短編・旧サイト拍手ログ
風と共に穏やかな旋律が流れてきて、ふと子猫は足を止めた。
これは、ピアノの旋律だ。曲名は知らないが、まるで心穏やかになるような、静かで優美な音色だった。刹那の間だけ耳をくすぐっては、また風に流されて消えて行く、そんな物悲しさも子猫の注意をひいた。
子猫は体の向きを変え、音の発生源を目指して歩を進める。この場合、嗅覚は全く役に立たない。愛らしい三角の耳殻をひこひこ動かし、首をあちこちめぐらして、考えた末近場の塀に飛び乗った。そのまま四本足でかろやかに駆け、とある家の中庭に降り立つ。
子猫はこの家を訪れたことは無かった。老人が一人暮らしをしているというのは知っていたが、群生するばらの刺を気にして近付かなかったのだ。今も目と鼻の先の距離に、にわかに雨に濡れて水の宝石をその身にまとう大輪の花々がある。だが手入れは中途半端のようだ。定期的に人間が手を加えていれば、ばらはもっと美しく傲慢に咲き誇れるだろうに。
子猫は頭の片隅でそんなことを考えながらも、風に揺れるカーテンの向こうから聞こえる旋律に耳をすませた。
誰がピアノを奏でているのだろうか。やはりここに住んでいる老人だろうか。
もがくようにはためくカーテンはうららかな陽光を吸い込んで、その白さが一層際立っている。その向こうに、カーテンが揺れるせいで時折しか見えないが、確かに、老人がいた。
灰色の頭髪に、ふちなしの老眼鏡をかけている。顔にしわはあまり見受けられなかったが、長い歳月を生き抜いてきたと思わせる老練したまなざし。漆黒のグランドピアノの旋律に、演奏者である彼自身が、全身全霊でその身をゆだねている。弱く鍵盤を叩くときは子供の頭をなでるように優しく弾き、左の和音が低くなるときは気持ちが沈んだような表情を浮かべている。
子猫は凝視し続けた。鍵盤に思いをこめる老人を。次々とあふれてくる音色の奔流が、子猫をこの場からさらいそうになる。
老人の演奏はよどみがなく、永遠に続く川の流れであるかのように思われた。
実際、子猫はそう感じていた。老人の指が鍵盤から離れ、彼が満足感と充実感からくる小さなため息をついたときも、まだ子猫の耳には旋律がこびりついついた。
子猫は衝撃に打たれ、その場から動けずにいた。
まさか、自分が一瞬でも安らげるような音楽を奏でられる人間がいるとは、思いもしなかったのだ。
「おや、小さな観客さんか?」
気がつけば、灰色の瞳が子猫を見下ろしている。
老人は思いがけない訪問者に目を丸くし、ついで奥ゆかしそうに笑んだ。
「お前さんは儂の奏でる音楽がわかるか?わかるのか?ん?全く変わった子猫だな」
老人がしゃべるのを聞きながら、子猫は今自分がどの時代のどの国に存在するのか再確認していた。自分の仮の姿を忘れることは今まで一度もなかったが、存在する場所の事はよく忘れ去ってしまうのだ。
いや、混乱してしまう、と言った方が正しいのだろう。
これも、毎晩のように‘記憶’が‘夢’となって現れるせいだ。
「みかけんな、お前さん。何処の家の子猫なんだね、うん?」
何も反応がないので、老人は子猫の頭をそっとなでた。子猫の頭をすっぽり包んでしまうほどの、大きな手。それでいて、ピアノを弾いているからか、指はきれいだ。傷ひとつない。もちろん、年齢を感じさせるほどのしわはあるのだが。
子猫は物思いにふけるのをやめて、みー、と鳴いた。老人の指の腹をこそばゆく感じたが、我慢して目を細め、みー、にゃー、と鳴く。
老人は楽しそうに、うれしそうにほほ笑んだ。
顔のしわが深くなる。
それからというもの、子猫は老人の家に度々足を運んだ。
訪れたとき、老人はたいていピアノを奏でているか、読書にいそしんでいるかのどちらかだった。何度出入りしても家政婦とは出会わなかった。どうやら老人は、誰の手も借りずに一人きりで暮らしているらしい。友はピアノと、本と、それから子猫、といったところだろうか。
老人は、子猫をフォルテと名付けた。だから子猫はフォルテと呼ばれたときは、必ず反応した。
子猫の特等席は、老人の膝の上か、革靴のそばだった。老人は安楽椅子に腰掛け、子猫を膝の上に乗せ、背を撫でたりあやしたりする。そして話しかける。ほとんどが他愛のない話ばかりだった。
天気の話。最近よんだ小説の話。手に入れた楽譜の話。庭に咲くばらの話もした。ばらは、老人の亡き妻が大事に育てていたものらしかった。
子猫はそれを知っていた。否、老人と触れ合ううちに、知り得てしまったのだ。
子猫はを知っていた。知り得る力を持っていた。
老人がいつ生まれたのか、いつ伴侶と出会い、どのような人生を過ごしてきたのか、子猫にはそれが手にとるようにわかるのだった。
それもこれも、子猫の真の姿であるところの‘彼’が、そういう能力を持っているからだった。
ただし。
「……儂はもう一度、妻に会いたいのだよ。会って、彼女に儂のピアノをもう一度聞いて欲しい」
老人が一瞬浮かべたその表情。どこか遠くを見ていて、その遠くにあるものをあまりにも思慕している悲しげな瞳。
その表情の訳だけは、子猫には理解できなかった。
その日、子猫はいつもより早い時間帯に老人の家を訪れた。
塀の上から芝生に降り立ち、窓のそばまで歩み寄ろうとする。
が、はたと子猫は歩みを止めた。
本当は、子猫は知っていたのだ。今日この日、この時間帯に、この家を訪れれば、どんな光景を目にするかを。
そしてそこには、子猫の予想通り、咲き誇るばらのそばで老人が倒れ臥していた。
とっさに子猫は駆け寄り、老人の頬に鼻を押し当て、小さな体躯で踏ん張って老人を起こそうとする。
だが、無理だった。子猫は一旦老人から離れ、今度は背中に飛び乗りその上で必死に跳ね回る。だがこれも、まるで効果がない。老人は何の反応も返さない。
突如、子猫は糸が切れたように跳ねるのを止め、老人の顔の辺りに寄り添い、みー、と鳴いた。
わかっていた。わかっていたのだ。
老人は今日倒れ、明日の明け方、命の灯火が消える。
それは、老人と触れ合ううちに、見えてしまった未来。運命。
子猫の真の姿である‘彼’が、先んじて決められていた‘この星の記憶’のほんのわずかな塵のようなごく一部を、垣間見てしまって、知ったこと。
だがそれでも。
それでも、子猫は。
「僕は、あなたと過ごせて、とても楽しかった」
いつの間にか、そこに子猫の姿はなかった。老人のそばには、白い衣をまとった、十代ごろの年齢と思われる少年がひざまずいていた。
ただ、彼の表情はフードに隠れているため、よく見えない。
「僕はあなたがいつ死ぬか知っていたんだ。いつか、それも近いうちに、決定的な別離が訪れることを知っていた。しかも、第一発見者はこの僕であるということも。僕は、人の子に与えられた運命を教えることはできない。ただ、‘夢’を見続けることしかできない卑怯者だ。見るだけで、何もできないんだ」
少年は、老人の頬に手を伸ばす。白い指が、青ざめた老人の頬をなぞる。
「だけど、僕は、あなたといたかった。一緒に過ごしたかった。あなたの音楽は、僕を苦しめる‘夢’を、一瞬だけでも沈めてくれたから」
少年は、仮の姿で地上を彷徨うとき、必ず‘夢’の暴走に苦しめられるのだ。
‘夢’とはすなわち、この星の記憶だ。
この星の記憶を夢見て管理すること。それが、少年が遥か太古に生まれ落ちたときに定められた、少年の運命だ。
‘夢’はうるさいのだ。あまりにもたくさんありすぎるから、生きるときを定められた仮の姿では制御しきれない。気をつけていても、‘夢’は暴走してしまう。そして仮の姿の少年は、その暴走に巻き込まれてしまうのだ。
だが、老人の奏でる旋律は、子猫であった少年をなだめてくれた。
その音色が、‘夢’の暴走に手を焼く彼を癒してくれた。
世界中の悲しみの結晶のような、老人の旋律が。
「知らなかった。人間に、こんなことができるなんて」
少年は立ち上がった。今一度老人に視線を落とし、慈愛の女神のように優しい声音で言葉を紡ぐ。
「ありがとう、人の子よ。一人分の人生しか背負えない、ちっぽけな人の子よ。その重さにつぶされることなく、あなたは立派に生きた。子猫は、あなたの事を決して忘れはしないだろう。この星の誕生から終焉までを‘夢’で見る僕が、保証します」
昔々、あるときあるところ、一人の老人が孤独死した。
先立った妻が大切に育てていた、群生するばらのそばで。
花びらに引っ掛かっていた夜露が、まるで涙のようだったという。
身内のいない老人の葬儀は、ひっそりとしめやかに行われた。
何ということはない、この世界でよく繰り返される現象の、たったひとつの死を見送る行事が行われた。
ただ、老人の墓には、毎日のように一匹の子猫が訪れていた。
教会の神父と墓守りは、それに気が付いていた。子猫が墓石に耳を押し当て、目を閉じてじっとしている光景を、二人は何度も見かけた。
ある日墓守は、冷たくなった子猫を見つけた。
子猫は血まみれだった。大方、他の野良猫か野良犬と喧嘩してかみつかれたのだろうと、墓守りは思った。
墓守りは、小さな穴を掘って、そこに子猫を埋めてやった。
老人と子猫は隣同士、土の中で眠っている。
「聞こえる。‘夢’がわめいている」
墓の前に立つ少年は、つぶやいた。
「僕はいつになったら、このさだめから解放されるのかな……」
少年はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがてその姿はかき消えた。風と共に。また何処か、別の時代、別の時へ。
風だけが優雅に気まぐれに、時の中を、駆け巡る。
〈了〉 ネット初出 2008.1.1
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