その9 君に触れるとき
深空とペアで入った俺は、あることを忘れていたことに気がついた。
深空は怖い話が苦手なのだ。
俺はホラーを怖がったり楽しんだりする習性もないので、どの客よりも薄いリアクションで屋敷を通過したが、深空といえば恐怖のあまり、俺にがっちりしがみついてきたのだ。
お化け屋敷に入って間もなく、予告もなく。
そして出た後の現在も、だ。
「こ、怖かったよう。どうして広希は、平気なの?」
「完全に作りもののああいう空間で、怖がる感覚がよくわからないな。夜の墓地とかだったら、さすがにビビるけど」
「それは、どっしり構えすぎだよ」
「お前がおびえ過ぎなんだって……それとさ」
見上げてきた深空と、かちっと視線が合う。慌てて顔をそらしてしまった。
「そろそろ離れてくれよ。いつまでくっついてるんだ?」
「え……あ、わあっ! ごめんなさい……」
もじもじしている深空が、視界の端にうつる。やっぱり、俺の機嫌をそこねるのが怖いのかな。
俺は、それどころじゃない。自分の心臓がうるさい。
確かに吉乃の言うとおり、深空の髪からいい匂いがする。
これまでにも何度か思ったけどさ……くそう、あいつら二人揃って、いつかぎゃふんと言わせてやる。
まだ落ち着かない深空を促して、ツーショット写真をそれぞれの携帯に収める。
たぶん深空の携帯だけで写真を撮ればあいつらは満足なんだろうが、一応念のためだ。
お化け屋敷の出口付近に、リアリティに欠けた人間の首が置いてある。
他の入場者と同じように、俺達もそこで写真を撮った。
「あ、広希の写真が写りが良いな。見てよ、私のは目閉じちゃって変なのになってる」
「そうか? パッチリ開いてないけど、これくらい許容範囲だろ?」
「んー、でもちょっと失敗したなあ。ねえ、あとでそっちの写真ちょうだい?」
などと会話しながら、俺たちはメリーゴーランドに移動した。
いざ馬にまたがる段になって気がついたんだが、どこでどういうタイミングでツーショットを撮ったらいいんだろう。
結局、馬に乗り手を振る深空の写真を撮っただけになった。ツーショットは、メリーゴーランドの手前でしか撮れなかった。
さすがに文句言わないよな。動くメリーゴーランドの中でツーショットは、俺には無理だった。
家族向けの馬車にでも腰掛ければ、できたのかもしれないけど。
さっきの失敗からか、深空は自分の携帯で写真を撮るとき、何度もリテイクしてきた。
まだ日も高いし時間もあるし、気の済むまでつきあってやろうか、と思っていたら。
「あ、さっきのお姉ちゃんたちだー」
「こんにちはー」
先程深空に突撃してきたちびっこ兄弟が、離れた場所から大声をあげ手を振っている。
メリーゴーランドの列に並び、母親と父親らしき男性もいた。
「デートいいなー、いいなー」
無邪気なちびっこの、本人には悪気がない冷やかしの言葉に、俺も深空も氷のように固まった。
いそいで母親がたしなめ、父親も申し訳なさそうに頭を下げてくれる。
俺と深空も無言で頭を下げ、すたこらとその場を後にした。
くそ、まただ。また心臓がうるさくなってる。
その辺にあった柵に寄りかかり、俺と深空はしばらく無言でいた。
俺達の間にある、数十センチの奇妙な空間。
恋心を自覚する前は、こいつとの距離感に疑問をもつことはなかった。
保育園以来の幼馴染みだからな。そりゃあ、思春期のとある時期は離れたこともあったさ。
再び話すようになった時、俺はわずかな違和感を覚えた記憶がある。
深空の言動や性格に変化はなかった。
天真爛漫で、どこか幼いことも多くて、ちょっと危なっかしくて、表情がよく変わる。
変わったのは、深空が子供から少女になっていた、という点。
人間が成長する際には、当たり前の変化だ。俺自身も当然成長している。
けれど、いけないものを見たような感覚を、無意識のうちに抱いたんだよな。
今は、少女と大人の間くらいなんだろうか。
さっきのリップを塗る場面も、背伸びしているとかませているとかは思わなかった。
そう、変わったんだよな。深空も俺も。
出会ってから、十年以上は経っている。変化も、ごく自然の成り行きだ。
じゃあ俺はどうして、何を怖がっていたんだろう……。
「び、びっくりしちゃったね」
沈黙を覆うように、深空がわざとらしく微笑む。俺は返事をせず、ただ深空を見返した。
そう、こいつは、ごく普通の幼馴染みだった。
今は、大切な女の子に変わった。
じゃあ、それが嫌というほどわかったからこそ、俺はどうしたいんだ?
「広希……」
「あ、悪い、ぼーっとしてた」
「あれって、もしかして紀里君?」
指差した先を、振り返る。
俺の視界に入ったのは、紀里らしき背中が、二人の見知らぬ人物に押される形でトイレに消えていった姿だった。
**********
(おいおい、カツアゲか?!)
一目散にそのトイレへ駆け込んだ。
あわや、紀里が個室へ押し込められそうという場面に、ぎりぎりで滑り込む。
二人の、おそらく同い年と思われる男を押しのけ、体を割って入りこんだ。
「広希君?」
背中から聞こえる紀里の声が、弱々しい。
駆けつけれてよかった。見つけたことへの偶然を、感謝しないといけないな。
「誰だ、お前?」
一人が不機嫌そうに問うてくる。若干ガラの悪い二人だ。
もしかしたら、紀里の小学校か中学校の同級生かもしれない。
睨みあげられても、悪いが俺は動じない。
というか、睨みつける視線の圧だったら、勝てる自信がある。
これまた幸いなことに、この中では俺が一番身長が高い。のっぽなのも、たまには役に立つ。
つとめて、いつも以上にぶっきらぼうになるように喋った。
「すぐに遊園地の職員と警察が来る。覚悟しとけ」
「はあ? どうせ嘘だろ。情けねー」
「一人に対して、二人でよってたかる方が情けねえっての」
そこに、大声でもう一人闖入者が現れた。
「紀里!!」
まさかの男子トイレに、息を切らした吉乃の姿。
おいおい、俺達以外に誰もいなかったからいいものの、下手したらセクハラ案件だぞ。
「あっ……菅田(かんだ)に原元(はらもと)、一体何やってんのよ!?」
「はあ? どうもなにも、伸城(じんしょう)と昔について語ろうと思っただけだぞ」
「そうそう、何を大袈裟に騒いでるんだよ?」
ただでさえ頬が紅潮していた吉乃は、噴火したみたいに激昂した。
「どうせロクなこと考えてないでしょ。すぐどっか消えなさい!! 紀里を傷つけるのは絶対に許さない!!」
興奮してるせいか、吉乃は一人の肩をつかんだ。けど、当然男の方が力が強い。
俺が止めることも叶わず、もう一人が吉乃の両肩を強く押して壁に叩きつけた。
「きゃあっ!!」
そのまま、一人が吉乃に距離を詰める。駆け寄ろうとした俺は、もう一人に足止めされた。
菅田か原元かどっちか知らないが、吉乃と顔がくっつきそうなくらいに近づいている。
両手を壁についているせいで、腕が檻みたいになって、吉乃を捕まえていた。
「あいかわらずウザいよな、お前。ぎゃあぎゃあ騒いでばっかりで。おまけに馬鹿みたいに伸城に構うよな? もしかして好きなのか、あいつが? そんな価値のある奴か?」
「黙って!! 高校生にもなって中学校の人間関係が有効だと思ってる大馬鹿!! 紀里から何回もお金を脅しとってたんでしょ? そういうことを平気でする、あんたらこそ価値がないわ!!」
おお、強いな吉乃。ガラの悪い同級生と目を合わせて怒鳴るなんてこと、なかなかできないと思うぞ。
でもその態度が癪に障ったのか、男は吉乃の服の襟をつかんでひっぱった。
さすがに、吉乃がひゅうっと息をのむ。俺はもがいた。
男に体当たりし、吉乃を背にかばったのは、震えていたはずの紀里だ。
「やめてください、菅田君」
「へえ、俺にそういうこと言えるようになったんだ?」
「僕を馬鹿にしたいなら、いくらでもどうぞ。でも、吉乃ちゃんに手を出すのは止めてください」
どんどん剣呑な雰囲気になっていく。
止めようと思い何度ももがいたけど、原元という奴は俺より背が低いくせに、どうしてか俺の動きをきっちり封じやがる。
喧嘩が強いのか、何かしらの武術の心得でもあるのか。
もし後者だったら、スポーツ精神をしっかり身につけてほしいもんだ。
菅田が、紀里の胸倉をつかんだ。その手をさらに吉乃がつかむ。
「今日という今日は許さないわよ、菅田!」
「うるせえ、どいてろ!」
再び突き飛ばされた吉乃を見て、紀里の目の色が変わった。
「紀里、落ちつけ!!」
俺は叫んだ。やっぱり相手がどんな奴であろうと、こっちから手を出すのはマズイ気がするんだ。
修羅場の熱が最高潮へ向かうかと思われた時。
「何をしている?! 止めなさい!!」
迫力のある警備員と、その後ろからスタッフが数人現れ、強制的に幕は降りたのだった。
**********
その後俺たちは、警備員やスタッフからいろいろ質問され、わりとすぐに解放された。
菅田と原元は、本気で紀里から金を巻き上げるつもりだった可能性がある。
けどカツアゲは未遂で、喧嘩も起こりかけていたけど、誰も怪我をしていない。
用は、単なるトラブルとみなされ、厳重注意を受けたのちに解放されたのだ。
ただし、後日高校へ連絡はするとのことで、全員の名前を聞かれてしまった。まあ、このへんは仕方がないか。
「吉乃ちゃん、紀里君、お水飲む?」
深空が、ベンチで力なくうなだれる二人にペットボトルを差し出す。
吉乃も紀里も、のろのろとそれを受け取った。
「ごめんね、深空まで名前聞かれちゃって」
「気にしないで。みんな怪我がなくて、よかったよ」
深空は、俺達三人が苦闘している間、大人を探してくれていたのだ。
一生懸命走り回ってくれた深空も、もしかしたら先生から叱られてしまうんだろうか。
この場合、因縁を最初につけてきたのは、菅田と原元なんだけどな。
「紀里、本当にごめんね。私がひとりでクレープ屋に並んでたせいで」
「いいえ、逃げ切れなかった僕が悪いんです」
紀里はいつも通りの口調だけど、ベンチの横で突っ立ている俺から見ても、気力を失っているように見える。
「カッコ悪いですね。中学校と同じ相手にカツアゲされかけて、動けなかったなんて」
深空が目を丸くし、動揺している風に感じたから、俺はさりげなくすぐ側に移動した。
吉乃が泣きそうになって言う。
「そんなことない! 私をかばってくれたじゃん。格好良かったよ?」
「お世辞でもそう言ってくれるなんて、ちょっと嬉しいです」