その7 君とすれ違う日


「吉乃(よしの)ちゃん、やっぱり私ついていくよ。一人じゃ帰るの、大変でしょ?」

ホームルームも終わり、狭い玄関は憂鬱な授業から解放された生徒で賑わっている。

俺が漫然と人の波の中で漂っていたら、今はあまり顔を合わせたくないあいつの声が聞こえた。

「いいよ。大丈夫だから。それに、深空(みそら)と私は降りる駅が違うのに、そんなことしてもらえないよ」

「でも吉乃ちゃん、つらそうなのに……」

これだけ会話がはっきり聞き取れるということは、二人はわりかし近くにいるんだろう。

首をめぐらせてみると、案の定、俺の幼なじみの深空と、深空のクラスメイトの須賀(すが)吉乃は、塗装の剥がれかけた壁に体をあずけるようにして立っていた。

吉乃の顔はいつもより赤く染まっていて、両眼は焦点があいまいでとろんとしている。

はあ、と吉乃が目を閉じて息を吐く。ああなるほど、風邪ひいたんだな。

しかし何で、さっさと家に帰って大人しく寝ないんだろう。俺だったら、体調不良というチャンスを逃さずに、ベッドの上で眠りを貪るけどな。

「吉乃ちゃん、僕が送っていきますよ。さあ、早く帰りましょう」

二人の女子の間を割って、闖入者があらわれた。

伸城紀里(しんじょうのりさと)はいつも通り丁寧な言葉遣いで接しているが、そのくせ大胆にも吉乃の手をとって歩かせようとする。

「さわんないでよ、馬鹿っ」

吉乃は目をむいて紀里の手を振り払ったが、熱があるせいなのか、いつものような、上方漫才のごとき鋭い動きはなかった。

「あんたなんかに頼らないわよ。私は一人で帰るの」

熱で体もだるいだろうに、強気に振舞う吉乃を見て、紀里は悲しそうに眉を下げる。

「どうしてなんですか? 恩着せがましいことをするつもりはないんです。ただ僕は、吉乃ちゃんが心配で……それに、吉乃ちゃんと少しでも一緒にいたいんですよ」

紀里が、主人に構って欲しがっている子犬よりも切実な表情で吉乃へと語りかける光景は、珍しいものじゃない。

奴がしょげている姿は、なかなか胸にせまるものがある。

しかし吉乃は、紀里のそんな思いを、いつもどおりの態度でスマッシュのように跳ね返した。

「恩着せがましいことをするつもりはない? それは百歩譲って言葉通りの意味で受け取ってあげるにしても、さりげなく自分の下心を付け加えるんじゃないわよ!」

「……残念です。今回はうまくいくと思ったのに」

おい紀里、そこで舌打ちなんかするなよ。だから俺は、お前に完全に同情できないんだよなあ。

その後三人は、一緒に帰るだの帰らないだの、不毛なやりとりを繰り返していた。

俺はいろいろと考えたあげく、湧き上がってくる気まずさを無理やり無視して三人の前に立つ。

「あ、広希(ひろき)……」

俺の姿を最初に認めた深空が、それだけ呟いて下を向く。俺はそれに気づかないふりをして、下駄箱からとってきた自分の靴をかかげてみせた。

「あれこれ言ってないで、とりあえず学校から逃げようぜ?」


*****


それから、感情と欲望が縦横無尽に行き来する言い争いを繰り広げたあげく、四人で吉乃を送り届けることになった。

電車に揺られ、見慣れた風景が流れていくのを、漫然と眺める。

熱がある吉乃は座席に腰掛け、その隣に深空が座っている。俺と紀里は、女子たちから少し離れた場所で、吊革につかまっていた。

正直、この距離感は助かった。今の俺は、深空とまともに向き合う勇気がないから。

顔なじみのあいつと接したり喋ったりするのに、どうして勇気なんてものがいるのか。よく考えたら、変なんだけどな。

あの日――二人っきりの状態で、事故とはいえ、うっかり深空を押し倒してしまった――そう、あの時だ。

あの瞬間以来、俺は気づきたくないことに気づいてしまった。

下手したらそれは、今まで築き上げてきたものを、覆しかねないものになってしまう。

俺はそのことが、どうしても怖くてならなかった。

他の奴には笑われそうな考え方だな、とは思う。

けど、大切なものがまったく様相を変えてしまったら、動揺してしまうものだろう?

「何だか今日、元気ないですね。どうしたんですか? まさか、あなたも風邪ですか?」

黙りこくってぼんやりしていたところへ、紀里が声をかけた。返事するのも面倒だったけど、無視するわけにはいかないよな。

「いや、全然違う」

「そうですか、なら、よかった。ちなみに、あなたが風邪をひいたとしても、僕は絶対看病しませんからね、全力でお断りします」

そもそもお願いすらしてねえだろ、と睨みつけてみた。

「最後の言葉、そっくりそのまま返してやるぜ」

「ふふ、そうですね。看病してもらうなら、深空さんにお願いしてください」

不意打ちで深空の名前が出て、俺の言葉はとぎれてしまった。

ちょうど会話の切れ目だったから、俺の動揺は紀里に伝わっていないはずだ。そう信じたい。

と、思い出したように紀里がつぶやいた。

「ああ、そういえば、最近深空さんも元気がないみたいですね」

「えっ」

俺の心臓はびくっと跳ね上がる。まさかこいつ、人の心理を読む能力があるわけでもないだろうに、なんだこのタイミングのよさは。

「気がついていないんですか? いつものあの、他の人を強制的に自分のペースに巻き込んでしまう彼女独特のオーラがだいぶ消えてしまってますよ。それに、ため息の回数も多くなってます。一体どうしたんでしょうね」

「さ、さあな……」

ごまかそうとして、何気なさをよそおうとしたが、ひとつ引っ掛かることがあった。

「……おい紀里、どうしてそんなに深空のこと、知ってるんだ?」

「と、言いますと?」

「ため息の数まで知ってるの、異常だろ。何やってんだよ、お前」

非難めいた視線をよこしてやったのに、紀里はどこふく風だった。見習いたいくらい神経が図太いんだな。

「ああ、吉乃ちゃんを見守るのを日課にしてますんで、そうなると自然、深空さんのことも目に入るんですよ」

いろいろ聞き捨てならない事実を聞いてしまった気がするのだが、俺は自分の精神衛生確保のため、すべて無視することに決めた。

ただ、吉乃にはこの事実を、伝えておいた方がいいかもな。


*****


電車を降りて、俺たちは二組に分かれた。

俺と紀里が駅のすぐ近くにあったコンビニであれこれ調達する係で、深空が吉乃を支えながら家まで送り届ける係だ。

もちろん、あとで合流することになっている。

コンビニの棚を漫然と眺め、おもむろにヨーグルトに手を伸ばそうとすると、紀里に止められた。

「いけません。吉乃ちゃんは風邪の時はプリンを食べるんですよ。彼女はヨーグルトも嫌いじゃないですけれど、熱がある時は甘いプリンと相場が決まってるんです」

そんな基本的なこともしらないのか、と視線で訴えながら、紀里は五種類ほどのプリンを買い込んだ。それは、やりすぎじゃないだろうか。

そう思いつつ、スポーツドリンクを選んだり、風邪薬をすぐ飲めるようにとおにぎりを選んだりして、数分で買い物は終了した。

レジ袋を下げ、紀里の後を大人しくついていく。十分もしないうちに、五階建てのマンションへ到着した。エレベーターを使い、三階で降りる。

紀里は迷いなく、吉乃の家へと足を進めた。

そこで俺は、ふと疑問を抱いた。

吉乃は普段、あれだけ紀里を毛嫌いし怒鳴りつけている。とても仲がいいとはいえないこいつらだが、ならどうして紀里が、吉乃の自宅を知っているのだろう。

まさか、お得意の観察か、と呆れて――その後、ふと思い出した。

あれは、正月の初詣の時。たまたま会ってしまった紀里は、そういや言ってたな。

『吉乃と自分は、婚約者だった』という意味合いのことを。

実はそれは、紀里の誇大妄想らしい。小さい頃のあいつが、勝手に言いだしたことだそうだ。まあ、俺には関係のないことだが。

しかし、ということは昔の二人は、婚約がどうのこうのと言えるくらいには、仲がよかったのか?

「吉乃ちゃん、具合はどうですか?」

挨拶もそこそこに、紀里は玄関から一番近い部屋へと転がり込んだ。どうやら、吉乃の自室らしい。

おいおい、女子の部屋へ入るのに躊躇がないのは失礼なんじゃないか、と言うまもなく、紀里は扉の向こうへ姿を消した。

仕方なく俺は、冷蔵庫目指して一番奥にあるらしい台所へ足を進める。

深空がいた。どうやらコップを探しているようだ。棚の隅々まで物色しているが、お目当てのものがないらしい。

「どんなのを探してるんだ?」

そういや、深空へ話かけるのは久しぶりだな。びくっと肩を震わせ、目を丸くしてこちらを見てきたので、妙な物悲しさを感じる。
 
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