その8 想いに惑う日
「なるほど……何と言いますか、広希(ひろき)君の心の中は、複雑ですね。僕でしたら、言い方は下品になってしまいますが、そんなふうにすがってこられたら、深空(みそら)さんに即座にとびつくと思いますが」
そう評した紀里(のりさと)は、溶けかかっているシェイクを再び飲み始めた。こいつ、食べている時でも背筋はずっと伸びているし、肘もつかないんだな、と俺は妙なところで感心してしまった。
そろそろ黄金週間も間近という、四月下旬。浮かれた季節の春は過ぎ、熱くて心が重い高校三年の夏が、何となくすぐ傍にやってくる頃。
俺は紀里と一緒に、高校から一番近いファストフード店で、話しこんでいた。
いや、話していたのは、主に俺の方だな。どうにもならない心のもやもやを、何とか貧困な語彙をもって、紀里に説明したところだ。
本当は、誰にもこんなことを言いたくなかった。なのに、悩みの渦は決壊してしまい、どうにも抑えきれなくなって、紀里にこうして無様な姿をさらしているわけだ。
たぶん、相談相手をこいつにしたのは、何日か前に胸倉をつかまれて一喝されたのが原因だろう。
いつも飄々と笑みを絶やさない印象の強かった紀里が、あんな目をするなんて、思いもよらなかったのだ。
あの時の紀里は、確実に怒っていた。そして、吉乃(よしの)も怒っているだろう。
――俺は、最も身近で大事な女の子を、傷つけてしまったのだから。
「込み入ったことを聞きますが、広希君は女の子が苦手なわけでは、ないんですね」
「ああ、違う」
「もっと込み入ったことを聞きますが、女の子よりも、男の子の方がいいというのは……」
「なんだそりゃ。確かに同性同士の恋愛しかしない奴もいるだろうけど、俺はないぞ」
やや刺のある返事をすると、紀里が頭をさげる。
「すみません、度の過ぎた冗談でした。失礼しました」
愉快そうに見えるのは気のせいか、と目で訴えてみる。俺の思いに気がつかない紀里は、うーんと片手を顎に添え、腕を組んだ。
「さて、僕なりにまとめてみますと……要するに、『恋人』になるよりも、『幼馴染み』であり続けたいんですね。深空さんとは正反対の選択を、あなたはとった。理由は、漠然とした恐怖」
他人の言葉で解説される、俺の心の問題は、全然大したことがないみたいに聞える。当の本人は、泥沼にはまり込んで八方ふさがりだというのに、何とも不思議だ。
紀里によって、俺の感情が、店頭に並ぶケーキのように、綺麗に陳列されていく。
「恐怖というのもまた、つかみどころがないですね。『恋人』になることによって、『幼馴染み』であった時には成立していたものが、消えてしまう、と。それが怖い、と」
「……そういうこと、なんだろうな」
「おや、広希君、まるで他人行儀な返事ですね?」
「他人行儀にもなるぜ。俺だって、自分で自分が、よくわからないんだ」
恋愛感情は、たぶんある。いや、あると断言できる。
俺は深空を、特別な女の子だと思っている。
他の男があいつに近づいてきたら、嫉妬するし、離れるように仕向けると思う。
馬鹿な話をして笑いあいたい。俺だけにその笑顔を向けていてほしいし、抱き締めて深空のやわらかさを堪能したいし、ついでに髪の匂いもかぎたいし、もちろん許されるなら、キスだってしてみたいし、それにそれ以上のこと、も――
「……っ」
だんだん暴走していく空想におぞましさを感じ、思わずコーラの入った紙カップを強く握ってしまった。
半分以下になっていた中身が、ちょっと飛び出す。溶けた氷のせいで薄くなったコーラが、手を濡らした。
「……広希君、顔が青いですよ。今日は、この辺にしておきましょうか」
差し出されたタオルハンカチが、命綱に見えてしまった。俺は、粛々とそれを受け取る。
「……悪い。話につきあわせて。結局収穫はなかったな」
「そんなことも、ないと思いますけれど。何も解決しなくても、言葉にするだけで少しは目の前が開けてきたり、心の負担が軽くなる、ということはありますよ」
せめてそうだと、いいんだけれどな。
二人してそれぞれトレーを持ち、腰を浮かしかけたその時。
「あっれーっ? そこにいるのは伸城じゃんかー」
ものすごく妙なイントネーションのついた、男子生徒の声が耳に届いた。声のした方を向く前に、紀里の隣に、別の高校の制服を着た見知らぬ生徒が現れる。
俺は、見てしまった――紀里の表情が、一瞬だけ強張ったことを。
いつも飄々としている(悪い言い方をすれば、どことなくヘラヘラしている)紀里が、大いに動揺している。その事実に、俺は不躾に紀里に近づく男子生徒を止めることも忘れてしまった。
「……お久しぶりですね。周道(かねみち)君」
紀里は小声で、男子生徒を見ずに吐き捨てる。
周道と呼ばれた奴は、喉の奥で笑った。
不愉快な響きだ。相手を嘲笑する意図が満ち満ちている。俺は眉をしかめた。
「伸城、その反応は薄情だなあ。中学校卒業以来だっていうのにさ」
「そう言われても、周道君と僕とじゃあ、話すこともないでしょう」
全身で拒絶を示す紀里だったが、周道とらやは引き下がろうとしない。
むしろ、嫌悪感をこれでもかと垂れ流す紀里を、ますます面白がっているようにすら見える。
こいつを止めるタイミングを見計らっていた俺は、ふと気がついた――トレーを持ってない方の紀里の手が、細かく震えていることに。
(………なんだ?)
ほぼ同時に、周道が、俺に視線をよこして、またすぐに紀里を見る。
そして、紀里の耳元で、奴はゆっくりと喋った。
「相手が男なら、妊娠しないし、安心だよなあ?」
俺には、全く意図のつかめない発言だったが――紀里が、火花がはじけたように敵意をむき出しにした。
背中に、一瞬にして緊張が走る。
「僕だけを侮辱するのは構いませんが、友達を巻きこむのは止めてください」
「あぁ? お前に友達なんているのか? 妄想じゃねえのか?」
怒りに燃え上がる紀里の頬が、徐々に血の気を失っていく。
やめろ、紀里――俺は心の中で叫ぶ。
自制が限界突破してしまったら、そこでお前の負けだ。
俺はない知恵を絞り、集中力を総動員して考えた。この場の空気が、がらりと変わる方法を。
刹那の判断で、俺の右手はすばやく動き、水っぽくなったコーラを目の前の人間に向かって勢いよくぶちまけた。
そう、目の前の、二人の人間に。
「……おい、何すんだてめえ!」
周道とやらが、俺に怒りをぶつけてくるのは想定内だ。
だが今の大声で、店員やら客やらが、こっちに注目した。これで人の目ができた。
「帰るぞ、紀里」
俺は、強いて淡々と、呆然と濡れた髪に手を当てている紀里へ話しかける。
紀里は、まるでたった今俺がいるのに気がついたような、呆けた表情を向けてきた。
痛々しいぞ。迷子みたいな顔するなんて。そんなの、いつものお前じゃないだろ。
「俺は、早く帰りたいんだよ。じゃあ、そういうことで。また後日に」
その後日なんて永久に来るわけがないのだが、俺は周道を睨みながら言い、紀里を引っ張って店を後にした。
何というか、周道が紀里と同じくらいの身長(つまり、俺より低いのだ)で、助かったかもしれない。
この身長差と、俺の持つ『妙な威圧感』のおかげで、周道の勢いをくじけたのは確かだろう。
結局奴は、俺たちを追いかけてくることはなかった。
俺はただ、紀里の腕を引っ張り、黙々と駅へ向かって歩く。
後ろをついてくる紀里も、何も言わない。
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このまま、紀里を置いて帰ることはできないなと思ったので、駅から少し離れた広場のベンチに、俺たちは腰かけた。
斜めに差し込んでくる夕日が、目に痛い。
紀里はうつむいたまま、何も言わない。唇が固く結ばれている横顔に、まだ緊張がとけてないのだと知る。
一体、なんだったんだよ、あいつは。でも、こいつにかけるべき言葉は、今は決まってる。
「悪かった。あんなことして。もうちょっと考えて、行動すればよかったな」
そうだ、今は、探る必要はない。俺の乱暴なやり方を、とりあえず謝らないといけない。
「あんな奴に、いきなり因縁つけられるなんてな。野良犬にでも噛まれたって、思っとけよ。とんだ災難だったな、紀里」
紀里は、は、と小さく息を吐いた。心の乱れを必死で殺そうとしているようだ。
「……ひとつ、聞いてもいいですか?」
「ん? 何だ?」
俺は、さりげなさを装って紀里を見た。紀里は俺と目を合わせず、コンクリで舗装された地面を睨みつけている。
「前々から気になってはいたんですが――広希君は、どこまで知ってるんですか?」
語尾がわずかに震えた疑問。
「知ってる? 何を?」
紀里は、まるで幽霊が存在しているかを確かめるようなそぶりで、こっちを見た。
「わざと、知らない振りをしているわけでは、ないんですか?」
「はあ? 何をだよ?」
「僕と……いえ、僕に関する噂について、です」
「ふうん、噂ねえ」
全く自慢にはならないのだが、俺のそのへんの情報収集能力は、ひどいものだ。
自分から集めようとする気すらしないし、噂話が好きな知り合いがいるわけでもない。
だから、探るように俺の目を見てくる紀里に、首をかしげるしかなかった。
(なんか、こいつがすごく緊張していることだけは、よく伝わってくるんだが……)
やがて紀里は、またコンクリの地面を見た。俺が、とぼけているわけではなく、狼狽していることを理解したのだろう。
「すみません、失礼しました」
そしておもむろに腕時計を確認し、紀里は立ち上がった。ちょうど、電車の時間なのだろう。
だが、俺と紀里が乗る電車は、反対方向だ。ここで、俺たちは別れることになる。
「じゃあな。気をつけて帰れよ」
どうにも言葉がでなくて、変わりばえしない挨拶をするしかなかった。自分自身の不器用さに悶絶しそうだ。
紀里は、ふと微笑んだ。その表情を、なんと形容するべきだろう。
探られないことに安堵しているのか、気の利かない俺に呆れかえっているのか。
案外、すべてなのかもしれない。
「本当は、僕の口から説明した方がいいんでしょうけれど、平常心を保てる気がしないんです。これ以上、みっともないところを、あなたに見られたくないんですよ」
「別に、お前が嫌なことなら、言わなくていいぜ」
「……でも、秘密にし続けるのは、逃げていることになる。いつまでも甘えるわけには、いかないでしょうね」
前を向いたまま、紀里は続けてこう言った。
「僕は、あなたを友達だと、思っているんですから」
そのまま紀里は、駅のホームへと歩いていく。
夕日の逆光で、真っ黒に縁取られた紀里の後ろ姿から、俺は目を離せなかった。
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その数日後、俺は自分が甘かったと、思い知らされたのだった。
(うーん、心の整理がついてないっていうのにな……)
俺は、隣を歩いている深空(みそら)を横目で見た。遅くまで受験勉強をしていたらしく、あくびをしている。
全く、四月からエンジン全開じゃ、精神的に持たないぞ。
「広希は、ちゃんと勉強してる?」