのある声に、レイアは激しくにらみつけながら振り返る。デンメルグが部下を引き連れ、やってくるところだった。

「約束が違うぞ、何故ラズを殺した!」

デンメルグは変わり果てたラズを見、驚愕と狼狽の交じった様子だった。が怒りに眩んだレイアには、彼の様子に気がつくことはない。

「卑怯者! これがお前の仕打ちか! ならば最初から私に慈悲などくれずに、殺せばよかったのだ! なぜラズまで奪うんだ! ああ、ラズ…」

張り詰めていたものが、ふっつりと切れる音がする。果てのない感情の波にもまれたレイアは、眠るように気を失っていった。

薄れゆく視界の中、開いたままのラズの瞼を、誰かの手が労わるように、そっと閉じたのに気がついた。







それからレイアは、デンメルグの天幕の中に閉じこもり、呆然と過ごす日々が続いた。

レイアが気を失って目ざめた後、デンメルグが丁寧な謝罪と「これは俺の命令ではない。犯人のあぶりだしに全力を尽くす」と言っていたが、ほとんど上の空で聞いていた。

もう、憤慨する気力も嘆く気力もない。レイアの心は空洞のまま、時間だけが紡がれていく。

時々、デンメルグの部下が食べ物を運んでくれたり、デンメルグが憂えた目でこちらを見ていたことはわかっていたが、それに反応を返す気にはなれなかった。

いっそ命を断ててしまえばよかったのかもしれないが、自害を危惧されているのか、道具になりそうなものは身の周りから徹底的に遠ざけられた。

ラズの衝撃的な死から、何日経っただろうか。今が朝なのか夜なのかもわからない。いや、別に知りたいとも思わなかった。

デンメルグが武装を解いて近づいてきた。だから今は夜なのだろうかと、ぼんやり思う。

「レイア、今日も水しか口にしなかったと聞いたぞ」

視界をかすめた緑の瞳に、ぞくっと肌が泡立った。

暗闇より深い虚無の中をさ迷っている自分に、どうしてそんな顔を向けるのだ。甘く思い悩んだような目をしないでほしい。これ以上混乱したくない。

「すまない。首謀者はだいたいの目星はついているのだが、実行犯が見つからないのだ。それと、最期のラズに付き添っていたと思われる者が今日見つかった。死んで口を聞けなくなっていたがな」

編み込んだ赤い髪が、朝焼けのように美しい、と思った。自分と違い、これから血ぬられた黎明の歴史を歩む男。

敗者の恨みを背負い、それでも剣を振りかざし続けるのだろう。

デンメルグはしばし、レイアの頬や髪を撫で続けていたが、小さな口づけを額と頬に落とし、天幕を出ていった。







その日、見覚えのない者が食事を運んできた。レイアは目だけを動かして、その人間を見る。

デンメルグの部下なのか、わからない。年は二十代くらいだろう。

男は無言で盃を差し出してきた。レイアはゆっくり首を振る。いつものように、放っておいてほしかった。だが、どうして今日はこうも態度が違うのか。

男は立ち去るどころか、無言でレイアのほうへ近寄ってくる。妙な気配を感じた時は、遅かった。

男は獣が餌に飛びかかるように、レイアを押さえつけ、口を無理やりこじ開けさせた。満足に食事をとっておらず、体力もつきかけていたレイアは、ろくな抵抗ができなかった。

液体が喉を嚥下していく。不吉な苦みに、恐怖がわく。

普通の酒ではない。これは――

「お前、だれ……」

だが、誰何の声は途中で途切れた。視界が黒と白に明滅し、喉が焼ける苦しみが襲う。

毒を飲まされた、と気がついた時は、男は既に去った後だった。

のたうつレイアの脳裏に、突然幼いころの光景がよみがえる。

大好きな兄と、兄より少し年上のラズ。レイアは二人に構ってほしいがために、迷惑など返りみずよくその後を追いかけたものだった。

二人が何をしているのか、共有したくて、仲間外れにされたくなくて、ダダをこねていた。兄は決まって呆れ、説教もよくされたが、そんな兄をなだめてくれるのが、ラズだった。

レイアは、ふいに気がついた。記憶の中のラズの目が、デンメルグの目とよく似ているのだ。

二人は背丈も髪の色も瞳の色も違う。でも、どうしようもないほど似ているのだ――自分を見つめる時に浮かべる、切なげな表情が。

(……もう、何もかも、手遅れだ)

これでやっと、解放される。部族と一緒に、自分も冥府へと下るのだ。

それが敗者のさだめ。今ならばそれを静かに受け入レイアれる。レイアの意識は、穏やかに沈んでいった。







瞼の向こうに、橙の明かりが見える。

レイアはゆっくりと目を開けた。見慣れた場所のようだった。薄汚れた天幕の中だ。

混濁した意識で、必死に思い出す。自分は、毒を飲まされて息絶えたのではなかったのか。

「レイア? レイア!」

強く名を呼ばれ、首を動かそうとしたが、体が思うように動かない。そっと覗きこんできたのは、デンメルグだった。

「気がついたか? 俺が誰かわかるか?」

頬を両手で包まれ、デンメルグはしつこいくらいレイアを詰問した。レイアは声を出したくても、口が渇いて舌が回らない。いやそれより、どうして自分が生きながらえているのか、まるでわからない。

「毒消しが何とか間に合ったようだな。喉が渇いたのか、今水を飲ませてやる」

デンメルグは側にあった杯を仰ぎ、そのままレイアに口づけた。驚くレイアの唇を、ぬるい水が濡らす。潤いが喉を伝っていく。

「んっ……」

口の端からこぼれてしまった水をぬぐう気力すらない。デンメルグはまた水を含み、レイアに口移しで飲ませた。

何度かそれを繰り返すうちに、レイアは声が出せるようになった。

「私、どうして……」

「無理をするな。毒が抜けきってないかもしれないからな。説明はあとでしよう。とにかく今は、ゆっくり休むんだ」

いたわるように頭を撫でられ、レイアの胸はとくんと高なる。

(どうしたんだ、私。こんなのは……おかしいだろ)

目の前にいる男は、自分の家族と仲間達の仇だ。そしてレイアの体を奪った男だ。

なのにどうして、その赤の髪と緑の瞳に見惚れてしまうのだろう。
レイアは乱れた心を鎮めるべく、掛け布を頭まで深く引き寄せ、瞼を閉じた。



上半身を起こせるまでに回復したレイアは、ラズを殺した犯人が見つかったと告げられた。

「何だと?」

「嘘ではない。俺の予想通り、俺の部下ではなかったぞ。命令なしにお前達に手を出すなと、厳命していたからな。あれは、父上の回し者だった。従者に直接手を下した者も、おそらく父上の息がかかった人間だろう。お前に毒を飲ませた奴と同じだ」

「どうして、そんなことを……」

デンメルグの父が、自分たち二人を殺そうとした。そんなことをするほど、敵の生存を許す気はない、ということだろうか。

「原因はお前達にはない。この俺だ」

レイアは、首をかしげざるを得ない。一体どういう意味だろうか。

「父上の狙いは、レイアが俺に憎しみを抱き、その果てに殺すことだったのだろうな。だがレイアは憔悴しきり、目論見が外れた。だからお前の命を奪うことにしたのだ」

「待て、わけがわからないぞ。私の命を奪うことで、どんな利益があるというんだ?」

「簡単だ。俺が自ら命を断ちかねないほどの衝撃を受ける」

こともなげに言いきられ、レイアは唖然とするしかなかった。

「なぜ、お前の父がそれを望むんだ」

「よくある話だが、父は俺が邪魔なのだ。後妻との間に男児ができて、俺の義弟を跡継ぎにしたいのさ。だからこたびの戦いは、俺の敵は二人もいたのだぞ。お前の父と、俺の実の父だ」

レイアは、デンメルグが理解できなかった。なぜこの男は、涼しい顔ができるのだ。

こんな言い方をするということは――レイア達の部族と戦っている最中、敵と刃を交わす以外の場面で、命の危険に見舞われたことが何度かあった、ということなのか。血のつながった父にうとまれ、命を狙われているのに、ここまで平然としていられるものなのだろうか。

「俺は、父に殺されるよりも、レイアを失う方が辛い」

そういうと、レイアの髪をひとふさすくい、うやうやしく口づける。

「なぜ、私なんだ」

「一目見た、あの日からだ。俺の心はレイアにとらわれたままだ。今も、お前を抱きたくて仕方がない。自分を抑えるのは、なかなか骨の折れることだな」

かすれ声に混じる、切実な欲情。レイアは言葉を返せない。

「まるで、水面に映る月に恋した気分だ。レイア、たとえお前が俺をどう思おうと、俺は命ある限り、お前を離さないぞ。俺の腕に閉じ込め、俺だけを思う女にしてやる」

おそれから吐き出した吐息すら、口づけに飲み込まれた。

「や、やめっ……」

抗議の声は、再び重ねられた唇に塞がれる。ふいに重心が傾き、レイアは後ろから寝床へ倒れ込んだ。

「あ……」

デンメルグの瞳が、レイアのすべてに熱いまなざしをそそいでいる。レイアより大きな手のひらが、首筋をなで、鎖骨にふれ、襟首で止まった。

「や、だ……」

情けない声しかでない。また、デンメルグに抱かれるのだろうか。熱に我を失い、泣き叫んだあの時をまた味わうのだろうか。

「そんな、泣きそうな顔をするな。何もしない……」

レイアの唇を指でなぞり、デンメルグは天幕を出ていった。

まだ熱の残る唇に触れ、レイアはしばらくその場で黙していた。







いよいよデンメルグたちが陣営を撤去し、自分達のなわばりへ帰還する日がやってきた。

レイアがデンメルグの天幕にずっとこもっていたことで、彼女は族長の息子のお気に入りということで認識されているらしい。一族を失った娘ではあるが、見下したりする者はいなかったし、粗末な態度はとられることはなかった。

「俺は帰った後、父に会う。その時にお前も連れていく。レイアは、勝利の証しだからな」

敵の手に落ちたなら、そういう屈辱的な目に遭うのは避けられぬことだろう。これから、晒しものにされるのだ。レイアは腹の前で両手を握り合わせた。

自決するだけの思いきりも持てない。そして、目の前の男を憎みきれるだけの激情も、枯れてしまった。

デンメルグは一族の仇には間違いないが、同時にレイアの命の恩人でもあるのだ。

レイアは、自分を抱いたこの男に対し、憎しみ以外の感情を持ち始めていた。

父に疎まれることを、当然と受け止めている男。己を守る為に、情を捨てたのかと思えば、レイアには熱のこもった視線を投げてくる男。

(こいつは、私が決して心を開くことはないと、思っているのだろうな)

それでもなお、デンメルグはレイアを欲したのだ。水面に映る月を手にしても、本物の月が遥か頭上に浮かんだままなのを、わかっているのだ。

(……面白い)

ならば自分は、デンメルグにとっての、水面の月であり続けてやろう。

何度抱かれても、耳元で名を呼ばれても、決してデンメルグの元へは堕ちない。レイアは決意した。このところ、彼を目にして胸がざわめくことがあるが、それは気の迷いだと言い聞かせる。

「私が、お前に簡単に従うと思うな。私は一族の無念を背負っている。かたきのお前になびくことはないと思え」

レイアの決意に、デンメルグは目を丸くする。が、すぐに不遜な笑みが広がった。

「そうか、それは楽しみだ。非力で気高いレイアよ。お前はそうやって俺を見続けるんだ。憎しみでも何でもいい。俺に縫いとめられ、俺以外の男を見ないようにしてやる」

デンメルグは、空いた片手でレイアの頬にふれ、すぐに踵を返した。

翻るマントが、朝の風にはためく。





頭上に浮かぶ月は既に空になく、いつものように訪れた朝が、新しい歴史を刻むべく、光で大地をあまねく照らしていた。



〈了〉  ネット初出 2013.8.29
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