幕間Ⅱ 彼女の想うこと


「本当です、吉乃ちゃん。それにあの時、一番最初に傷ついたのは僕じゃなくて、吉乃ちゃんだったじゃないですか」

あいつはそう言った。嫌味でもなく、恨みをこめるでもなく、穏やかに微笑みながら。

私にはそれが信じられなかった。いっそ、なじってくれたほうが楽なのに。

私を非難しないで、静かな目でじっと見つめた後、あいつは去っていった。

あいつの目に浮かんだ感情が、脳裏にいつまでも残っていて、私はその場からしばらく動けなかった。

あれは、すべてを諦めた目だ。彼は自分自身を殺してしまうことに慣れているのだ。

昔からそうだった。あいつは、自分の置かれた立場を悲しいくらい自覚して、生き残る為にあらゆる計算をし、はじきだされた答えの通りにふるまっていた。

小さい頃の私が、あいつの心の複雑さを、そこまで見抜いていたわけではない。

けれど、生気の抜けた瞳が痛々しくて、声をかけずにいられなかったのは確かなのだ。

それなのに。

素直な笑みを取り戻しつつあった紀里を、元に戻してしまったのは、私のせいだ。

(今日も、何も言えなかった……)

少し冷たい風がふきつけてきた中を、とぼとぼと教室まで戻る。


******


その翌朝、偶然にも深空と広希君が玄関口にいるところを目撃した。

まさか、私の憶測は杞憂で、二人はちゃんと仲直りをしたのだろうか、と思いつつ、さりげなく声をかける。

「深空、広希君、おはよー」

「おはよう、吉乃ちゃん」

「おう、須賀、はよ」

深空はいつものようにかわいらしく、広希君はいつものように面倒くさそうに、挨拶を返してくれた。私はもう少し、探りを入れてみることにした。

「あんたたち、相変わらず仲いいわねー。今日も一緒に登校?」

深空が、見落としてしまいそうなくらいの一瞬だけ、動きを止めた。

「……ううん、今日は偶然だったの。私の方が、寝坊しちゃって」

てへへ、と照れ笑いをしつつ、下駄箱へ手を伸ばす。広希君はというと、何もコメントせず、すたすたと己の下駄箱の前へ向かっていった。

ふうむ、これはどうやら、状況に変わりなし、か。

それにしても、いつもふわふわしていた深空が、こんなに落ち込んでしまうだなんて、考えられない。

やっぱり一度、広希君のことはシメたほうがいいかも。などと物騒なことを考えながら、私は深空と一緒に教室へと足を運んだ。

視界の端で、広希君がこっちを見ているのがわかった。

全く、何か言いたいことがあるんなら、堂々と話かけなさいよね。あんた一応男でしょ!


*******


「男だったら堂々と話かけなさいっ!!」

「はあ、いきなり何の話だ……って、空手チョップしてくんな!! お前はそれでも女か!!」

「女よ! 女だからこそ、情けない男を征伐してやろうっていうのよ!」

「全然意味わからねえ。何のことだよ?」

ここまで私が声を張り上げているというのに、広希君は頭に手を当ててため息をついただけだった。

しかもあくびをかみ殺しているところからして、どうやら寝不足らしい。

そういえば、彼は睡眠時間が短いと体が持たない体質だって、深空が言ってたっけ。

だけど、彼の貴重な昼休み(つまり昼寝の時間)を奪ってまでも、こっちには用件があるのだ。

「意味がわからない? なるほど、本気にならないとダメみたいね」

指の関節を鳴らすような仕草をすると、広希君は今度こそ顔をひきつらせた。

「おいおい、冗談きついぞ! っていうか伸城、笑ってないでこいつを説得してくれ」

広希君は、側で私たちのやりとりを見守っていた紀里へ、助け舟を求めた。

紀里は笑んだまま、どうしようかと首をかしげる。

「うーん、そうですね。このままだと、僕の出る幕はないかなあと思ってたんですが」

「いや、校内暴力事件が起きる前に、須賀をどうにかしてくれよ」

「いえ、そんな大それたこと、僕にはできませんよ」

紀里のその言い方が、妙に気になった。

「ちょっとそれ、どういう意味よ?」

「吉乃ちゃんはかわいくて最強だ、という意味ですよ」

「は? さりげなく失礼なこと言ってない?」

だが私の疑問を無視し、紀里は広希君の前へ歩み寄った。

「時間がないので単刀直入に本題に入ります。広希君は、最近深空さんと話してますか?」

広希君は目を見開き、気まずそうに顔をそらした。

「関係、ないだろ」

「ということは、会話はないとみなしていいんですね。気づいてますか? 深空さん、以前のような元気がなくなってます。たぶんあなたが原因です」

広希君は、何かをこらえるように手を握りしめていた。気づいているんだ、彼は。

当たり前か、長い間近くにいた女の子がどうなってるか、理解していないわけがないんだ。

「お節介なのを重々承知で言います。せめてもう一度、深空さんと話をしてく……」

「言いたいことはそれだけかよ、なら俺は、教室に戻るぜ」

広希君は、紀里の目を見なかった。短く吐き捨てて、扉の向こうの階段へ引き返そうとする。

歩み去る彼の背中へ、私は声を張り上げた。

「ちょっと、待ちなさい!」

これはもう、誰に何と恨まれようが、本気でとっちめてやらなきゃ、と再び気合を入れた時。

紀里の左腕が、私の行く手をさえぎった。

「え……」

そこから先は、あまりにも早かった。

紀里は無言で広希君を追いかけ、彼の肩をつかむ。

何だよ、とでも言うように振り向いた広希君の体を、そのまま背後の扉に勢いよく押し付けた。

だあんと、大きな音を立てて扉が閉まる。

暴力沙汰は決して起こしたことのない紀里が、人を無理やり引きとめて押さえつけたというだけで、私は度肝を抜かれてしまった。

けれどさらに彼は、目を丸くした広希君の胸倉をつかみ、ぐいっと持ちあげる。

私は驚きで声をあげれなかったけれど、広希君は物理的な意味合いで声を出せないみたいだ。

「あなたがそこまで馬鹿だとは思いませんでした」

紀里は怒っていた。それは私に向けられたものではないのに、肩がすくんだ。

「関係ないとしらを切るつもりだったんですか? 深空さんを傷つける原因を作っているのは、どうみてもあなたなんです。あなたは彼女と向き合わないといけない。逃げないでください」

突然ドアに体を叩きつけられ、さらに怒られて茫然としていた広希君は、やがて泣きそうな顔になった。

男の子が、苦しみのあまり顔をゆがめるところなんて、初めて見た。

「よけいな、お世話だ……」

「ええ、そうでしょうね。それは重々承知の上で、文句を言わせてもらいます」

紀里は言葉を続けようとした。けど、広希君に思いっきり腕を引き剥がされて突き飛ばされ、その勢いで数歩あとずさる。

広希君の胸倉をつかんでいたほうの腕は、力をこめていた反動か、細かく震えていた。

「よけいなお世話だって言ってんだろ」

もう一度強い口調でくり返し、広希君は扉を乱暴に閉めた。階段を下る音が、私たちの耳に飛び込んでくる。

「やれやれ、失敗ですね」

ふう、と紀里が額に手をあて、わざとらしくため息をついた。

「ねえ、ちょっと乱暴じゃなかった? あんな風に、胸倉つかむなんて」

私は紀里の身を気遣いつつも、それを口に出すのは悔しくて、別の疑問を投げかけてしまう。

「別に、大したことじゃないでしょう。広希君の方が、僕より身長も高いですし体力もあるでしょうし、あんな風に胸倉つかまれても、ヒヨッコが何をやってるんだ、くらいにしか思ってない気がしますね」

平然と自分を評する紀里。だけど、そうだろうか。

私と同じで、広希君の方も、紀里の静かな激情に絶句していたのかも。

それにしても、紀里がこれだけ深空や広希君のことを気にかけているなんて、知らなかったな。案外、友達想いなのかもしれない。

と、ここで、授業の開始を告げるチャイムがなった。

「あちゃー、次の授業、現代文だ。五分前に座ってないと、怒るんだよなー、あの先生」

小言を言われる場面を想像して、ちょっと面倒くさいなと思いつつ、紀里と一緒に階段を駆け降りる。

「吉乃ちゃん、僕のせいで話をややこしくしてしまって、すみません」

足を進める最中、紀里がすまなさそうに言った。

「何言ってるの、あれくらいでよかったと思うわよ。かえって、薬になったんじゃない?それに、あんたがやってなかったら、私が代わりに殴りかかってたと思うし」

本心からの感想を言うと、紀里はくすくすと笑った。

「ふふ、吉乃ちゃん、あいかわらず優しいですね」

「別に、そういうのじゃないって。放っておけないって思っただけ」

でも、私が二人を気にかけるのは、単なる親切だけじゃないのだ。

それを知ったら、紀里は、どういう反応をするだろう。

「吉乃ちゃん、これからも、僕に手伝わせてください。僕は、どうしても二人を仲直りさせたいんです」

「それは、私も同じだけど。ていうか、いいの? あんた、もしかしていろいろ忙しいんじゃない? 受験勉強だって、私より遥かに大変だろうし」

何せ紀里は、進学クラスにいるのだ。それも、上位国立を狙えるような人間ばかりが集まった、特別なクラスに。

勉強に身を入れろと常々言われているだろうし、急かされ方は、他の生徒と比べ物にならないだろう。

「そんなものを優先させて、友達を放っておくなんて、僕にはできませんから」

それは本心なのだろう。けれど、本当にそれでいいのか。勉強をし続けて、成果を出し続けないと、紀里は――

今さらながら、紀里の好意を受け取ってもいいのかどうなのだろうか、と思ってしまう。

でも、そもそも最初にお願いをしたのは私なのに、今さら舞台から降りて関係ない人になれというのもおかしいだろう、と、あれこれ考えを巡らせていた私は。

自分の教室がある階の、階段のきざはしを、最後の最後で踏み外してしまった。

「きゃっ!」

短い悲鳴は、けれどすぐに止まった。しりもちをつくことはなかった。

後ろをあるいていた紀里が、私の背中を間一髪で支えてくれたのだ。

「吉乃ちゃん、大丈夫ですか?!」

「あ、ありが……」

礼を言おうとして、私は身をこわばらせた。紀里が、私に触れている。

背中に、肩に、紀里の温もりがふれていて、どうしたらいいかわからなくて、口から言葉が出てこない。

あの時以来だ。紀里が、しっかりと私に触れてくるのは。

私に再び話しかけてくるようになった紀里は、しつこくてうっとおしいことが多々あったけど――あまり、私に触れてこようとはしなかったのだ。

そのことに、今やっと気がついた。

紀里は、私が手すりにしっかりつかまったのを確認すると、さりげなく、けれどすばやく、私から手を離した。

「大丈夫ですか?」

「う、うん……」

私はのろのろと体勢を立て直す。言葉なく、私たちは立ちすくんだ。二人とも、口を開くのをためらっている。まるで、共犯者めいた関係だ。

言葉を誤れば、きっとすべてが崩れてしまう。

「吉乃ちゃん」

紀里が、滞った空気を溶かすような、優しい声でささやいた。

「深空ちゃんと広希君のことで何かあったら、すぐに僕に相談してくださいね。約束ですよ?」

「……わかった」

それだけ言うのが精いっぱいだった。私たちは、お互いの教室へと戻っていく。

一歩一歩、リノリウムの床に足音を刻むたび、鼓動まで速くなっていく気がした。

おかしい。再び私に話しかけるようになった紀里は、馬鹿みたいに陽気で、しつこくて、とにかく迷惑で、視界から消えてほしくて仕方がなかったはずなのに。

『ごめんね、吉乃ちゃん』


記憶の隅で、紀里の声が響く。

まだ声変わりがギリギリ来る前の、今よりも高い声。

勝手に涙が溢れそうになって、私は足を止めた。

「馬鹿、馬鹿……」

ねえ紀里、あんたはどうしてまた、私に話しかけてきたの?

一瞬でも奈落に突き落とした私に対して、『婚約解消の解消をして下さい』って笑顔で言えたのは、どうして?

私には、あんたの気持がわからない。

こんなにも、息をするのがつらいくらい胸が苦しいのは、あんたのせいだ。

ねえ、いっそなじってくれれば、楽なのに。

一度だけ深呼吸をして、私は前を見る。

考えなきゃ、深空のこと、広希君のこと――そして、紀里のことも。



私はもう、紀里から、逃げてはいけないのだろうから。



〈了〉  ネット初出 2012.7.23
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