Stage 7


脅える月子に、青年はあくまで、口調だけは丁寧に接する。

「申し訳ありませんが、このままで移動します。なあに、あなたが変な気を起こさなければ、怪我なんてしませんよ」

薄い唇が、脅すように優雅な笑みを浮かべる。

彼は一体仮面の下で、どんな感情を浮かべて月子を見下ろしているのだろう。

「その子にこれ以上何かしてみなさい。あなたを許さないわ」

マリンが険しい表情で睨みつけるが、青年は一瞥することなく、月子をひっぱって部屋を後にした。

いともたやすく部屋を抜け出れたことに、月子は目を丸くする。

部屋の外の廊下は、薄暗かった。一定の間隔で壁に明かりが灯っているが、足元までは完全に照らされていない。

腕を引っ張られ、大人しく歩くしかなかった月子は、ちらりとその明かりを見てみた。月子達が通り過ぎても、全くゆらりとも動かないということは、あの明かりは火ではなく、魔法で作られたものかもしれない。

月子は視線を前に戻す。ふと、隣で歩を進める青年を見上げた。

名前は、わからなかった。年は二十代半ばくらいだろうか。月子よりも頭三つ分ほど背が高く、赤い短髪が薄暗い廊下の中でも目立つ。

体つきは細い方かもしれないが、当然腕力や体力は、月子よりは勝るだろう。

ふと、疑問が浮かんだ。

(……元々の地毛で、こんなに鮮やかな赤色が出る人って、いるのかな? 染めているの?)

そういえば弦稀だって、瞳や髪の色がこげ茶だ。青年も、もしかしたらそういう体質なのかもしれない。

だが、絵具のようにはっきりした赤色なので、薄闇の中では目をひいてしまうのだ。

と、青年が前触れなく月子の方を見た。思わぬことに、びくっと肩を震わせる。

「何かご質問でも?」

「……あの、いつまで歩くの?」

ちゃんと数えたわけではないが、体感では五分程歩いているような気がする。しかも、ひたすら直線の廊下をだ。

(そういえばこの廊下、床も壁も平らだ。っていうことは、人が作ったものなんだ……)

「目的の場所へたどり着くまで、ですが?」

答えになっていない答えを返すと、青年は再び前を向いた。後方から、別の足音が聞える。おそらく離れたところで、カエンやマリンが歩いているのだろう。

「あの二人なら、ついてきていますよ。あなたが一人きりになることはありません」

まるで月子の考えを読みとったかのように、青年が説明する。

「か弱い少女かと侮っていましたが、あなたは案外、心が強いのですね」

「……え?」

まさか、と思ったが、どうやら今のは、月子に話しかけているようだ。青年は前を見たまま、よく通る低い声で続ける。

「この状況下で、あの取り残された少年のように、取り乱したりしないのですから」

“取り残された少年”が、誰のことを指しているのか、月子はすぐに思い当った。尋ねる声に、力がこもる。



「遠城寺君のことね。彼が変だったのはあなたたちのせい? それに麻倉君はどこ? 二人をどうしたの!」

「それが、あの〈イリスの落とし子〉達の、彼方の世界での名前ですか?」

その言い方に、月子は確信した。

「私以外に、麻倉君も遠城寺君も、ここにいるのね」

事態は、月子が思っていたよりも深刻なようだ。今、七人いる〈イリスの落とし子〉のうち五人が、〈デミウルゴス〉の手中にあるのだから。

月子は空いた手で、首から下げた石を、服の上からつかむ。知らず、青年を見上げる視線に力がこもる。

「あなた達が、石を奪おうとしても無駄よ。この石は、私からは離れようとしないから」

月子が望んでいようといまいと、石はこれまで、月子と共に在ったのだ。

おそらく、月子の命が果てる日まで、この関係は誰にも変えることができないだろう――石の持ち主である、月子ですらも。

青年はすぐには答えず、前を向いたままだった。相変わらず、彼は月子の片腕をつかんだまま、黙々と歩を進めている。

ぽつり、と小さく唇が動いた。

「私も、そう思っていたんですが、ね」

「……?」

そのつぶやきはあまりに小さく、月子の耳には届かなかった。二人分の足音が、延々と続く床に響く。

月子は、石をさらにつよく握り締めた。

(何があっても、私は、あなたを失わない)

石が無言で、頷いてくれた気がする。少しばかりほっとしたところに、青年が唐突に歩を止めた。

「さてようやく、到着しましたよ?」

とはいうものの、そこには扉も何もなかった。目の前にあるのは、単なる壁だ。

が、先程の部屋を出た時のように、青年はするりとその壁を通り抜ける。青年に腕をつかまれたままの月子も、一緒に壁を通り抜けた。

その先は、廊下と同じくらい薄暗い空間だった。明かりはいくつもあるようだが、天井や隅が闇に隠れている。月子が通っていた中学校の体育館の、四、五倍くらいは――あるいはもっと、広いかもしれない。

わずかに息苦しさを覚えた。窓がないのか、空気がこもっているようだ。だが息苦しさの原因は、たぶんそれだけではないだろう。

理屈ではない生物的直感で、月子の感覚は、この部屋を嫌がっていた。

それにこの部屋のどこかから、かすかに音がしている――まるで、剣戟のような。

「ご苦労」

部屋全体に反響する男の声に、赤髪の青年は体を折って答えた。

「残りの〈イリスの落とし子〉も、すぐに参ります」

「わかった。今、ちょうどいい塩梅になっている。とても、面白いものが見れそうだな」

くく、と低い哄笑を残して、声は消えた。

(今の、誰なの……?)
 
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