その7 君とすれ違う日
「あ、赤い花柄がプリントされてるガラスのコップなんだけど……」
「じゃあ、これだろ。目の前にあるじゃないか。何やってんだ」
「うわあっ、本当だ。やだ、どうして気がつかなかったんだろ」
「お前が焦ってどうするんだ。須賀は単なる風邪なんだろ? なら、寝りゃあ治る。さっさと水と薬持っていってやろうぜ」
そして深空はコップへと手を伸ばし――同じ行動をしていた俺の指先と、ぶつかってしまった。
二人とも光速より速く手を引っ込め、ものすごく気まずい沈黙が降りる。
俺の顔は赤くなったり、青ざめたりしていた。
深空の温もりに触れた瞬間を、どうでもいい日常の一コマとして処理できない。「わりいわりい」の一言が言えない。次の行動に移れない。
決定的だ。思わず手のひらで顔を覆う。
もうこれ以上、意識したくはないんだ、俺は。
「何してるんですか、二人とも?」
袋に入ったプリンを抱えた紀里がやってきた。大いに助かった。渡りに船だ。
俺の安堵もつゆしらず、紀里は盛大にため息をつく。
「吉乃ちゃんってば、僕の好意が気持ち悪いからって、全力で退けるんです。ひどいですよね。でもまあ、思ったよりも元気そうなので、安心しました。もしかしたら、今晩中に熱は下がるかもしれませんね」
プリンを冷蔵庫へしまいながら、紀里は安心したように目を細める。こいつ、本当に吉乃のこと心配してやってんだな。
冷蔵庫のドアを閉めた紀里は、俺を見て深空を見て、また俺を見た。
「どうしました?」
今がチャンスだ。これを逃したら、俺と深空をとりまく空気は固まったままだ。
「ああ、いや、薬ってどこに置いてあるんだろうなって、探してたんだ」
できるだけ自然さを装う。俺は優秀な役者に見えただろうか。
「ああ、それなら確か、広希君の真後ろの棚の、下から三番目の引き出しの真ん中あたりですよ」
「……え?」
俺と深空が絶句している傍ら、紀里は俺を押しのけて引き出しをあける。が、
「おや、場所移動してしまったんですね。まあ、それもそうですか……」
そう言って紀里は、踵を返し吉乃の部屋へ戻っていった。吉乃から直接聞くのがいいと判断したようだ。
いよいよ、俺の疑問は熱された気球のように膨れ上がるばかりだ。
「何なんだ、紀里の奴。他人の家なのに、あれこれ知ってるみたいだな」
独り言のつもりだったのだが、それを深空が拾った。
「吉乃ちゃんと紀里君は、昔よく遊んだらしいよ。吉乃ちゃんが、そう言ってた」
深空が息をのんで、慎重にこっちを見る。俺に無視されるかもしれないと、脅えているみたいだ。
「吉乃ちゃんの家へも、よく遊びに来たんだって。だから、薬が置いてある場所、知ってたのかもしれないね」
「ああ、そうかもな……」
そういや、俺も深空の家へは何度かお邪魔したけど、さすがに薬の在り処までは把握してなかったなあ。
ていうか、このことから察するに、紀里はだいぶ吉乃と親しかったんじゃ……。
ガチャ、と玄関の開く音がし、次いで女性の声が響く。
「吉乃、大丈夫ー?って、あら、お友達かしら?」
俺と深空はつれだって玄関へ行き、とりあえずお辞儀をした。
吉乃の母さんは息を乱していて、察するに仕事先からあわてて帰ってきたらしい。
「お邪魔してます。私、吉乃ちゃんのクラスメイトです。吉乃ちゃん、熱があるので、一人で帰るのは不安だろうなって思って、ついてきちゃいました。お騒がせしてすみません」
ぺこっと深空が頭を下げ、俺も言い募った。
「俺たち、もうこれで失礼します。あと、冷蔵庫にプリンがあるので、よかったら吉乃さんに渡して下さい」
吉乃の母さんは、あらあら、と困ったように首を振った。
「ごめんなさいね。そこまで気を使ってもらって。何なら、お茶でも飲んでく?」
「いえ、本当に俺たちはこれで。電車の関係もありますから」
「あらそう? なら仕方が……」
そこで、吉乃の母さんの言葉が止まった。彼女は、吉乃の部屋から現われた紀里の姿を、信じられないものを見る目で見ていた。
数秒の沈黙で、吉乃の母さんの表情は、細かく目まぐるしく変わった。
驚愕、動揺、かすかな苛立ち、戸惑い、そして――後ろめたそうな色。
最終的にはそれを全部押し殺し、しゃんと背を伸ばして紀里を見る。
「あら、紀里君、いたのね」
「お久しぶりです」
含むところのある穏やかな笑みを受けて、紀里は頭を下げた。
ずいぶん綺麗な、様になってる動作だ。何と言うか、育ちの違いとやらを実感する。
吉乃の母さんは、片方の口の端をひくひくさせながら、それでも無理に笑っていた。
「あなたも、吉乃のこと気遣ってくれたのね? ありがとう。どうかしら、久しぶりにお茶でも……」
「いえ、僕はもう帰ります。吉乃ちゃんも、思ったより元気そうで安心しました。それでもう、充分です」
紀里が靴を履いている間際、吉乃が赤い顔をして部屋から這い出てきた。
「吉乃、体調はどうなの? 大丈夫?」
「お母さん、無理して帰ってこなくてもよかったのに」
「そうは言ってもねえ。やっぱり、心配だもの」
と言いながら、吉乃の母さんは靴を履いている紀里から、何か言いたげな視線をそらさなかった。
吉乃は母親にすがりついて、自分へ振り向かせる。
「お母さん! 伸城君は、本当に私のこと心配してくれて……」
「では、お邪魔しました」
紀里の声は静かなはずだったのに、その場の全員が奴に注目した。
鞄を持って立ちあがり、改めて紀里は吉乃にそっと微笑みかけ、そして一礼して去っていった。
扉がしまり、やがてあいつの足音も聞こえなくなった頃。
「どうしてあの子を家にあげたの」
恐ろしく低い声で、吉乃の母さんが自分の娘を問い詰めた。
「お母さん!」
吉乃は悲鳴に近い叫びをあげ、負けじと自分の母親を睨みつける。
「伸城君は、私を心配してくれたのよ! そんな言い方ってないわ!」
「もう、あの子と関わるのはやめなさい」
「お母さん!」
それ以上、吉乃の母さんは聞く耳持たず、居間へと引っ込んでいってしまった。
俺と深空は、完全に帰るタイミングを失った形で、そこに立ちつくしていた。
*****
駅に向かう最中も、電車に揺られている最中も、家へ向かって歩いている最中も、俺と深空はほとんど無言だった。
俺は気まずさを意識の外に追いやる為、野次馬根性を後ろめたく思いつつも、吉乃と紀里の関係について思いを巡らせていた。
紀里は、吉乃の家のかつての薬の在り処を知っていた。ということは、それほど頻繁に吉乃の家へ出入りしていたということなんだろう。
けど、何かあったんだ――吉乃の母さんが、紀里をあれほど疎ましく思うほどの、何かが。
だけどこの件は、とてもじゃないが本人たちに聞けはしないだろうし、聞くつもりもない。
第一、完全に部外者の俺が首を突っ込んでどうするんだ。
と、つらつら考え事をしていたら、分岐点へ来た。深空と俺は、ここで別れる。
「じゃあな、気をつけて帰れよ」
なるだけ自然に、なるだけ目をあわさずに、そして動揺しているのを悟られないように。
そう注意して言った。手を振って、一歩踏み出したら。
それまで何も言わなかった深空が、俺の制服の袖をつかんだ。
「待って、広希」
続いて耳に飛び込んできたのは、立ち消えそうなかげろうの声。
振り向いた先、深空の頬に、透明な涙が流れている。
気がつかなかった。これは、ついさっき泣いたばかりの様子じゃない。こいつは静かに泣き続けていたんだ。
――ああ、気がつきたくなかった。
「広希……このまま帰るの、嫌だよ。私のこと、避けないで。お願い」
俺が何も言えずにいると、深空は、顔を俺の胸へ押し付けてきた。
俺は動揺のあまり、深空を空いた片手で抱きとめてしまう。小さな嗚咽が響く。
夕日がゆるやかに差し込む中、俺と深空は道中でひとつの影をつくっていた。
「ひろきっ……ひろき」
すがるように俺の名を呼ぶ。やめてくれ。深空。
震える幼なじみの肩を見ながら、俺の頭は白くなったり過去の映像を描いたり、目まぐるしく動いていた。
いつだろう。ほとんど同じ身長だったはずなのに、俺があっというまに大きくなったのは。
あの時深空は不公平だと文句を垂れ、それを聞いている俺は理不尽だなあと呆れていたっけ。
深空のシャンプーの香りが、鼻をくすぐる。
そう、深空は俺より小さい。いい臭いがするし、それにやわらかい。
抱きしめたら壊れそうで、でもぎゅうっと抱きつぶしてみたいって思ってしまう自分がいて――
俺は、沸き起こりかけた感情を全力で殺しにかかった。
違う。俺は大事にしたいものがあるんだ。俺に気づかせるな。
なら、深空を突き放せばいい。そして何食わぬ顔で帰ればいいのに、それができない。
「ひろき……」
顔を上げた深空が、俺の名前を呼んだ。それが、決定打となった。
「離れろ」
予想以上に冷めた声が出て、これには自分でも驚いた。内心焦りまくってる人間が出せるもんじゃねえだろ、この感情は。
「ひろ、き」
茫然と、俺の名を呼ぶ幼なじみ。
ずっと、自分でも気づかないくらい大事にして、失いたくなかった絆を作り上げた奴。
俺は、新しい関係性を、全力で拒否する。
「離れろって言ってんだろ」
片手で、泣いていた深空の肩を強く押した。
俺はそのまま踵を返し、自分の家へと急ぐ。
背中の向こうから、泣き声が聞こえてくるのは、きっと俺の幻想だろう。
深空、俺はお前の想いを、受け止めることはできない――したくないんだ。
この俺の選択は、お前には理解できないかもしれない。というか俺自身、よくわかっていない可能性がある。
過去を壊したくないから、今の変化を先送りにし、気づかないふりをし、否定する。
こんな俺は、卑怯だろうか。それとも、臆病なんだろうか。
けど、そんな俺にも、どうしようもなく確信してしまったことがある。
俺は、深空が好きだ。気が狂いそうなくらい、あいつを想ってしまっている。
「なんで、どうしてこうなっちまうんだよ……どうして、なんだ」
橙色の夕日が、俺の網膜を鮮やかに貫いた。
視界がたった一色に洗われていっても、一度生まれた迷いは、立ち消えてはくれなかった。
〈了〉 ネット初出 2011.11.20