短編・旧サイト拍手ログ
【※注意※】
ガッツリ性描写はありませんが、無理矢理要素があります。苦手な方はブラウザバック推奨です。
ーーーーーーーーー
まずい。そう思った時にはすでに、手から剣が滑り落ちていた。
慣れ親しんだ柄の感触に、もう一度ふれることは叶わなかった。首筋に冷たい刃が押しあてられ、身動きが取れなくなったからだ。
つい先ほどまで激しい剣檄を繰り広げた赤毛の青年は、息を乱すこともなく涼しい顔で、けれど少しの愉悦をにじませながら宣言する。
「勝負あったようだな?」
レイアは疲労で息を弾ませながら、敵の言葉を茫然と聞いていた。
逃げなければならない。捕えられるわけにはいかない。ただその一心でここまで来たが、すべては無駄だったということなのか―――
ふと、悲鳴のような叫びが耳をつんざく。
「レイア様、お逃げください!」
「……ラズ!」
呼びかけた兄の乳兄弟は、敵の囲みを突破してこちらへ来ようとしているが、敵が次々に切りつけてくるのを防ぐので精一杯なようだ。
彼をあざ笑うかのように、体力も気力も有り余った、闘争心にあふれる者たちがラズへと群がっていく。
「やめろ、ラズ!」
レイアは、万感の思いを押さえつけ、怒鳴った。ラズも、彼を迎えうとうとした敵も、思わずといったふうに動きを止めて彼女の方を見る。
「ラズ……剣を捨ててくれ」
「なぜです、レイア様!」
彼はまだ戦える、と目で訴えている。ここで諦めるのは戦士の誇りが許さないのだろう。レイアもそれは同じだった。痛いくらいに彼の悔しさがわかる。
だがレイアは、無理難題を命令する。
「ラズ、剣を捨てろ。私は降伏する。お前も従うんだ」
「どうしてですか! 俺はあなたを最後までお守りすると、約束したのに!」
大きく前へ踏み込んだラズに、一人の若者が剣を振りあげた。単に動くなと牽制のつもりだったのだろうが、たちまちラズの瞳に闘争心が燃え上がったのをレイアは見逃さなかった。
「ラズっ!」
再びレイアの口からほとばしった悲鳴は、しかし途中で途切れてしまった。
彼女は後ろから突然抱きこまれ、その細い首筋に改めて刃がつきたてられる。視界に入った腕は、さっきレイアに剣を突き付けた青年のものだろう。
皮膚に小さな痛みが走った。創傷の痛みだ。
「そこの従者よ、その度胸はいっそ感心するくらいだが、この状況で俺達から逃げれると思っているのか?」
低いがよく通る声だった。レイアは改めて、周囲を確認する。
二人きりで逃げ続け、身を隠そうともぐりこんだのは深い森の中。
朝を迎えても止まない霧雨は体温を奪い続け、戦い続けているはずの仲間の生死はわからなかった。そんな明日の見えない敗走が、今まさに終わろうとしているのだ。最悪の結末でという形で。
憔悴し切ってはいるが、なおも剣を手放さないラズの姿に、涙があふれた。
「ラズ、もういいんだ……もう、いいんだ」
ラズは己を取り囲む敵を見やり、次いでレイアに視線を移した。たっぷりの沈黙の後、彼の手から剣が落ちる。
「殺すな、生け捕りにしろ」
赤毛の青年の命令に、若者たちは実に素早く忠実に動いた。後ろ手に縄うたれるラズは、うなだれたまま成すがままにされている。
(ラズ、すまない。お前まで、失いたくないんだ)
「意外にもてこずらずに済んで、俺としては嬉しい限りだ、なあレイア?」
「無礼者! 私の名を気安く呼ぶな!」
かっとなって反射的に叫んだのが不興を買ったのか、青年の大きな手のひらが、レイアの首をなで、軽く締め上げてくる。
「……っ!」
「男勝りで気が強いとは聞いていたが、これは面白い。剣の腕も、女にしてはなかなかだな。ますます面白い――俺は、やはりお前が気に入りそうだ」
唐突にレイアは突き飛ばされ、地面に体を打ち付ける。何度かせき込んで上半身を起こすと、覗き込んできた青年と目があった。
長く伸ばした赤毛の一部を三つに編み込み、垂らしているのが印象的だ。年はレイアの兄と同じくらいで、二十二、三だろうか。濃い緑の瞳はなめるようにレイアを見ている。捕えた敵の部族の娘を、単に観察する以上の熱が視線にこもっている気がして、レイアは寒気を覚える。
「名乗るのが遅れたな。俺はアーベントが息子、デンメルグだ。お前の兄の最期に立ち会ったのは俺だ。あいつも、なかなかの剣の腕を持っていた。兄妹そろって武勇にすぐれているとは、どこまでも俺を楽しませてくれるな」
デンメルグと名乗った青年の言葉に、レイアは言葉を失った。再会を心から望んでいた兄は、もうこの世にいないというのか。ならば、レイアの部族は、もう――
デンメルグは、レイアを縛り上げるように部下に命令すると、踵を返して言った。
「戦は終わりだ。我々の勝利だ。少し気が早いかもしれないが、今宵は宴でも開こうか」
レイアの部族とデンメルグの部族は、もう何年も、なわばり争いの小競り合いを繰り広げてきた。その諍いは、先々代にまでさかのぼることができる。最初は水場と狩猟場の扱いでもめていたのだが、今回とうとう、互いの全勢力をあげた戦いとなったのだ。
負ければすなわち、全滅を意味するこの争いで、レイアの部族は敗れ去った。そして、敵の魔手からレイアを逃がそうとした兄の思いも、無駄になってしまった。
深い森を抜けて半日ほど歩いたところに、デンメルグの陣営はあった。
騎乗したデンメルグの姿が陣営に現れると、戦士の男たちは歓声をあげた。後ろ手に縛られ歩かされていたレイアは、その声の波におののいた。けれど、それを悟られまいと唇をかみしめる。
デンメルグは馬を降り、一段高いところに立つと自分達の勝利を告げ、次いで勇敢な戦士たちの戦いっぷりを賞讃した。
「今宵は宴だ。皆、疲れを癒してくれ」
満足そうなデンメルグの表情を恨めしげに見やっていたレイアは、下級兵士に乱暴に引っ張られ無理やり歩かされる。
牢の準備ができていなかったからだろうが、レイアとラズは陣営の隅にある木に縛り付けられた。遠くでは喧騒が続いている。レイアは木の幹に、がっくりともたれかかった。脳裏に、幼いころよく聞いた寝物語が思い浮かぶ。
勇壮な戦士たちの、戦いの物語。神の血を半分ひいた青年や、人間の英雄達が、青銅の剣を振り、時には矢をつがえ、敵に立ち向かい勝利を収めた物語。レイアは他の少女たちが好むような、妖精の物語や恋物語よりも、男たちの活躍を聞く方が好きだった。だから、竪琴を持った部族の語り手にも、兄にもラズにも、呆れられることがよくあった。
しかし、幼いレイアは気づかなかったのだ。勝者がいるということは、必ず敗者がいるという理を。黎明の影には没落があるのだ。今まさに、自分の身を持ってそれを知ることになろうとは、つゆほどにも考えたことはなかった。
「ラズ、大丈夫か? 怪我はしてないか?」
先ほどから無言のラズに話しかけてみるが、返ってくる言葉はない。ラズはそっぽを向いていて、こっちを一向に見ようとしない。怒っているのだろう、とレイアは思った。無理やり降伏するように命令したのだ。彼の矜持を踏みにじったのだから、反応がなくても仕方がない。
「……悪かった、ラズ。お前まで失ってしまうのが嫌だったんだ。本当は、兄様と残って一緒に戦いたかったんだろう? でも私は、お前がこうして隣にいてくれて、嬉しいんだ。せめてお前だけでもいてくれて、私はほっとしている」
再びラズの方を窺ったが、彼は何も言わない。
レイアは深く瞼を閉じ、口を閉ざした。
「……ですよ」
急いで振り向けば、なだめるように優しく笑んだラズが、こちらをひたと見据えていた。
「俺は、あなたを守りたいと強く願っていた。これは、まぎれもない事実ですよ」
そこでラズは、言いにくそうに一拍間を置く。
「……だけど、自分の望みも叶えれず、託されたあなたも守れなかった。俺は情けない男です」
「そんな、そんなことはない! ラズが一緒にいてくれなかったら、私、は……」
そこで言葉は途切れた。代わりに嗚咽が喉の奥からあふれてきて、レイアは自分の顔をラズの肩に押し付けた。縛り付けられた時、ラズとはあまり離れていなかったから、何とかくっつくことはできた。
レイアは、泣くのは嫌いなのだ。弱みを他人に見られたくないし、無意味に泣きわめくのは立ち止まることと一緒だ。なのに、今は胸がはち切れそうで耐えられない。
それでもレイアは、泣き声を敵の誰ひとりにも聞かれたくなくて、必死で歯を食いしばる。
「父様、兄様、……」
勇敢な戦士の物語に描かれない、哀れな敗者となってしまったことを、レイアは嫌というほど思い知った。
夜も更けてきたが、宴はまだ続いているようだ。レイア達は陣営の中心から離れたところにいるから詳しくはわからないが、喧騒が止む様子はない。
戦いの重圧からの解放と、もたらされた勝利に酔っているのだろう。獣の肉と、酒と歌とに浸り、声をあげる男達。かつてのレイアにとっても、あれはよくある風景だったのに。
「誰か、いないのか? 水を飲みたいんだ」
見張りの姿が見当たらない中、レイアは必死で声をあげた。ラズの様子が、おかしいのだ。額に汗を浮かべ、息も苦しそうだ。熱があるのかもしれない。本当はちゃんとした寝台に寝かせてやりたいが、それは受け入れられないだろう。ならばせめて、水だけは飲ませてやりたかった。
「いないのか? 頼む、誰か来てくれ」
「そうか、そんなに俺に会いたかったのか?」
低い声が、レイアの耳を打つ。陣営の方から、従者をひきつれたデンメルグがやってくるところだった。
松明の光に照らされた赤毛が照らされて、レイアはこんな状況だというのに、一瞬息をのむ。
男性の髪に見とれるなど、初めてだった。
デンメルグはレイアに近づき、膝を折った。気遣わしげな緑の瞳が、場違いだとレイアは思った。
「すまなかった。思ったより抜け出るのに時間がかかってしまってな」
「そんな謝罪はいらない。それよりも、ラズに水をやってくれ」
そこでデンメルグは、おやと不思議そうな顔をした。
「まさか、何も飲まず食わずだったのか? ここに来てから?」
「そうだ。見張りもいなかったからな。だが私の分はいらない。まずラズに水をやってくれ」
デンメルグは部下に二言三言告げて、レイアの縄をほどく。
「俺がここに来たのは、お前と話をするためだ。だが、ここでは何かと都合が悪い。場所を変えよう。いいな?」
レイアは、ちらりとラズのほうを窺う。縄を解かれた彼は、体調が悪いせいか大人しくしている。
「私はいい。だが、ラズは今話ができる状態じゃない」
「ああ、それはいい。用があるのは、お前一人だけだからな」
デンメルグはそう言うと、立ち上がって陣営の中心へ歩いていった。レイアも腰をあげ、後をついていく。
「いけません、レイア様」
ラズはレイアの方へ歩み寄ろうとしたが、一歩踏み出しただけでぐらりと体が傾ぐ。レイアは駆け寄ると、なだめるように頬に手を添えた。
「大丈夫だ。私のことは心配するな。ラズこそ、ゆっくり休め」
レイアはすぐ踵を返し、すでに遠く離れていたデンメルグを追いかけた。
レイアが通されたのは、デンメルグの天幕だった。デンメルグは話をする前に、まず水で薄めた酒と肉とを、レイアに進めた。レイアは申し訳程度に口に食べ物を押し込んだ。
「それで、私に一体何の話があるんだ。敗者の娘を晒しものにする計画でも話してくれるのか?」
「いいや、そういう話ではない」
デンメルグは両の指を組み、改まった様子でレイアに向き直る。レイアは今さらながら、この青年の美丈夫っぷりに気がついた。戦士として勇敢でありながら、容姿も恵まれているとは。
「レイア、お前は俺に今日初めて会ったのだろうが、俺はお前を以前からよく知っていたんだ」
いきなり何の話だ、とか、族長の子という同じ立場であってもレイアと気安く呼ぶなとか、いろいろと反論したいことがあったが、とりあえずデンメルグの話を聞く。
「二年程前だったか、馬でどこまで駆けることが出来るか、友と競争したことがあってな、その返り、馬に水を飲ませようと水源を探していたら、綺麗な泉があった。そこにお前がいたんだ」
レイアには、水浴びをするのにお気に入りの場所がいくつかあったのだが、そのうちのひとつを指しているのだろう。
「初めてレイアを見た時、心を奪われてその場に立ちつくした。こんなに綺麗な女が、この世に存在するのか、とな。まるで、月の女神が地上に降り立ったのかと思った」
「……つまりお前は、覗き見していた、のか」
「まあ、そういうことにはなるな。おいおい、そう怖い顔をするな」
レイアは記憶の限り、水浴びの際に何かあったかと思いだしてみたが、無駄だった。デンメルグを見た覚えはないし、見張りをしてくれたラズからも、そんな話を聞いた覚えはない。つまり、巧妙に隠れて覗いていたのだ。
レイアは顔から火が上がりそうになった。この男に、裸を見られたことがあるなんて。
「その後、お前の名を調べ、敵対する族長の娘であると知って驚いた。だが俺は、お前が欲しいと思ったんだ。どうすればいいかと長い間考えていたが、今回の戦いが起きた。俺は決めていたのだ。この戦いでお前を捕え、俺のものにすると……」
口を閉ざしたデンメルグが、レイアを見つめる。その視線にからめ捕られる前に、レイアは腰を浮かした。
「この話はこれ以上聞きたくない。もう戻る」
「待て、レイア」
名を呼ばれ、レイアの息が止まった。甘く切なげな声で名を呼ばれるのは、初めてだ。
デンメルグを見ると、緑の瞳が、熱を帯びていた。
腹のうちに、不吉な予感がわきあがる。
「な、なんだ……」
声が震えてしまうのを止められない。デンメルグは何も言わず、代わりにレイアに顔を近づけた。
唇と唇がふれあい、ちゅっと音をたてる。
「……っ!」
声を上げようとしたが、すかさず唇が重ねられだ。強く抱き締められ両腕を封じられ、レイアはあらがうことすらできない。
初めて知った男の唇の感触は、厚くて熱があり、レイアの薄いそれを押しつつみ、息さえも飲み込まれてしまうかと思った。
「んっ……んん」
息苦しくて声を上げようとしても、上手くいかない。ようやく彼が離れ、レイアはぜえぜえと息を吸い込む。
がそれも一瞬のことで、デンメルグは再び顔を近付けると歯と歯の隙間に、強引に舌を割り込ませた。
「なっ……んうっ」
こんなに大胆な口付けがあるなんて、知らなかった。レイアの動揺をよそに、彼はレイアの歯の裏をなぞり、舌をからめとって吸う。
なまめかしい水音が、レイアの耳に痛いほど響く。
がくっと膝が折れた時、やっと解放されて、そのまま床に倒れこんだ。
「何するんだっ…!」
息も絶え絶えに怒鳴るが、彼は全く涼しい顔をしていた。それがよけいにレイアの苛立ちに火をつける。
「お前、いくつになる?」
「今年で十七だ。それがどうした?」
「俺より五歳下なのか。ならば、さっき言った『お前が欲しい』という言葉の意味、わからないわけではないだろう?」
くいっと顎を掴まれ、覗き込んで来た緑の瞳にからめとられる。
レイアは心臓が止まるかと思った。
――このままでは、喰われてしまう。
「私はっ、こんな話をしに来たんじゃない。もうこれ以上聞きたくない!」
怯えを悟られたくなくて、必要以上に声をあらげた。対してデンメルグは静かなものだ。
「そうか、なら話し合いが嫌なら、取り引きをしようか?」
「何…?」
デンメルグは少し間をおいて、ゆっくり口を開いた。
「お前につき従っている、あの忠実な従者のことだが、奴の処遇をどうしようか悩んでいるのだ。我が部族の男達は、今回の勝利に酔いしれている。その高揚した気分のまま、とらえた敵の戦士を私刑にしかねないほどだ」
レイアは色めき立ってデンメルグにくいかかる。
「ラズに何かしてみろ!絶対に許さないぞ!」
「ほう、ならお前は、その大切な従者の命を守るため、何ができる? 血気はやる戦士達を説得するのは俺だ。お前は俺に、何を与えてくれる?」
レイアはうなった。敵の思うように誘導された。罠だったのだ。
「取り引きじゃない。これは脅しだ!」
「何とでも言え。あの従者の命は、俺の手の上にある。俺の気分は、お前の返事次第でかわる。わかりやすいだろう?」
(続く)
ガッツリ性描写はありませんが、無理矢理要素があります。苦手な方はブラウザバック推奨です。
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まずい。そう思った時にはすでに、手から剣が滑り落ちていた。
慣れ親しんだ柄の感触に、もう一度ふれることは叶わなかった。首筋に冷たい刃が押しあてられ、身動きが取れなくなったからだ。
つい先ほどまで激しい剣檄を繰り広げた赤毛の青年は、息を乱すこともなく涼しい顔で、けれど少しの愉悦をにじませながら宣言する。
「勝負あったようだな?」
レイアは疲労で息を弾ませながら、敵の言葉を茫然と聞いていた。
逃げなければならない。捕えられるわけにはいかない。ただその一心でここまで来たが、すべては無駄だったということなのか―――
ふと、悲鳴のような叫びが耳をつんざく。
「レイア様、お逃げください!」
「……ラズ!」
呼びかけた兄の乳兄弟は、敵の囲みを突破してこちらへ来ようとしているが、敵が次々に切りつけてくるのを防ぐので精一杯なようだ。
彼をあざ笑うかのように、体力も気力も有り余った、闘争心にあふれる者たちがラズへと群がっていく。
「やめろ、ラズ!」
レイアは、万感の思いを押さえつけ、怒鳴った。ラズも、彼を迎えうとうとした敵も、思わずといったふうに動きを止めて彼女の方を見る。
「ラズ……剣を捨ててくれ」
「なぜです、レイア様!」
彼はまだ戦える、と目で訴えている。ここで諦めるのは戦士の誇りが許さないのだろう。レイアもそれは同じだった。痛いくらいに彼の悔しさがわかる。
だがレイアは、無理難題を命令する。
「ラズ、剣を捨てろ。私は降伏する。お前も従うんだ」
「どうしてですか! 俺はあなたを最後までお守りすると、約束したのに!」
大きく前へ踏み込んだラズに、一人の若者が剣を振りあげた。単に動くなと牽制のつもりだったのだろうが、たちまちラズの瞳に闘争心が燃え上がったのをレイアは見逃さなかった。
「ラズっ!」
再びレイアの口からほとばしった悲鳴は、しかし途中で途切れてしまった。
彼女は後ろから突然抱きこまれ、その細い首筋に改めて刃がつきたてられる。視界に入った腕は、さっきレイアに剣を突き付けた青年のものだろう。
皮膚に小さな痛みが走った。創傷の痛みだ。
「そこの従者よ、その度胸はいっそ感心するくらいだが、この状況で俺達から逃げれると思っているのか?」
低いがよく通る声だった。レイアは改めて、周囲を確認する。
二人きりで逃げ続け、身を隠そうともぐりこんだのは深い森の中。
朝を迎えても止まない霧雨は体温を奪い続け、戦い続けているはずの仲間の生死はわからなかった。そんな明日の見えない敗走が、今まさに終わろうとしているのだ。最悪の結末でという形で。
憔悴し切ってはいるが、なおも剣を手放さないラズの姿に、涙があふれた。
「ラズ、もういいんだ……もう、いいんだ」
ラズは己を取り囲む敵を見やり、次いでレイアに視線を移した。たっぷりの沈黙の後、彼の手から剣が落ちる。
「殺すな、生け捕りにしろ」
赤毛の青年の命令に、若者たちは実に素早く忠実に動いた。後ろ手に縄うたれるラズは、うなだれたまま成すがままにされている。
(ラズ、すまない。お前まで、失いたくないんだ)
「意外にもてこずらずに済んで、俺としては嬉しい限りだ、なあレイア?」
「無礼者! 私の名を気安く呼ぶな!」
かっとなって反射的に叫んだのが不興を買ったのか、青年の大きな手のひらが、レイアの首をなで、軽く締め上げてくる。
「……っ!」
「男勝りで気が強いとは聞いていたが、これは面白い。剣の腕も、女にしてはなかなかだな。ますます面白い――俺は、やはりお前が気に入りそうだ」
唐突にレイアは突き飛ばされ、地面に体を打ち付ける。何度かせき込んで上半身を起こすと、覗き込んできた青年と目があった。
長く伸ばした赤毛の一部を三つに編み込み、垂らしているのが印象的だ。年はレイアの兄と同じくらいで、二十二、三だろうか。濃い緑の瞳はなめるようにレイアを見ている。捕えた敵の部族の娘を、単に観察する以上の熱が視線にこもっている気がして、レイアは寒気を覚える。
「名乗るのが遅れたな。俺はアーベントが息子、デンメルグだ。お前の兄の最期に立ち会ったのは俺だ。あいつも、なかなかの剣の腕を持っていた。兄妹そろって武勇にすぐれているとは、どこまでも俺を楽しませてくれるな」
デンメルグと名乗った青年の言葉に、レイアは言葉を失った。再会を心から望んでいた兄は、もうこの世にいないというのか。ならば、レイアの部族は、もう――
デンメルグは、レイアを縛り上げるように部下に命令すると、踵を返して言った。
「戦は終わりだ。我々の勝利だ。少し気が早いかもしれないが、今宵は宴でも開こうか」
レイアの部族とデンメルグの部族は、もう何年も、なわばり争いの小競り合いを繰り広げてきた。その諍いは、先々代にまでさかのぼることができる。最初は水場と狩猟場の扱いでもめていたのだが、今回とうとう、互いの全勢力をあげた戦いとなったのだ。
負ければすなわち、全滅を意味するこの争いで、レイアの部族は敗れ去った。そして、敵の魔手からレイアを逃がそうとした兄の思いも、無駄になってしまった。
深い森を抜けて半日ほど歩いたところに、デンメルグの陣営はあった。
騎乗したデンメルグの姿が陣営に現れると、戦士の男たちは歓声をあげた。後ろ手に縛られ歩かされていたレイアは、その声の波におののいた。けれど、それを悟られまいと唇をかみしめる。
デンメルグは馬を降り、一段高いところに立つと自分達の勝利を告げ、次いで勇敢な戦士たちの戦いっぷりを賞讃した。
「今宵は宴だ。皆、疲れを癒してくれ」
満足そうなデンメルグの表情を恨めしげに見やっていたレイアは、下級兵士に乱暴に引っ張られ無理やり歩かされる。
牢の準備ができていなかったからだろうが、レイアとラズは陣営の隅にある木に縛り付けられた。遠くでは喧騒が続いている。レイアは木の幹に、がっくりともたれかかった。脳裏に、幼いころよく聞いた寝物語が思い浮かぶ。
勇壮な戦士たちの、戦いの物語。神の血を半分ひいた青年や、人間の英雄達が、青銅の剣を振り、時には矢をつがえ、敵に立ち向かい勝利を収めた物語。レイアは他の少女たちが好むような、妖精の物語や恋物語よりも、男たちの活躍を聞く方が好きだった。だから、竪琴を持った部族の語り手にも、兄にもラズにも、呆れられることがよくあった。
しかし、幼いレイアは気づかなかったのだ。勝者がいるということは、必ず敗者がいるという理を。黎明の影には没落があるのだ。今まさに、自分の身を持ってそれを知ることになろうとは、つゆほどにも考えたことはなかった。
「ラズ、大丈夫か? 怪我はしてないか?」
先ほどから無言のラズに話しかけてみるが、返ってくる言葉はない。ラズはそっぽを向いていて、こっちを一向に見ようとしない。怒っているのだろう、とレイアは思った。無理やり降伏するように命令したのだ。彼の矜持を踏みにじったのだから、反応がなくても仕方がない。
「……悪かった、ラズ。お前まで失ってしまうのが嫌だったんだ。本当は、兄様と残って一緒に戦いたかったんだろう? でも私は、お前がこうして隣にいてくれて、嬉しいんだ。せめてお前だけでもいてくれて、私はほっとしている」
再びラズの方を窺ったが、彼は何も言わない。
レイアは深く瞼を閉じ、口を閉ざした。
「……ですよ」
急いで振り向けば、なだめるように優しく笑んだラズが、こちらをひたと見据えていた。
「俺は、あなたを守りたいと強く願っていた。これは、まぎれもない事実ですよ」
そこでラズは、言いにくそうに一拍間を置く。
「……だけど、自分の望みも叶えれず、託されたあなたも守れなかった。俺は情けない男です」
「そんな、そんなことはない! ラズが一緒にいてくれなかったら、私、は……」
そこで言葉は途切れた。代わりに嗚咽が喉の奥からあふれてきて、レイアは自分の顔をラズの肩に押し付けた。縛り付けられた時、ラズとはあまり離れていなかったから、何とかくっつくことはできた。
レイアは、泣くのは嫌いなのだ。弱みを他人に見られたくないし、無意味に泣きわめくのは立ち止まることと一緒だ。なのに、今は胸がはち切れそうで耐えられない。
それでもレイアは、泣き声を敵の誰ひとりにも聞かれたくなくて、必死で歯を食いしばる。
「父様、兄様、……」
勇敢な戦士の物語に描かれない、哀れな敗者となってしまったことを、レイアは嫌というほど思い知った。
夜も更けてきたが、宴はまだ続いているようだ。レイア達は陣営の中心から離れたところにいるから詳しくはわからないが、喧騒が止む様子はない。
戦いの重圧からの解放と、もたらされた勝利に酔っているのだろう。獣の肉と、酒と歌とに浸り、声をあげる男達。かつてのレイアにとっても、あれはよくある風景だったのに。
「誰か、いないのか? 水を飲みたいんだ」
見張りの姿が見当たらない中、レイアは必死で声をあげた。ラズの様子が、おかしいのだ。額に汗を浮かべ、息も苦しそうだ。熱があるのかもしれない。本当はちゃんとした寝台に寝かせてやりたいが、それは受け入れられないだろう。ならばせめて、水だけは飲ませてやりたかった。
「いないのか? 頼む、誰か来てくれ」
「そうか、そんなに俺に会いたかったのか?」
低い声が、レイアの耳を打つ。陣営の方から、従者をひきつれたデンメルグがやってくるところだった。
松明の光に照らされた赤毛が照らされて、レイアはこんな状況だというのに、一瞬息をのむ。
男性の髪に見とれるなど、初めてだった。
デンメルグはレイアに近づき、膝を折った。気遣わしげな緑の瞳が、場違いだとレイアは思った。
「すまなかった。思ったより抜け出るのに時間がかかってしまってな」
「そんな謝罪はいらない。それよりも、ラズに水をやってくれ」
そこでデンメルグは、おやと不思議そうな顔をした。
「まさか、何も飲まず食わずだったのか? ここに来てから?」
「そうだ。見張りもいなかったからな。だが私の分はいらない。まずラズに水をやってくれ」
デンメルグは部下に二言三言告げて、レイアの縄をほどく。
「俺がここに来たのは、お前と話をするためだ。だが、ここでは何かと都合が悪い。場所を変えよう。いいな?」
レイアは、ちらりとラズのほうを窺う。縄を解かれた彼は、体調が悪いせいか大人しくしている。
「私はいい。だが、ラズは今話ができる状態じゃない」
「ああ、それはいい。用があるのは、お前一人だけだからな」
デンメルグはそう言うと、立ち上がって陣営の中心へ歩いていった。レイアも腰をあげ、後をついていく。
「いけません、レイア様」
ラズはレイアの方へ歩み寄ろうとしたが、一歩踏み出しただけでぐらりと体が傾ぐ。レイアは駆け寄ると、なだめるように頬に手を添えた。
「大丈夫だ。私のことは心配するな。ラズこそ、ゆっくり休め」
レイアはすぐ踵を返し、すでに遠く離れていたデンメルグを追いかけた。
レイアが通されたのは、デンメルグの天幕だった。デンメルグは話をする前に、まず水で薄めた酒と肉とを、レイアに進めた。レイアは申し訳程度に口に食べ物を押し込んだ。
「それで、私に一体何の話があるんだ。敗者の娘を晒しものにする計画でも話してくれるのか?」
「いいや、そういう話ではない」
デンメルグは両の指を組み、改まった様子でレイアに向き直る。レイアは今さらながら、この青年の美丈夫っぷりに気がついた。戦士として勇敢でありながら、容姿も恵まれているとは。
「レイア、お前は俺に今日初めて会ったのだろうが、俺はお前を以前からよく知っていたんだ」
いきなり何の話だ、とか、族長の子という同じ立場であってもレイアと気安く呼ぶなとか、いろいろと反論したいことがあったが、とりあえずデンメルグの話を聞く。
「二年程前だったか、馬でどこまで駆けることが出来るか、友と競争したことがあってな、その返り、馬に水を飲ませようと水源を探していたら、綺麗な泉があった。そこにお前がいたんだ」
レイアには、水浴びをするのにお気に入りの場所がいくつかあったのだが、そのうちのひとつを指しているのだろう。
「初めてレイアを見た時、心を奪われてその場に立ちつくした。こんなに綺麗な女が、この世に存在するのか、とな。まるで、月の女神が地上に降り立ったのかと思った」
「……つまりお前は、覗き見していた、のか」
「まあ、そういうことにはなるな。おいおい、そう怖い顔をするな」
レイアは記憶の限り、水浴びの際に何かあったかと思いだしてみたが、無駄だった。デンメルグを見た覚えはないし、見張りをしてくれたラズからも、そんな話を聞いた覚えはない。つまり、巧妙に隠れて覗いていたのだ。
レイアは顔から火が上がりそうになった。この男に、裸を見られたことがあるなんて。
「その後、お前の名を調べ、敵対する族長の娘であると知って驚いた。だが俺は、お前が欲しいと思ったんだ。どうすればいいかと長い間考えていたが、今回の戦いが起きた。俺は決めていたのだ。この戦いでお前を捕え、俺のものにすると……」
口を閉ざしたデンメルグが、レイアを見つめる。その視線にからめ捕られる前に、レイアは腰を浮かした。
「この話はこれ以上聞きたくない。もう戻る」
「待て、レイア」
名を呼ばれ、レイアの息が止まった。甘く切なげな声で名を呼ばれるのは、初めてだ。
デンメルグを見ると、緑の瞳が、熱を帯びていた。
腹のうちに、不吉な予感がわきあがる。
「な、なんだ……」
声が震えてしまうのを止められない。デンメルグは何も言わず、代わりにレイアに顔を近づけた。
唇と唇がふれあい、ちゅっと音をたてる。
「……っ!」
声を上げようとしたが、すかさず唇が重ねられだ。強く抱き締められ両腕を封じられ、レイアはあらがうことすらできない。
初めて知った男の唇の感触は、厚くて熱があり、レイアの薄いそれを押しつつみ、息さえも飲み込まれてしまうかと思った。
「んっ……んん」
息苦しくて声を上げようとしても、上手くいかない。ようやく彼が離れ、レイアはぜえぜえと息を吸い込む。
がそれも一瞬のことで、デンメルグは再び顔を近付けると歯と歯の隙間に、強引に舌を割り込ませた。
「なっ……んうっ」
こんなに大胆な口付けがあるなんて、知らなかった。レイアの動揺をよそに、彼はレイアの歯の裏をなぞり、舌をからめとって吸う。
なまめかしい水音が、レイアの耳に痛いほど響く。
がくっと膝が折れた時、やっと解放されて、そのまま床に倒れこんだ。
「何するんだっ…!」
息も絶え絶えに怒鳴るが、彼は全く涼しい顔をしていた。それがよけいにレイアの苛立ちに火をつける。
「お前、いくつになる?」
「今年で十七だ。それがどうした?」
「俺より五歳下なのか。ならば、さっき言った『お前が欲しい』という言葉の意味、わからないわけではないだろう?」
くいっと顎を掴まれ、覗き込んで来た緑の瞳にからめとられる。
レイアは心臓が止まるかと思った。
――このままでは、喰われてしまう。
「私はっ、こんな話をしに来たんじゃない。もうこれ以上聞きたくない!」
怯えを悟られたくなくて、必要以上に声をあらげた。対してデンメルグは静かなものだ。
「そうか、なら話し合いが嫌なら、取り引きをしようか?」
「何…?」
デンメルグは少し間をおいて、ゆっくり口を開いた。
「お前につき従っている、あの忠実な従者のことだが、奴の処遇をどうしようか悩んでいるのだ。我が部族の男達は、今回の勝利に酔いしれている。その高揚した気分のまま、とらえた敵の戦士を私刑にしかねないほどだ」
レイアは色めき立ってデンメルグにくいかかる。
「ラズに何かしてみろ!絶対に許さないぞ!」
「ほう、ならお前は、その大切な従者の命を守るため、何ができる? 血気はやる戦士達を説得するのは俺だ。お前は俺に、何を与えてくれる?」
レイアはうなった。敵の思うように誘導された。罠だったのだ。
「取り引きじゃない。これは脅しだ!」
「何とでも言え。あの従者の命は、俺の手の上にある。俺の気分は、お前の返事次第でかわる。わかりやすいだろう?」
(続く)