その4 暦の新しい日に
「広希(ひろき)ー、初詣行こうよー! ねえ、行こうよー!」
冬休みが明けるまで、あいつの声を聞く予定なんてものはなかったはずなんだが、なぜか年が明けてから数十分後、深空(みそら)の声は俺の家の廊下にろうろうと響きわたった。
俺は一瞬、事態を理解できなくて固まる。
さらにもう寝ようと思って寝巻に着替え初めていたものだったから、また服を着なおす羽目になってしまった。面倒なことこの上ない。
しぶしぶさっきまで来ていた普段着を着て、玄関へと向かう。すでに母さんが応対していて、非常識な時間帯に押し掛けてきた深空と楽しそうに話していた。
深空は俺を見るなり、夜中なのに非常にうきうきした様子でさっきと同じことを言う。
「広希、初詣行こうよ!」
たぶん深空は、ここから歩いて二十分くらいのところにある、それなりに規模が大きい神社に行きたがってるんだろう。それはわかった。
「いやだ。寝る」
だが俺は自分の意思を即答し、さっさときびすを返した。が、途中で足が止まってしまう。
母さんが俺の服をつかんで、強制的に引き戻したからだ。生地が伸びるからこういうことは止めてほしいのにな。
「いいじゃないの。一緒にいってあげなさいよ」
「何でだよ。俺はもう寝るったら寝るんだ。眠いんだよ」
ため息交じりに答えると、深空が不服そうな声を上げる。
「だめなの? ねえ、行こうよー」
「なんでわざわざこんな時間帯に出かけなきゃいけないんだよ。初詣なら朝になってからでも遅くないだろ?」
「だってえ、行きたいんだもん……」
全然答えになってないだろ、それ。
と、俺は、今さら深空の隣りに人影があることに気がついた。
身長は、深空の腰より少し上くらいで、もこもことした防寒具に包まれている。
確か、弟だよな? 名前は何だっけか。深空の弟にはあんまり会ったことないから思い出せねえ。ええと……。
「私と泰陽(たいよう)の二人だけじゃ、初詣に行っちゃだめだって言われたんだもん。だから広希についてきてほしいの」
なるほど、泰陽って名前だったな、そういえば。
と思うと同時に、俺は深空の言った言葉に疑問を覚えた。
「なあ、まさか、俺についていってもらえって言ったの、おじさんとおばさんなのか……?」
「うん、そうだよ。お父さんもお母さんも、私じゃ頼りないから、広希君を連れていきなさいって、しつこく言ってきたの。だから、広希が一緒に来てくれないと、私と泰陽は家に帰らないといけないんだ」
「……はは、なるほど」
要するに俺は子守かよ。ったくもう、娘が十七歳になったんだから信用してやればいいのに。
とは思う一方、夜中に深空が外をうろつく姿は、俺にも想像できなかった。こいつなら、知ってる道でも迷子になりそうだな、なんて。
「ねえ広希、お願い。初詣行こうよー。ねえ、行こうよー」
頼んでるのかむしろ命令されてるのか、どっちなのだろうかと考えていると、今度は泰陽がぐずり出した。
「お姉ちゃん……初詣行けないの?」
少々うるんだ目で見上げてくる弟に、深空が無責任に力説する。
「大丈夫! 広希お兄ちゃんは約束を守ってくれるんだから!」
「……なんだよ約束って。した覚えねえよそんなもの」
と、小声で吐き捨てると、母さんに足を蹴られた。どうやらこの空間には、俺の味方はいないようだな。
「広希、行こうよ。いいよね? いいでしょ?」
「お姉ちゃん、早く神社行っておみくじひきたいよー」
「広希、あんたのコートとってくるから、深空ちゃんたちと一緒に行ってあげなさいよ」
「……」
俺は無言で頭を抱えた。新年早々、はめられた気がする。
*****
(ううくそ。眠いし寒いし人は予想より多くて周りがうるさいし……なんで俺がこんな目にあわないといけないんだ)
さっき腕時計を確認したら、夜中の一時にはまだなっていない。
だからかもしれないが、意外と参拝者がひしめいていた。鳥居をくぐりぬけると、境内を静かに照らすちょうちんが奥まで連なっていて、人の流れがゆるやかに行きかっている。
家族連れだったり、学生の集団だったり、いかにもカップルのような男女の二組だったり――そんな中俺は、子守のために強制的に連れ出されたわけか。
まだ保育園へ通っているような年齢のガキ二、三人が、甲高い笑い声をあげながらさい銭箱へとダッシュしていく。
若いっていいな、周りの迷惑も考えなくていいし、うらやましい。
「広希、甘酒飲みたい」
深空は、数件ある出店の方を指差した。
「じゃあ飲んでこいよ。ただし迷子になるなよ。あと、酔っ払うなよ?」
アルコール抜きの甘酒を売っている可能性も高いが、一応釘をさしておく。
と、深空は地面に視線を落とし、ため息をついた。白い息が、ふわっと深空の胸の周りに広がって消える。
「でも、お金がないんだ……」
初詣行きたがってた人間が、財布忘れるなよ。そんなんじゃ賽銭箱にお金も投げられないし、おみくじだってひけないだろうが。
「じゃあ、いさぎよくあきらめろ」
すたすたと賽銭箱まで行こうとして、深空にマフラーをひっぱられた。少し首がしまった。
「でも、飲みたいの、甘酒……」
「何だよ、要するに金貸せってか?」
深空は無言でうつむき、こくんとうなずく。俺は小さく息をついて、ポケットをまさぐり、五百円玉を渡した。
「俺も財布持ってきてないし、これで全部だからな。それ以上たかられてもおごれない。わかったな?」
「うん、ありがとう、広希!」
深空は五百円玉を握りしめて、嬉しそうに――本当に嬉しそうに、声をあげた。
ぱっとはじけたようなその笑顔のせいで、俺は一瞬固まった。
目当ての出店へと駆けていく深空の後ろ姿をそれとなく見ていると、誰かの視線を感じる。
ふと目を落すと、泰陽が俺をじっと見上げていた。いたのか、こいつ。
「姉ちゃんと一緒にいかなくていいのか?」
「……」
「甘酒以外にも、何か買えるかもしれないぞ? ホットドッグとか、べっこう飴とか売ってるけど、欲しくないのか?」
「……」
問いかけはすべて無言で流された。何だかすげえやりにくいな。一体何歳なんだろう。
こいつはこんなに無愛想な奴だったのか。姉の方はあんなに天真爛漫なのに――
「むっつりスケベ」
「……は?」
黙考の最中に割って入った声。俺は一瞬自分の耳を疑った。今の、もしかしてこいつが言ったのか?
確信を持てないまま泰陽を見やる。今度こそ、間違いなく、深空の弟は俺を指差して言った。
「むっつりスケベ」
「……ちょっとマテ。お前、その言葉の意味わかってんのか? 意味のわからない単語は不用意に使うんじゃねえ」
「……むっつりスケベ」
「……おい、少し黙ったらどうだ?」
お互い、一歩も譲らず、軽く睨みあった。
泰陽は、不服そうに頬を膨らませたままで、さらに言い募る。
「姉ちゃん見てるとき、鼻の下伸びてただろ。むっつりスケベ」
「はあ? どこをどう見たらそういう解釈になるんだよ? 俺が深空に見とれてたってか……? 馬鹿なこというな」
そうだ、あいつはただの、幼なじみだ。俺はわけもわからずやけになって、強い語調で続ける。
「俺は眠いのに連れまわされて不機嫌なんだよ。これ以上変なこと言うな。何か言ったら、即刻お前らの子守を辞退して帰るからな」
ここまで一気にまくし立てて、大人げないことをしたと、やっと気がついた。
泰陽の顔が、ほんの少し青ざめている。そうだよな、これだけ身長差があって、何歳も年が離れている奴に低い声で睨まれながらすごまれたら、俺でも泣く。
硬直したまま、目がうるんでいる泰陽に手を伸ばそうとして、伸ばせずに宙をさまよった。
その手で、自分の顔を覆い、深いため息をつく。
(何やってんだ。どうしたんだ、俺……)
この間のクリスマスの日以来、俺は、深空が周りより妙に際立って見えて仕方がなかった。
――いや、もしかしたら、それよりはるか前から、俺は深空を、他の女子よりも特別な目で見ていたのかもしれない。
あのクリスマスは、そのことに遅まきながら気づいた日だったのかもな。
(特別……? なんだよ特別って……)
手を握ったせいか? 深空が俺をうるんだ目で見てきたせいか? それとも、クリスマスに幼なじみとはいえ、女子とデートしたような気分になったせいか?
だから俺の心は、妙にざわついているのか? このもやもやは一体何なんだ?
(くそう……消えろ。こんなもの)
沸き起こるいらだちを、手を握りしめることで押さえつける。
(違う。俺にとって、深空は……あいつ、は……)
「やあ広希君っ! 新年早々しけた顔してるねーっ! そんなんじゃ願い事を聞いてくれる前に神様が逃げてっちゃう、よっっ!!」
「うがあっ!!!」
突然、背後から大きな声が響き渡り、身の危険を察知したと同時に、俺の頭に何か重いものがぶちあたった。
思わず後頭部を抑えてしゃがみこむ。頭上では、「あら、弱いねー」「ちょ、ちょっと吉乃(よしの)ちゃん!」などといった会話が繰り広げられていた。
ひりひりと痛む頭をなでながら、俺は自分を攻撃してきた当該人物を睨みつけた。
「おいこら、なにしやがる須賀!」
名字を呼ばれた須賀吉乃――ちなみにこいつは、深空のクラスメイトで、深空の親友で、なぜか俺にまでたまにちょっかいかけてくる奴だ――は、「ん?」と首をかしげつつ笑んでいる。しかしその笑みは、邪悪そのものに見えた。
「ん? じゃねえだろ! 何でいきなり俺を殴るんだよ!」
「ああ、もちろん、あいさつ代わり?」
こともなげに言ってのける吉乃のすました顔に、俺は毒気を抜かれた。
「これのどこが挨拶なんだよ……」
こいつの相手をまともにしていたら、疲れるだけだ。俺は立ち上がろうとして、腰を浮かしたまま停止した。
俺の頭に、深空がおそるおそる触れてくる。
「広希、大丈夫? タンコブ出来てない?」
「もう、深空ったら、心配性ねー。人間はやわに出来てないから、心配するだけ無駄だってば」
吉乃の、人の神経を逆なでするような物言いもろくに耳に入らない。俺は、深空の手と指の感触に硬直してしまった。
「は、はなせよっ……」
勢いよく立ち上がると、深空が驚いて二、三歩あとずる。俺はそっぽを向いた状態で、乱暴に言い放った。
「平気だよ。甘酒も飲んだんなら、さっさと神様に賽銭くれてやりに行くぞ」
泰陽が、何か言いたげな目で俺を見ている。
俺は不自然にならない程度の早歩きで、列の途切れかけた賽銭箱へと向かった。後ろから、深空と吉乃の声が響いてくる。
「吉乃ちゃんに会えるなんて、びっくりしたよ」
「私もよ。こんなことなら、待ち合わせでもすればよかったね?」
そうだな、そうしてくれれば、俺は今頃ベッドの中で夢見心地だったのにな、と、ひっそり突っ込みをいれておく。
さて、本日の最終目標である賽銭箱への賽銭投下直前になって、重大問題が発生した。
「はあ? 初詣なのになんでお賽銭がないのよー?」
吉乃が呆れた様子で、俺たち二人を交互に見る。
「私、お財布忘れちゃって……」
「俺はこいつに五百円貸して、それで有り金は消えたんだ」
「そういえば深空、トウモロコシとべっこう飴で五百円使っちゃってたね」
(はあ? 甘酒飲みにいったんじゃないのかよ?!)
俺は目を丸くして深空を見た。その横顔が、恥ずかしそうにうつむく。
吉乃は腕を組み、おおげさにため息をついた。