その10 君の左手を
「待て、ひとつだけ聞かせてくれ」
「何です?」
「須賀と話すことも、お前にとっては無駄なのか?」
紀里は、長く細く息を吐いた。動きの悪いおもちゃみたいに、首をねじって俺を見上げる。
唇にだけいつもの笑みを刷きながら、低い声で言う。
「そうですね……だって、邪魔でしかありませんから」
それだけ言い残すと、紀里はさっさと教室に戻っていく。
内容の衝撃に、その意味をすぐ咀嚼することができず、俺はしばらく立ちつくしていた。
**********
週末の土曜日。俺は何と、深空の家にお邪魔していた。
深空の両親に軽く挨拶し、弟の泰陽(たいよう)と視線をぶつけあい、しずしずと深空の部屋に入ったわけだ。
これはいわゆる『彼女の家でおうちデート』ということになるんだろうが、深空も俺も、そんな甘い考えはひとかけらも浮かんでいない。
一応勉強道具は持ってきたものの、目的はこれじゃない。
お互い床に座るなり、俺は小声でうながした。
断っておくが、深空の家族が心配するといけないから、部屋のドアは開けっぱなしだ。俺も一応、紳士ぶっておきたいのだ。
「昨日、吉乃が紀里に泣かされたんだったな?」
「うん。盗み聞きは悪いと思ったんだけど、吉乃ちゃんが心配で、そこから離れられなくて……」
深空はぽつぽつと、昨日のことを語り始めた。
「昨日は吉乃ちゃん、昼休みが終わってからいつも以上にそわそわしてたの。放課後に鞄を置いたままどこかへ行っちゃって、心配だったから後をつけたんだ。でも行き先には体育倉庫しかないし、何の用があるんだろうって不思議だった。そしたらそこに、紀里君がいたの。
二人は、倉庫の裏へ移動した。私は植え込みに隠れて、二人の様子を見てた。すごく悪いことしてるって思ったんだけど、吉乃ちゃんが心配で……。
最初に話し始めたのは、紀里君だった。
『放課後にこんなところまで来てほしいって、一体どうしたんです?』
『一体どうした、は私が聞きたいわ。紀里、何かあったの? 最近様子が変よ』
『おや、僕のことが気になるんですか? ちょっと意外ですね』
『当たり前じゃない! 本当に、何かあった? 受験勉強が大変なの? そもそもあんた、進学はできそうなの?』
吉乃ちゃんが慎重に尋ねてるから、私は吃驚して。
でもその後の紀里君の説明に、もっと驚いちゃった。
『どこの法学部でもいいから、一発合格なら学費は出してくれるそうです。受からなかったらすぐにウチの会社に就職、ですが。しかも最終的に弁護士になれなかった場合、それまでの教育費もろもろ約二千万円を、どれだけ時間がかかってもいいから返済するように、と』
『……それ、叔母さんが言ったの?』
『ええ、父さんには一切相談せず、いきなり僕に言ってきました。本当に、参りましたねえ。下手をすれば、この嫌な思い出ばかりの地域から、僕は一生脱出できないかもしれません。それだけは勘弁願いたいです。学歴を手に入れてチャンスをつかむか、母や兄と呼んでる人たちの顔色を伺い続けるか、何ともひどい二択だとは思いませんか? けれど選択ができるだけでも、マシなんでしょうね』
吉乃ちゃんは手をぎゅっと握りしめてて、何も言わなかった。
『仕方がないですよ、吉乃ちゃん。あの人が婚外子の僕にきつく当たるのは、人間の心理として当然のことです。それに関しては、もう悟ってます。僕にできることは、少しでも勉強に励んで、未来の可能性を高めることだけです』
『そんな……そんな状況で、どうして誰にも相談しないの?!』
『相談、ですか? できるわけないでしょう? 僕の家庭は、こじれにこじれている。吉乃ちゃんくらいにしか、こんなこと白状できませんよ』
『だったら、もっと早く言ってよ! 私には、何の力もないけど……あんたの問題を解決はできないけど、愚痴くらいなら聞けるのに』
吉乃ちゃんの声、どんどん細くなっていった。もしかしたら、もう泣いていたのかもしれない。
『愚痴を聞くだけ? 無駄ですね』
紀里君が、鼻で笑ってた。こんな冷たくつき返す人だなんて、思わなかった。
『む、無駄かもしれないけど、一人で抱え込むよりいいでしょ?』
『吉乃ちゃん……僕はもう一生涯、君には関わりません』
吉乃ちゃん、雷に打たれたみたいに、固まってた。紀里君の言い方が、怖かったからだと思う。
『こうしてあなたと話している時間も、僕には惜しいんです。もういいでしょう? そろそろ終わらせても』
歩きだした紀里君に、吉乃ちゃんは叫ぶように言った。
『ねえ、あんたを苦しめる人は、たしかに沢山いるかもしれない。けれど、紀里を心配したり気にかける人も、絶対にいるんだから、だから……』
立ち止まった紀里君は、吐き捨てるみたいにいった。
『止めてください、吉乃ちゃん……邪魔でしかありません』
私も吉乃ちゃんも、しばらく動けなかった。誰もいなくなった後、吉乃ちゃんが泣く声が小さく聞こえてきたの。
紀里君の言い方、すごく怖かった。私達を心配してくれた人じゃ、ないみたい。
吉乃ちゃんのこと、あんなに思いやっていたのに、どうしちゃったんだろ……」
話を終えた深空の肩に、俺は手を回した。
「深空、とりあえず何か食べて落ちつけ」
「う、うん……」
俺はトレーのクッキーに手を伸ばすと、そのまま深空の口元に運んだ。
深空は数秒間躊躇していたようだが、ゆっくりはむ、とクッキーを咥えた。
小動物を連想させる動作に、様々な感想が頭をよぎったが、とりあえず今は押し殺しておく。
深空は俺からクッキーを受け取ると、そのまま口に放り込む。
顔が赤い気がするが、錯覚だろうか。
「紀里君、やっぱり何かあったんだね。いつも吉乃ちゃんが怒っちゃうくらいに、吉乃ちゃんのことを気にかけていたのに。あんな、突き放すようにするなんて」
「そうだな。一か月前のあいつとは別人みたいだ」
ストーカーに準じる行為をあれこれしていたくせに、えらい変わりようだよな。
「話を盗み聞きしたけど、よくわからないことがたくさんあって……紀里君のおうちって、複雑なのかな?」
俺は深空に向きなおって、以前紀里から聞いたことを、簡潔に話した。
紀里は、父親がかつての恋人との間にもうけた子供で、いろいろあって伸城家に引き取られたこと。紀里と吉乃は、一応母方のいとこということにはなっているが、実際は血縁関係の無い赤の他人であること。あいつらが小学校六年生の時、吉乃の勘違いが原因で、紀里が家族からひどい誤解を受けたこと。
深空は俺の話を聞くうちに、いつしか両手で口元を押さえていた。
「じゃ、じゃあ私が聞いたことある、紀里君に関するくだらない噂って、その事件に尾ひれがついたものだったんだ……」
「ああ、須賀がキスだけで子供ができちゃうかも、って脅えただけなんだけどな。でも紀里の生まれた理由が理由だから、それだけで責められちまったんだ。あいつは中学校の時にひどいいじめにあったみたいだけど、それもたぶん、この事件を面白がった馬鹿野郎たちのせいだろうな」
「そんな、ひどいよ……」
深空は、両手を握り合わせた。紀里に見せてやりたい。お前を心配している人間は、ここにもいるんだということを。
「でも紀里君は、原因をつくった吉乃ちゃんに対して、怒ったりしてないよね?」
「あいつは断言してたぞ。須賀のことは、まったくこれっぽっちも恨んじゃいないってさ。けど須賀の方はそうはいかないだろうな」
「きっと、そうだろうね」
もしかしたら、吉乃ははっきりとした謝罪を、紀里にしていないかもしれない。
こんな悪質な事件の記憶を掘り返すようなこと、躊躇して当然だ。
そうであるならば、ますます紀里の最近の態度は、放ってはおけない。
「私は、紀里君と吉乃ちゃんに、一度しっかり話しあってほしいと思う」
「俺もだ。俺たちにお節介焼いておいたくせにあのザマじゃあ、何とかしてやるしかないだろ」
とは言うものの、どうしたものか。
かつての俺達のように、強制的に二人を引きあわせる必要があるが、紀里はそう簡単に罠にかかってくれるだろうか。
少なくとも、どこかへ出かけるテイで連れ出すのは無理だろうな。すぐに見破られるに決まってる。
となると、学校のなかで作戦を実行するしかなさそうだが……。
深空と俺があれやこれやと案を言いあう最中、開けっぱなしのドアが唐突にノックされた。
深空が返事をする前に、泰陽がトレーを抱えて入ってくる。追加でお菓子を持ってきてくれたみたいだ。
「これ、お母さんが持って行けって」
「そう、ありがとう」
受け取った深空は、なぜか自分の隣にちゃっかり座りこんだ泰陽に向かって、首をかしげて笑って見せた。
「宿題は今日するの?」
「だいたい終わった。夜までに全部するつもり」
「そう、えらいねー」
とほめながら、深空は泰陽の頭を撫でている。なんだそりゃ、と俺は内心突っ込みを入れた。
この間ようやく確認したが、泰陽は深空より九歳下、だそうだ。つまり、今年で小学校三年生になるわけだ。泰陽自身がわりと小柄なせいもあって、もう少し年下かと思っていたが、違ったようだ。
まあ小三のガキというものは、まだまだ可愛らしいものだ。これが思春期に近づくにつれて生意気になってきたりマセてきたりするものだが、そうなるまでにまだ猶予はある。深空はそれをわかっていて、こうして弟を愛でているのかもな。
いや、そこまで考えてないか。ただ単に、兄弟の存在が愛おしいだけかもしれない。
だが一瞬、奴は俺に向かって、全力の両手であっかんべーをしてみせた。
姉が横を向いた瞬間の、神技とも言える速さだった。
俺もお返しに、風速と見まごうほどのスピードで片腕を振り上げてみせた。
「ん、何か音したよね?」
深空が俺達を振り返った時には、俺達は既に臨戦態勢を解除していた。
「そうか? 気のせいだろ?」
ぬけぬけと俺は言い放ち、クッキーをつまむ。
「泰陽、お母さんにお礼言っておいて。私達も宿題するから、キャッチボールは後からにしようね?」
姉からの退室要請に、泰陽は素直にうなずいた。だが奴はしぶといもので、深空の目を盗んでもう一度、俺にあっかんべーをしてきたのだ。
うむ、敵としては不足なし。俺も男だ、同じ土俵に立って戦ってやってもいいぞ。
泰陽が部屋を出て行ってすぐ、俺は前触れなく、深空の頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「わあっ!! な、何……?」
尋ねながら、徐々に頬が赤くなる深空を、おもむろに抱きしめる。
「わっ!! 広希、どうしたの?」
すぐ深空を解放したが、まだ動揺が収まらないらしく、目があちこち泳いでいる。
「いや、何か面白いし、可愛いなって」
「ほ、本当にどうしちゃったの……?」
恋人になって以降、俺からこうして深空にちょっかいをかけたことはないかもしれない。だからこそ、深空はここまで慌てふためいているのだ。
ざまあみろ、弟よ。姉のこういう一面を知っているのは、俺だけだぞ。
**********
その数日後のことだ。
廊下の向こうから、何の感情も浮かべず歩いてくる紀里の腕を、がしっとつかんでやった。華麗にスルーしようとするんじゃねえよ。
「ちょっと待てよ」
「いきなり何なんですか? 腕、痛いですよ」
「いいから、こっち来いよ」
言うや否や、俺は紀里を引っ張って図書室の前までやってきた。
「あの、広希君?」
「まだいるな、いいから見ろよ」
げんなりした紀里をうながし、入口のドアから図書室の中を覗き込ませる。
数秒後、紀里が息を飲む気配が、俺にまで伝わってきた。
あいつの視線の先を追う。そこにいるのは、椅子に腰かけ小声で歓談している吉乃と鷹崎だ。
図書室内だからそれなりに静かにしているようだが、吉乃は背中を丸めてくつくつと笑っている。鷹崎も困ったように、顔に笑みを浮かべていた。
まあこれは、吉乃にとっちゃよくある光景だろう。あいつは俺と違い、人と気さくに話せる奴だし、友達もたぶん多い方だ。男とも女とも分け隔てなく、からっと付き合える。それがあいつの良いところだ。
俺にとっては、よくある学校の日常の風景にすぎないのだが――紀里にとっては、どうだろうか。
どんなやりとりの末なのか、吉乃が手を口に当て笑いをこらえたまま、鷹崎の背中をばしっと叩いたところで、紀里は踵を返した。
俺は、無言でその後を追う。
「何をしたいんですか、広希君?」
「あいつらの仲の良さを、報告してやろうと」
振り向いた紀里は、眉根を寄せていた。少し怒気がこもっているように思える。
「何か言いたそうですが、僕からは一言だけ。彼女は僕にとって、邪魔でしかありません」
そのまま去ろうとした紀里の腕を、さっきのようにまた掴んでやった。
「いい加減にしてください! 僕は惰眠を貪るあなたと違って、勉強しなくちゃいけないんですよ!」
「大丈夫だよ。お前の賢さなら、青春の数分間を勉強以外のことに使っても問題ないって」
「広希君が決めることじゃないでしょう! いいから、手を放してください!」