幕間Ⅰ 彼が思うこと
この頃、僕の親しい人たちが、何だか妙なのだ。
そのことに気がついたのは、進級して二週間ほど経った頃だと思う。高校三年になった僕は、文系の進学クラスに組み込まれた。案の条、吉乃ちゃんと同じクラスではなかった。
そこは残念だけれど、同じ校内にはいるのだから、彼女を見守ることはできる。
吉乃ちゃんは今年も、深空さんと同じクラスらしい。
深空さんのことは、少しばかり知っている。吉乃ちゃんの親友で、よく笑う子だ。
吉乃ちゃんは、深空さんと話しているととても楽しそうなので、遠くでそれを見ている僕は、非常にうらやましくてならない。
いつだったか、冗談でこんなふうに話しかけたことがあった。
『いいなあ。深空さんは、吉乃ちゃんをひとりじめですねー』
必死で隠そうとしてきた欲望が、ひょんなことで表へ出てしまった瞬間だった。
だが彼女は、僕の焦りや嫉妬を知ってか知らずか、目をぱちくりとしばたたかせた。
『そんなことないよ? 紀里(のりさと)君だって、めげずに吉乃ちゃんに話しかけてるじゃん。傍から見てると、すごく楽しそうだよ』
『そうですか? 吉乃ちゃんは怒りっぱなしですけれど』
『そうかもしれないけど、そうとは限らないと思うよ? それに吉乃ちゃんは、紀里君が吉乃ちゃんを見守っていること、わかってると思うし』
僕は思わず言葉に詰まった。見守っている、だって?
僕が吉乃ちゃんを見つめている様は、深空さんの目にはそんな風に映ったのだろうか。だとしたら、それは大きな間違いだ。
深空さんがそんな風に僕のことをとらえているということは、彼女はかなり純真な子であることの立証かもしれない。
深空さんは、面白いくらいにすれたところがない。
のんびりしていて、世間慣れしてないところが多々見られるけれど、抜けているわけではなかった。
ただ、時折手を差し伸べてあげないといけないような、危なっかしさはあるけれど。
そんなところが、広希(ひろき)君が彼女を放っておけなくなる理由なのかもしれない。
広希君は、かなりわかりやすい人だ。
本人はそのつもりはないんだろうけど、いわゆる百面相で、考えていることがすぐ顔に出てしまうのだ。
口では面倒くさそうにしてても、気持ちは一肌脱いでやろうと準備をしている。そんな場面を、良く目にした。
そしてこれは僕の勘だけど――勘といっても、ほとんど当たりであることは間違いない――広希君と深空さんは、お互いのことが好きなのだ。
友達や幼なじみとしてではなくて、恋愛の対象として。
なのに、まったく近づこうとしないから、僕は不思議でならなかった。
目の前にある確かなものをつかみとろうとしないなんて、二人は一体何を考えているのだろう、と。
春が訪れてしばらく経ったある日、二人の絆が激変していることに気がついた。
何があったのか僕には知る由もないけれど、二人は明らかにぎくしゃくしていたのだ。
まさか、僕が知らない間(例えば春休みとか)に付き合い始めて、もう別れたのだろうか?
久しぶりに吉乃ちゃんの家を訪れたあの日から一カ月、僕は吉乃ちゃんと距離を置いていたのだ。
しかし新学期がやってきた今、改めて吉乃ちゃんとどう向き合わなければならないのかを考えなければならない。そう考えていた矢先に、気がついてしまったのだ。
広希君も深空さんも、表面上はいつも通りに見える。
けれど、広希君は深空さんと距離を詰めることに脅えていた。深空さんは、埋められない溝を嘆いて、迷子のような顔をしていた。
さあて、これは一体どういうことなのだろうか。
野次馬根性とも、おせっかいとも言えない気持ちがむくむくとわき起こり、僕は自分の問題をうっかり棚上げしそうになったほどだった。
なぜなら僕は、二人には幸せになってほしかったから。
――その願いは多分に、自分自身の私情が含まれているのだけれど。
******
「何ですか吉乃ちゃん、僕に用事って?」
放課後、僕は吉乃ちゃんに呼び出され、運動場の端にきていた。
ここは野球部やサッカー部の部室がある一角とは正反対の場所にあり、体育用具倉庫も近くにはないので、なかなか人が来ないのだ。
完全な二人きりになりたくないけど、都合の悪い話を聞かれたくない時には、うってつけの場所だ。
吉乃ちゃんは、今から何を言うか察せない僕をまるで非難するような目で、こちらを見る。
「あんただって、気づいてるでしょ?」
「何のことですか? そういえば、今日も吉乃ちゃんはかわいいですね」
「馬鹿なこと言ってないで、私の話を聞いて!」
「ええ、そうですね。深空さんたちのことですか?」
やはりそのことが本題だったようで、吉乃ちゃんはひとつため息をつく。
「そうなのよー。私一人じゃどうにかできる問題でもなさそうだし、だからといって誰彼かまわず知恵を借りようとしたら噂になっちゃうかもしれないし、残る選択肢は消去法であんたしかいなかったのよ。だから一緒に考えて!」
「何を、ですか?」
「決まってるじゃない。深空と広希君を仲直りさせる方法よ。あの二人、だいぶ前から両想いなのに、それに気がつかないままこうなっちゃうなんて、駄目よ!」
なるほど、吉乃ちゃんも、僕と同じで二人の幸せを望んでいたのだ。
と思うと同時に、二人はまだ付き合っていなかったことや、やはり無自覚な両方想いであることがわかった。
やはりあの二人は、いろいろとわかりやすいのだ。
「なるほど。吉乃ちゃん、よくわかりました。僕も出来る限り、協力させていただきますよ」
「本当? あ、ありがとうっ!」
吉乃ちゃんは前のめりになりそうなくらい、大げさに礼を言った。僕はそこに、齟齬を感じ取った。
今日は、いつもの吉乃ちゃんらしくない、どこか歯切れの悪い部分があるような。
「その……ごめんね。あんたにしか、こんなこと相談できないから」
と、吉乃ちゃんは突然うなだれ、もじもじし始める。
どうして、そんなに決まり悪そうにふるまっているのだろう。ほんの数瞬思案して、僕はあることに思い当った。
そうだ、まず謝罪を、真っ先に彼女に言うべきだったのに。
「吉乃ちゃん、先日は、いきなり家にお邪魔してすみませんでした――もう二度と、あそこには行かないって誓ったはずなんですが、吉乃ちゃんがだるそうなのを見ていると、いてもたってもいられなくて」
びくっと、吉乃ちゃんの肩が震え、大きく見開いた瞳が僕を見る。僕はなるだけ、やわらかく微笑んだ。
「元気になったのなら、僕はそれでいいんです。だから、気にやまないでくださいね」
「で、でも! 私のお母さんが、あんたに、ひどい態度をとったのは事実よ」
ざっと、風が二人の間を通り抜ける。
遠くで響く運動部の掛け声が、突然明瞭に聞こえてきて、またフェードアウトしていった。
「まさか吉乃ちゃん、それを気にしてたんですか?」
吉乃ちゃんの瞳が、ゆらいだ。そうか、これだったのか、彼女がいつもと違った理由は。
「僕は、気にしてないですから」
「でも……」
「本当です、吉乃ちゃん。それにあの時、一番最初に傷ついたのは僕じゃなくて、吉乃ちゃんだったじゃないですか」
吉乃ちゃんの息が、一瞬止まった。彼女は、昔のことを思い起こしているのだろう。
僕は内心舌打ちをした。吉乃ちゃんの心の負担を軽くするつもりで、僕が悪いのだということを強調したかったのに。これでは、意味がない。
これ以上言葉をつくしても、底なし沼にはまるだけだ。僕はもう一度だけ微笑むと、きびすを返してその場を後にした。
吉乃ちゃんは声をかけてこなかったし、追いかけてもこなかった。
そう、それでいいんだ。
*****
吉乃ちゃんに近づいてはいけないと思う一方で、吉乃ちゃんが欲しくして欲しくてたまらない自分がいる。
我慢ができなかった僕は、一度はたてた誓いを破り、ことあるごとに吉乃ちゃんにちょっかいを出すようになった。
最初、吉乃ちゃんは驚いていたけれど、僕が悪びれない様子を見て、だんだん反応をかえしてくれるようになった。
素直に嬉しかった。けれど、僕は都合の良すぎる夢を見ていたようだ。
僕が吉乃ちゃんに近づきすぎることは、許されないことなのだ。
吉乃ちゃんは本当に、優しいと思う。
かつて、あれだけ傷つけた僕と、喋ってくれるのだから。
昔から、彼女はそういう子だった。
けれどこれ以上、彼女の優しさに甘え続けてはいけない。
そう、別れの準備をしないといけないのだ。
けれどその前に、親しい人たちの仲直りのきっかけを、作ってあげたい。
僕が決して手に入れることのできなかった想いを、あの二人には、どうか、手にしてほしいから。
そうなれば僕は、吉乃ちゃんの前からきれいに消えることができるだろう。
そうだ、これは、僕の罪滅ぼしであり。
昇華するすべのない我儘を、葬る為の儀式なのだ。
〈了〉 ネット初出 2012.5.4