Stage 8
日常に埋め込んで消したはずの傷が、マリンの心にふいによみがえったのだろう。
快活に振舞っているが、ダナン・ガルズに来た後、何かがあったのだ。
立ち直るのに苦労するほどの、何かが。
それを知りあったばかりの月子が探ろうとするのは、失礼だ。
「お二人とも、あれがメルンの家です」
すっとリオの声が後ろから流れてきて、マリンは前方へと目をこらす。
既に先に行っていた三人の姿は見えないが、視界の先に低い山々が峰を連ねているふもとに、小さな小屋のようなものがいくつか固まって建っている。
そのどれかがメルンの家なのだろう。
「よかった……」
あからさまに気の抜けた発言をしたら、マリンに笑われてしまった。
「月子ちゃん、よっぽど我慢してたのね」
マリンの表情からは憂いの影が消えていたので、月子はそれにも安心した。
脚がまた重くなってきたが、目的地が目の前にあるので、これならなんとか踏ん張れそうだ。
「ツキコ様、肩をお支えしましょうか?」
横に並んだリオの問いに、月子は首を振る。
がふと思い至って、そっと彼の袖口に手を伸ばした。
「ツキコ様……?」
「ちょっと歩くのに疲れちゃって。しばらく、こうしててもいいですか?」
手をつなぐまでは出来ないが、手を伸ばし、歩く速さを同じにしてもらう。
構いませんよ、と事もなげに応じるリオに、月子は頭を下げたまま、何も言えなかった。
やはり面映ゆいし、違和感がある。
けれどどこかで、泣きそうに安堵している自分もいる。
(甘えたり頼ったりするのは、思っていたほど悪いことじゃないのかも)
相手の負担になるほどよりかかることは出来ないけど、助けを求めたいときは、声を上げてもいいのだろう。
(でも……難しいだろうな、私には)
それでも、リオの優しさを決して忘れないようにしよう、と思った。
彼の言うとおり、月子は一人ではないのだ。
それは孤独ではないといえる。
ただ一方で――〈イリスの落とし子〉という動かせない事実に、縛られ続けるのだ。
(私が〈イリスの落とし子〉であることから逃げられないのなら、リオさん達から大事にされても恥ずかしくないような、そういう人間でありたいな)
○
メルンの住む小屋は、小さな集落の入り口付近にあった。
人家は三十件程しかなく、馬は集落全体で数頭を飼育しているそうだ。
聞けば、メルンは若いのに優秀な薬師だそうで、彼の住まいの隣には小さな診療所があった。
近隣には医者がいないので、集落の住人の為にも簡単な医術を身につけているという。
メルンの住む小屋は、小さな集落の入り口付近にあった。人家は三十件程しかなく、馬は集落全体で数頭を飼育しているそうだ。
聞けば、メルンは若いのに優秀な薬師だそうで、彼の住まいの隣には小さな診療所があった。
近隣には医者がいないので、集落の住人の為にも簡単な医術を身につけているという。
リオに案内され、月子とマリンは診療所の方へ足を運んだ。先に到着していた弦稀は、早速メルンの手当てを受けていた。
眠っている彼の様子を見、メルンに「大丈夫だ」と説明を受け――ほどなくして月子は、ふっと意識を手放してしまった。
信じがたいことが立て続けに起き、緊張で張り詰めていた神経が、いっきにゆるんでしまったようだ。
そのことに気がつくまでに、目が覚めてから数秒かかった。
(みんなは、どこ……?)
重い体を何とか起こしてみれば、辺りは暗かった。
ひとつある窓からは、引き絞った弓のように細い月が見える。夜まですっかり眠り込んでしまったようだ。
月子は寝台に寝かされていた。気を失うまでいた診療所ではないようだ。
もしかしたら、メルンの住まいの中かもしれない。
意識のもやが徐々に晴れて、体が動くことを確認してから、寝台をおりる。
わずかに空いた扉の隙間から、明かりがもれていた。向こうに居間が続いているのか、人の気配がした。
「結局、お前の薬だとツルギ様の傷が治るのに、時間がかかるんだな?」
押さえた声で喋っているのはリオだ。
別室の月子を気遣ってか、皆囁くような声で会話を交わしている。
一人、知らぬ少女の声があった。
「お兄ちゃんはこの間、デスピオ山の薬草に効能が匹敵する薬を開発した! って喜んでたじゃない。その薬を、使ったんでしょ?」
抑揚のあまりない静かな問いに、はあ、とため息が重なる。
「勿論だ。けどやっぱり、俺みたいな凡人がつくる薬じゃ駄目だな。〈ヴァルガ〉の〈イリスの落とし子〉はそうとう重傷だ。小さい切り傷だけじゃなくて、刺し傷もいくつかある。馬に乗せてる間、意識があったのが信じられないくらいだ。強い薬だと体力を消耗するだろうし、かといって弱い薬だと治りが遅くて、それも体力が削られる。負担を少なくかつ短時間で回復させたいなら……やっぱり現状、デスピオ山の薬草が一番かなあ」
再びはあ、と悔しげにため息をつくメルンに、少女が淡々と追い打ちをかける。
「あれだけ自信満々だったのに、お兄ちゃん、ダサイ」
あはは、と穏やかなウーレアの笑い声が響く。
「あいかわらず、メルンに厳しいね、ウリリヤは」
「ああもうウリリヤ、はっきり言ってくれるなよ……。ただな、リオ、他の医者はどう診断するかわからないぞ。俺は本来、治療は門外漢なんだしな」
メルンの妹の名は、ウリリヤというらしい。
初対面でひたすらにぎやかだった兄と違い、妹はどこか冷静なのだ、と月子は思った。
「いや、僕はメルンを信じる」
おや、とメルンは意外に思ったらしかった。
「まさかリオ、俺を褒めてる?」
「そう解釈したければ自由にしてくれ。デスピオ山へは、僕が行く。元々、そのつもりだったんだ。ただ、長老に〈イリスの落とし子〉救出だけでも先に報告したい。近隣の〈シュビレ〉に言付けを頼んだとして……だめだ、戻ってくるまでに時間がかかりすぎる」