その8 想いに惑う日


「この後、家族は僕を傷つけた負い目があったのか、少し優しくしてくれるようになりました。でも中学校生活は、散々だったんですよ。この間会った周道君みたいに、同じ小学校でない子が、あることないことで盛り上がって、僕をさんざんいじめてきましたから。だから高校は、僕を知っている人が殆どいないところにしようと決めていました」

「須賀とは、中学校の時に話したのか?」

「いいえ、二年生まで避けてました。彼女まで、無責任な噂の餌食になるのは耐えられませんでしたから。でも、好きな人を遠ざけるのは、難しいです。彼女を傷つけてしまいそうで怖かったけど、また話しかけてしまいました。吉乃ちゃんは優しいから、また僕と話をしてくれるようになって……そして、今日に至ります」

紀里は、残りのお茶を勢いよくあおった。

どうやらこれで、話はすべて終わったらしい。

俺は、お茶を自分のコップにそそぎ、乾いた喉を何とか潤した。

「須賀のことは、恨んでないのか?」

「全く。彼女は僕を助けてくれました。そんなこと、ひとつも思ってないです。ただ、僕のせいで責任を感じたみたいだから、そこは申し訳なく思っています」

しばらくは、耳に痛い沈黙が続いた。

やがて車が一台、家の前に止まったあと、後進して駐車する音がした。

どうやら母さんが帰ってきたようだ。思い切って、口を開く。

「何か、辛いこと思い出させたみたいで、悪かったな」

「突然こんな話をしてしまって、すみません」

俺と紀里は、目を合わせ、どちらともなく吹きだした。まさか、二人同時に謝るなんてな。

「吃驚しましたか?」

「ああ、まあそりゃあ……」

「込み入った家庭の事情なんて、簡単に口にするようなことではないんですが、広希君には話したかったんです。聞いてくれてありがとうございます。そういえば、今日のお礼も言ってませんでしたね」

「お礼?」

「ええ、僕をお姫様だっこして、保健室まで運んでくれたんでしょう? 吉乃ちゃんから聞きました」

お姫様だっことは、何とも女の子らしい表現だが、運んでいる時は大変だったんだぞ。

「あの体勢は言うほど優雅じゃないよな、特に運ぶ側は」

「本当に、ありがとうございます」

「いいって、気にするな。大したことないんだから」

と、その時だ。どたどたと階段を駆け上がる音がしした。

母さんがノックもせずに俺の部屋のドアを開け放ち、やや化粧の崩れた顔で、あんぐりと口を開け、俺と紀里を見ている。

「……何だよ?」

嫌な予感がする。この後、何か変なことを言うんじゃないだろうか。

「お邪魔してます」

紀里は、すっかり落ち着きを取り戻したかのように、立ち上がって軽く頭を下げた。

「ちょっと、あんた……」

母さんは俺の方を見ながら、不躾にも紀里の方を指差した。

「まさかと思うけど……友達? 深空ちゃん以外の友達?」

俺が呆れる前に、紀里が噴き出した。

「恋人に見えますか?」

こら、悪質な冗談を重ねるんじゃない。

「悪いかよ。友達を部屋に呼んで、問題でもあるのか?」

「問題はないけど、呼んだこと事態が大ニュースね。一体どうしたっていうのよ?! しかもこんな礼儀正しい子! 玄関先で靴もちゃんとそろえてあったし、あんたも見習いなさい! あーもう、部屋もこんなに散らかしちゃって、育ちの悪いのがばれるじゃないの!」

大丈夫だ、学校生活でだいたいばれてる。とは言わず、俺はおとなしくベットの上の服をたたみ始めた。

ここで母さんに逆らって文句を言うのは、得策ではないのは身にしみてわかっている。

どうやら母さんは、俺が一匹狼な状態で学校生活を送っていたことを、少し気に病んでいたらしい。

やっと心を許せる友達が出来たのね、なんて、感涙しかねない勢いだ。それでいて、あれこれと紀里に質問している。

やめろ、育ちがばれるって嘆いてたのは、一体誰だ。

「あら、じゃあ電車の都合で、夜ごはんは食べて行けそうにないわねー」

「おい、いつのまにそんな話になっていたんだよ」

「いいじゃないの、せっかくなんだし」

俺達親子が盛り上がっている傍らで、ずっと紀里はニコニコしていた。

俺としては、その笑みはうさんくさいものにしか見えない時があるが、母さん世代の人間には受けがいいのかもしれない。

話し合いの結果、俺が紀里を駅まで送っていくことになった。

帰り際になって、母さんは紀里にみかんを一個持たせた。完全に近所のおせっかいなおばちゃんの行動だぞ、それ。

行きと同じように、帰りも二人でのんびり歩を進めた。

だけど、息が詰まるような緊張感はなくて、紀里は憑き物が落ちたみたいに、穏やかな横顔をしていた。

「広希君のお母さん、良い人ですね」

「普段からあんな調子だし、いろいろと面倒だけどな。この間の正月なんて、息子の俺より深空の意思を優先させたんだぜ、ひどい話だよな」

「どういうことですか?」

俺は、深空と深空の弟を連れて、いやいやながら初詣に行った経緯を説明した。

「ああ、僕と吉乃ちゃんがお二人に会った、あの時ですね」

そう言われて、まだあの元日から、季節がひとつしか過ぎていないのに気がつく。

けれど俺の心には、大きな変化があった。その変化自体を、俺はどうしようもなく恐れている。

「……広希君」

あと少しで駅前というところで、突然、紀里は歩みを止めた。俺は何事かと、振り返る。

「僕は、広希君と深空さんには、恋人になって欲しいと思ってます」

静かで、直球な物言いに、俺は目をそらしたかった。でも、出来なかった。

「決めるのはあなたたちなので、僕にはどうしようもありませんが――それでも、あなたたちには、幸せになってほしいんです」

「……どうしてだよ? どうして、構おうとするんだ?」

これは純粋な疑問だった。お節介がうっとおしいとか、そういう気持ちは特にない。

ただ、不思議だったのだ。友達とはいえ、結局は赤の他人の俺の恋路を、どうして気にかけるのか。

怒ってまで俺に諭そうとするのは、なぜなのか。

「個人的な、我儘ですよ。君達の恋が成就すれば、僕の思いも昇華できるんじゃないかと、思うんです」

「え?」

「いえ、失礼しました……でも、幸せになってほしいと思っているのは、本当ですよ」

別れ際、紀里は小声で言ってきた。

「今日話したことは、誰にも言わないでください」

「当たり前だ。わかってる」

「ありがとうございます」

普段のような笑みを取り戻しつつある紀里に手をふり、再び家路につきながら、俺は考えていた。

紀里は、ある意味で賭けに出たのではないだろうか。

俺が『噂』を知り、いつしか紀里を軽蔑する日が来るかもしれないと、きっと恐れていた。

だからこそ、『真実』を話したのだ。もちろん、それを知って俺が離れる可能性も考えただろう。

ある意味では、同情できるような事情もあるとはいえ、紀里の父さんは妻を裏切ったんだ。そんな経緯で生まれた紀里を、俺がどう思うか――緊張も恐怖もあったはずだ。

でもな、お前とこれまで接してきた上で言うが、俺が深空から聞いた『噂』は、悪質なのは間違いないが、最終的には腹を抱えて笑い転げたくなるものばかりだったぜ。

お前の近くにいる奴ほど、噂を馬鹿馬鹿しく感じるだろうな。

(それに、紀里が生まれてきたことは、お前の責任じゃないだろ……)

かつて幼い吉乃が、何かと紀里に構っていたのは、紀里の危うさを無意識に感じたからかもしれない。

「……それに、須賀が今でもお前と喋っているってことは、お前が良い奴だからって、わかってるからじゃないのか?」

既に帰路にある紀里に届くわけのない独り言を言った後、俺は携帯電話を取り出した。

アドレス帳から名前を探し、少しの躊躇の後、思い切って発信ボタンを押す。

数秒で、深空が出た。俺からの電話が心底意外なようで、声がどこかアタフタと落ちつかなげだ。

俺は、詳しい内容は言わず、結論だけを伝えた。

「さっきまで、紀里と話をしてたんだ。たぶん、もう大丈夫だ。明日は、いつも通りに学校へ来ると思うぞ」

「そう……よかった」

電話の向こうで、深空がほっと胸をなで下ろしたのがわかった。

「須賀の様子は、どうだったんだ?」

「今日一日、元気がなかったの。でも、明日紀里君が学校に来れるなら、きっとすぐに元気になると思う」

「ああ、だといいな」

俺は、あることに思い当たった。

深空が、噂しか知らないということは――吉乃が、深空に弁明する機会がなかったのだ。

つまり、吉乃は親しい相手にも話してないのだ。

それだけ吉乃にとっては、紀里を傷つけたことが、重い十字架なのだろう。

なら、俺が無暗に口出しすることじゃない。こればっかりは、二人の関係性や、時間が経つのに任せるしかない。

「あのね、広希」

そう言ったかと思えば、深空は急に黙り込んでしまった。

最初は不審に思ったが、その静かさに、俺は逃げ出したくなってしまう。

何でだろう、深空が切なげに顔を赤くしているのが、想像できてしまう。

(……だめだ、どうしてなんだ)

幼なじみに向き合うのが、怖い。

「も、もし、時間があったら、今度……」

「深空」

ああよかった。まだ比較的、普通の声が出せた。

「今日も、受験勉強する気か? 疲れるまで、勉強するなよ。たまには、ゆっくり休め」

「え……うん」

しょげたような声に、罪悪感を覚えると同時に、安堵している自分もいた。

「じゃあ、お休み。また明日」

深空の声をこれ以上聞くことはできず、通話を切った。

液晶画面が、時間の経過で光が消え、真っ黒になってしまっても、俺はその場から動けなかった。

「……逃げているのは、俺じゃないか」

自嘲気味につぶやき、何とか足を動かす。

ひたすら黙々と歩いていたが、ある分岐点へ来て、足を止めた。

ここで方向を変えれば、深空の家に着く。

だけど今、あいつに一体、何を言うことが出来るのだろう。

(ごめんな、深空。もう少し、時間をくれ)

重い足を何とか地面からひきはがし、俺は、家まで全速力でかけていった。


〈了〉  ネット初出 2016.5.2
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