その8 想いに惑う日


「はい、確かにあの高校が一番家から近いですが、僕は、この高校が良かったんですよ」

紀里の口数は、また少なくなっていった。心なしか、思いつめた表情をしている。

紀里と歩調を合わせながら歩き、やがて自宅に到着した。

まだ父さんと母さんは、仕事で戻ってきていなかった。

俺は、自室の扉を開けるやいなや、ちらかった服や教科書やらを速攻でベットの隅にまとめた。

「お邪魔します……思ってた以上に、生活感があふれてますね」

「どういう意味だ?」

「広希君は、もっとシンプルな人かと思ってました」

「いや、雑念ばっかりだけど」

スナック菓子の袋をあけ、台所から適当に持ってきたジュースを、紙コップに注ぐ。

紀里は申し訳程度に口にしたが、ミニテーブルにそれを置き、また沈黙してしまった。

俺は、紀里が正座していることに、妙に感心してしまった。足を崩して座る、という発想がないのだろうか。

こいつの姿勢は、本当に綺麗だ。最近の学生とは思えない。

まるで、常に誰かから見られているのを、心得ているみたいに、隙がない。

「広希君は、兄弟はいますか?」

俯いたまま投げかけられた質問に、菓子をつまみながら答える。

「いや、俺一人」

「そうなんですね。僕は、上に年の離れた兄が二人います。一番年が近い兄でも、八歳離れているんですよ――血は、半分しか繋がってないんですが」

菓子を咀嚼する音が、一瞬止まってしまった。

何気なさを装うつもりだったのだが、どうも上手くできそうにない。

俺は、深空から聞いた『噂』とやらを、少しずつ思い出しながら、耳を傾けた。

「僕と吉乃ちゃんは、書類上は母親が従兄弟同士ということになってますが、血は何の繋がりもないんです。全くの、他人です」

深空の声が、脳裏にこだました。

『紀里君は、お父さんが不倫相手に産ませた子供で、家族の反対を押し切って、無理やり引き取った……って聞いた』

自分の重い過去のことなのに、唇には笑みが浮かんでいる。

それでいて目は、今にも泣きそうだ。

「父は婿養子なんです。傾きかけた会社を立て直すために、先代の社長から直々に指名されて、社長令嬢と結婚し、社長になったそうです。父は当時、社内で付き合っていた女性がいたそうですが、若い頃からさんざん世話になった先代社長の頼みを断れなかった。先代社長も父に大事な人がいると、知らなかったそうなんです。後からそのことを知った先代社長は――祖父は、かなり後悔したそうですよ」

紀里の家は、食品メーカーだ。確か、漬物や干物などの加工食品を主に扱っていると聞いたことがある。

パートを含めた従業員を数百人は雇っているから、この田舎では存在感のある企業だと言っていいだろう。

「……一体、誰から聞いたんだ?」

「詳しく教えてくれたのは、亡くなる前の、祖父が初めてですね。中学生の時だったかな? それまでは、一方的に父を恨み続けていましたが、病床の祖父に『父さんを許してやってくれ。恨むなら儂だけにしろ』と言われました。その後は、誰を憎めばいいのか、わからなくなってしまった」

紀里は、父とかつての恋人がひそかに再会し、あやまちの結果自分が生まれたこと。

そして父と祖父とが相談した結果、紀里を引き取って育てることになったと、淡々と説明した。

それは一見、罪滅ぼしなのかもしれない。だが、巻きこまれた人間がいる。

紀里の、育ての母にさせられた女性と、兄と呼ばれる羽目になった二人の子の心中は、どうだったんだ。

「表向きは、天涯孤独の父の親戚の孤児を引き取ったことになってるんですが、僕は本当は婚外子なんです。地元では有名ですが、公然の秘密ってやつで、誰も表だって言いません。けど人の口に戸は建てられませんから、大人達は裏口を言って、子供はその雰囲気を感じ取って、僕をさけていました。唯一の例外が、吉乃ちゃんでした」

吉乃の名前が出た時、紀里の表情がわずかにやわらいだ。

「建前上は親戚だったんですが、幼い頃は、あまり彼女と交流はありませんでした。保育園は別々だったんですが、小学校で一緒になって、彼女は僕によく話しかけてくれた。最初は戸惑いましたけど、でも嬉しかったですね。その時はもう、僕は普通の子供じゃないって、理解してましたから。母や兄の顔色を毎日伺っていました。何でもないように接してくれる吉乃ちゃんの存在が、本当にありがたかった」

そうか、吉乃は気が強くて、ともすれば少々がさつな女の子に見えるけど、紀里にとっては救いの存在だったのか。

あの迷惑なくらいのにぎやかさが、眩しかったのだろう。

「だから、一方的に婚約しよう、って言ったんですよ」

昔の自分が可笑しいのか、くすくす笑う紀里に、俺はそっと聞いた。

「その時は何歳だったんだ? あと、婚約の意味をわかってたのか?」

「小学校二年生だったと思います。婚約の意味は……僕はわかってましたが、吉乃ちゃんはどうだったのかな? 簡単に『いいわよ』って言ったから、本気にしてなかったと思いますよ」

それから、紀里は大切な思い出を紡ぐように、話を続けた。

吉乃のおかげで、家では相変わらずだが、外では人と打ち解けれるようになったこと。

放課後にクラスの奴らと、公園で遊べる自分に感動したこと。吉乃の母さんの目を盗んで、吉乃の家に遊びにいったこと――

ただ俯いているだけだった、暗い世界に、ほんの一筋の光明が差し込んで。

最初はわずかな明かりだったのに、だんだんと世界が開けていって。

あまり勘のよくない俺にも、ひとつだけわかった。

紀里にとって、吉乃は、本当に特別な女の子だったんだ。だけど――

再び俺は、深空の話を思い起こした。

『確か、中学生になる直前に事件があったんだって。それから紀里君は吉乃ちゃんから、離れたみたい。吉乃ちゃんもしばらくは、紀里君に話しかけられなかったんだって』

『事件って、どんな?』

ここで、深空は俯いてしまった。

『噂に尾ひれがついて、本当にひどいことになってるの。私も、何が真実なのか、わからない――でも、紀里君は誰かを傷つけるようなことは絶対しない。それだけはわかる』

「もともとは、事故だったんです」

「え?」

「僕が、吉乃ちゃんのファーストキスを貰ったことです」

「……何があったんだ?」

俺はわずかに躊躇した。これ以上、聞いてもいいのだろうか。

だが、紀里はここまで喋ったんだ。吐きだしたいのだ。それは、俺に聞いてほしいからだ。

じゃあ俺も、聞く覚悟を固めないといけない。

「小学校六年生の……冬だったかな。月に一度ある、大掃除の時間でした。吉乃ちゃんは、普段なら誰も拭かない棚のほこりとりをしていて、僕は彼女が乗っていた椅子を支えていました。この頃になると、クラスの皆は僕達をカップルとか夫婦とか言って、ひやかしていました。ちょうどその時も、誰かが吉乃ちゃんをからかって、吉乃ちゃんがそれに反応して怒って、その拍子に……」

なるほど、足元がふらついて、倒れてしまったのか。

「漫画みたいな、偶然の出来事でした。二人して倒れたときに、唇と唇がぶつかっちゃったんですからね」

これだけ聞けば、ほほえましい事故だな、という感想で終わる。

だが問題は、ここからなのだ。

紀里の表情が、目に見えて強張った。

「その場にいた誰かが、『抱きしめあってキスしたら子供が出来るぞー』って、囃したてたんですよ」

ああ、小学生男子が好んで言いそうな冗談だな。

「直後に、動揺していた吉乃ちゃんが、泣きだしてしまいました。僕は、僕とキスしたことがそんなに嫌だったのかと思って傷ついて、何も言えなかった。でも、彼女が本当に不安だったのは、そこじゃなかったんです」

純粋さは、人による。小学校高学年ともなると、保健体育の知識にめっぽう強い奴も出てくるが、そんなのにまるで興味を示さない奴もいて当然だ。

当時の吉乃は、後者だったのだ。

「吉乃ちゃんは、家に帰って、子供が出来たらどうしようって、お母さんに泣きながら相談したそうです。その時、僕の名前を出した。それが、僕の母に直接伝わってしまった。」

子供の勘違いが、親の勘違いになった。紀里が苛烈に責められたのは、想像に難くない。

紀里の出自が出自だ。勝手に推察した結論が、真実だと断定されてしまったあげく、紀里の家族の感情に火を付けたのだろう。

紀里は目を閉じ、黙り込んでしまった。その数秒が俺には、耐えがたい重さだった。

「……誤解がとけるまでに、三日かかりました。その間は部屋から出してもらえず、学校にも行けませんでした」

決して短くない時間だ。三日間もの間、紀里は誤解し怒り狂う大人達に囲まれた中で、針のむしろになっていたというのか。

こんなにも真相の発覚が遅れたのは――想像するしかないが、吉乃の家族が、吉乃に深く追求するのを、躊躇したからだろう。

娘が、計り知れないほどの傷を、同級生から負わされたのかもしれないのだ。簡単に聞きだせることではない、と思って当然だ。

だけど娘への気遣いが、結果的に紀里を苦しめることになったのだ。

『噂では、紀里君が女の子にいたずらして、妊娠させたってことになってる……本当に、ひどすぎる。一体誰が、こんなこと言いだしたの?』

紀里は、額に手をあてた。俺は、無言で箱ティッシュを差し出す。

「すみません……どうしても、平静になれない」

紀里は、とうとう崩れてしまった。テーブルに突っ伏して、顔を腕に押しつけ、嗚咽を必死でこらえている。

「泣け。ティッシュなら大量にある」

くそう、こんな時にこんなことしか言えない自分が恥ずかしい。

俺は立ち上がって、ジュースの代わりに台所からお茶を持ってきった。紀里は新しく注いだそれを飲むと、少し落ち着いたようだ。
 
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