その10 君の左手を
今年の六月は雨があまり降っていないせいもあるのか、少しばかり暑い気がする。
ぬるい空気が鼻を通過して肺を満たす度に、憂鬱な夏が近づいているんだと嫌でも実感させられる今日この頃だ。
受験を控えた全国の高校三年生にとって、もうすぐ大事な季節がやってくる。六月も上旬の今は、ほとんどの奴が部活動を引退し、次のステージにむけて爆走を開始する頃あいでもあるのだろう。
だがここに一人、まるで季節を先取りしたがごとく、炎天下で放置されたどろどろのアイスみたいになっている奴がいる。
「広希、おはよう」
社会人やら学生やらがあふれかえる、朝の駅。列について大人しく電車を待っていると、深空が声をかけてきた。今日もまた、ひとつ遅い電車に乗ることにしたんだな。
「ああ、おはよう」
見ようによっては、ぶっきらぼうな挨拶を返す。深空は一度うなずくと、へにゃへにゃと締まりのない笑みを浮かべた。
「昨日はちゃんと寝れたの?」
「体育のおかげか、ぐっすりな。深空も、無理して夜遅くまで勉強するなよ?」
「うん、ありがと」
交わされる会話はこれまでとあまり変わらず、特筆すべきこともない。だが。
深空の振舞いが、けっこう変わったんだよなあ。
俺の制服の裾をひっぱり、何が可笑しいのかふふ、と笑っている。
公共の面前で抱きつこうとしないだけ、マシなんだろうが……。
俺と深空は約一か月前に気まずさを解消し、幼馴染みという関係から晴れて恋人同士となった。
受験を控えたこの時期に彼氏彼女という関係になったことについては、俺は後悔していない。だがことあるごとにぐにゃぐにゃな深空を見るにつけ、こいつの勉強の邪魔になってるんじゃないかと、ヒヤヒヤする瞬間はある。
骨の無いクラゲよりひどい。もはや液体化寸前までいくのではないだろうか、と冗談も言いたくなるほどの締まりのなさだ。
世の中の人間に問いたい。人というものは、恋人という関係性になっただけで、ここまで豹変してしまうものだろうか。
と、深空はひらひらと手を振って、俺がついている列の最後尾へと向かって行った。
なるほど、俺の隣に並んで列に割り込まないだけ、まだ理性があると判断していいようだな。
**********
学校についてから、俺は真っ白な進路指導の調査用紙とにらめっこをしていた。
(うーん、まいったな、何を書こうか……)
恐るべきことに、俺はこの段階になってどこへ進学しようか具体的に決めていなかった。
ちなみにだが、この高校の進学率はほぼ百パーセントに近い。就職する奴もいないことはないが、正直珍しいケースと言って差し支えない。
一応進学校とは言えるが、進路はバラエティに富んでいる。俺の偏差値なんかでは逆立ちしても合格しないような、上位国公立や医学部やら。看護系や栄養士などの専門学校へ行く奴もいるし、はたまた漫画家や声優養成の専門学校へ行く奴もいる。高校の数が少ない田舎ということもあってか、本当に生徒の進路はバラバラなんだよな。
父さんも母さんも、大学とは言わなくとも専門学校は出ておいたらいい、という考えの持ち主だし、俺も周囲の雰囲気に流されて進学しよう、とは思ってはいるものの。
(どうしようかな……とりあえず、使える資格が取れるところならどこでも……あー、どうしよう)
かつて、深空は夢が無いって悩んでいたこともあるのに。そんな深空より、俺の方が進路を固めるのが遅いって、不思議な話だ。
ちなみに紀里も深空も吉乃も、基本的には四年制大学への進学を目指すクラスにいる。断トツで成績が良いのは紀里で、深空と吉乃はだいたい同じくらい、と以前深空が言っていたな。
あいつら、さすがに俺よりは具体的なことを考えてるよな。ちょっとした参考にするために、近いうちに話を聞くのもありかもしれない。
と考えていたせいなのか、昼休みに廊下を歩いていたら、ぱったりと吉乃と出くわした。
俺はそのまま過ぎ去ろうとしたが、腕をひっぱられ、二人して廊下の隅に立つ。
「広希君、不服そうね?」
見上げてきた吉乃は、はあ、とため息をついた。
俺は何度か、苦い思いをさせられたからな。しかめっ面になるのは見逃してほしいものだ。
「用でもあるのか?」
「大アリよ。ちょうどいいから聞いておくわ。深空に変なことしてないでしょうね?」
「変なこと?」
吉乃の瞳が、いつもより大きく見えるのは気のせいだろうか。くりっとした目で、距離を詰められる。
「最近明らかに、深空の様子がおかしいのよ。指定された課題の範囲を、間違えることが多くなったし。今日だって、先生に英文を訳すように言われて、全然違う文章を訳したのよ。直前に先生が文章を読んでたのに。数日前なんて時間割を完全に間違えてて、体育の授業に遅刻しちゃったんだから!」
それはすごいミスだ。今朝クラゲに例えたが、クラゲへの敬意を欠いていたかもしれない。
「どう考えてもあんたが原因よ」
名推理だな。俺も全力で同意させてもらう。
「深空に何度聞いても『大丈夫だよ』しか言わないのよ。どう見ても大丈夫じゃないわ。広希君だって一緒だけど、これからしばらく大事な時期が続くのに、勉強に身が入らないのは良くないでしょ? で、改めて聞くけど、深空に何かした?」
俺は目をそらした。吉乃は、俺達の仲を取り持ってくれた恩人だ。だが恩人相手とはいえ、恋人になった深空とのことを話すのは、かなり気まずい。
けど説明しないと、こいつは納得してはくれないだろう。
「信じてもらえないかもしれないけど、何もしてない。正直な話、前とほとんど変わってないんだ。だから俺も、どうして深空があんなになったのか、理解できなくて戸惑ってる。お前が想像するような、恋人同士がするありがちなことは、一切してないぞ」
吉乃は、さらに瞳を丸くした。
「そうなの? 手はつないだ? お休みの日にデートとかは?」
「いや、全く」
吉乃は顎に指を添え、うーんと唸る。
「……それじゃあどうして、深空はあんなにも骨抜きになってるわけ?」
「俺も聞きたい。どうしてあいつはこの一ヶ月、常に溶けかけのカレールーみたいになってるんだ?」
ここにいない深空についての疑問が、互いに一致した瞬間だった。
吉乃は俺を頭からつま先まで何度か眺め、うなずく。
「私からすれば、広希君は愛想がなくて少し怖そうなノッポ君、なんだけど。深空にとっては運命の王子様なんだねえ」
「そこまでしみじみと言わなくていいだろ。失礼だな、須賀は」
「私には私なりの感想があるんです。それと、例え運命の王子様であっても、深空を泣かせるようなことがあったら容赦なくとっちめるからね?」
うへえ、と俺が心の中でげんなりしたときだった。
「楽しそうですね、二人とも。もうすぐ昼休み終わっちゃいますよ」
紀里がいつもの笑みを浮かべ、声をかけてきた。そういえば紀里と会ったのは、久しぶりな気がするな。
いつもならここで吉乃に話しかけて、そのまま漫才でも始まりそうなものだが。
紀里は俺達の横を通り過ぎると、そのまま階段を降りて行った。職員室に用でもあるのだろうか。
俺が疑問を感じたのは、その直後で。
吉乃が数歩あゆみ、そのまま止まってしまった。片手を上げているから、本当は紀里を呼びとめたかったのだろう。
やかましすぎる吉乃らしくない、脅えているような横顔が気になる。
取り残された背中は、迷子になりかけの子供そのものに思えた。
**********
「いろいろ考えたんだけど、英語の勉強をしようと思って、とりあえず英文科目指してるんだ。吉乃ちゃんもはっきり決めてないみたいだけど、経済学部にしようかなって言ってた。紀里君は……えっと、弁護士を目指してるって、前に吉乃ちゃんから聞いたなあ。今は、どう思っているか知らないけど」
最寄駅で電車を降り、家までゆっくり歩く。夕方といえる時刻ではあるが、まだ影が長く出来る様子はない。
深空はどうやら、得意な英語を学ぼうと決めたらしい。進学の第一志望は、地元の国立だ。吉乃も同じ大学を受けるつもりだが、深空とは違う学部を目指している。紀里は、まああいつくらいの偏差値ならば、難関試験をパスしないといけない弁護士を目指すのも、アリだろうな。
やっぱり三人とも、四年制大学を目指すクラスにいるせいなのか、既に進学先をしっかり考えてるんだな。
「広希はどうするの?」
「正直言って、悩んでる。とりあえず何か資格が欲しいけど、それくらいしか考えてないな。みんなはっきり決めてて羨ましいよ……しかし、紀里はどうするんだろうな?」
「何が?」
「あいつのことだから、吉乃と同じ大学に行くなんて言いそうだけど、もっと上の大学目指してもよさそうだし……深空?」
深空がふいに立ち止まる。振り返ると、最近は九割方へにゃへにゃしているくせに、深刻そうに顔を伏せていた。
が、静かに話を切りだす。
「ごめんね、話の途中なのに。最近、気になることがあって」
「気になること?」
続いた内容に、俺は自分の迂闊さを思い知った。
「最近、紀里君とお話しした記憶がないの。挨拶は、してくれるよ? でも、会話らしい会話をしてないんだ。たぶん私だけじゃなくて、吉乃ちゃんも同じ気がする。吉乃ちゃんも、ちょっと落ちつかなさそうにしている時があるから。紀里君に何かあったのかな? 広希は、知ってることある?」
**********
俺と深空は、紀里を偵察することにした。
内容は至って簡潔で、不審がられない程度に観察し、様子を探ること。
休み時間中、俺はさりげなさをよそおい、紀里の教室へ向かった。
あのクラスに知り合いはいないが、そんなこと言っている場合じゃない。ここ二、三日、廊下ですれ違うことすらないから、こうでもするしかないんだ。
知らない男子が、俺の身長に驚いたような反応をしたが、構っている場合じゃない。
廊下の窓からこっそり伺うと、紀里は自席に座り、熱心に何かを見ていた。英単語帳だろうか。
手で口元を覆っているのは、小声で例文でも読んでいるのかも。模範的な、熱心な受験生の姿だ。頭が下がるのと同時に、よくもまあ面倒くさいことができるものだと感心する。
騒いでたりおしゃべりに興じる他の奴らとは違い、紀里は黙々と暗記に励んでいる。もしかしたら今から奮闘しないと合格しないような、偏差値の高い大学を目指しているのかもな。
「あ、広希だよな? 久しぶりー」
突然かかった声に、心臓が飛び出すかと思った。
横を向くと、そこには久しぶりに見る鷹崎の姿があった。
中学の時に一度だけ同じクラスになったことがあり、その時はそこそこ話をしたんだけど、クラス替えしたらほぼ関わらなくなった。そんな程度の関係性だ。
おそらくだが、鷹崎は紀里と同じクラスじゃないと思う。ということは、誰かに会うために来たのだろうか。よりによってそれが、今日この時間だったとは。
「何こそこそしてんだよ。誰か探してるの?」
ブランクがあるのに、かなり気楽に話しかけてくる。そういや鷹崎って、こういうところがあるんだったな。壁を気にせず、ぐいっと近寄ってくるというか。
「あ、いや……」
唐突な出来事なのもあって、適切な建前を思い浮かべることもできない俺は、盛大に視線をさ迷わせた。
それでどうしてか、紀里とばっちり目があってしまった。
くそう、偵察はそうそうに失敗かよ、情けない……。
俺を見た後、紀里は一瞬不意をつかれたような顔をしていたが、それが苦笑に変わる。そして困っている俺の元へ、なぜか来てくれた。
「広希君、どうしたんですか? 声くらいかけてくださいよ」
「え、紀里ってこいつと知り合いだったんだ」
紀里を呼び捨てする鷹崎に、俺は目をむいた。いつの間に知り合ってたんだ、こいつら。
「ええ、彼から漫画を借りる約束をしてたんですよ。広希君、ちょっといいですか?」
「へえー、お前も漫画読んだりするんだな」
「たまには、そんなこともありますよ」
鷹崎を放っておいて、紀里は俺の手をひっぱり廊下を進む。
角まで来たところで、紀里は俺に向き直った。
「僕に何か用ですか?」
「いや、その……ポップコーンでも食べに行かないか、と思ってさ」
苦し紛れの発言だったが、紀里には意外すぎたようだ。盛大に噴き出した後、くすくすと笑い続けている。
「そんなことを言うために来たんですか、広希君?」
「いや、悪くない提案だと思うんだけど」
「ポップコーンはこの間食べたので、もう充分ですよ」
紀里も、俺にとっては恩人だ。こいつに叱られなければ、加えてこいつの嘘に騙されなければ、深空と想いを通じ合わせることはなかっただろうから。
「俺と深空からのお礼だと思って欲しい。この間みたいに、また四人で遊園地に行かないか?」
笑みを浮かべていた紀里が、ぴたりと止まった。
顔から表情が、波が引くように消えていく。
やっぱり様子がおかしい。どうして俺は、もっと早く気づかなかったんだろ。
「申し訳ありませんが、お断りさせていただきます」
「駄目か? 休みの日の数時間くらい、気分転換に使ってもいいだろ?」
「僕は、このわずかな時間すら惜しいんですよ。正直なところを言いますと、あなたとこうして話してるのも無駄に感じてしまうんです。用がそれだけなら、もう教室に戻りますね」
踵を返した紀里の肩を、俺は慌ててつかんだ。