その9 君に触れるとき
いっきにペットボトルの半分を飲み干し、紀里は息をつく。
「広希君と深空さんをせっかく二人きりにできたのに、こんなことになってしまって、何とお詫びすればいいか」
俺と深空はそろって、「あ」と声をあげた。
そういや、こいつに仕組まれて、俺と深空はデートする羽目になったんだな。
深空の頬が、またもやちょっとだけ赤くなる。
「そ、そういえば、ツーショット写真全部撮れなかったんだ。でも吉乃ちゃん、広希を怒らないであげてね?」
ちょっと状況にそぐわない内容だったかもしれないが、俺達四人に漂う緊張をほぐすきっかけになった。
特に紀里と吉乃は、あんな悪質なトラブルの記憶を、さっさと追いやりたかっただろうから、よかったのかもな。
「仕方ないわね。今回は特別に許すわ。で、どのアトラクションが残ってたの?」
「えっとね、観覧車かな?」
「それだけなんだ? じゃあ、このまま乗りに行っちゃえば?」
吉乃の明るい提案に、俺と深空は一瞬あっけにとられる。
「勿論、二人で乗ってもらうからね?」
**********
ゆっくり上昇し、地上から離れていく光景を、現実逃避を兼ねてじっくり見つめた。
さっき携帯を確認したら、四時半を過ぎていた。
紀里の最初の指令では、五時過ぎに観覧車に乗れとのことだったけど、不測の事態も起きたんだから、まあ仕方がないだろう。
「夕日が見えないね、ちょっと早かったかな」
向かいに座る深空が、俺と同じ方向を見てつぶやいている。
「怖くないか、深空?」
「うん、高いところは平気だよ」
「そうじゃなくて、さっきのもめ事だよ。びっくりしただろ」
俺を数秒見た深空は、無言でうなだれた。膝の上で組んだ指が、白い。
俺は静かに立ち上がり、体を横にずらした深空の隣に腰かけた。
ちょっと迷ってから、思い切って肩に腕を回し、引き寄せる。
驚きで息をのむ気配が、俺にまで伝わる。こんなふうに深空に触れたことは、一度もなかったな。
「大丈夫、もう、終わったことだ。紀里も須賀も、俺も怪我してないから。たぶんお前は笑っていた方が、あいつらも安心できると思う」
深空は両手を、きゅっと胸の前で握り合わせた。か細い声が、狭い観覧車の中に響く。
「もし……もしもね、私があの時、紀里君に気がつかなかったら。今頃、紀里君は傷ついていたのかもしれない。それを見た吉乃ちゃんは、きっとものすごく、傷ついたかもしれない。そう考えると、まだ怖くて」
「うん、そうなんだな」
「何があったか知らないけど、紀里君、すごく嫌な目に合ったことがあるんだね。でも、学校ではいつも平気そうに振舞えて、すごいよ。私、もっと紀里君と仲良くしたいな。吉乃ちゃんの幼馴染みだからこれまで話をしていたけど、紀里君のこと、強くあろうと頑張ってる彼のこと、もっと知りたいな」
顔をあげた深空は、どこかこれといったところを見ているわけじゃないんだろけど。
見覚えのない、決意あふれる横顔だったから、一瞬言葉を無くした。
俺が慰めなくても、深空はちゃんと立ち上がれる力を持ってるんだ。
身じろいだら、深空の片手が、俺の手をふいに握った。
「広希、お願いだから。観覧車に乗っている間、このままでいて?」
さっきとはまるで違う、涙に濡れかけた声。
「もう、広希に迷惑かけない。困らせないから。昔みたいに、我儘言うのも絶対にしない。広希に、幼馴染みでいてほしい。だから今だけ、恋人みたいな気分を味わいたいの」
目線を下げた時、深空の膝もとに何かが落ちたのに気がつく。たぶん、涙だ。
「広希に、嫌われたくない。これ以上は望まないから、だから……これが最後の、我儘だから」
深空は、黙ってしまった。膝もとに広がる涙の海は、少しずつ広がっている。
俺の指先が、冷たくなっているのがわかった。
衝動に駆られるままに、口をつく。
「俺、怖かったんだ。深空と俺は、保育園からの腐れ縁で、面倒なこともたくさんあったけど、それと同じくらい、お前と話していて楽しかった。だからそれ以外の関係が、俺とお前との間に出来あがるのが、怖かったんだ」
深空がゆっくりと顔をあげる。目のふちが、赤い。
「俺は、お前が大事なんだ。けど、もしも関係が深くなったら、何かの拍子で傷つけ合ったり、嫌いになったり、最悪憎み合うかもしれない。幼馴染みなら、ちょっと仲が悪くなっても離れることもできるから、いつまでも楽チンな関係でいられる。けど、それ以上に進んだら……そう思うと、怖くて。だから、あの時は本当にごめん。俺が臆病だったせいで、深空を泣かせた」
俺の言葉の反芻に時間がかかるのか、深空は硬直していた。
「私のこと、幼馴染みだと思っているなら、関係が進むなんてこと、どうして考えたの?」
「単なる幼馴染みじゃ、ないんだ。気づくのが、遅かった」
寄せていた肩を離し、深空の両肩に手をおいて、その瞳を覗きこむ。
かみしめるように、囁いた。
「俺は、お前が好きだ」
時が止まった、そう感じた。
深空の瞳の中で、この世界が一瞬、魔法にかかって凍りつく。
地面から離れた空中で、この刹那だけ、世界は俺と深空の二人きり。
「だから、怖かったんだ。恋人になったら、幼馴染みの時の楽チンさを失っちゃうかもしれない。それに恋人になった俺とお前が、傷つけ合う日が来るかもって、すごく脅えてた……でも、何も進まないんだよな、それって」
変化は、この世のことわりって奴だ。人間ごときが、止められもしない。
幼馴染みっていう関係が、変わる時が来たんだ。
お互いの心の内がかわったなら、結ばれる関係もかわるのが、自然なんだ。
俺はその事実を、深空の気持ちと、俺自身の気持ちを元に、受け止めなきゃいけない。
「今日、深空といて、楽しかった。ちょっと気まずかったけど、それは俺のせいだもんな?」
苦笑すると、呆けたままの深空がようやく口を開いた。
「冗談、なの……? 私をからかってるんじゃ、ないよね?」
「ああ、嘘でこんなこと、言える訳ないだろ? 俺は、お前が好きだよ」
発火したように、深空の頬が赤く染まる。
「きょ、今日は、エイプリルフールじゃないよね?」
「うん、五月のゴールデンウィークだろ?」
ぽろぽろと、深空は涙をこぼした。
「私、広希に拒絶されたあの後、すっごく泣いたの」
脳裏に思い起こす。風邪をひいた吉乃が心配で、みんなで家にお邪魔したあの日のことだな。
「うん……ごめん」
「だ、だから、やけになって受験勉強したの。で、でもぉ、広希に嫌われたって考えるたびに、すごく苦しくて……だ、から、もっといっぱい、勉強して、でも、でも……広希のことが、大好き、で……」
「辛い思いさせて、本当にごめん」
今度は正面から、深空を抱きしめる。
シャンプーの匂い、体の柔らかさ、息づかいが全部、俺に迫ってくる。
深空が俺の心を温かくして、戸惑わせる。
落ち着かないのに、満たされる。まどろみと高揚がいっきに押し寄せてくるみたいだ。
こういう感覚、知らなかったな。悪くない。いや、すごくいい。
「深空、傷つけた分、もっともっと大事にする。俺なりに、頑張るから」
俺の腕の中で大人しくしていた深空は、唐突にじたばたもがきだした。
体を離すと、さらに真っ赤になった深空と目が合う。
「うう、化粧が落ちちゃった……」
「そのままでも、充分可愛いぞ?」
「ひ、広希、恥ずかしいこと言ってるよ!」
そんなつもりはなかったけど、そうかもしれないな。後から俺も一人で悶絶しそうだ。
頭をぶんぶん振った深空は、ひとつ深呼吸した。
いつものように、微笑んでくれる。
「私も、広希が好き。諦めようとしたけど、できなかったの。両想いになったんだね、私達」
「うん」
「恋人に、なってくれるの?」
「うん、深空が良ければ、俺がお前の恋人になりたい」
「私も、広希と恋人になりたい!」
俺も頬笑み返した。良く見知った幼馴染みが、一段と輝いて見える。
特別な女の子の側に、いてもいいんだなと思えた。
心から次々わきあがる想いのままに、俺は深空に顔を近づけた。
額の中心に、軽くキスをする。
本当は唇にすればよかったのかもしれないけど……まあ、その、度胸がなかったな。
深空は本日何度目なのか、顔中を赤くして、俺に抱きしめられるままになっていた。
地上に戻るまでの間、俺達の間にただよう沈黙に、安らぎすら感じていた。
**********
閉園にはまだまだ時間があったけど、俺達四人は遊園地から出た。
電車が来るまでの間、駅の構内ですることもなくぼんやりしていたんだけど。
吉乃の視線が痛い。
何を勘づいたんだが知らないが、さっきから俺と深空を穴が空くほど見ている。
そんな吉乃の肩に手をおいて、紀里が苦笑した。もう、平気そうに見えた。
「吉乃ちゃん、二人に悪いので、もう白状してしまいましょう?」
「そうね……実はね、二人がいい雰囲気になっているのが、見えちゃったんだ」
「はあ?!」
そういや、吉乃は紀里の側にいたいからって、ベンチに座ってたよな。
どういうことだ。俺達の知らないうちに、観覧車の近くまで来ていたってことなのか?
「覗き見は悪いとは思ったんですが、どうしても気になって。あ、写真を撮ったかどうかが、気になってたんですよ?」
いやいや、もうそういう建前はいいだろ。
「私達が見たのは、観覧車が上から降りてくるところだったけど、二人ともぴったりくっついてたよね?」
吉乃の確認に、俺は顔を片手で覆った。
なんてこった。深空に気持ちを告げた時は、舞いあがっていたけど。
あの瞬間は失念してたけど、世界は、俺達二人だけじゃなかったんだな……。
まさか、決定的な場面は見られてないよな?
俺が、深空の頬にキスしたところなんて見られてたら、恥ずかしさのあまり息絶える。
「あはっ、やだ深空。真っ赤になって可愛いー」
「え、だってえ……わぁっ!!」
ぎゅむっと深空を抱きしめたかと思うと、吉乃は片手で深空の頭をなでくり回した。
こいつ、俺がまだやれる度胸がないことを、堂々と俺の前でしやがるとは。
「吉乃ちゃん、髪がぐしゃぐしゃになるよ。もうやめてー」
「ああん、もう、今日の深空は本当に可愛いなあ。夕方だから、化粧とれちゃってるけどね。あーあ、これが広希君のおかげだと思うと、ちょっとムカついちゃうのはどうしてかな?」
「おい、それはどういう意味だ?」
俺と吉乃が軽く火花を散らしかけたところで、深空が吉乃の腕からのがれ、俺達を止めに入る。
「二人とも、落ちついてよ」
「よかったですね。広希君も、深空さんも」
クスクスと、紀里が満面の笑みを浮かべた。
本気でいがみ合いを始める気がなかった俺たちは、その笑顔に毒気を抜かれる。
「その、ありがとな。紀里も須賀も。騙されなかったら、こうして深空とも話せなかったと思うし」
「お礼なんて、言わないで下さい。僕達はただ、お節介を焼いただけです」
「そうよ、私達が勝手にしたこと。仲直りしたのは、あなたたちなんだからね?……でも、本当によかったね、深空」
ひどく安堵した吉乃の笑顔に、心配させていたんだな、ということが痛いほどわかった。
っていうか、あれか。俺達のお互いの気持ちは、こいつらにはバレバレだったってことなんだな。
そうじゃなきゃ、こんな面倒なこと、こいつらがするはずないか。
「ありがとう、吉乃ちゃん、紀里君も」
「ふっふっふ、ついでにもうひとつ意地悪しちゃっていい? 広希君のお礼はいらないけど、深空のお礼は欲しいな。もう一回抱きしめさせて!」
言うや否や、誰の了承も得ずに、吉乃はまた深空に飛びついた。
目を丸くし顔を赤くする深空に、一瞬で不愉快になる俺に、笑みを崩さない紀里。
いとしくて楽しいこの光景が、また訪れるなんて思わなかった。
「いい加減にしろよ、須賀」
「ちょっと待って。深空にはお礼を体で払ってもらってる最中なの!」
「ええっ!!」
「また悪代官みたいなこと言ってますね。よっぽど嬉しいんですね」
堪忍袋の切れかけた俺が、吉乃から深空を奪い取る。ニヤニヤするその笑みが憎らしい。
恩人なんだけど、憎らしい。
深空をとり合っていた俺は、俺達三人を羨望の眼差しで見る紀里のことを、しばし忘れていた。
だから紀里が、静かな哀しい決意をしたことにも、全く気がつかなかったんだ。
「よかった……これで僕は、僕の恋をようやく殺すことができそうです」
〈了〉 ネット初出 2021.7.5