その6 恋人たちの日に


「広希(ひろき)ー、広希ー! 探したんだよー! 渡したいものがあるんだー」

冬の寒さもそろそろ後退してきた、とある日の放課後、俺の幼なじみかつ近所に住んでいる深空(みそら)の大声が、背後から思いっきり響いてきた。

俺は注意したい衝動をなんとか抑えつけながら、笑顔で駆け寄ってくる深空を振り返った。

ちなみに俺と深空は廊下のど真ん中にいるわけで、周りには生徒が何人かいて、全員が俺たちを凝視していた。

まあ、深空の大声が目立っていただろうから、この反応は普通だな。俺としてはかなりのいい迷惑だが。

「何だよ……」

俺は声音だけで、うっとおしがっている意志を示したつもりだったが、深空には伝わっていない。こいつには直截的な言い回しをしないと大概のことは通じないんだよな。

深空は見ているこっちが憎たらしくなるほどのいい笑顔で、持っていた紙袋をがさごそと漁った。

「あのね、広希にいいもの持ってきたんだ。今日はバレンタインデーだから、特別にチョコをプレゼントしてあげる!」

それはいい。それはわかった。だからそんなに大声で言うなって。チョコを貰えていない男子数名が俺を殺気だった目で睨み始めたぞ。だからやめろ。

「ああ、深空、わかったから、ちょっと場所移動を……」

「ん……あれ?」

深空の表情がいきなり曇り、紙袋を漁る手が少し乱暴になった。

しまいには中身を全部とりだして、逆さにしてふっているが、どうやらお目当てのものは入ってないらしかった。

「あれ、あれ……な、なんで?」

そのことに気付いた深空の目に、なんでだかわからないが涙があふれ始めた。

おい、何でこんなところで泣くんだよ。まるでお前が俺を泣かせているみたいだろ。

「深空……いい年こいて廊下で泣くな」

「な、なんで? せ、せっかく作ったのにい~……」

本格的にしゃくりだしてしまった深空の手を引っ張って、俺はその場所をとっとと後にした。

背中の方に、やじうまたちの好奇な視線がまとわりついている感覚がする。

あーあ、これじゃ、明日には噂になってるかもな。俺は深々とため息をついた。


*****


まあ、そういうわけで、俺は茫然とする深空の手を引っ張って帰路についたわけだ。

だた、その間ずっと深空が泣いているせいで、俺は少し気まずかった。

俺はあまり周囲にどう思われているか気にしないタイプではあるが、今のこの状況だと、まるで俺が深空を泣かせたと誤解されるような気がして、あまりいい気分はしない。

たぶん、電車に揺られている間、何人かには別れ話がもつれたカップルだと勘違いされただろうな、と思う。別の学校の制服をきた女子高生のグループが、俺に非難めいた視線をよこしていたからな。

俺はよっぽど叫んでやろうかと思った。俺は無実だ。こいつが勝手に泣いているだけだ。

「おい、いい加減にもう泣き止めよ。俺は気にしてないんだからさ」

電車から降りて、徒歩で深空の家へ向かっている最中、まだ深空は泣いている。

「だ、だってー、せっかく作ったチョコなのに、広希の分だけ持ってくるの忘れるなんて……ごめんなさい、広希」

「別に気にするなよ、な?」

俺にチョコを渡すのは別に義務でもなんでもないわけだから、俺に謝るのはおかしくないか? とは思ったが、言わないでおくことにした。

そうこうしているうちに、深空の家の玄関前へ到着する。

俺と深空の家は、歩いて五分とかからない距離にあった。だから、保育園からずっと腐れ縁の深空の家には、昔は遊びにいったこともある。

(ここに来たの、何年ぶりなんだろうな……)

そんなことを思って感傷にひたっていると、深空がとんでもないことを言った。

「広希、上がってお茶でも飲んでいって?」

「……」

一瞬、俺は返事につまった。

「な、何だって?」

「だから、お茶でも飲んでいって? 迷惑かけちゃったみたいだから、ちょっとでもお詫びしたいの……」

ああ、その気持ちは一応わかる。わかるけど。

だからってな、幾ら幼なじみとはいえ、十七歳の異性を誰もいない自宅にあげて平気なのか、お前は。

「いいよ。チョコだけもらったらすぐに帰る」

「え、で、でも、せっかくなんだから……ねえ、いいでしょ?」

俺の服の裾をつかんできて、深空は俺を見上げた。

目はうるんでいるし、頬も少し赤い。

「お前、誰に対してもそんな顔をするのか……?」

「え? 広希、何か言った?」

「いや、別に……」

俺は頭を乱暴に降って、沸き起こりかけたみっともない嫉妬心を忘れようとした。

結局俺は、深空の家に上がり込むことになった。チョコを受け取って、茶を一杯だけ飲んだら速攻帰るつもりで。あんまり長居すると、たぶん耐えられなくなるだろうからな。

俺は深空の部屋に通されてしまった。居間でいいのに、と俺は主張したが、深空に気圧されてしまったのだ。

「おまたせー。クッキーとか、チョコ以外のお菓子もあったから持ってきたよ」

トレーに紅茶をのせて自室に入ってきた深空は、部屋の扉を閉めてしまったので、俺は無言でかつ速攻で、扉を全開にして再び腰かけた。

深空はそれを不思議そうに見ていた。

「どうしたの、広希。さっきから変だよ?」

「別に、なんでもねえよ」

久しぶりに入った深空の部屋は、すごく女の子らしい装いだった。だからって緊張してるとかそんなのではない。断じてそういうのではない。

外とつながってないと変な気をおこしそうだから扉を開けたわけじゃない。これは万が一、深空の家族が帰ってきたときに言い訳をするための方策なんだ。

(って、何だよ、言い訳って。俺は、別に深空のことは……)

「はい広希、ハッピーバレンタインデー! 今年は頑張って作ってみたんだよ。食べてみてね!」

どうやら、紅茶を飲んでチョコを持ち帰ると深空が駄々をこねそうだと判断したので、俺は仕方なくかわいらしい包装紙をはがし、現れたチョコケーキを一口、食べてみた。

「……うん、まあまあだな」

「え、おいしくなかったかな?」

たちまち深空が不安そうな表情になる。

たぶんこのケーキは、客観的に言うとあまり良い出来とは言えないだろう。けど、俺は深空の壊滅的なまでの料理の腕を知っている。

それを踏まえて考えると、この味は上出来なほうだった。

「いや、うまいよ? お前にしては頑張ったな」

もしゃもしゃ、と食んでいる間、深空はとてもうれしそうな表情をしていた。俺はそれをこっそりうかがうのに集中したせいで、甘ったるいチョコケーキをしっかりと味わえなかった。

全部飲み込んだ後、適度にぬるくなった紅茶を飲み下して、俺は立ち上がる。

「じゃ、帰る」

「ええー! だめ!」

何でお前が俺の欲求を阻止するんだ。帰りたいときに帰って何が悪い。

「どうしてだめなんだよ? 俺は帰るぞ」

「やだ! せっかく久しぶりに来てくれたのにー! もうちょっとゆっくりしていって?」

深空は、俺の右腕にがばっと抱きついてきた。かつてないほど距離が縮んで、深空の甘いにおいが鼻をかすめる。俺は一瞬、硬直してしまった。

けど、次の瞬間には、強くしがみつく深空をはがす作業に徹する。

「だ・か・ら、離れろって言ってるだろ! 暑苦しいんだよ!」

「帰らないって約束してくれないとだめ! 絶対だめ!」

「だああもう、子供みたいなこと言うな!」

「私まだ十七歳だもん! 子供だもん!」

「屁理屈こねるな! いいから離れろ!」

その瞬間、一体どんな力学が作用したのか。一体、どんな偶然の力が働いたのか。

俺が深空の肩を強く押したのと、深空がバランスを崩したのが同時だった。

気が付いたら、深空の顔が近くにあった。深空の体は俺の体の下にあって、俺の体は深空の体の上にあった。

「……あ」

何で速攻で起き上がれなかったのだろうか。

俺は深空を押し倒した状態で、数秒間そのままでいてしまったのだ。人間、不測の事態が起きると、しばらくは驚愕のせいで動けなくなるものなんだな。

最初にまともな音声を発したのは、深空だった。

「ひろ、き……?」

「あ、いや、こ、これは……」

俺は言い訳を口にしようとして、それより前にこの体勢をどうにかするべきじゃないかと判断し、あわてて身を起こした。

そのまんま深空から数メートルくらいあとずさりする。

やべえ、こういうときなんて言ったらいいんだろう。俺は必死に頭を回転させた。

「深空、その、俺は……」

全然そんな気なんてなかった。お前に悪さしようなんてこれぽっちも思ってなかった。そう言おうとして――言えなかった。

(なんでだよ……)

今さら改めて思い知らされたことがある。深空は女で、俺は男だということを。

単なる幼なじみ以外の関係性が、俺たちの間に入り込んできている気がして、俺は泣きたい気分になった。認めたくはなかった。

(俺は、深空のこと……)

「広希、私気にしてないからっ! ね?! もとはと言えば、私が悪いんだから……ごめんなさい」

既に起き上がって座りなおしていた深空が、必死で訴えてくる。気を使われてるんだな、と俺は思った。

「私は大丈夫だよ? だから広希……そんな顔、しないで?」

「……」

俺は自分の頬に手を当てて、少し考えた。

もしあのままだったら、俺は――

「悪い、帰る。チョコ、ありがとな」

俺はそれだけ言って、立ち上がるだけで精いっぱいだった。深空の家の玄関を出たとたん、ダッシュで家まで帰る。

自分の部屋へ駈け込んで、ばったりとベッドに倒れ伏した。

心臓の鼓動が早かった。急に走ったせいだけじゃない。

(何だ……どうしちまったんだ、俺は)

あいつは必要以上にうるさくて、ころころ表情が変わる、たんなる幼なじみだ。

たまに一緒にいると楽しくなる。それだけだった。それだけのはずだった。

昔から大切にしていた砂糖菓子の味が変わった気がしてしまって、俺は頭を枕に押し付ける。



――新しく胸に沸き起こったこの感情を、言葉で表して確認することだけは、したくはなかった。


〈了〉  ネット初出 2011.2.14
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