Stage 7
「マリンの力を相殺するなんて、あいつ、何者だ……?」
赤い髪の青年は、唇に笑みを刷いたまま、ぱらぱら、と氷のかけらを見せつけるように落とした。
「残念でしたね。殺すつもりでかかってくればいいのに。まだこの状況になっても、あなたは甘い」
靴音を立てて、クリティアスが歩み寄る。
動揺が治まらないマリンだったが、再び両手を前に突き出した。カエンもマリンの隣に移る。
「ラクネ」
クリティアスが名を呼んだ。意図を察した月子がまずい、と思った瞬間、二人の〈イリスの落とし子〉の動きが強制的に止まる。
「カエンさん、マリンさん!」
叫んだ月子も、違和感を覚えて自分の体を見下ろした。
見覚えのある、透明な細い糸。それが弦稀ごと、月子の胴体を縛めている。
それに目をこらすと、弦稀の首にも糸が巻きついていた。
つまり今、下手に月子が動くと、弦稀が危ない。
「そんな……」
これでは力を使うことができない。月子が考えあぐねている間に、クリティアスはマリンの目前に迫っている。
「さすがですねラクネ。あなたの技はとても素早くて、無駄がない」
遠くから、呆れたような少女の声が帰ってきた。
「これ、貸しにしてもいいかしら?」
「ええ、お好きにどうぞ」
クリティアスは、マリンの前に立った。
マリンは両手を突き出した中途半端な体勢のまま、赤い髪の青年を睨みつける。
「卑怯よ。正々堂々と勝負もできないの?」
「これは勝負ではありませんよ。あなたたちを大人しくさせるためにしたことです。そもそも既に囚われているのに、戦うと言う方が可笑しい」
一歩踏み込んだクリティアスが、すっとマリンの顎を指ですくい、上向かせた。
「マリンから離れろ!」
カエンが怒気をはらんだ声で叫ぶ。当然だが彼もラクネの糸で縛められているため、動くことができない。
カエンの刺すような視線を気にもとめず、クリティアスはマリンに顔を近づけた。
「わかっているでしょうが、我々はあなた方の命までは奪いはしない。抵抗しなければ、先程の部屋に戻るだけです」
「……あなたたちの目的は、一体何? こんなことをして、得るものがあるっていうの?」
「それを今、ここで話す必要がありますか? さあ、降参してください。そこの〈イリスの落とし子〉にも、手当てをする準備がある。後はあなたの気持次第ですよ? それとも……」
顎に添えられていた手が移動し、マリンの首をゆっくりとつかんだ。カエンが叫ぶ。
「やめろっ!」
「命を落とさない程度に、苦しみたいですか?」
マリンは言葉もなく、クリティアスを睨みつけるしかなかった。
彼が、完全に優位だ。それは月子にも痛いほどわかっている。
長いようで短い逡巡の後、マリンが小声で吐き捨てた。
「……あなたに従うわ、今は」
「そうですか、それは安心しました」
マリンから身を離したクリティアスは、慇懃無礼に頭を下げる。
「ラクネ、糸をすべてほどいてください。もし抵抗するようなら、今度は傷つけても構いません」
「人使いが荒いわね」
ラクネのため息と共に、月子は体が自由になったのを感じた。
弦稀の首に巻きついていた糸も、綺麗に消えている。
「麻倉君……」
涙がこみ上げて来て、月子は弦稀をきつく抱きしめた。
よろめいて頭を押さえたマリンを、カエンが支える。
「先程の部屋に戻りましょう。歩けますか?」
差し出されたクリティアスの手を、マリンはぴしゃりと払った。
赤くなる手を見ながら、クリティアスはくすくす、と喉の奥で笑う。
「降参した相手には、優しくしてあげるのが私の信条なのですが」
「余計なお世話よ!」
月子の側にも、三人の〈デミウルゴス〉が寄ってきた。そのうち一人がラクネだったので、月子は身構える。
ラクネはこれ見よがしにため息をついた。
「今は何もしないわよ、今はね。この二人は治癒魔法が使えるから、その〈イリスの落とし子〉を渡してちょうだい。こっちだって、死なれたら困るんだからね」
「……麻倉君の側にいるわ。一人にはできない」
「はいはい、あんたも強情ね」
目覚めないままの弦稀を、二人の〈デミウルゴス〉がそれぞれ肩と足を持ち、運んでゆく。
月子は後をついていこうとして、躓いた。
「何やってるのよ」
ラクネは月子の手を自分の肩に回して支え、ゆっくりと歩き出した
月子はまさか、という思いで自分の体を見下ろした。
先程の男の術が――催眠術なのか洗脳なのかはわからないが、まだ残っているらしく、鉛のように重たいのだ。
今さらのように、悪寒が背中に走った。
「さすがだね、クリティアス」
歩み寄ってきた拓爾に、クリティアスは片膝をついた。
「出過ぎた真似を致しました」
「ううん、そんなことないよ。よくやってくれた。本当に君はすごい……」
と、拓爾が言葉を止めた。何事かと、クリティアスが仰ぐ。
「どうされました?」
拓爾が眉根を寄せ、その表情にみるみる険が宿る。
そして、カエンとマリンも、はっと何かに気がついてお互いを見た。
「誰かが――俺の結界を破ろうとしている」
低く呟かれた言葉に、クリティアスだけでなく、その場にいた〈デミルウゴス〉の構成員に緊張が走った。
「まさか、何をおっしゃっているのですか?」
「いいや、間違いない。一体誰だ……?」