その10 君の左手を


紀里の抗議の声にかぶさるように、図書室の扉が開く。

中から出てきたのは、まだまだ楽しそうな雑談を続ける吉乃と鷹崎だ。吉乃の横顔を視界に収めた俺は、(暴力的じゃなきゃあけっこう可愛い方だよなあ)などと思わず感嘆した。

おしとやかに振る舞っていれば、学校のマドンナと標榜できる可能性も残されているのかもしれないが、その実男に容赦ないところもある吉乃は、紀里と目が合ったとたん、今までの笑顔が嘘のように消える。

驚愕の下に隠れているのは、拒絶への恐れだろうか。

「のり、さと……」


唇を噛みしめ、手を握りしめ。吉乃は言葉を紡ぎたかったのだろう。けどその一歩が、どうしても踏み込めないでいる。

一方紀里は、ただ静かに吉乃を見つめ返していただけだ。韜晦の技術も、こうまで来ると感心したくなる。

紀里は小さくため息をつき、教室へ向かって歩き出した。

その数瞬後、あたりに響くように鷹崎が質問する。

「そうなったらさ、いつ遊びに行く?」

「え……? あ、そう、そうだった、えっとね」

吉乃と鷹崎が打ち合わせを進める最中、俺は首がもげるほどの遠心力で振り向いた。やはりそこには、驚愕に打たれたような紀里がいる。

だが奴は俺の視線に気がついたとたん、小走りで去って行ってしまった。

ふむ、確定だな。紀里はまだ吉乃への思いを残しているのに、どうしてか拒絶をしてるんだ。

あいつなりに理由はあるんだろう。じゃないと、吉乃を泣かせるような言葉まで吐く必要はない。

とても大事に思っている女の子を、泣かせる理由、か……。

俺も以前、深空を拒んで泣かせてしまったから、偉そうにできる立場じゃないけれど、それでも何とかしてやりたい。

手ごたえは感じたので、あとは別の作戦を試してみるのみだ。



**********



どれだけ離れているかは定かではないが、廊下の向こうから会話が聞こえてくる。

「紀里君は、弁護士目指してるんだっけ?」

「ええ、一応。どこかの法学部へもぐりこめたらいいなとは思ってます」

「すごいね。もし将来困ったことがあったら相談していいかな?」

「勿論いいですけど。でも僕を頼るよりも、そういう人生にならないように広希君に守ってもらった方が、幸せになれると思いますよ?」

「へ、広希に?」

おい、なぜ俺の名前を出すんだ、と心の中でツッコミを入れる。しかし、うっかりはしていられない。はったりはここからだ。

俺は、さっきからここにいた風を自然によそおいつつ、階段の上の方を気にするそぶりを見せた。二人の足音が、すぐそこまで近づいてきている。

いくつかある職員室のひとつが、この屋上へつながる階段の近くにあった、というのは僥倖だ。おかげで放課後毎日のように、先生へ質問しに行く紀里を自然に誘導できるんだから。

「どうしたの、広希?」

深空の問いかけも自然だ。打ち合わせ通りで素晴らしい。あとから頭撫でて誉めてやろう。

「いや、たいしたことないんだけど、吉乃が屋上に誰かと一緒に上がっていったんだよ。ちょっと気になってさ……」

紀里は一瞬で、冷笑を俺にくれた。

「広希君……いい加減にしてくれませんか? どうでもいい芝居をしている暇は、君にあるんですか?」

「いやいや。吉野が屋上で誰かといるのは本当だよ、ほら」

俺が扉の方を指さした直後、女子の快活な笑い声が聞こえる。参考書とノートを持っていた紀里が、それらをつぶしそうなほどに腕に抱え込んだ。

「やめて、ください……」

か細い声に、深空が一瞬困ったようにこちらを伺う。俺は無言で首を振り、片手で頭を抱える紀里に視線を戻した。

「彼女は、僕と関わっては、いけないんだ……いけないのに」

追加でまた笑い声が響いてきた。紀里は参考書等を放り出すと、急くように階段を登っていく。俺も後に続いた。深空は律儀にも、紀里の参考書やノートを回収してついてきた。

ばん、と開け放たれた扉の向こう。放課後とはいえ、まだ日は明るい。

俺は、紀里の頭越しに屋上を確認する。そこにいたのは予定通りの人物。吉野と鷹崎だ。

鷹崎は一瞬、俺と目を合わせる。吉乃のほうは、最初ぽかんと間の抜けた表情をしていたが、やがて居心地悪そうに視線をさまよわせた。こちらが関わりたいのに、拒絶された相手に対して、どうふるまえばいいのかわからないんだろう。

だが、紀里も似たような状況に陥っている。

「……えっと、その……」

紀里にしてみれば、感情にかられるままに扉を開けてしまったこと自体が、ありえない行動のはずだ。

こいつにとって、吉乃に近づくのは避けたかったことなのに、今こうして向かい合わせに、呆然と突っ立っている。

空気が固まったまま何も進展しないことにしびれを切らしたのか、鷹崎が大いにため息をつくと、紀里の両肩にがっちり手を置いて捕獲し、そのまま吉乃の前に連れてきた。

「わっ!」

「ちょっと、鷹崎君!」

二人して、抗議の声を上げる。何せ、三十センチ以下の距離感で顔を突き合わせているのだ。そうとう親しくないと、これはきついな。

「んじゃあ俺、下で見張ってるからな、広希」

「おう、ご苦労さん。ありがと」

ばたん、と扉が閉まり、鷹崎は去っていく。すぐさま紀里も走り出し、同じように扉の向こうへ消えていった。

深空と吉乃がそれぞれ声をあげたが、俺はじっと待った。

案の定、がっくりと肩を落とした紀里が、ゾンビが墓からはい出るようにゆっくりと、再び屋上に姿を現す。

扉に背を預け、両手で額を押さえた紀里は、たっぷりの沈黙ののち、俺を睨んだ。

「広希君……よくもやってくれましたね」

「おう、俺が許可出すまで、鷹崎は向こうの階段下から動かないぞ。そういう話になってる」

まあつまり紀里は、吉乃とそれなりに話し合いをしない限り、この屋上から脱出できない状況となったわけだ。

「まさか、あなたにハメられるとは」

「前のお前と一緒で、重要な情報とかカラクリを伝えてなかっただけだよ」

はあ、と紀里は息を吐き、その場に尻をついた。深空がそっと近づき、心配そうに伺う。

「大丈夫? お水でも買ってこようか?」

「遠慮します。深空さんも、一枚噛んでたんですね?」

「う、うん。だって……」

深空は吉乃の方を伺った。吉乃は相変わらず、心もとなそうだ。それでも時々、紀里の方を伺っている。

その吉乃の視線を受けてか、紀里はゆっくりと下を向いた。

さてお膳立てしてやったのはいいものの、俺と深空が近くにいるんじゃ、おちおち本心も言えないよな。

というわけで俺は、立ち尽くしている深空を、ちょいちょいと手招きした。



**********



「広希、これってなんだか、のぞき見……」

「見守ってるだけだよ。そう言い張れ」

「えー、そんなあ」

扉は屋上のちょうど真ん中あたりにある。そこを中心点と見立てた場合、俺と深空、紀里と吉乃は、対角点を成すように二組で固まった。

あいつらはペンキのはがれた貯水槽の近くにいる。ある程度距離があるので、そうそう状況がわかるもんじゃないだろう。

そう思っていたんだが。

これが予想外なことに、二人の会話がこちらへ聞こえてくるんだよなあ……。

風向きのせいなのか? それとも久々に会話するから、お互いに力が入っているのだろうか。




「それで、その……鷹崎君と、何を話していたんです?」

「えっ?!」

「どうしてそんなに驚くんですか? 聞いちゃいけないんですか?」

紀里の声は、わずかに不快感が交じってる。やっぱりあいつ、嫉妬してたんだな。

「そういうわけじゃないけど……あのね、鷹崎君は、部活の大会で知り合った他校の子と私とで、一度遊ばないかって言ってきたのよ。数日前からその話をして、今日なんでか具体案を屋上で話したいってことになったわけ。まさか紀里をおびき寄せる罠だったなんて、知らなかったわよ」

「他校の子? どうして、吉乃ちゃんに声がかかったんですか?」

「その子、少し前から鷹崎君と付き合ってるんだって……ほら、覚えてる? 同じ中学校の麻衣香って子」

「麻衣香……ああ」

何かに思い当たった紀里の声が、すっと沈むように消えたと思ったら、会話が止まってしまった。

吉乃の後ろ姿が、堪えるように細かく震えてる気がする。

「覚えてますよ。吉乃ちゃんが仲良くしていた子の一人ですよね。彼女、一時期僕への態度は辛辣でしたよね。でもたまたま、吉乃ちゃんがその現場を目撃して、教室中のガラス戸が振動するくらい怒って泣いてからは、何も言わなくなりましたよ。一度だけ、短く一言だけですけど、ごめんって謝ってくれましたし」

そうだったんですね、と紀里はきっと、いつもの柔和な笑みで言ったのだろう。

けれどその言葉を受けた吉乃は、ずっと俯いて震えたままだ。

「……吉乃ちゃん?」

異変を察知した紀里が、戸惑いながらも手を伸ばし、吉乃の背をあやすように撫でる。こいつ、どさくさに紛れて大胆なことしてやがる。

「吉乃ちゃん、大丈夫ですか?」

「あ、わた、し……っつ……」

吉乃は嗚咽を漏らし、肩をこれでもかと縮め、うつむいてしまった。紀里が一瞬迷いながらも、結局は吉乃を引き寄せ、ぴたりとくっつく。

うーん……確かに深空の言う通り、これはのぞき見だな……。

「わた、し。紀里に、謝りたかったの……で、でも! そんなこと、絶対出来ないって、やったら駄目だって思って。だって、私のせいで紀里は、辛い目にあったのに!」

泣きながらの、か細い絶叫。俺も深空も、ただ固まってしまった。

「私が馬鹿な勘違いなんかしたから、紀里は……紀里は! ごめん。本当に、ごめん」

紀里はこつん、と吉乃の頭に自分の頭を当て、彼女の髪をそっと撫でる。

「信じてもらえないかもしれませんが、僕はあなたに対して、全く怒ってないんですよ?」

意外すぎる言葉に驚いたのか、吉乃の嗚咽が止まった。

「え……何で? 意味わかんない。私のせいで紀里は家族から責められて、学校でいじめられて……」

また耐え切れなくなったのか、吉乃は両手で口を押えた。相変わらず、紀里は吉乃の髪を撫で続けている。

「確かに、きっかけはそうだったかもしれません。でも僕が怒られたのは、あの人たちの勘違いが原因です。吉乃ちゃんに悪意があったわけじゃない。それにいじめられたのも、僕と吉乃ちゃんのあの件を面白がる、頭の悪い連中がいたせいです。これだって吉乃ちゃんが裏で糸を操っていた、という訳じゃないでしょ?」

「で、でも。私がきっかけだよ?」

「まかれた情報をどう受け止め、どう反応するか。それは個々人によって違いますよね? 僕はその点において周囲に恵まれなかった。それだけです。仮にあの中学校でタチの悪い奴らの割合が少なかったら、僕へのいじめは軽かったか、もしくは無かったことだってありえるんですよ?」

俺と深空は顔を見合わせた。吉乃からすれば、紀里の言葉は想像の範囲を超えていたのだろう。あちらで沈黙が続いている。

「の、紀里……何で私を責めないの? あなたはもっと怒っていい。たとえあなたが周りを呪っても誰にも責められないくらいに、紀里はずっと耐えてきたじゃない。ねえ、私に怒ってよ! そうじゃないと私……どうしたらいいか、わからないよ」

こんな深刻な雰囲気だというのに、俺は紀里が吉乃の髪を撫で続けていることが気になって仕方がなかった。

と思えば、紀里の両手が吉乃の頬を包み込んだ。

こいつ、よりさらに大胆なことしてやがる。

「吉乃ちゃん。あなたが僕に与えた苦痛をはるかに上回る光を、僕に教えてくれたんですよ?」

にこりと笑った紀里は、親指で吉乃の唇をそっとなぞった。

おお、やべえ。これ以上見てると、深空への情操教育に影響を及ぼしそうだ。

「あなたは特に意味もなく、親切にしてくれただけなのかもしれない。でもその親切は、間違いなく僕の人生を動かしたんです。吉乃ちゃんに出会わなければ、僕は自分で自分を際限なく傷つけていたか、でなければ誰彼構わず攻撃し続けるヤバイ奴になっていたと思います。だから吉乃ちゃん……あなたは僕にとって、神様も同然なんです」

紀里と吉乃の額が合わさった。俺はすかさず、深空の両目を手でふさいだ。小さな苦情が聞こえたが、無視だ。

「は? か、神様……?」

涙が引っ込んだらしい吉乃の、間抜けな問い返し。くすっと、紀里が喉で笑う。

「ええ。僕はどこの宗教も信じるつもりはないですけども、吉乃ちゃんが僕に与えてくれるものは、何でも受け止めたいんです。光も、苦しみも、痛みも……」

「ちょ……ちょっと待ちなさーーーーいっっ!!」

深空の耳もふさぐにはどうしたらいいかと思っていたら、吉乃が絶叫した。校舎中に響いてしまったな。

「広希、どうなってるの?」

深空は目こすって、二人を伺う。今ちょうど、吉乃が紀里を突き飛ばすような感じで二人が離れたところだ。これなら、情操教育上悪くはないだろう。

吉乃は顔中真っ赤だ。対して紀里は、目を丸くしたまま片耳を押さえている。さすがにうるさかったようだ。

「まず落ち着いて! さっきからヘンなこと言ってるけど、ひとまず落ち着いてちょうだい!」

「僕は至極、普通のつもりですけど?」

「ただの人間を神様に例えている時点で、ちょっとズレてるから!!」

吉乃はぜえはあと荒い呼吸を繰り返すが、何とか己を宥めながら続ける。

「私は紀里を放っておけなくて、勝手に親切にしただけ。それに私がきっかけで、あなたが酷い目に合ったのは紛れもない事実だし。私が神様なわけ、ないじゃない。神様だったらきっと失敗しないし、紀里を苦しめたりしない」

紀里は、ゆっくりと首を振った。

「神様だって、失敗するかもしれないじゃないですか。仮に失敗したとしても、ついていきたいくらいに崇めているんですよ?」

「だ・か・ら!! 私を神様に例えるのは止めてよ! 大げさすぎるの。フツーの人間なんだから!!」

なぜか紀里は、短く笑った。

「吉乃ちゃんと、久しぶりにこうして話せましたね。やっぱり僕は、この瞬間が好きだな」

「……」

沈黙した吉乃の顔は、まだ赤い。対して紀里は、余裕を取り戻してきているようにも見えた。

吉乃の正面へ回り込んだ紀里が、一歩進む。その分、吉乃は後ろへ下がる。

それを何度か繰り返しているうちに、吉乃の背が貯水槽にぶつかった。

すかさず紀里は、両腕をそれぞれ吉乃の体の横に立てる。吉乃の逃げ場がなくなった。

深空と俺は、順番に小さく声をあげた。

「あっ」

「おっ、と……」

二人の様子が、丸見えだ。ちょうど、紀里と吉乃が俺達と平行になってるんだよな。

微動だにしない空気にいたたまれなくなったのか、吉乃がかすれた声で言う。

「の、紀里……?」

「僕、超がつくほどの馬鹿でした。吉乃ちゃんから離れようなんて、どうして思ったんでしょう。それがあなたと僕のためだと、本気で信じたこともあったんですよ。なのに……」

一度うつむき、紀里は息を吐いた。

再び顔を上げ、吉乃を見つめる。濃い恋慕を、はっきりとにじませた表情で。

「神様に例えるのが嫌なら、こう言い直しましょう。あなたを誰にも渡したくない。ずっと側にいて、漫才や喧嘩と紙一重の掛け合いをしていたいです。だって吉乃ちゃんは……僕の恩人で、大事なことを教えてくれた人で、大好きな人だから」
 
3/4ページ
スキ