Prelude 2
月子が人生何度目かの転校をしたのは、まだ暑さの残る夏休み明けだった。この時点では、まさか自分が見たこともない世界へ迷い込んでしまうなど、もちろん夢にも思っていない。
ただ、別のことを彼女は心配していた――生まれながらに持っている、自分の奇異な、力のことを。
両親さえ知らないこの秘密がばれるのではないかと、転校する数日前から、月子は異様におびえていた。十四年間隠し通したことが、光の元へ無理やり引っ張り出されて糾弾されるのではないかと、彼女の頭はそのことばかりを占めていた。
今振り返れば、あれは何かしらの予感を、知らず知らずのうちに感じ取っていたのだろう。
○○
「月子、大丈夫?」
夕食の時間、ぼんやりとしていた月子は、母に不思議そうに名を呼ばれ、我に返った。
「あ、う、うん……ちょっと、考え事してて」
曖昧な言い回しで返事をする。そのせいか母は、娘が新しい学校生活になじめるかどうか、不安にさいなまれているのだと勘違いをした。
「あんまり気負いすぎると、疲れちゃうわよ? もう少し楽にしたら?」
「うん、そうだね」
これまた曖昧な笑みで返す。母の優しい忠告は、少し心には残ったが、根本からの不安を取り除いてくれるわけではない。
月子は、飲みかけの味噌汁に目を落とし、小さくため息をついた。
――月子は、風を操ることができる。
彼女の思うとおりに、風は手のひらの上で生まれたり、消えたりするのだ。それだけでなく、指図すれば空中をかけめぐるし、強弱や速さもある程度は調節ができた。
ただしこの力は、石を持っていないとうまく使えない、という制約がある。
月子がまだ幼く、それこそ最初の記憶が残っている時分から、石は彼女の側にあった。どうやらその石は両親にも見えていないようだし、保育園や小学校の友人も視認はできないようだった。
石は月子に寄り添うように傍にいることもあるかと思えば、気まぐれに彼女の元を離れたりする。そのたびに月子の心は乱れた。長い時間あちこちをひっくりかえして、ようやく水色の石が姿を現した時は、心底安心したものだ。深淵の夜の闇で、満月を見つけた時のように。
月子は石に振り回されている。けれど、石がなければ不安にさいなまれる。
そんな日々を、彼女は生れてこの方、ずっと送っていた。
テレビの音量が、一気に大きくなった。母がリモコン操作をしたわけではなく、スタジオの観客の歓声が大波のように盛り上がっただけだった。
それなりに人気のあるトークバラエティ番組の本日のゲストは、月子とそう年齢が違わない、双子の兄妹のタレントだ。最近、話題になった映画で共演し、実力派の子役兄弟ともてはやされている。
(ああやって、輝いている人もいるんだな……)
同じ地球にいるはずなのに、テレビの中とテレビの前では、どうしてこんなにも格差を感じてしまうのだろう。
最後の一口を咀嚼して、立ち上がる。そのまま自分の部屋へ直行し、我が身を抱きしめるようにして、ベッドに倒れ込んだ。
「やめて……大人しくして」
石が、うるさい。蛍火のように、淡い明滅をさっきから繰り返している。何かを、月子に訴えかけているのだろうか――あるいは。
「私をからかっているだけなら、やめてよ。私が苦しむのが、そんなに楽しいの?」
ふと、何もかもが絶対的に嫌になった。布団を頭からかぶって、すべての音を締め出す。
何もかも静かになってくれないと、気が狂ってしまいそうだ。月子は嗚咽をこらえながら、その日の夜をやりすごした。
○○
『おう弦稀(つるぎ)、何か用?』
今日の昼も聞いた、陽気な同級生の声が電話の向こうで響く。麻倉弦稀は息をひとつ飲み、居間の家族の様子をうかがった。廊下にある固定電話を使っている自分に、誰も注意を払っていない。
それでもことさら、低い声で言う。
「何か、変な気分なんだ……」
『へ?』
クラスメイトの遠城寺真守(おんじょうじまもる)は、間の抜けた声を出した。確かに、このあらゆる説明を省いた言葉だけでは、要領が得られなかっただろう。
『悪い。もう少し丁寧に説明して欲しいんだけど』
「変なんだ……石が、さっきからうるさい」
『……え?』
たちまち、電話の向こうで絶句がおこる。たぶん、真守はほとんど弦稀の言いたいことを理解したのだろう。彼は、数秒間押し黙ってから、小声で弦稀に尋ね返す。
『なあ、それって、俺たちとおんなじような奴が、他にもいるってことだよな?』
「たぶんな。この感覚は、俺がお前に出会う前に感じた感覚とそっくりだから。また近いうちに、俺は石を持った奴に出くわすのかもしれない」