四章
幼く柔らかい頬は、夜と水の冷たさで冷えていた。
「さっき、僕が君を嫌いなんだと、言ったね……」
ユーグレラは、一呼吸おき、唇をかみしめた。
「そうだね……僕は君を、妬んでいたよ」
少女の視線が一瞬さまよい、ユーグレラを見つけ、瞠目する。
「妬むって意味が、わかる? 分かりやすく言うと、僕は、君がとてもうらやましかったんだ」
言葉を与えて輪郭が現れるのを恐れた、ユーグレラの感情
。
赦されるものならば、王の子という立場など考えず、甘えたり我儘を言ったりしたかった。
世話をする者には勿論、母や父に対しても。
「僕にはよくわかる……君のお母さんは、君のことを、とても愛していた」
今は亡き母の面影が、脳裏をよぎった。なぜかふいに視界が揺れ、頬に涙が流れる。
葬儀の時ですら、流すことのなかった心の切れ端だ。寒さのせいか、とユーグレラは他人事のように驚いた。
「……だから私が、嫌いなの?」
頬に添えられた少女の手は、自分の手よりも冷え切っていた。
「どれだけ喋っても、信じてもらえないかもしれない。でも僕は、君を助けたいと思っている」
両腕で、少女を優しく包み込む。まだ体までは凍えていない。まだ命は、続いている。
「何かを守れるほど、まだ強くはないし、僕はとても無力だ。でも、僕の持てる限りの方法をすべて使って、君を守りたいんだ。そして……」
許されるならば――兄妹として、孤独を分かち合いたい。
「時々でいいんだ。僕が泣いてしまった時に、僕の涙を拭いてほしいな?」
顔を覗き込み、わざと悪戯めいて問いかけてみるが、少女は押し黙ったままだった。
背とひざ裏に手を差し入れ、少女を抱き上げる。川からあがり、歩を進めても、少女は暴れる様子もなく、ユーグレラの首にしがみついていた。
「……お兄ちゃんは、いつも同じ顔だったから、不思議だったの」
「ん?」
「嬉しいのか悲しいのか、よくわからなかった」
指摘されたことの鋭さに、ユーグレラは内心驚く。
環境ががらりと変わってしまった今、周囲の者を必死で観察するのが、少女にはどうしても必要だったのだろう。
「お兄ちゃんは……ずっと、我慢してたんだね」
ユーグレラは、苦笑した。
「本当は、我慢なんて嫌いだよ。でも、我慢も僕のするべきこと、なんだよ」
「私も、我慢は好きじゃないよ。お兄ちゃん、すごいね」
自分で歩く、と少女が言ったので、小屋の手前だったが、ユーグレラは少女を地面に降ろした。
「……ラ」
「……え?」
「私の名前、サラマンドラ」
少女は――サラマンドラと名乗った少女は、しっかりとユーグレラを見上げて告げる。
驚きのあまり、一瞬、時間が止まった。
何とそれは、この少女の母の――つまり、ユーグレラの母と、同じ名前ではないか。
「……思い出したのかい?」
かろうじてそう問うと、サラマンドラは困惑したように、眉根を寄せた。
「わからない……でも、頭に残ってるの。お母さんが、私に向かって呼んでくれた、から……たぶん、私の名前が、それだと思う」
ユーグレラは、しゃがみこんでサラマンドラと視線を合わせた。
霧にかすんだ記憶から、少女がつかみ取った大事な名前だ。
少女の頭に、ぽんと手をのせる。母と同じく艶のある、美しい赤い髪だ。
心の底から、慈愛のようなものがふつふつとわき出てくる。思わず微笑んだ。
「改めて、僕はユーグレラ。よろしくね、サラマンドラ」
半分血が繋がっていながら、母の罪ゆえに、一生兄だとは名乗れないだろう。
だが、兄妹だと伝えることができなくても、自分には出来ることが、きっとあるはずだ。
今はまだ非力で、選べる選択肢も少ない。だがいずれ、力と人望を集め、この少女に可能な限りの愛を与えてやろう。
寒い夜に、静かな決心が宿る。
後から思えば、その熱は、ユーグレラが自ら望んだ、数少ない欲望のひとつだった。
「お兄ちゃん……どうして、また泣いているの?」
ユーグレラは照れくささもあり、思わず破顔してしまう。
「君に、涙を拭いてもらうためだよ」
サラマンドラは、一瞬きょとんとしながらも、小さな手でぎこちなく、ユーグレラの涙をぬぐった。
この冷え切った手も、ただひたすらに、愛おしい。
「……ありがとう、サラマンドラ」
礼を言い、頭を再び撫でようとしたが、すんでのところでなぜかサラマンドラはあとずさった。
自らの頭へ手をやりながら、サラマンドラは恨めしげにこちらへ視線をよこす。
「髪の毛、ぐしゃぐしゃにしないで……」
むう、と頬を膨らませる様が可笑しく、ユーグレラは声をあげて笑ってしまった。
「ひどい! どうして笑うの!?」
笑い続けたせいで、さっきとは別の意味で、目尻に涙がうかんでくる。
サラマンドラは顔を赤く染めて、体を折ったまま笑い続けるユーグレラをぽかぽかと殴りつけた。
「ひどい! ばかばかあ!!」