その9 君に触れるとき


「おや、そんなに喜んでもらえるなんて、広希(ひろき)君を騙した甲斐がありましたね」

ついさっきまでは比較的善良に見えていた友達を、今なら視線の力だけで地面に引きずり倒せそうな気がした。

「紀里(のりさと)……ハメやがったな?」

無意識に声が低くなってしまったが、紀里はますます嬉しそうに笑った。宝くじに当たったわけでもないのに、なぜそう笑顔でいられるんだ。

「そんな怖い顔をしないでくださいよ。僕は単に、あえて、とても重要な情報を言わなかっただけですよ?」

「それを、世間じゃハメたって言うんだ!!」

だが、俺の精一杯の抗議は、無残にも途中で打ち砕かれる。漫才のハリセンのごとく鋭い突っ込みが入ったからだ。

「はいはい、往生際が悪すぎるわよっ!!」

吉乃(よしの)が豪快に背中を叩くものだから、俺は驚いで咳き込んでしまった。脱力してしゃがみこんでいると、上から誠意のない言葉が降ってくる。

「あ、ごめん。許して?」

「……お前ら、何がしたいんだ?」

俺は、紀里と吉乃を見上げた。二人とも、今日は私服だ。

休日だから当たり前なのだけれど、初めて見るものだから、新鮮に感じる。

「僕は皆と遊びたかったんですよ」

「私もそうよ。さあさあ、チケットは準備しちゃったんだから、さっさと遊園地に入るわよー……ちょっと深空(みそら)、どうしたの? 早くこっちに来て」

その名前に、呼ばれた本人だけでなく、俺もびくっと肩を震わせた。

「え、でも、でも……」

数メートル離れた先には、幼なじみの深空がぽつんと立っていた。

顔が赤くなったり、青くなったりしている。俺が突然現れたから、緊張しているんだろうか。

深空も、私服だった。そういえば、制服じゃない深空を見たのは、いつぶりだったろう……。

俺はそっぽを向いて、どうしてこんな状況になってしまったのか、現実逃避を兼ねて思い起こしてみることにした。


**********


「広希君、お願いがあるんですが、聞いてくれますか?」

あの件があった数日後の、放課後。俺と紀里は、たまたま帰り路で鉢合わせした。

俺に話しかけた紀里は、いたっていつも通りに見えた。

こいつの中で、心の葛藤のすべてに決着がついたのかなんて、俺にはわからない。ただ、あえてこっちから辛い話をふる必要もないだろう。

今は何かあったら、話くらいは聞ける奴がいることを、紀里がわかっていればいいんだ。

「おう、何だ?」

「遊園地で、買いたいものがあるんです。だから、電車で一緒に行ってくれませんか?」

俺はその光景を、己の想像力の許す限り、脳裏に描いてみた。珍妙で滑稽だった。

「一人で行けばいいだろ。何で俺を誘うんだ?」

「反対にお尋ねしますが、広希君は一人きりで、家族や恋人で溢れかえっている遊園地に乗り込む勇気がありますか?」

そんなもの、答えは決まっている。

「あるわけないだろ。でもだからってなあ、俺を巻き込むな」

「そう言わないでください。あの遊園地で売っているポップコーン、人気だそうです。お礼もかねて、あなたにおごらせてください」

何だかその日の紀里は、いつにもまして笑顔に圧力があった。

今思えば、俺に要求を呑ませたい気持ちが、妙な迫力にでもなっていたのかもしれない。

紀里の腹のうちを知らない俺は、気圧された上になぜか詳しい予定を聞いてしまった。

「今度のゴールデンウィークの、土曜日にしようと思ってるんです」

おいおい、めちゃくちゃ家族や恋人達がいそうな日時だなあ。

まあ、学生の身であるからには、カレンダー通りに行動するしかないのが悲しいところだ(一応補足しておくと、俺は体調不良といった正当な理由がない限り、学校を休んだことはない。紀里は知らないけどな)。

第一、学校をずる休みして、男二人で平日の田舎の遊園地にポップコーンを買いに行くなんて、想像しただけで泣けてきそうだ。

ここはやはり、大勢の人ごみにまぎれた方が、まだ恥ずかしさはやわらぐかもしれない。

ぐちゃぐちゃと、頭の中であれこれ考えていたら、紀里が俺の顔を覗きこんできた。

「じゃあ、何時集合にしますか? 広希君?」

「は? 俺が行くの、もう確定なのか?」

「そうですよ? で、何時に駅に集合します?」

うーん、と俺は考える。休日の朝は、どうしにも寝坊してしまうのだ。

だがくだんの遊園地は、公共交通機関を使っても一時間以上はかかるところだ。あまり遅い時間はまずいだろう。

俺は、俺の家と紀里の家の距離やらあれやこれやを、さっと頭の中で巡らせる。

「九時じゃあ、遅いかな?」

紀里は数瞬黙り込んだ後、うなずいた。

たぶんこの間は、今となっては――吉乃と深空の移動の都合を考え込んでいたのだろう、と推測できる。

「遊園地の開園は、たしか九時です。九時に集合した場合、入園できるのは十時を過ぎてしまうでしょうが、でも一日中遊ぶわけではないので、そのくらいがちょうどいいでしょうね」

「当たり前だ。二人きりで夕方まで遊んでたまるか」

あはは、と紀里は愉快そうに笑う。

その後、「僕は絶叫系は苦手です」とか「コーヒーカップも苦手です」とか、有益なんだかどうなんだかわからない話を紀里がしてきた。

俺は、遊園地で遊んだ記憶はあまりない。

日本でとても有名な、とある海外資本の巨大テーマパークなら、小さい頃に数回行った記憶はあるけど、迷子にならないように、親に必死で手をつながれていた記憶ばかりが鮮明だ。

「じゃあ、観覧車でも乗るか?」

「え? 一緒に乗ってくれるんですか?」

「訂正する。一人で景色を楽しんでくれ」

またまた紀里は愉快そうに笑う。まあ、こいつが元気であるのならば、今は喜んでおくべきだろう。

――なんて、呑気なことを考えていた過去の俺を、どついてやりたい。


**********


さて、話は今朝のことになる。何と紀里は、俺の携帯に『遅刻するので先に行ってください』と連絡をよこしてきた。

『寝坊してしまったので、約束の時間に三十分程度遅れそうです』とのこと。

何だよそれ、と心の中で呆れながらも、俺は電車にゆられ、遊園地へ黙々と運ばれていった。

今思えば――紀里の寝坊は、真っ赤なウソだったんだろうな。

つい数分前、紀里から数歩離れた距離に、吉乃と深空の姿があったのは、二人と紀里が示し合わせていたからだろう。

さて、と俺は何とか気まずい心を奮い立たせて立ち上がった。どうやらこのたくらみは、紀里と吉乃の共同作業のようだ。

くそう、夫婦漫才を時々しているからって、こんな時まで阿吽の呼吸を見せつける必要もないだろうに。

無意識のうちにうらみがましく二人を睨みつけていたのだろうか。吉乃が満面の笑みで応戦してきた。

「え、文句あるの? 紀里は、私と深空がついてくるのを、うっかり言わなかっただけよ。そして私は深空に、広希君も遊園地に来るのを言わなかっただけ。偶然よ偶然」

「どこが偶然だ。詐欺だろ!」

思わず声を荒らげた俺に、紀里が近づいてきた。満面の笑みで、逃がさないようにと腕をつかまれる。俺は思わず息を飲んだ。

「ポップコーンをおごる約束は果たします。まずは、それからですね」

そういうと、スタスタと遊園地の入場ゲートへと歩を進めた。

俺も腕をつかまれたまま、紀里の後をついていくハメに……何だ、この光景は。何かがおかしい気がするのだが。

誰かツッコミをしてくれる人間はいないのか。俺は嘆いたが、何も起らなかった。

紀里に腕を引っ張られるまま遊園地に入場してしまう。少し遅れて、吉乃も深空とがっちり腕を組んでこちらへやってきた。

そうか、深空も逃げたいのか――俺がいるのが、やっぱり気まずいんだろうな。

入場ゲートから少し進んだ先、付近にはこれといった施設がないので、人ごみと表現するほど人はいない。

隅の方に寄れば、通行の邪魔になることもない。

何も話せない俺と深空を尻目に、紀里と吉乃はどんどん打ち合わせをしていく。

「ええと、ポップコーンはどこの売店でしたっけ?」

「メリーゴーランドの向こうのにあったはずだけど。でもまずは、その手前にあるジェットコースターに乗りたいなあ」

「あのジェットコースターならそこまで怖くなさそうですし、ちょうどいいですね。じゃあ絶叫系で少しお腹をすかせてから、食べましょうか?」

「ねえ二人とも、ジェットコースターは平気?」

俺と深空は、同じタイミングでこくんと首を縦に振る。紀里が声を殺して笑った。

こっちは返事をしてやっただけだぞ、何が可笑しい。

「広希君、さすがにもう手を離してもいいですよね。恥ずかしくなってきました」

「おう、ぜひともそうしてくれ」

やっと拘束が解かれて、俺は息をついた。さすがにここまできたら、もう逃げる気にはならない。

一方吉乃は、ますます深空にぎゅうっとしがみついている。深空が、顔を赤くした。

「吉乃ちゃん……?」

「んーだって、思ってた以上に深空が可愛いんだもん。それに柔らかいし。もうちょっとだけこうしてていいかな?」

あわあわ、と目を回す深空だったが、戸惑っているだけで、不快ではないらしい。

そういえば、二人のファッションも対象的だった。

吉乃はパーカーにジーンズ地のスカートでリュック、といういかにも活動的な格好。

深空の方は、紫のパステルカラーの長袖に、薄い布がふわふわして印象的な白のスカートと(後で知ったけど、チュールスカートってやつだそうだ)、布製のトートバッグ。服の材質が、いかにも女の子らしい。

ただどちらもスニーカーを履いているので、今日は遊ぶ気満々で来たのだろう。

気のせいか、にやり、と吉乃が俺に笑ってみせる。

「いつも思ってたけど、深空の髪の毛っていい匂いだね。どんなシャンプー使ってるの?」

「ドラッグストアで売ってる普通のシャンプーだよ。特別なものは使ってないよ」

「そっか、じゃあ深空に合ってるんだね。そのシャンプーが」

ふふ、と吉乃は笑いながら、深空の髪の毛を一度だけ手で梳いた。ひやあ、と深空が悲鳴のような何かを口にする。

「吉乃ちゃん、今日はどうしたの? いつもより距離が近いよー」

「そうですよ、まるで町娘を品定めする悪代官に見えます。そのへんでやめた方がいいんじゃないですか?」

紀里の渋い例えには驚いたが、提案には大賛成だった。

吉乃が若干不服そうに頬を膨らませる。

「えー、悪代官はないでしょ?」

「我ながら、良い表現だと思ったんですけど。あのまま放っておいたら、その場のノリで良いではないか、なんて言い出しそうでしたし」

おいおい、突っ込むところはそこなのかよ、と俺は二人ともに対して、心の中で突っ込みを入れる。

吉乃から解放された深空は、あからさまにほっとしていた。紀里と吉乃が漫才のようなやりとりをする傍らで、乱れた髪を戻し、前髪を指で梳いている。

その時俺と目が合い、たちまち頬を染めて、そっぽを向いてしまった。

(何だよ、俺が悪いことしてるみたいじゃないか……)

心に、ちくりと何かが刺さる――ああ、どうして被害者めいた感情が沸くのだろう。

深空を一度拒絶したのは、俺の方だっていうのに。

「話はこのくらいにして、さあ、ジェットコースターに行くわよ」

ということで吉乃の音頭と共に、愉快で珍妙な一行の俺達はジェットコースターの列へと向かった。


**********


俺達が乗ったジェットコースターは、小学生でも乗れそうなタイプのものだ。

走行距離も短めで、レールもそこまで蛇行してないし、下降も上昇もそこまで急激なものじゃない。

だというのに紀里は、乗り終わった後、ベンチに座ってため息をついていた。

「ごめん、まさか紀里がここまで苦手だったなんて知らなかったわ……」

「僕も自分に驚いてます。あの程度でも怖くなるなんて、思いもよりませんでした」

紀里と吉乃が別々の理由で落ち込んでいるのを、俺と深空は傍らで立ちつくして見ていた。

愉快な一行の道のりは暗礁に乗り上げてしまったかのように思われたが、おもむろに紀里が立ち上がる。

「広希君、ポップコーンおごりますね」

ああ、そういえばそんな段取りになってたような気がするな。

「いいのか本当に。今すぐじゃなくていいぞ。もう少し休んだらどうだ」

「平気ですよ。すぐ買ってきます」

「あ、私も行く」

わりと平然と歩きだした紀里に、吉乃も不安になったのかついていく。

さて、俺と深空は残されてしまったわけだが、当然俺達の間には沈黙が漂うばかり。

しかし幸か不幸か、今日は休日で、俺達が今いるのはそこそこのにぎわいをみせる遊園地。

さっきから意識しなくても、親子連れやら恋人やら友達やらで、連れだって行き交う人たちばかりが目に入る。

深空は俺を伺いながらもじもじしていたが、兄弟でかけっこしていたちびっこに勢いよくぶつかられ、ふらりとよろめいた。

「あっ」
 
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