その8 想いに惑う日


深空はもう、葛藤なんてしてないふうに話しかけてきてくれる。

そのせいか、泣きじゃくった深空を、突き放した以前の時に、戻ったんじゃないかと思ってしまう。

実際は、そんなわけがない。俺は、決着をつけるべきなのだ。

「してねえよ。お前は、真面目すぎなんだ」

本来こいつと俺は、電車の時間がかぶらないはずなのだ。

俺の家の最寄駅から、学校の最寄り駅まで、登校時間に間に合う電車は計五本出ているのだが、深空はいつも、俺が普段乗る電車より一本早いのに乗っている。

でも最近、一緒の電車に乗ることが増えてきた。やっぱり、勉強で疲れているんだろうか。

「あんまり、思いつめるなよ。まだまだ、時間はあるんだからな」

「うん……ありがと、広希」

俺は、そっぽを向く。

深空がいる文系のクラスは、一応は進学を目指すクラスだ(ただし生徒の偏差値は、紀里がいるクラスより劣る)。

深空は、吉乃の情報によれば、地元の国立を目指しているそうだ。そして、俺はまったく自分の将来に目途をつけていない。

はあ、世界っていうのは、雑多な悩み事で溢れてるんだなあ。

そう思いながら、自分の下駄箱に手を伸ばした時だった。

「……あ?」

見覚えのない白い紙切れが入っていて、まじまじと凝視してしまう。

二つに折りたたまれたそれを開くと、やたらでかい字体でこう書いてあった。

『この学校には、女を堕胎させた奴がいる』

「はあ? なんだこりゃ?」

どういったことが目的の愉快犯なのか、俺はさっぱりだった。

気がついたら、深空が血相変えて隣に立っている。

「広希……! 広希のところにも、あったの?」

「ああ、お前の下駄箱にも入ってたのか?」

「ううん、私は違う。別のクラスメイトの下駄箱に入ってて、吃驚しちゃって……」

俺の手元を覗き込んで、深空は口を覆った。

「これって、まさか……でも、そんなこと」

どうやら深空は、俺よりも事態を理解しているらしい。一体何なんだ、と聞き返す前に、小さな悲鳴があがった。

朝の登校時、チャイムが鳴るまであと十分もないこの時、玄関は当然沢山の生徒でごった返している。

その中を、深空は悲鳴のした方へ人垣をかきわけていった。俺も、その背中を見失わないように後を追う。

声の発生源は、玄関から一番近い階段の踊り場だった。そこにうずくまっている生徒の姿を見て、俺は絶句する。

「紀里……?」

青ざめた顔で、ひたすら細かく震えていたのは、紀里だった。

まるで喉がつまったみたいに、ひどく荒い呼吸を繰り返している。

その紀里に、吉乃がすがりつくみたいにして、泣いていた。

「しっかりしてよ、紀里!!」

俺を含め、その場にいた誰もが、緊迫した空気に完全に飲みこまれ、声すら出せないありさまだった。

二人の近くに、白い紙切れが落ちている。

書かれた黒い文字が、俺の目に強く飛び込んできた。

『人殺し』

犯人の悪意に、くらりとめまいを感じる。

いたずらなんて、軽い言葉じゃ不適切だ。誰かの心を、確実に害するためにしかけたことだ。

(もしかして……あいつが関わってるのか?)

数日前、紀里に絡んできた他校の生徒の表情を思い出す。

が、犯人を推理している場合でも、怒りを覚えている場合でもないな。

俺はとりあえず、ぐったりした紀里に歩み寄って、何とかその体を持ちあげた。

うーん、身長差はそれなりにあるとはいえ、一人の人間を持ち上げるのはけっこう堪えるな。

紀里は、俺を認識する余裕もないらしい。

時々うわ言を言っているような気がするが、俺にはよくわからない。

ただ、弱っているこいつを、早く保健室まで運んでやらなくちゃいけないのは確かだ。

「紀里……紀里……」

後をついてくる吉乃が、壊れたように名前を繰り返している。それを引き留める深空の声がした。

俺は何とか自力で、紀里を保健室まで運んだ。

動揺したままの吉乃と一緒に後をついてきた深空が、俺の通学鞄を抱えている。

保健師の登藤(とうどう)先生は、突然のことに目を丸くしていたけれど、手早くベットの用意をしてくれた。

まだぐったりしたままの紀里を何とか寝かせると、ふうと大きなため息をついてしまう。

「三年生ね。どうしたのかな? 貧血かしら?」

髪をかき上げながら、登藤先生は俺に尋ねた。

いや、よくわからないんです。朝来たら、こいつが玄関でうずくまって、過呼吸気味になってて」

「そうなのね……かなり大きなストレスがかかったのかも。今は落ちついて眠っているようだし、しばらく様子をみましょう」

そう俺たちが会話している間に、吉乃が紀里の元へふらふらと近づいてきた。

そしておもむろに、紀里の手を、ぎゅうっと両手で握り締め、抱きしめるように胸の前に持っていった。

何かに祈るような、すがるようなその行動に、俺は目を奪われた。

その時ちょうど、予鈴のチャイムが鳴る。

あと少しすれば、各教室へ担任の先生がやってくる。かわりばえのない、学校生活の一日の始まりだ。

俺が考えあぐねているうちに、深空がそっと吉乃の肩に手を置いた。

「吉乃ちゃん、教室へ行こう?」

「……嫌」

吉乃は首をふって、ますます紀里の手を強く握った。消え入りそうな、拒絶の声。

普段の、豪快とも言える態度をとる吉乃とは、まるで別人のようだ。

「紀里君は、今眠っているから、休み時間にまた様子を見に来よう? 先生もいるから、大丈夫だよ」

深空が優しく言って聞かせ続けたが、それでも吉乃が重い腰をあげるまで、十分はかかってしまった。

藤堂先生が、あらかじめ内線で担任に連絡してくれたおかげで、俺たち三人は怒られることはなかった。

そのまま上の空で授業を受け、あっという間に昼の時間になってしまった。

そういえば今朝の騒動について、担任は特にコメントをすることはなかったな。

クラスの奴も、噂をしているのは何人かいたみたいだが、話がこれといって発展した様子はない(そしてこれが面白いことに、俺に詳細を聞きにくる奴はいなかった。気にしてるそぶりをする奴はいたけどな)。

昼休み、俺は眠気を覚えつつも、深空のところへ様子を見に行った。

深空のクラスの入り口付近まで来た時、たまたま廊下に出ていた深空と、鉢合わせした。

「広希」

深空は俺を認めるやいなや、すぐかけよってくる。

「おい、内履きをぱたぱたさせるな。幼く見えるぞ」

深空は、不服そうに頬を膨らませた。

「広希が大きすぎるだけだもん」

「身長の話じゃないぞ。振舞い方の問題だ」

「んー……じゃあ気をつける」

いや、リスみたいに頬をふくらませて、睨みつけるみたいに言われても、説得力はないぞ。

「紀里の様子、あれから見にいったか?」

深空は、急にしおれた様子になった。

「うん、目は覚めたって。でも、何も喋ってくれないみたい……」

言い方から察するに、吉乃から聞いたんだろう。ということは、深空も遠慮して、紀里のところへは行ってないのか。

「じゃあ、保健室にいるままなんだな?」

「多分そうだと思うよ。クラスにも戻ってないし、おうちにも帰ってないみたい」

「そうか……」

俺は、ぽりぽりと後頭部を掻く。さて、どうしてやったものか。

(考えすぎかもしれないけど、あいつを家まで送ってやった方がいいのか……?)

危なっかしい状態の紀里を、一人にしておくには心配だ。

「なあ、深空は知っているのか?」

深空は、眉をひそめ、わずかに下を見たままだ。

「今朝のあの紙は、いったいどういう意味が……」

「ちょっと来て」

突然深空は、俺の制服の袖を引っ張った。どこかに場所を移したいらしい。俺はおとなしくついていった。

理科室等の特別教室しかない階まで来て、ようやく深空は足を止めた。

誰も周辺にいないのを確認してから、深空は口を開く。

「広希って、噂話はあまり好きじゃなかったよね?」

「好き嫌いという以前に、興味がないな」

「じゃあ、知らないんだね?」

俺は、数日前の紀里との会話を思い出した。

「……よくわからないけど、紀里の変な噂でも、あるのか?」

深空は、「私も断片的にしか聞いたことないの」と前置きし、重い口を開いた――


**********


その日の放課後、生徒玄関付近で待っていると、白い顔の紀里がやってきた。

「よお、一緒に帰るか?」

手を挙げて話しかけるが、反応が薄い。かろうじて、紀里は頬笑み返した。

疲れきって、何の動作をするにも相当なエネルギーがいるみたいだ。

「ひとりにしてくれませんか?」

「そう言うなって。少しくらいいいだろ?」

紀里は、顔に笑みを貼り付けたまま、あきれたように言った。

「帰宅部の生徒が全員下校した時間を狙ったんですが、甘かったですね。夜まで教室に隠れていればよかったのかな」

「もしそうしたら、ゴミ箱の中まで探してやるから安心しろ」

「全く、あなたは根本的に、おせっかいですね」

下駄箱から靴を出すにしても、歩を進めるにしても、紀里の動きは普段より数拍も遅かった。

気長に構えるつもりで、紀里と一緒に学校を後にする。

余計なことは言わないし、聞かない。こいつが喋っても、喋らなくても、どっちでもいい。

桜がとっくに散り、やがてまぶしい緑の葉をつけるであろう木々を見上げながら、歩を進める。

傾き始めた西日が、地面に映る俺達の影を、濃くしていった。

駅近くまで来て、急に、紀里が方向を変えた。

何事かと思えば、少し離れた広場まできて、空いていたベンチに腰掛けた。

奇しくもそのベンチは、紀里が因縁をつけられた日に二人で座ったベンチだった。

俺もそっと、隣に腰かける。

紀里は背を丸め、片手で顔を覆うようにしていたが、ふいにぽつりと漏らした。

「帰りたく、ないんですよ」

必死で平静を保とうとしているようだった。こいつは、俺の前で意地を張っているんだ。

「今日のことは、家に連絡しないでほしいと、先生に言ったんです。先生は僕の家庭事情を少しは知っているので、同情してくれましたが、こんな気分で戻るのは……」

「じゃあ、俺の家へ来る?」

紀里は、一瞬動きをとめ、やや赤くなった目で俺をまじまじと見た。

「……何だよ?」

「……広希君は、深空さん以外とは親しくならないポリシーがあるんじゃ?」

「おいおい、勝手に勘違いするな。俺だって、友達くらいなら自分の部屋に呼んだことあるぞ……小学生の頃までだけどな」

最後の情報は、言わなくてよかったのかもしれない。

でも紀里が、今日初めて苦笑のようなものを浮かべた。複雑な気分だ。

「うらやましいです。僕は、たとえ友達を呼びたくても、許してくれなかったと思います」

重い吐露には、触れなかった。俺達は、俺の家へと向かって電車に揺られた。

俺の家の最寄り駅までは、だいたい十五分。それからまた、十五分くらい歩く。

ちなみに紀里の家は俺の家と反対方向にある。

電車で二十分揺られ、さらに自転車で二十分かかるらしい。

俺はいまさらながら、紀里の家の近くに、もうひとつ高校があることに気がついた。

しかも、紀里の家からは徒歩圏内だ。

「ちょっと待てよ。お前くらいの偏差値なら、この高校に来なくても、もっと近くに進学校があるだろ?」
 
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