その10 君の左手を


俺と深空は、二人に背を向けてしゃがみこんだ。深空の無言の提案で、屋上入り口付近まで移動する。

ありゃ完全に、二人きりの世界に入っている。となると、俺たちの姿が目に入るのは申し訳ないからな。

しかし……二人の視界から隠れたはいいものの、距離は近づいたな。

さっきよりも、会話がはっきりと聞こえるぞ。

「の、紀里……」

また、紀里が短く笑う。

「さっきから僕の名前ばかりですね? いつも元気な吉乃ちゃんは、どこへ行ったんですか?」

「だ、だって。私のこと、好きっ、て……」

唐突に紀里は、指で吉乃の顎をそっとつかんだ。

やっべえ。マジで、俺たちの存在忘れてるぞ。

「そうなんですよ。吉乃ちゃんに触れたくてたまらない、欲望だらけの愚かな男なんです。ねえ吉乃ちゃん……僕から逃げるなら、今のうちですよ?」

そのまま、十秒は時間が流れた。どうしようか、深空の目がちょっと泳いでるぞ。

「広希、今のうちに階段降りようよ。なんか、二人に悪い……」

そこまで言いかけたところで。

「に、逃げないわよ……私も、気づくのがすごく遅かった。いつの間にか私も、紀里のことが、その……す、好き」

吉乃の言葉は、そこで途切れた。

何のことはない。紀里が自分の唇で吉乃の唇をふさいだ。それだけだ。

……とりあえず、それだけって表現をさせてくれよ。

まずい、階段への扉へ行くタイミングすら失った。

たったニ、三秒の、軽いキス。顔を離した紀里が、にっこりと満面の笑みを浮かべる。

対して真っ赤な吉乃は、今にも魂が抜けそうだ。

「………っと! 私、全部言ってないのに! いきなりこんな」

「すみません。どうもこれまで、我慢しすぎだったみたいで。しばらく付き合ってくれませんか?」

「はあ? えっ、ちょ……んうっ」

というわけで、リップ音のメロディーが始まったぜ!

もうこれは、心の中で茶化すしかねえ!

取りあえず俺は、深空の視覚と聴覚をふさぐことに全力を注いだ。深空の頭ごと抱える勢いで、手のひらも腕の筋肉も総動員だ。俺の感覚器はこの際、どうでもいい。

……いや、どうでもいいわけがない。親友のキスの音が逐一聞こえてくるなんて、もう何に例えたらいいのやら。申し訳ないやらいたたまれないやら。

というかあいつらの方が俺達より、進んでるな。自慢じゃないが俺たちまだ、唇同士のキスまでたどりついてないんだぞ。

「の、り、さと……」

「すみません、あと少しだけ。少しだけですから」

「ば、かっ……んっ」

「………滅茶苦茶かわいいですよ、吉乃ちゃん。もう僕、どうしたらいいんでしょう?」

俺もどうしたらいいのかわかんないぞ、紀里ぉ!!

そして――限界に達したらしい深空が、じたばたともがいて俺の腕から逃れた。

「息できなくなるところだったよ!! ひどいよ、もう!!」

深空以外の三人の空気が、永久凍土のごとく冷え冷えとしていく。

そうだなあ……この世の終わりみたいだなって、例えても良さそうだよな。



**********



俺は屋上のど真ん中で、大人しく正座している。

目の前にいるのは、真っ赤な顔から真っ青な顔になった吉乃と、いつもの胡散臭い笑みを浮かべている紀里だ。

深空については俺が全力で目も耳もふさいでやったので、二人から無罪放免の許可を得て、既に階段を降りている。

……何か俺、下界に無事戻れそうにないんだけど。

紀里の笑顔が、この時ほど怖いと感じたことはない。

「頼むから、完全犯罪だけはやめてくれ」

「……今、本気でどういうトリックにすればいいのか考えてました」

「考えるな! 笑顔で言うな!」

ちょっと焦点のあってない目の吉乃が、紀里を力なくつついた。

「これさあ、広希君は全然悪くないと思うの。どう考えても紀里が暴走したせいじゃん」

そう言って、吉乃はまた頬を染める。まだ、紀里は笑顔を保っている。

「僕たちでさえ、広希君と深空さんの乗った観覧車を、ちょっと確認しただけなんですよ。これって不公平じゃないですか?」

どの点においてどこがどう不公平なのか、俺には理解できない。

まさか、俺と深空のキスを見学させろとでも言う気なのだろうか。見たいと思うか? そういうのって。

「何言ってるのよ。とにかく、これは私たちが不注意だった。特に紀里がね。だから広希君を責めるのはお門違い。もう帰ろうよ? 深空も心配してるだろし、鷹崎君を待たせてるんだから」

そう言って扉へ向かおうとした吉乃の手を、紀里はとっさにつかむ。

そしてうやうやしく持ち上げ、自分の唇を押し当てた――なぜ俺の前でそういうことするんだよ?

色っぽい黒ヒョウのような瞳で、紀里が問う。

「さっきの続き、どこで、いつしますか?」

噴火のごとき勢いで、耳まで赤くなった吉乃は叫んだ。

「ここでしばらく頭冷やしてなさいっ!! この変態っ!!」

おまけとばかりに軽く紀里の頭をはたき、吉乃は扉の向こうへと消えていく。

しばらく叩かれた箇所をさすっていた紀里だが、またいつもどおりの笑顔を浮かべた。

「すみません。もう立ってください、広希君」

これは完全犯罪の前触れか……と、冗談半分本気半分で思いながら、ゆっくり立ち上がる。予想通り、足の裏が少し痺れていた。

「お前さ、一種のヤンデレに見えるぞ?」

「広希君、ヤンデレって言葉知ってたんですね。僕自身は普通のつもりではあるんですが。そんなに重かったかなあ?」

「そ、そうか……」

まあ吉乃のあの性格ならば、紀里のアプローチに慌てふためきながも、ちゃんとツッコミを入れる時は入れるだろう。

「なんだかんだ、紀里と吉乃はいいコンビでやっていけるかもな」

「コンビって表現はいただけませんね。漫才始めるわけじゃないんですから」

いやいや、過去に充分やってるからな。俺も深空もばっちり目撃してるし。

よし、このまま逃げ切るぞ……とドアノブに手をかけたところで。
紀里は俺の肩を、がっちりとつかんだ。

振り向いた先の胡散臭い笑顔に、何が始まるんだと戦慄する。

「たった今、思いつきました。広希君はしばらく、僕の勉強につきあってもらうことにしましょう」



**********



この高校でまたひっそりと、カップルが一組誕生した。

俺が驚いたのは、吉乃が意外にも紀里に転がされている場面が多い、ということだ。

例えば廊下で二人がすれ違うことがあったら、一方的に吉乃が顔を赤くしたりとか。

紀里が微笑みかけるだけで吉乃が真っ赤になって、また紀里が笑みを深めたりとか。学校帰りに一度、紀里から手をつないだだけで、吉乃が固まって動けなくなったところを見たことがある。

俺らよりかは進んでいるんだろけど、片方がけっこう奥手なのには驚いた。

紀里はそのことを楽しんでいるみたいだし、たまに吉乃が爆発してどつく、という感じでやっているのだろう。

そして俺は、なぜかとばっちりに巻き込まれているのだ。

「じゃあ広希君、答え合わせをしましょう。課題はやってきましたか?」

放課後、俺は紀里の教室へと呼び出された。紀里なりに考えた俺へ鬱憤の晴らし方が――紀里の自主的な勉強に、特に英語と数学に付き合わされる、というものだった。

正直なところ、俺は四年制大学に進学しない確率の方が圧倒的に高いし、大学入学共通テストについては全ての教科が必須になるかもわからない。英語はやっておいて損はないだろうけど、数学は果たして今後に向けて意味があるのか、現時点では大いに疑問なのだ。

まあだからこそ、紀里は俺に数学をさせてるんだろうけどな……。

「広希君は数学が苦手なんですね。他はそうでもないのに」

「頭痛くなるんだよ。小学校の算数はギリギリ何とかなったけど、中学の数学でもう躓いたからな」

紀里は一応文系だけども、難関大学を目指しているせいか、全てにおいて点数が良い。本人曰く暗記が大変とのことだけど、成績上位のせいか、そう言われてもあんまり説得力ないんだよな。

「この問題はここで間違えてますね。けっこう簡単なケアレスミスをするタイプなんですね。自分がどういうところで躓きやすいのか頭に入れておけば、対処もしやすくなりますよ」

……これは腹いせよりも、ただただ友達に勉強を教えてあげてるだけになってる気がするんだが。

こうしてしばらく、紀里のスパルタ指導は続くのだった。



**********



早いもので、八月に突入した。

受験を控えた高校生は、己をふるい立たせて勉強にとにかく励む季節でもある。

そういう訳もあって、俺は三日に一回は深空の家へお邪魔し、お家で勉強デートをしていた。

一応言い訳させてもらうと、深空は真剣に勉強に取り組んでいる。なので俺たちの間に甘酸っぱい雰囲気が漂っていたりだとか、そういう時間は極端に短い。

いつもは、な……。

「あー、暑いねー。今日はクーラーつけてても暑いよー」

下敷きで己を仰ぎながら、深空はエアコンの設定温度を下げる。確かに天気予報でも、今日は熱中症に特に注意しろと言っていたかも。

そのせいか深空は、なんとキャミソールを着ているのだ。ちなみに下は、太ももの半分までの丈の部屋着用パンツ。

これは俺の記憶の中で格段に、肌の露出が高い格好だ。

うーん、俺も一応、勉強に集中したいんだけどな……。

「広希、あとで生物のワークの答え合わせしようね?」

「お、おう」

深空はふとした拍子に、紀里の俺へのスパルタ指導を知った。そしたらどうしてか「私もやる!」と気合が入ってしまったらしい。今では数学が紀里担当で、英語やその他、俺に必要になりそうな科目は深空担当となっている。

幸いといっては何だが、俺の選択科目と深空の選択科目、殆ど同じだもんな。唯一の違いは俺が世界史選択で深空は日本史選択、という点だ。

半分だけ開いたドアから、深空の母さんの声がする。

「ちょっと買い物に行ってくるわね」

「はーい」

深空は腰をあげ、しばらくしてアイスを二つ持ってきた。小さなバニラソフトクリームだ。

「はい、広希も食べるでしょ?」

「ありがと」

遠慮なくかじりつく。深空は目の前の問題集に集中しながら、少しずつアイスを舐めていた。

時々のぞく赤い舌先に、乗せられて消えていく白いクリーム……。

(ああ、やべえな。集中できないかも)

アイスで身体は多少冷えたけども、頭が冷静になってくれない。

深空を視界に入れないようにしながら、遺伝子に関する問題をひたすら解いていく。

すると――

「あっ……わっ! やっちゃったー」

顔をあげると、溶けかかったアイスが深空の脚に垂れていた。

とっさにティッシュ箱を手にとり、深空の近くに置く。

「取りあえず先に全部食べろよ?」

「う、うん……」

手も汚しながら、深空はソフトクリームをすべて平らげた。

「勿体無いことしちゃったなー」

そう言いながら手を拭き、次いで服についたアイスも拭き取っていく。

俺は、深空の口元から目が離せなかった。

服が綺麗になったタイミングで、声をかける。

「なあ、深空」

「ん、なあに?」

顔をあげた深空へ、俺の唇を指さして。

「アイスついてるぞ」

「え、そうなの? どこ?」

自分の顔へ手をやろうとした深空。その手を俺は、いきなり握って。

「――?」

ちょっと恥ずかしい音。深空も俺も、同じようなタイミングで頬を染めた。

「大丈夫だ。もう、とれたから」

唇を指で押さえた深空は、熟れたトマトのような色になった。

「や、やるならやるって言ってよ?! え、今の、き、キス……」

そう、これは付き合って初めてのキスだ。

「悪い。何か突然、したくなって。いつもより暑いし、な?」

理由になってない理由を言ってはみたが、案の定、深空からポカポカと軽いパンチのお見舞いがくる。

「心の準備が出来てなかったのに! ひどいよ!」

「ごめん。嫌だったか?」

突然深空は大人しくなり、ゆっくりと首を横にふった。

「嫌なわけ、ない。恥ずかしいけど」

俺は、深空の隣へ移動した。俺の可愛い幼なじみの彼女は、こっちを見上げてきている。

「お前の母さん、どれくらいで帰ってきそう?」

「いつも通りなら、二、三十分くらいかな。たぶん、泰陽も一緒に買い物行ったと思うよ?」

そうか、ということは。

「じゃあ、二人きりなんだな?」

無言で耳まで赤くする深空が、冗談抜きで世界一、可愛い。

「ならさ、もうちょっとだけ、キスしてもいいか?」

「う……うん」

頬に手を添え、顔を斜めにして重ねる。少しだけ、そのまま。そして顔を離して、もう一度。

心臓がうるさいのは、暑さのせいだけじゃないな。

慎重に、片腕を深空の腰に回した。次に唇が離れた時、潤んだ瞳が俺を見ていた。

「あの、ちゃんとこの後も勉強しようね? 私たち、受験生なんだし」

「わかってるよ。でもあと少し、こうしててもいいよな?」

ずっと我慢していた俺を、誰か褒めてほしい。ここ何日も、深空にたくさん触れたくて仕方がなかったんだから。

深空はちょっとだけ視線をそらしながら、ゆっくり頷いた。

「私も、こうしてたいな。広希の心臓の音、安心するの」

よりかかってきた深空を、両腕で抱きしめる。

「暑くないか? 俺、汗臭くない?」

「全然。私の方こそ、臭わない?」

俺は、深空の髪を鼻先で探る。

「すっげえいい匂いならするぞ?」

また赤くなった深空の唇を、食むようにして味わう。

憂鬱な受験の夏に、いい思い出が増えたな。

俺と深空の、これまでの関係性にとっても、これが良い一ページとして残りますように。

お互いに照れたような笑みを浮かべながら、またそっと、唇を重ねた。



〈了〉  2024.9.29
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