その9 君に触れるとき
俺の体は、何を考えるでもなく自然に動いた。深空の側へ移動し、倒れかかった深空を抱きとめる。
数瞬呆然としていた深空が、状況に気がついて硬直するのと、ちびっこが俺と目が合いうなだれるのがほぼ同時だった。
深空はとっさに体を離し、俺と距離を取る。
うなだれたままのちびっこ相手にさてどうしたものかと思案しているうちに、ちびっこの母親と思われる女性がかけよってきた。
結果的には、ちびっこ兄弟は母親によって頭を下げることになり、深空は恐縮そうに何度も「大丈夫ですよ」と繰り返していた。
「本当にごめんなさいね、邪魔をして」
女性は深い意味はなくそう言ったのはわかるんだが、今の俺には結構堪える。
深空もまた、頬を赤くしていた。
去っていくちびっこ兄弟の年下の方が、母親に質問している声が聞こえてしまう。
「あのお兄ちゃんとお姉ちゃん、でーと、してるの?」
(あの年で外来語使うなんてませてるな……いや、元は英語だって知らないか)
などと現実逃避をかねて黙考しつつ、深空を振りかえる。
深空も同じタイミングで俺を伺い、目が合ったとたん栗鼠のように震えた。いやいや、捕って食べるわけじゃないのに。
この様子だと、あのちびっこの質問は、深空にも聞こえてただろうな。
俺は何も言わず深空の腰に手を回し、歩かせる。
「座ってろ。あいつらが戻ってくるまで時間がかかると思うし」
空いているベンチの前で、深空を促す。今日初めて、ようやく話しかけることができた。
「ひ……広希も座ろう?」
「俺はいいよ。また、お前にふらつかれたら困るんだよ。いいから大人しくしてろ」
ちょっとぶっきらぼうになってしまったが、仕方がない。
俺は腕時計で時間を確認した。紀里達が離れてから五分経ったかどうか、というところか。
正直、早く戻ってきてほしい。
あいつら二人は、俺と深空の仲を取り持ちたいようだが、そのたくらみは水泡に帰すと思われる。
今の俺達に流れる空気を見れば明らかだ。だからもうこの際、騙したことには目をつむるから、早くポップコーンを買ってきてくれ。
天にも祈る思いで紀里の帰還を待っていると、携帯が鳴る。メールを受信したみたいだ。
することもなかったのですぐに開く。文字を読むが、一度で理解できなかった俺は、数度読み返した。
(なんでだ……なんでこうなるんだ!)
何と紀里は、またしても俺を騙したのだった。
**********
『当初の予定を変更します。
ちょうど広希君と深空さんが二人きりになったので、僕達はこのまま離脱しますね。
せっかくの遊園地デートを楽しんでください。』
「おい……紀里!」
人目を気にした俺は、最大限に声を押さえて罵倒する。
と、深空が立ち上がり俺に声をかけた。
「広希……あの、紀里君からメールが来たんだけど」
なんと、深空にもメールを送ったのか。おそらくほぼ同一の内容を送ったに違いない。
「写真、撮ってきてって……」
「は?」
深空が差し出した携帯を拝借して読むと、こう書いてあった。
『お化け屋敷と、メリーゴーランドと、観覧車の中で写真を撮って、僕と吉乃ちゃんに後日見せてください。
観覧車の写真は、夕方五時以降に撮ってくださいね。
出来れば、広希君とツーショットで。
もし広希君が逃げたら、後日吉乃ちゃんが彼に鉄槌を下しますので、そのつもりで。』
俺は深空の携帯を持ったまま、しばらく絶句していた。
やがて、じわじわと怒りにも似たものがこみ上げてくる。
「何なんだ……何なんだ、あいつら!」
またもや最大限に声を押さえて罵倒した俺は、周囲を見渡した。
けど、紀里と吉乃の姿があるわけがない。
今頃あいつら、俺が罠にかかったことをほくそ笑んでるんだろうか。そんな様子を妄想してしまい、余計に腹が立った。
「広希、あのね」
遠慮がちに声をかける深空に、俺は雑念を消して向き直る。
「悪い、携帯返すよ」
「うん……私、広希と写真、撮りたい、な……」
頬を染めながら、うるんだ目で、消え入りそうな声で、俺を見る。
何かこの、胸をつかまれるような表情、見たことあるようなないような。
ああ、あの時か――深空の部屋にあがったバレンタインデーの時だ。
深空への気持ちにはっきり気づいたきっかけの、あの日だ。
記憶を探っていた俺は、返事が遅れてしまった。
深空が、気持ちを隠すようにあわてて笑う。
「ご、ごめんね、こんなこと言って。嫌だよ、ね……」
「……臆病な俺と、違うな」
「え、どうしたの?」
「いや、独り言」
俺は盛大に目をそらし、ぽつりと言う。
「写真くらいなら、いいぞ」
少し遅れて、気配だけでわかるくらい、深空は花が咲き誇ったように笑った。
――さて問題は、その後からだった。
深空は俺から了承を得た後、水を得た魚のように生き生きとし始めた。
入場ゲート付近で手に入れたマップを改めて広げ、夕方五時までどのアトラクションを巡るべきか、無邪気に選んでいる。
いやこれは、猫じゃらしに興奮している猫に例えるべきか。それとも尻尾を激しくふる犬に例えるべきか。
俺が唖然としたまま、深空は深空なりの巡回ルートを決めたようだ。
「ここから近いところから行こうよ。まずはコーヒーカップがいいな。本当は苦手なんだけど、久しぶりに乗りたい!」
「そういえば、紀里もコーヒーカップが苦手なんだと」
「へえ。広希は?」
「まあ、たぶん大丈夫だろう」
などという会話をしながら、お目当てのアトラクションへ向かう。
時間が昼に近いからか、やや入場者も増えたような気がする。うきうきとはしゃいで歩いていた深空は、またもや足を踏み外してふらつきそうになった。
「危ないだろ」
こんな人の多いところでふらつかれたら、誰にぶつかるかわからない。さっきのちびっこ兄弟みたいにな。
「ごめんなさい」
しゅんとしおれた深空は、大人しく俺の隣を歩いた。
ちょうど前方から、大学生らしい雰囲気のカップルが歩いてくる。当たり前だけど、俺たちと違って手をつないでいる。
深空がふいに、俺の服の袖を引っ張ってきた。
俺は何と反応するべきかわからず、深空の好きにさせた。
深空が俺を見上げているのがわかったけど、それ以上距離を詰めてこようとはしない。
気まずくはないけど心地いいとは言い難い沈黙のまま、俺達はコーヒーカップの列に並んだ。
**********
「広希、三半規管弱いんだっけ?」
「いや……もしかしたら寝不足だったのかも」
近くのベンチに二人で腰掛け、俺はみっともなく伸びていた。
コーヒーカップで、俺は酔ってしまった。苦手と言っていた深空といえば、俺からすれば平然としている。
そこまで激しくカップが回転しなかったから、深空は酔わなかったのだろう。
じゃあ俺は、どうしてこんなことになってるんだ。
(多分、緊張してるんだろうな)
一度突き放してしまった大事な女の子と、二人で遊園地にいる。どう考えても、いわゆるデートってやつだろう。
そう、俺はあがってる。緊張してる。深空と向き合わなきゃならない。決着をつけないと――
「そろそろお昼の時間だし、酔いがとれたら何か食べようね」
微笑みかけてくれるこの幼なじみを、俺は泣かせてしまったんだ。
深空を突き放した時から、何度も深空の切なげな視線に背を向けた俺を、どう思ってるんだろう。
「あ、自販機だ。お水でも飲む?」
俺の返事を聞く前に深空は立ち上がり、すぐにペットボトルの水を持って戻ってきた。
「広希が飲まないなら、私が飲むから。どうする?」
「……欲しい。ありがとう」
少しずつ水を嚥下する。喉を流れる冷たさが心地いい。
背もたれにぐったり体をあずけ、空を仰いだ。五月という季節に相応しい、清涼な青空が広がっている。
「広希とこうしてお外に出るなんて、久しぶりだよね」
「……ああ、小学生の頃の話だよな?」
お互いの親と一緒に、公園へピクニックに出かけたことは数度ある。
しかも、深空の弟の泰陽(たいよう)が生まれてない頃だから、もうかなり前だ。
ピクニックで一緒だった深空は……そう、俺にしつこいほど構ってきた。
親たちが和やかに談笑し合う間(母親同士は雑談で盛り上がり、父親同士はこっそり酒を飲んでいた気がする)、俺はぼんやりするか眠りの世界へ行きたかったのに、深空に腕を引っ張られ、やれフリスビーだのバトミントンだのをさせられた。
バトミントンに至っては、深空が勝つまで打ち合いをさせられ、手加減したら怒るわ、俺の方がわずかに運動神経が良かったのでなかなか決着がつかないわで、当時の俺としては悪夢だった。
「そう考えたら、丸くなったよな」
「え?」
「深空に無理やりバトミントンに付き合わされた時、『まだ勝負するんだから!』って泣いてだだこねられて、すげえ困ったこと思い出した。あの時と比べたら、お前の我儘もマシになったなって」
思わず苦笑してしまう。隣の深空は、当時のことを徐々に思い出したのか、うっすらと顔が赤く染まった。
「だって、あの時は、広希に遊んで欲しかったんだもん……」
と深空は、打って変わって顔を曇らせた。
「広希、私って、我儘?」
かなり深刻そうだったけど、俺は笑い飛ばした。
「我儘っていっても、そんなにひどくないって。お前は、自分の気持ちに素直なだけなんだよ。そりゃたまには困ることもあったけど、俺は平気だったから、お前とずっと幼馴染みをやってたんだ」
腑に落ちなさそうな深空に、俺は体を起こして向き直った。
「お前が他人に迷惑をかける、本当にどうしようもない奴なら、お前の周りにあんなに人は集まらないよ……ごめんな、変なこといって」
そして自然に――本当にこれは自然に、深空の頭をぽんぽんと撫でた。
単に慰めるつもりだったんだけど、深空が吃驚してさらに頬を染める。
おっと、余計なことをしたか。けど同時に、こうもコロコロと表情が変わる深空を久しぶりに見た気がする。
俺のせいで、最近は塞ぎこんでばっかりいたからな。
どぎまぎしてこちらを伺う深空を、俺はただ見返した。
(やっぱり、笑ってる方がいいよ)
と、俺は今さらながら違和感を覚え、ますますじろじろと深空を見た。
「深空、化粧してるのか?」
「え?……うん、薄くだけど、してるよ」
遅すぎる指摘に、深空はぽかんとする。
屋外だから見え方が違うのか、とも思ったけど、やっぱりそうだったか。
「いつもと違うから、変な感じがするな」
率直な感想に、深空はたちまち頬を膨らませた。
「女の子には化粧したい時があるの! 男の子にはわからないよ」
すねてしまった深空に聞こえないように、そっぽを向いて呟いた。
「普段のままでも……充分可愛いのに」
言ってしまってから、俺も頬が赤くなる。
まだ冷たいペットボトルをあてて、誤魔化した。
**********
俺の発言でご機嫌斜めになった深空だが、昼ごはんのホットドッグとシェイクを驕ったら、たちまち笑顔になってくれた。
やっぱり水を得た魚というより、犬や猫に例える方が良さそうだな。
空いている席に座り、二人でホットドッグにかぶりつく。
遊園地で食べるせいか、パンが薄かろうがそれなりに美味しく感じる。
食べ終えた後、深空は口をウェットティッシュで吹き、リップを塗りなおしていた。
手鏡を見ながらのその姿に、これまで感じたことのないものが胸に生まれる。
俺の知らないうちに、ちょっと色っぽくなった。
(何だ……何だよ、知らないうちって)
幼馴染みとはいえ、四六時中一緒にいるわけではないし、それが出来たとしても、深空の見たものや考えを全部コピーできるわけでもない。
それがわかっていながら、わからないことがあることに関して、俺はふてくされているんだ。
「広希、休憩したら、お化け屋敷に行こう?」
すねている俺の気持ちを知らず、深空は再びマップを広げる。
お化け屋敷は、紀里が指令を出した場所だったな。後は、メリーゴーランドと観覧車、だっけか。
くそう、もう少し人の少ないアトラクションにして欲しかったな。待ち時間もそこそこありそうだし。
同じように昼休憩をしている周囲の人々を眺めながら、俺はげんなりした。
近くの家族連れの子どもが、うっかりソフトクリームを服にこぼしていた。
そういや深空もアイスを服にこぼして、一度だけ拭いてやったことがあるな。確か、小学校の夏休みだったか。
「ねえ聞いてる? 今私が言った順番で回ってもいい?」
こっちを覗きこんでくる深空の唇は、学校で見るより赤くて、濡れたようなつやがある。
耐えられなくて、目をそらした。
「あー、うん、いいぞ」
「うーん、さては聞いてなかったでしょ?」
深空のプランでは、簡単な迷路も行きたいとのことだった。考えるのが面倒だったので、俺は二つ返事する。
少ししてから、お化け屋敷に向かった俺は――紀里の策士っぷりを思い知ったのだった。
(あいつら絶対、これ狙ってただろ……)
シンプルだが子どもなら充分怖がるお化け屋敷から出た後、俺はどこにいるかもわからない相手に向かって胡乱な目つきになってしまった。