Stage 7


その訴えには、切実な思いが込められていた。

『またあの笑みを私に見せてほしい。時を忘れて話をしたいのだ、―――』

男の手が伸び、女の頬に触れる。

女はひどく困惑したが、優しく促され、顔をあげるしかなかった。

見上げた先の、男の表情は―――





「あの女に一番近いのはいつも、〈風〉の部族の者」

めまいが引いて目を開けた月子の視界の先で、拓爾の姿が歪んでいた。それも一瞬のことで、あっという間に先程の男の姿に戻る。

全身をゆったりとした布で包み、顔も殆どが隠れ、唇が動く様しか確認できない。

月子の体から力が抜け、後ろに倒れ込みそうになる。

催眠術のようなものにでもかかったのか、頭も回らず、体も動かない。

その背に男の手が添えられ、月子は仰向けに横たわった。

ぼんやりと見上げる月子の頬を、男は優しく撫でる。

「かつて一度歪められた定めが、そのまま在るべき定めとなってしまった。私は、すべての歪みを元に戻す。次はお前だ、〈風〉の少女よ。お前達が慄く神、闇より深き神、創世の神に背を向けた神〈デミウルゴス〉の名において、私の力に屈し、降れ」

男の手が、月子の胸倉へと伸びる。

服の下にある石が、一度だけ震えた気がしたが、指先すら自由にならず、抵抗も出来ない。

このままではいけない、頭の片隅ではそう思うのに。

石も、月子に何かをよびかけている気がするのに。

唇が笑みの形を刻んだままの男に、月子はかすれるような声で問いかける。

「あなた、もしかして……」

最後まで疑問を口にする前に、すぐ傍で破壊音が轟く。

すばやく男が飛びのき、入れ替わるようにマリンが月子の側に立った。

「しっかりして、月子ちゃん」

険しい表情のマリンが、手に鋭くとがった氷の刃を持ったまま、男を睨んだ。

男はひとつため息をつき、その姿がまた、拓爾に変わる。

「どうして邪魔をするんだい?」

口調は穏やかでいながら、声音には苛立ちがこもっていた。

頭の霞が晴れてきた月子は、重たい体を何とか起こし、マリンの服をつかむ。

「マリンさん、だめ。戦っちゃだめ」

とても悔しい事実だが、あの少年には、ここにいる〈イリスの落とし子〉が束になっても敵わないだろう。

見上げたマリンの表情の厳しさから、彼女もまた深刻さを察していることに気がつく。

「月子ちゃん……でも私達は、あきらめちゃいけない。あきらめたら、あの〈雷〉の――〈ロキア〉一族の彼のように、なっちゃうのよ」

拓爾の背後でひときわ、高い炎があがった。

薄暗い天井まで舐めようとするその中から、弦稀を抱きかかえたカエンが走ってくる。



「マリン、大丈夫か!」

「ええ、その子は?」

「気を失ったままだ。本当は、こんなことしてる場合じゃない。早く手当てをしないと」

肩にまだ痛みがあるのか、弦稀を床に降ろす時、カエンの表情が一瞬歪む。

月子は、カエンの代わりに弦稀の身を起こし、抱きしめた。

弱まった炎の柱から、放射状に雷撃が何度も顔を出す。

ゆらめく火の手を、稲妻の槍が切り裂き、ひときわ眩い光が目を焼いた後、真守が姿を現した。

歩み寄ってきた真守は、拓爾の背後で足を止めた。マリンが皮肉げに呟く。

「私達と違って、元気そうね。怪我もしてなさそうじゃない。〈雷〉の〈イリスの落とし子〉は」

応じるように、カエンもぼやいた。

「本当に参ったよ。こっちはそのつもりが全然ないのに、彼は危害を加える気満々だからな。俺も、肩さえもう少し動けば、先輩としての意地を見せれたかもしれないのに」

周囲に、気配が増えた――そう感じて月子が見渡すと、ぽつぽつと人影が現れる。

月子達を遠巻きに、円を描くように立っている彼らは、〈デミウルゴス〉の者たちだろうか。

十名程度のその中に、あの糸を操る少女が――確かラクネと呼ばれていた――がいて、月子は思わず弦稀を抱きしめる手に力を込めた。

彼女は仮面をつけているが、その隠れた視線に、激しい憎悪を込めているのがわかる。

マリンとカエンが色めき立ち、月子や弦稀を守るように立つ。拓爾は周囲を見回すと、首をかしげた。

「クリティアスかい? 皆を呼んだのは?」

あの赤い髪の青年が歩み出て、拓爾の前に片膝をついた。

「あなた様の手を煩わせる必要はないかと思いまして。怪我をした〈イリスの落とし子〉もいますから、大人しくさせるのは簡単でしょう。後は、私にお任せください」

数瞬の沈黙の後、拓爾はゆっくりとうなずいた。

「もたつくようなら、その時は俺の好きなようにするよ?」

「承知致しました」

淡々とこうべを垂れたクリティアスは、すっと立ち上がり、月子達の方へと向き直る。とっさにマリンが皆の前に出て、両手を突き出し叫んだ。

「――凍らせるな、いましめ封じよ!」

マリンの手から現れたのは、凍てついた大量の霧。それが真っすぐにクリティアスへと飛び、彼の全身を包んだ。

足先から、指先から、あっという間に薄い氷が浸食していく。

胸まで氷で覆われたクリティアスが、鼻白んだ。

「あなたの実力は、こんなものですか」

彼は氷で包まれた右手を横に振った。その手のひらに、マリンの放った霧がたちまち集約されていく。

同時に、クリティアスの全身を包みかけていた氷も、消えていった。

すべての霧が手の上で凝ると、クリティアスは難なくそれを握りつぶした。

「う、そ……」

マリンがつぶやく。月子の隣に立っていたカエンも、愕然としていた。
 
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